ヨハネによる福音書3章 人々を救われる神様

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「ヨハネによる福音書」とサクラメント(聖礼典)

「ヨハネによる福音書」3章では難問を取り扱わなければなりません。ほかの三つの福音書とは異なり、この福音書はサクラメント(聖礼典)について直接には一度も言及していません。洗礼の設定辞も出てこないし、驚くべきことに聖餐式の設定についてもまったく記述がありません。しかし一方では、イエス様が3章で洗礼について語っておられますし、6章の内容を聖餐に結びつけずに理解するのは不可能です。なぜ「ヨハネによる福音書」では、サクラメントに関わる事柄についてこのように間接的な説明の仕方がなされているのでしょうか。

この問題も、前の場合と同じようにして説明できます。個性的な記述スタイルや芸術的とも言える表現は「ヨハネによる福音書」に典型的なものです。この福音書は、サクラメントがすでに読者にとって既知であることを前提としており、他の福音書や初期教会の教師たちが教えてきたことを、すべて踏まえた上で書かれているのです。

イエス様の御許を訪れるニコデモ 3章1~21節

宮清めによって、イエス様は公けの活動に入られました。ここで「ヨハネによる福音書」は、イエス様とユダヤ人社会のある有力者との出会いについて記しています。

ニコデモはファリサイ派の人であり、最高議会(ヘブライ語で「サンへドリン」)の一員でした。この議会は、ローマ帝国の支配下におけるユダヤ人の最高意志決定機関でした。イエス様の時代にはサドカイ派が、エルサレムが破壊された時(紀元70年)にはファリサイ派が、その大多数を占めていました。興味深いのは、あるユダヤ人文書がナケデイモンという男の名前を挙げていることです。彼はエルサレム崩壊の時に都市で一番の金持ちでした。この人がニコデモと同一人物だったかどうかを決定するのは、今の私たちには不可能です。

夜に取り交わされたこの対話の流れは、「ヨハネによる福音書」によく見受けられるものです。その最初から終わりまで、本来の意味での対話は成立しませんでした。ニコデモは、神様の御国に関わる事柄については何も理解していなかったからです。彼はイエス様とはまったくちがうことについて話しました。最初の対話の後で、ニコデモは黙り込み、イエス様の話を聴く側に回ります。ここで私たちは、「ヨハネによる福音書」のプロローグ(「ロゴス賛歌」)を思い起こすでしょう。御言葉が御自分に属するはずの者たちのところを訪れたにもかかわらず、彼らは御言葉を受け入れず、理解もしませんでした。ニコデモがイエス様を訪問したのは夜でした。彼はユダヤ人たちを恐れていたからです。現代の私たちには奇妙に感じられますが、当時のユダヤ人は夜に話し合うのを好んだのです。また、この夜の雰囲気はイエス様とニコデモの対話にある種の輝きさえ与えています。

ニコデモからの賛辞をさえぎり、イエス様はこの対話全体の核心となる問題を提示されます。それは、人は再び生まれなければならない、ということです。「再び」という意味のギリシア語の単語には「上から」という意味もあります。ここでこの言葉が用いられているのは偶然ではありません。意味をつかみあぐねているニコデモにイエス様はさらに説明を加えてくださいました。

人は自分の力に頼るかぎり、神様の御国と栄光の中に入るには少しもふさわしくない存在です。人はまったく新しい命を賜物としていただかなければならないのです。この命は洗礼において人に与えられます。この洗礼は洗礼者ヨハネの洗礼ではなく、聖霊様を受ける洗礼です。誰も聖霊様に命じたり聖霊様を把握したりはできません。風を把握したり風に命じたりできないのと同じように、神様の御霊に命じることもできません。ここでイエス様は、キリスト教の洗礼について独特なやり方で話しておられるのです。私たちがわかるのは、洗礼において、神様は人々にまったく新しい命をプレゼントしてくださる、ということです。この奇跡を聖書は「新生」(新しく生まれること)と呼んでいます。

まだわかららないままでいるニコデモに対して、イエス様は洗礼と新しい命とを御自分のペルソナに堅く結びつけて説明されます。かつて荒野でイスラエルの民は神様に対して反抗しましたが、その罰として、彼らの間に毒蛇の害が引き起こされました。蛇に咬まれた者は苦しみながら死にました。神様は御民を憐れまれ、モーセに青銅の蛇を竿の先端に架けるように命じられました。この蛇を見た者は傷が癒され、蛇の毒によって死ぬのを免れました(「民数記」21章9節)。イエス様はこの青銅の蛇のようなお方です。神様の御子、人となられた御言葉は、皆にさげすまれるべく十字架に架けられました。こうしてイエス様は新しい青銅の蛇となられたのです。イエス様を見る者は、イエス様がニコデモに説かれた「新しい命」を見出し、もはや死ぬことがなくなります。このように、イエス様への信仰と洗礼とはひとつに結びついているのです。それらに共通しているのは、神様は死の只中に命をプレゼントしてくださる、ということです。「新生」というのはこういう意味なのです。

暗闇か光か、信仰か不信仰か、真理か虚偽か、というように、人には二つの選択肢しかないことが、イエス様の話の終わりの部分で明らかにされます。罪に塗れた全世界に対する神様の大いなる愛は、全人類を救うためにその独り子を暗闇の只中に遣わされた事実にはっきりと示されています。今や人が生きるか死ぬかを決定するのは、その人自身のイエス様との関係なのです。イエス様を信じない者は、裁きを受けることになります。しかし、信じている者のことを、イエス様は暗闇から光へと移してくださっているのです。

「ヨハネによる福音書」と十字架の神学

「マルコによる福音書」およびパウロの手紙にとって典型的な神学は、「十字架の神学」と呼ばれるものです。これによれば、神様はこの世ではその栄光を秘密のままにして、その力を弱さの中にお隠しになっている、ということになります。イエス様御自身が栄光ではなく死へと向かって歩まれたことに、このことがよりはっきりと示されています。「ヨハネによる福音書」では、「十字架の神学」が壮大な「栄光の神学」に不思議なかたちで結びついています。「地上から挙げられるべき」方であるイエス様は皆をその御許へと引き寄せます。これはふたつのやり方で行われます。第一に、イエス様は地上から1メートルほどの高さに引き上げられ、十字架につけられ、皆の侮辱とあざ笑いの的となります。第二に、イエス様は遥か高みにある神様の光輝へと挙げられます。元々イエス様はそこから来られたのであり、またそこへと皆を引き寄せてくださるのです。このようにして、暗い夜が輝きに、高挙が降下に、結び付いていることになります。そしてすべては、罪深い世を救うためになされたのです。    

並行するふたつの運動 3章22~24節

洗礼者ヨハネのグループとイエス様のグループとがしばらくの間並行して活動していたというのは歴史的に見てたいへん興味深いことです。イエス様もまた洗礼を授けておられました。ただし、より正確に言えば、洗礼を授けていたのは弟子たちでした(4章1節)。この洗礼の内容について、私たちは何も確かなことが言えません。おそらくそれは、洗礼者ヨハネの授けていた洗礼(神様の御国の到来に備える洗礼)と似たものだったのではないでしょうか。ヘロデ王がヨハネを投獄するまで、このふたつの運動は並行して続けられました。「マタイ、マルコ、ルカによる福音書」の記述内容から見るとき、イエス様(の弟子たち)がガリラヤではなくユダヤで洗礼を授けていたというのは意外なことです。

花婿と花嫁の出会い 3章25~36節

洗礼者ヨハネのグループとイエス様のグループという、ふたつのグループが並行して出現したことは、両者のうちのどちらのほうが優勢になるか、という疑問を生みました。イエス様の御許に人々が急ぐのを見て心配になった弟子たちに向かって、洗礼者ヨハネはこの疑問への返答をしなければなりませんでした。ヨハネは旧約聖書の豊かなイメージに根付いた比喩を用いています。

旧約聖書はしばしば神様とイスラエルの関係を結婚に喩えています(「エレミヤ書」3章、「エゼキエル書」16章、23章、「雅歌」)。ヨハネが、嫉妬せずにイエス様の成功を喜び、自らは脇役に甘んじるときに、これらの比喩がヨハネの説明の背景にあったのだと思われます。ヨハネは花婿の友人であり、花婿が花嫁と知り合うよう、執り成した仲人でした。今やキリストとその教会は、すでにこの段階で互いに知り合おうとしていたのです。このことは、ヨハネを大きな喜びで満たしました。これと同じようなイメージは新約聖書にもしばしば登場します。例として、とりわけ「ヨハネの黙示録」の最後の数章を挙げることができます。

ふたりの証の間には大きなちがいがありました。ヨハネは人間であり、土から生まれたものでした。また彼の教えもまた地上的なものでした。それに対して、イエス様は天から来られ、その証は天国的なものでした。誰も受け入れなかったにもかかわらず、それは正しい真の証でした。イエス様の御言葉を受け入れた者は、御父がすべてを御子の支配に限りなくゆだねられたことを見ます。こうしてイエス様は、御自分の民に永遠の命をプレゼントしてくださるのです。しかし、イエス様の御言葉を拒む者は神様の怒りの下にあります。このようにヨハネの証では、「ヨハネによる福音書」に典型的なテーマに戻ります。命と死(ここでは神様の怒り)、天国的な真理と地上的な虚偽などです。すべての中心となるのは、神様の御子イエス様です。イエス様とどのような関係にあるかによって、私たちの生活はまったく変わってしまいます。