ヨハネによる福音書15章 キリストとのつながり --- それは何であり、また、どのような結果を生むものか?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イエス様を介してのみ、人は神様とつながることができます 15章1~17節

イエス様がぶどうの木とその枝について話されるとき、旧約聖書を知悉している当時の聴き手なら、現代の私たちでは気がつかないような次のことに思いをめぐらすことでしょう。旧約聖書において、イスラエルは神様が植えられたぶどうの木です。このイメージを理解するのは容易です。森には実に様々な木が一杯生えています。誰もそれらの木の世話をしたりはしません。それに対して、庭師は、もてる技量を尽くして、一本の小さな苗を植え、育て、世話をし、守ります。そして、その木に自分のすべての関心を寄せます。まさにこれと同じように、旧約聖書によれば、イスラエルは神様の関心を一身に受ける存在であり、神様に属する民なのです。ところが今、イエス様はそのイメージを変えられます。それによると、神様は庭師であり、イエス様御自身はぶどうの木です。また、イエス様を通してのみ、人は聖なる神様とつながることができます。このぶどうの木につながっていない人は、神様にもつながってはいません。

この箇所のイエス様の言葉の最初の大切な内容は、イエス様を介してのみ、人は神様につながることができる、ということです。もうひとつの大切な点は、キリストの御前に立つ人々は二つのグループに分けられる、ということです。一つのグループはイエス様と離れ、切られた枝のように次第に枯れていき、しまいには一箇所にまとめられて焼かれてしまいます。このように、イエス様から離れる人々には永遠の地獄への滅びが待ち受けています。もうひとつのグループは、ちょうどぶどうの木につながっている枝のように、イエス様とのつながりを保ちます。庭師は、このような活きた枝のために手入れを行います。枝を選伐し、整え、枝が実を結べるようにし、実ったぶどうの房を喜びます。これと同じように、イエス様もまた御自分に属する人々のことを世話してくださいます。 神様の御心に適わない、私たちに付随している事柄をイエス様は選伐し、私たちを神様の御心に適う正しい生き方へと導かれます。このようにして、私たちは実を結びます。この箇所によれば、この「実」とは隣り人への愛のことです。キリストに従うことは、たんなる頭の中の知識ではありません。それは愛として具体的な形を取ります。

模範の連鎖は、天から地まで延びています。御父は御子を愛し、御子はその愛を模範として罪人を十字架の死に至るまで愛し、罪人たちはその同じ愛の模範をもとにして互いに愛し合います。これらのことが一部分でも実現する場所では、聖なる愛の神様が栄光と感謝をお受けになります。それゆえ、イエス様に属する人々は、自分たちにとって神様からの賜物であると同時に模範でもある主イエス様を心にしっかり刻まなければならないし、実際の日常生活の中で主の戒めに従うことを通して、主への愛を実行していかなければなりません。このようにして生活する人は、もはやイエス様に嫌々ながら従う僕ではなく、主の愛する友になっているのです。

イエス様の言葉は、私たちが隣人愛について話し合うときに頻出する二つの問題について再考を促します。 第一の問題は、私たちは頭の知識と隣人愛とを互いに正反対なものと見なしがちである、ということです。しかし、ここでの箇所を今まで読んできた人は、そのような対置が意味をなさないことに気づくことでしょう。正しい知識とイエス様とのつながりとは、隣り人を愛する方向に私たちを導いていくからです。もしもそうならないなら、その人は明らかに間違った知識をもっているのです。残念なことに、私たちのキリスト信仰者としての生活態度は、しばしば薄っぺらで無気力なものとなっています。そのような状態になる理由は、私たちが頭の中にだけ正しい知識をたくさんもっているからではなくて、実はそれをなくしてしまい、愛に満ちたキリストの視線を見失ってしまったために、キリストの愛に基づいて何も実行できなくなっているからなのです。もしも私たちキリスト信仰者の信仰生活が無気力なものだったり、冷酷さを帯びたものだとしたら、実のところ、私たちはイエス様の十字架に基づいて信仰生活を送ってはいないことになります。

次に問題なのは、現代の私たちは隣人愛と聖書に書いてある戒めとを別々に切り離して考えるようになってしまっている、という現状です。一方では、律法主義的なキリスト信仰者が聖書を法律書のように読んでおり、他方では、愛の大切さに気がついたキリスト信仰者が戒めを無視し、愛の行いに関心を集中する、といった具合です。こうした矛盾もまた、「古いアダム」の引き起こす問題です。イエス様の教えによれば、主の御心に従おうとするところに、主への愛は具体的な形を取ってあらわれます。神様の御言葉は、大部分のケースでは、主の御声を真剣に聴き取ろうとする者にとって、しごく明瞭な指示です。それに対して、自分の頭に頼って生きたい者にとっては、どの戒めも意味が曖昧で実行不可能なものとなってしまいます。

世はイエス様に属する者を憎む 15章18節~16章4節

イエス様が宣べ伝え、終わりまで実際に示してくださった愛は、この世の悪と関わりを持たない、絵に描かれたような牧歌的な風景などではありません。この愛は、この世の外側から、父なる神様の心から来ているものです。この愛は、この世の外部に由来するものなので、この世ではひどく憎まれるのです。憎しみの焦点となるのは、イエス様の十字架です。この世は、イエス様の教えと奇跡とを認めずに、イエス様を憎み、十字架につけたので、この憎しみは、否応なく二つの方向に反射されていきます。まず、この憎しみは、愛の泉なる父なる神様に反射します。復習しましょう。イエス様を拒む人は、神様とのつながりも切れてしまっています。この世がイエス様に対して抱くもう一つの憎しみは、主の愛に基づいて生きていこうと心に決めた人々、すなわちキリスト信仰者たちに対しても反射されます。この世とキリスト信仰者との間には、共通の理解がありません。今までもそうだったし、またこれからもそうです。結局のところ、この世はいつでも、キリストを信じ、キリストを愛していることを告白する人々を疎んじ、憎み、迫害するものです。キリストに属する人々は、彼らの主御自身と同じ扱いを受けます。彼らは迫害され、シナゴーグ(集会堂)から追放され、さらには殺される場合もあります。しかも、殺す者たちは、自分たちのやったことが正当であり、神の御心に適うものであるとさえ、思い込んでいるのです。

イエス様の言葉は、現代の人々にとっては厳しすぎるように聞こえるかもしれません。しかし、これは細部にいたるまでその通り実現してきたことなのです。教会の初期の歴史がいかなるものだったかについて、ある教父が次のように説明しているのは故のないことではありません、「真理と真理に対する憎しみとが同時にこの世に来た」(テルトゥリアヌス)。イエス様が捕らえられたとき、弟子たちの群れは打ち散らされました。イエス様の復活と聖霊様の降臨によって立ち直った彼らは、その後、勇気をもってイエス様をキリストと告白しましたが、その結果として、脅迫され、虐待され、流血の死という仕打ちを受けました。最初の300年間、教会は絶えず迫害にあいました。ある時はローマ帝国の組織的な迫害、またある時は特定の地域で突発した迫害が起きました。どちらの場合でもその背景にあったのは、神様の側に属する者たちに対する悪魔の決して消えることのない憎悪でした。この憎しみは後にもいろいろな時代にこの世の様々な場所で具現化しました。例えば、日本ではキリスト教は200年以上もの間、死の脅しによって禁止されました。二十世紀には、ナチスと共産主義者たちがこぞって使徒の教えを守るキリスト教信仰を迫害しました。今日では、キリスト信仰者は多くの国で命の危険に晒されています。私たちの身近な場所では、この世の憎しみは他の形を取ってあらわれています。例えば、聖書に基づく信仰は軽蔑され、疎んじられています。しかし、どのような手段に訴えたところで、この世から信仰を根こそぎにすることはできませんでした。本来は御自分のものであるはずのこの世にキリストが再び帰って来られる時まで、信仰はこの世に存続します。私たちのなすべきことは、キリストの愛に留まりつづけることです。たとえそのことによってどのような代価を支払うことになるとしても。