ヨハネによる福音書7章 命の水

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イエス様の仮庵の祭への参加の有無 7章1~13節

仮庵の祭は、歴史家ヨセフスによれば、ユダヤ人のあらゆる祭の中でも最大規模で特に神聖な祭でした。祭はモーセの律法の規定に従って、第七の月の第十五日、すなわち9月~10月の時期に行われました。それは収穫を豊かに実らせる雨が降る時期でした。この喜びに満ちた祭は8日間続きました。

祭の概要は「レビ記」23章23~44節に説明されています。祭の時期に人々は葉を集めて作った仮庵に住みました。これは、エジプトを出てから約束の地に着くまでの旅の間、イスラエルの民には一時的な住いしかなかったことを覚えるためでした。「ゼカリヤ書」9~14章は、仮庵の祭と「主の日」を互いに結びつけています(特に14章16~21節)。「ゼカリヤ書」は、主の日には「生きた水」がエルサレムから流れ出し(14章8節)、主の働かれる日にはダヴィデの一族とエルサレムの住民に「罪と汚れを取り除く泉」が開かれる(13章1節)、という約束を伝えています。このように仮庵の祭は、「終わりの時」への待望 に満ちた感謝祭という性格をもっています。ロバの子に乗る王についての「ゼカリヤ書」の予言は、まさにこのことに関係しています(9章9節)。

イエス様の兄弟たちはイエス様を信じようとはしませんでしたが、イエス様に親切な助言をしました。終わりの時への待望でごったがえっている仮庵の祭こそがイエス様が始めた運動を大いに広めるのにふさわしい機会だ、というのです。イエス様は、運動を指導し展開していく上で適切と思われるこの助言をあっさりと受け流し、神様の与えてくださる正しい時を待ち続けられます。そして、それより前に行動を起こすことを拒まれます。イエス様のこの言葉からは「ヨハネによる福音書」によく見られる二重の意味が読み取れるかもしれません。イエス様は、「祭へ上って行かない」、とお答えになります。それはまた、「天の輝きの中にも昇っては行かない」ことも意味していました。ところが、イエス様は祭へと上って行かれました。ただし、公けに聖地巡礼の一団の注目を浴びながらではなく、ひそかにひっそりと。

モーセの律法を破っているのは誰か 7章14~24節

祭に到着したイエス様は、力ある権威に基づいて公けの場に姿を現されました。聴いていた人々は、イエス様の教えが当時知られていた様々な学派のものとはちがう、独自のものであることに気がつきました。イエス様は疑う者たちに対して、御自分の教えが自分勝手に考え出されたものかどうか確かめるため神様の御心に従うように、促されました。イエス様はみずから、すでに以前(5章)扱った人々の疑問を取り上げます。それは、「イエスは神の遣わされた者ではありえない。彼は(安息日に病人を癒すことで)律法を破っているからだ」、というものです。

イエス様はユダヤ人たち自身の慣習をここで話題にします。律法によれば、男の子の割礼は生後八日目に行わなければなりませんでした(「レビ記」12章3節)。もしもこの日が安息日に当たる場合には、二つの律法が互いに対立することになります。どちらの律法を重視するべきでしょうか。「そのような場合には割礼は安息日を破ることにはならない」、というようにユダヤ人たちは問題を解決しました。そして、「厳しい安息日の律法を無効にするほどに割礼は大いなることである」、と説明されました。もしも安息日でも割礼が許されたのだとしたら、人間をすっかり健康にする行為がなぜ許されないことになるのでしょうか。安息日遵守に関する律法の核心は、神様は人々を安息日のために与えたのではなく、人々のために安息日を与えた、ということです。そしてこれが、「ヨハネによる福音書」でも他の「三つの福音書」でも同様にイエス様が示してくださったことでした。

イエスとは何者か? 7章25~36節

イエス様の時代のユダヤ教では「メシア」はさまざまな憶測を呼ぶ対象でもあり、また一般の人々の信仰の対象でもありました。旧約聖書には含まれていないユダヤ教文献には、メシアは自分の時が来るまでは隠れている、とする見方もありました。この見方からすると、どこで生まれたか皆に知られていたイエス様がメシアであるはずがない、という結論になりそうです。ところが、実はユダヤ人たちは、イエス様が誰でありどこから来たか、まったく知りませんでした。より正確に言えば、実際には彼らはイエス様を普通のユダヤ人の子としては知っていたし、イエス様はナザレで生まれたと思っていました。しかし、イエス様が天から来られたことについては全然知りませんでした。彼らは天の父なる神様を知らなかったからです。

イエス様の御言葉は、再びユダヤ人たちにイエス様に対する殺意を起こさせました。それはまた、イエス様が御自分の死と天の父なる神様の御許への帰還とを予告なさることにつながっていきます。「ヨハネによる福音書」でよくみられるように、イエス様と話している者たちは、その話の真意をつかみあぐねます。彼らの態度から伝わってくるのは、侮蔑や皮肉ではなく、神様の真理に対する完全な盲目さです。

渇いている者に命の水を! 7章37~52節

仮庵の祭は、その最終日に最高潮を迎えます。その時に人々は普段以上に「終わりの時」をめぐる多様な思いにとらわれたことでしょう。

ここで、活きた水に関する「ぜカリヤ書」の御言葉(14章8節)を思い出しましょう。祭における水の儀式の際には、次の「イザヤ書」の御言葉が読まれたものと思われます、「あなたがたは喜びをもって救いの井戸から水を汲むことができます」(12章3節)。これが、イエス様が公けに話された内容の背景にあったことです。「もしも渇いている人があれば、私のもとに来なさい。私を信じる者はそれを飲みなさい。(旧約)聖書にも言われているように、その人の中から活きた水の流れがあふれ出すようになります」(「ヨハネによる福音書」7章37節)。イエス様は御自分を「活きた水の源」とみなしておられるのです。この節については、もうひとつの有力な解釈の仕方があります。それによれば、「活きた水の流れ」は、信じている人間の内部からではなく、イエス様から流れ出てくるものです。この「活きた水」は聖霊様のことを指している、と「ヨハネによる福音書」は明確に告げています。   イエス様が「終わりの時に到来するはずのメシア」であるかどうかについて、ユダヤ人たちが互いに意見を戦わせる様子を、「ヨハネによる福音書」は実に見事に活写しています。イエスは「例の預言者」なのか(「申命記」18章18節)、それともメシアなのか、あるいはただのペテン師なのか。「ルカによる福音書」や「マタイによる福音書」とは異なり、イエス様がベツレヘムでお生まれになったことを「ヨハネによる福音書」は明記していません。イエス様の反対者たちは、イエス様がベツレヘム出身ではなかったという「情報」に基づいて、イエス様がメシアであることを否定しにかかります。これは、開放的な魅力にあふれた「ヨハネによる福音書」が、一方ではキリスト信仰者の間だけで密かに読まれることを前提として書かれている点とも関係があるのかもしれません。キリスト信仰者である「ヨハネによる福音書」の読者たちは、上に挙げたユダヤ人の「情報」が間違いであることを当然知っていたはずだからです。

この箇所の終わりには、興味深く重要な話し合いが出てきます。ニコデモは、イエス様に反対するユダヤ人たちの態度に対して「疑問」を示し批判しました。彼らがニコデモにどう答えたかは重要です。当時のガリラヤはユダヤ人たちの蔑視の対象でした。「ガリラヤ出身の預言者が現れる」という予言が存在しない以上、イエスは偽メシアである、というのです。彼らには、「申命記」18章18節の大いなる預言者のことが念頭にあったものと思われます。それに対して、イエス様は8章12節以降での教え(「イエス様は世の光」)の中でお答えになります。(旧約)聖書は、ガリラヤ出身の預言者については沈黙しているとしても、一方では、ガリラヤと光とを互いに結び付けて記述しているのです(「イザヤ書」8章23節~9章6節)。