ヨハネによる福音書5章 御父と御子はひとつ

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イエス様は安息日であっても人を癒す 5章1~18節

この箇所の舞台となるベトサイダの池には、様々な病気や障害で苦しむ人々が群がっていました。イエス様がこの世で生活しておられた時代には、このような人々の境遇は、親戚の世話を受けられない場合には、徐々に悪化していくほかありませんでした。

癒しの奇跡の記事は簡潔です。「ヨハネによる福音書」は引用していませんが、足の不自由な人の癒しの奇跡の出来事には「イザヤ書」35章6節が密接に関わっています。いつかかならず救いの時がくる、と神様は約束してくださいました。その時には、目の見えない人は目が見えるようになり、耳の聞こえない人は耳が聞こえるようになり、足の不自由な人は喜んで飛び走るようになります。38年間病を患い続けた男が床を担いで歩き回る時、神様の大いなる約束が実現しつつあったのです。

イエス様がこのみわざを行われたとき、特にファリサイ派の人々は、彼らが最も神聖視していたことがらがイエス様によって踏みにじられたと感じたのでした。癒しの奇跡が行われたのは安息日でした。律法の当時の解釈によれば、安息日にはどのような荷物も絶対に担いではならないことになっていました。イエス様は癒された男が自分の家に帰るように命じられるどころか、床を担いで歩き回るように、と命じられたのです。イエス様のこうした活動は、ユダヤ人たちの当時の教えに意図的に真っ向から反するものであり、彼らからの深い怒りを買う結果を招きました。

イエス様がそうなさる理由を述べられると、彼らの怒りはますます募りました。神様は安息日に何もなさらないのではなく、日々働きつづけておられるので、神様御自身の御子もまた、この世で御父様とまったく同じようになさるのです。安息日の仕事を禁じる規則は、神様御自身にもイエス様にもあてはまりません。「ヨハネによる福音書」では、この教えを聞いた後で、はじめてユダヤ人たちがイエス様を殺したいと思うようになります。

御父と御子はひとつ 5章19~23節

「ヨハネによる福音書」によく出てくるように、この箇所でも、イエス様とユダヤ人たちとの間の対話よりもイエス様の長いお話がその中心をなしています。

イエス様のお話の冒頭の言葉は、ユダヤ人たちを激怒させました。イエス様が御自分を神様と等しい者となさったからです。イエス様の活動の基本にあったのは、御自分が神様の御子であり、御父が御子にすべての権能を与えられた、ということです。御子は御父のなさることをよく観て、御自分もそれと同じようになさいます。御子は人間に裁かれるような方ではありません。逆に、御父は、あらゆる裁きの権能を御子にお与えになったのです。神様の御心は、人々が御子に対して御父に対してと同じように敬うことです。御子を敬う者は、それと同時に御父をも敬っていることになります。「ヨハネによる福音書」のこの箇所からは、明確で壮大なキリスト教のメッセージが響き渡っています。それはあたかも世界宣教命令が簡潔かつ的確に伝えていることについての説明であるかのようです。

「私には天においても地上においてもすべての権能が与えられています。」
(「マタイによる福音書」28章18節)

御子が御父から受けた任務の核心、裁きの権能 5章24~29節

神様の御子への権能の授与は、たんに形式上のことではありませんでした。イエス様も、その権能をむやみに振りかざしたりはなさいません。すべてには明確な目的があります。すでにイエス様はそれを「ヨハネによる福音書」3章16節に凝縮してくださいました。

「神様はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛してくださいました。それは、御子を信じている者がひとりも滅びないで永遠の命を得るようになるためです。」

神様がくださった権能の核心は、人々を裁きと死の下から自由と命へ移すことです。「ヨハネによる福音書」によれば、この裁きは二通りの仕方で実現します。それは終わりの時に行われますが、一方では、イエス様の御言葉を聴いている今すでに起きていることでもあります。「ヨハネによる福音書」は、最後の裁きについて多くを語りませんが、他の福音書同様、そのメッセージは明瞭です。墓にいる者が皆、大いなる裁き主の声を聞いてよみがえり、裁きの座へと赴く時がいつかかならず来ます。そして、よいことをした者たちは永遠の命の喜びへと、悪いことをした者たちは永遠の地獄の苦しみへと裁きを受けることになるのです。

この箇所の背景にあるのは、「ダニエル書」の壮大な幻(7章13節、12章1~3節)です。それによれば、裁き主は「人の子と似た方」です。これらの御言葉があったため、イエス様の時代の人々は「人の子」を待ち望んでいました。ここでイエス様は、「神の子」なる御自分こそが預言者を通して予言された「人の子」であり、万人の裁き主であることを告げておられるのです。

「ヨハネによる福音書」によれば、裁きは、終わりの時になってようやく始まるものではありません。御父は裁きの権能を御子にお与えになったので、厳しい裁きを受けるか、あるいは解放の宣告を受けるか、について、最後の裁きの時までその結果を待つ必要はありません。死んでいる人々は、今すでに神様の御子の声を聴いて命を得ます。私たちとキリストとの関係が、私たちが永遠の世界でどうなるかが、すでに今ここで決まります。キリストが「私たちのもの」なら、私たちにあるのは死ではなく、まったき命です。キリストが「私たちのもの」でないなら、私たちにあるのは命ではなく、まったき死です。

イエス様のお話が本当であることの証明 5章30~45節

イエス様のお話は、ユダヤ人の耳目を驚かすものでした。イエス様は真実を語っておられる、と聴き手はどうして知ることができるのでしょう。それについては、次に述べるように、証人も証拠もたくさんありました。

1)洗礼者ヨハネが、イエス様について証しました。これについては、すでに1章と3章でみたとおりです。

2)イエス様の「しるし」のみわざが、イエス様が神様の遣わされた方であることを示しています。こう断言できる背景には、たとえば「イザヤ書」35章があります。

3)神様御自身が、御言葉(私たちの用語では旧約聖書)の中でイエス様について証しておられます。

これらの証拠や証人は、イエス様の権威を認めて、それを告白し、イエス様を信じるために、十分な理由であったはずです。ところが、ユダヤ人たちはそうは考えませんでした。そのせいで、彼らは命にあずかることができなくなりました。

上に挙げたすべての証拠や証人は、非常に興味深いかたちで、旧約聖書の出来事に結びついています。また、すべての福音書において見られるように、洗礼者ヨハネは特別な立場にあります。イエス様の行われた奇跡は、一人一人の人を癒すことや、そのみわざを目にした人々に名状しがたい独特なインパクトを与えることだけには留まらない、深い意味をもっていました。それらは、イエス様の御自分について語られたことの正しさを示す証書だったのです。とりわけ第三番目の証人が一番大切です。神様御自身が、イエス様について実に旧約聖書で証しておられるからです。このようにして、イエス様と使徒たちは旧約聖書を読みました。ユダヤ人たちは、たとえば「モーセ五書」1の中からイエス様を見出すことができませんでした。そのことを考慮して、初期の教会は、キリストを聖書全体を読み解く鍵として提示しました。

ただし、あることがらに関しては、イエス様とユダヤ人と初期の教会との見方が一致していました。それは現在ではしばしば否定されている見方でもあります。37~40節で、御父の証と旧約聖書の御言葉とが同一視されている、というのがそれです。聖霊様が使徒や預言者を通して語られたこと、また、それゆえに全聖書が神様の御言葉であることを、教会は証します。これを認めずに疑問に付す者は、教会の外に出てしまっているのです。


  1. 旧約聖書の最初の5つの書物。「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」のこと。 ↩︎