ヨハネによる福音書20章 キリストの復活

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

空っぽの墓で 20章1~10節

朝早く墓を訪れたマグダラのマリアは、墓の入り口の石が取り除けてあるのを目にしました。彼女はすぐさまイエス様の二人の大切な弟子のもとへと急ぎました。当然ながら、墓に最初にたどり着いたのは、「イエス様の最愛の弟子」、主の復活の証人でした。「ヨハネによる福音書」が語る復活の出来事の細部は、重要な意味をもっています。それぞれの福音書は、空っぽの墓の出来事で誰がキリストの復活の証人になったか、語っています。復活の証人のリストのうちで最古のものは、パウロを通して私たちに残されました(「コリントの信徒への第一の手紙」15章1~11節)。これらの証言は互いに矛盾しているわけではありません。「ヨハネによる福音書」でも、マグダラのマリアは一人で墓に行ったとは書かれていません。また、彼女はペテロともう一人のイエス様の最愛の弟子のところに行って、「彼らは主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、私たちはわかりません」、と言っています。つまり、「ヨハネによる福音書」では、マグダラのマリアは一人で墓のところにいたのではありません(「マタイによる福音書」28章1節と「ルカによる福音書」24章10節を参照してください)。空っぽの墓にあったものは何でしょうか。ペテロは、イエス様の最愛の弟子と同じものを目にします。しかし、その意味がわかりません。イエス様の最愛の弟子がようやく、イエス様の頭に巻いてあった布が一部折り畳まれ一部きちんとくるまれて置かれている意味を理解します。イエス様の身体は盗まれたわけではなかった、ということです。そして、イエス様の最愛の弟子は「信じました」。この言葉がここでどのような意味であったにせよ、この時、復活信仰の最初の一筋の光が暗闇の世を照らし始めたのでした。もっとも、まだこの段階では、まだすべてが明らかにされているわけではありません。

二つの言葉 20章11~18節

マグダラのマリアが天使を見たのは、復活の主との出会いの序章に過ぎませんでした。この出来事の描写は非常に美しく感動的です。その中心には、二つの言葉があります。空っぽの墓や天使を見ても、マリアは主の死をただ泣くばかりでした。イエス様が目の前にあらわれても、彼女の悲しみは晴れませんでした。「マリアよ」、というイエス様のたった一言によって、彼女は相手が主だとわかり、以前と同じように「先生」、と呼びかけました。この言葉は、ヘブライ語(より正確に言えばアラム語)で聖書のこの箇所に収録されています。そのためもあって、この光景からは、多くの人々にとってイエス様がかけがえのない存在になったその理由、すなわち、「イエス様の暖かさ」が伝わってきます。

多くの聖書釈義者がやっているように「私はまだ御父様の御許に上ってはいない」(20章17節)という言葉の意味を詮索するのは、実はあまり意味がありません。イエス様の言葉の中の一番大切なことに関心を集中するべきです。すなわち、イエス様が、今やその使命を果たされたおかげで、イエス様の御父は私たちの御父に、イエス様の御神は私たちの御神になられた、ということがそれです。世が滅びないようにするために、神様の独り子が犠牲となられました。御子は命を失い、そして、再び受けられたのです。

弟子たちの派遣 20章19~23節

イエス様の弟子たちは、依然として恐怖におののいていました。閉じられた戸をものともせずに、イエス様は弟子たちの只中にあらわれて、平和の挨拶をなさいました。主は手と脇の傷口を弟子たちにお見せになると、弟子たちは喜びました。それから、弟子たちの派遣の話に移ります。イエス様御自身は、天の御父様によって遣わされました。今度は、イエス様が弟子たちを派遣する番になりました。この派遣は、人間の力にたよるものではなく、聖霊様の力により頼むものでした。派遣の際して、最後の審判の裁き主でもある人の子は、その恵みの王国の中で、御自分が有する裁きの権能を弟子たちも行使できるように、なさいました。すでに西暦100年頃の教会には、これらのイエス様の言葉に基づく罪の告白とその赦しの宣言を行う仕方が整えられていたことが、知られています。

トマスの信仰 20章24~29節

イエス様の弟子の一人だったトマスについては、一般に「疑い深い人間」というイメージがあります。しかし、こうした先入観は、聖書がいかに誤読されやすいかをよく物語っています。この箇所が語っているのは、「疑い深いトマス」についてではなく、「疑った後で信じたトマス」についてです。「ヨハネによる福音書」では、以前にもトマスは イエス様の意味を理解できない存在として描かれています(11章16節、14章5節)。ここでの彼は、はじめは、キリストの復活を否定します。しかし、復活の主を目にして、心から確信し、信仰告白の言葉がその口から響き渡ります。その告白は、すべての福音書を通じても最高といってよいほど素晴らしいものです。2千年にもわたるキリスト教の歴史と伝統を知っている現代の私たちにとって、トマスのことの信仰告白がどれほど衝撃的なものであったか、想像するのは困難です。にもかかわらず、疑いようもなく、これは福音の最高の瞬間のひとつなのです。「ヨハネによる福音書」は、当初はこの箇所の数節後で閉じられていた、と推測されています。それによれば、福音書の始まりの「ロゴス賛歌」と、この最後の箇所とは、見事に結びつくことになるわけです。「神様を見た者はいまだかつてひとりもいません。神御自身であり、いつも天の御父に抱かれている独り子なる神様が私たちに神様のことを説明してくださったのです」(1章18節)。「私の主、私の神様!」(20章28節)。 

この書物が書かれた目的 20章30~31節

この箇所は、「ヨハネによる福音書」が書かれた理由を読者に説明しています。語られなかったことが多く残ったものの、この福音書の目的は明確です。それは、読者が信じるようになり、イエス様において命をいただけるようになることです。ここで、再び福音書の冒頭に戻りましょう。「この言の中に命があり、命は人々の光でした」(1章4節)。この時点で、読者は福音について、それが本当に暗闇の世界に向けて不思議な光を放っていることを、証することになるわけです。私たちは、この福音の光のことを理解しているでしょうか。