ヨハネによる福音書2章 燃え広がる神様の火

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

カナの婚礼 2章1~12節

「ヨハネによる福音書」が記す最初の奇跡は他の福音書には書かれていません。舞台はガリラヤのカナという町です。婚礼ではご馳走がたくさん出ました。ところが、祝宴の途中でぶどう酒が足りなくなってしまいます。新郎新婦の婚礼の祝宴が台無しにならないように、イエス様は600リットルもの水を最上のぶどう酒に変えてくださいました。弟子たちはイエス様の栄光を見てイエス様を信じた、と福音書は記しています。

この奇跡は私たちに何を教えてくれるでしょうか。旧約聖書では、ぶどう酒は象徴的な意味をもっています。あふれるばかりの豊かさと祝宴とは、神様がプレゼントしてくださる不思議な救いのひとつです(「創世記」49章8~12節)。イエス様はカナでの婚礼の祝宴を救われました。おそらく「ヨハネによる福音書」が言いたいことは、神様の民の只中には今や力強い救い主がおられる、ということでしょう。

もうひとつこの奇跡の出来事から学ぶべきことは、注目されることがほとんどありません。それは、イエス様が若夫婦と彼らの婚礼の祝宴にどのような態度で臨まれているか、ということです。たしかにイエス様は、何人かの人々に対しては、彼らがすべてを捨てて御自分に従うように召されました。しかし「家族」そのものを軽んじておられたわけではないのです。それとは逆に、普通の家族生活はイエス様から確実に祝福をいただける生き方なのです。

聖書がぶどう酒に対してどのような立場を取っているでしょうか。酩酊するのは重い罪ですが、アルコールを一切取らないという絶対的な態度を聖書は要求してはいません。このことに関してもまた他のことに関しても自制することは非常に好ましい生活態度です。しかし、それを他の人にも要求してはいけません。このように狭い道の門の柱は両側に立てられているのです。自己の良心に反して行動するのはまちがいですし、結局は自分をだめにしてしまいます。

「ヨハネによる福音書」といわゆる「共観福音書」

「ヨハネによる福音書」は、残りの三つの福音書(通称「共観福音書」)と組み合わせて理解するのが困難な場合があります。これは、とりわけ次のようなことがらにあらわれています。マタイ、マルコ、ルカによる福音書は、イエス様のガリラヤでの活動、エルサレムへの旅、死と復活について語っています。これらの福音書によれば、イエス様がエルサレムで神殿を清められたのはイエス様のこの世における生活の最後の時期に当たります。これに対して「ヨハネによる福音書」は、まったく異なる順序でイエス様の活動を描いています。それによれば、イエス様は何回も過ぎ越しの祭にもエルサレムに上られました。つまり、イエス様は何年間も公けに活動なさったことになります。この公けの活動のはじめのところに、「ヨハネによる福音書」はイエス様の「宮清め」の出来事を記述しています。

「ヨハネによる福音書」とそのほかの三つの福音書との関係については、研究者によって意見が分かれています。イエス様は、まずはじめに少ない弟子たちを長い時間をかけて教えて、それからようやく公けに姿をあらわされたのかもしれないし、あるいはまた、はじめのほうですでに宮清めを行い、御自身が決して政治的な指導者などではないことを早々と示されたのかもしれません。あるいはその両方であったかもしれません。

私たちはあまり細かいことにはとらわれずに福音書の大きな流れをしっかりとおさえていくことで満足するべきです。「ヨハネによる福音書」とそのほかの福音書とのちがいに注目したのは、聖書の読者の中でもごく一部の人でした。四つの福音書はすべて、イエス様の宮清めと十字架の死と復活について語っています。歴史的に信頼できる内容を備えているにもかかわらず、福音書は普通の意味での伝記ではありません。福音書が書かれた目的は、私たち読者がキリストを信じることです。四つの福音書の証は、それらの相互の緊張関係にも関わらず、ひとりの人間が書いた描写よりも本質的な豊かさを湛えています。

イエス様の宮清め 2章13~25節

今も昔も神殿の周囲は市場で賑わってきました。施しを乞う人々にも定められた居場所がありました。ユダヤ人には神様に犠牲を捧げる神殿がたったひとつだけありました。市場では犠牲を捧げるために必要なおびただしい量の動物が売られていました。神殿税はある特定のユダヤの硬貨でのみ支払うことになっていたので、両替屋は栄え、同業者間の競争は激しいものだったと思われます。こうした喧騒の中で神殿の本来の意味や目的が見失われていたとしても、何の不思議もありません。

宮清めは革新的な行為でした。四つの福音書は一様にこの出来事について触れています。イエス様は神殿から市場の商売人たちを一掃なさいました。彼らは聖なる場所を強盗の巣窟にしてしまったからです。旧約聖書を知っているユダヤ人たちは皆「マラキ書」の次の箇所を想起したことでしょう、

「見なさい。私は使者(天使)を遣わします。彼は私の前に道を備えます。また、あなたがたが求めている主は、たちまちのうちにその宮に来られます。見なさい。あなたがたの喜ぶ契約の使者(天使)が来る、と万軍の主は言われます。その到来の日には、誰が耐えることができるでしょうか。そのあらわれる時には、誰が立っていることができるでしょうか。彼は、金を吹き分ける者の火、布を洗濯する者の灰汁のようです。彼は、銀を吹き分けて清める者のように座って、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを精錬します。そして、彼らは義をもって捧げものを主に捧げます。その時、ユダとエルサレムとの捧げ物は、昔の日々のように、また大昔の年々のように、主に喜ばれます」。
(マラキ書3章1~4節)

大切な旧約聖書のもうひとつの箇所は「詩篇」69篇10節です、「なぜなら、あなたの家を思う熱情が私を飲み込み、あなたをそしる者のそしりが私の上に落ちかかってきたからです」。弟子たちは後になって、この箇所がイエス様に関わる予言であった、と知ることになります。

ユダヤ人たちへのイエス様の答えは、「ヨハネによる福音書」によくみられるように、意図的ともとれる謎めいたものでした。それを聞いた人は皆、イエス様が壮大な神殿建築について語っているのだと思い込みました。しかし、実際にはイエス様は御自分の身体を意味しておられたのです。このようにキリストの死と復活はすでにこの福音書の初期の段階で示されていることになります。ここではまた、「マルコによる福音書」の「メシアの秘密」というテーマとのある種の関連を見ることができます。キリストが主としての御自身の権威について公けに語っておられるのに、人々はその話を理解できないのです。

「ヨハネによる福音書」が提供してくれる「時」に関する情報(エルサレム神殿の建築開始から46年後)は、軽い驚きを覚えるほど詳細です。それに基づいて、この過ぎ越しの祭の時期を推定することができます。神殿の建築は紀元前20年あるいは19年に始まったことになります。もしもこれが正しければ、この箇所での出来事は西暦26年か27年の過ぎ越しの祭においてだったことになります。

この章の最後の数節で再び私たちは奇跡の意味に関する問題にぶつかります。イエス様は「しるし」を行われました。それらの奇跡のゆえに人々はイエス様を信じるようになりました。このように「ヨハネによる福音書」では、奇跡には独自の大切な意味がありました。しかし同時に、この福音書は人々の奇跡信仰に対するイエス様の判断を記しています。イエス様は人々を信用なさいませんでした。奇跡に頼る人々の信仰が脆弱であることを御存知だったからです。