テトスへの手紙 3章 この世で生きるキリスト信仰者として

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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キリスト教信仰の要約 「テトスへの手紙」3章1〜7節

「あなたは彼らに勧めて、支配者、権威ある者に服し、これに従い、いつでも良いわざをする用意があり、だれをもそしらず、争わず、寛容であって、すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを、思い出させなさい。」
(「テトスへの手紙」3章1〜2節、口語訳)

パウロはローマ帝国の公権力によって度々酷い目にあわされましたが、それでも公権力そのものを否定することはせず、公権力のために祈ることもやめませんでした(「ローマの信徒への手紙」13章1〜7節)。悪い公権力であっても公権力がまったく存在しないよりはまだましな状態だからです。公権力のなすべき本来の使命は悪事を働く者を処罰し(「ローマの信徒への手紙」13章4節)、善をなす者に報いることです(「ペテロの第一の手紙」2章13〜17節)。

私たち人間はいったい何が最重要事項なのかを時おり再確認するように促される必要があります。これを怠っていると万事につけ自分の観点からばかり考える癖がついてしまい、神様が私たちのために成し遂げてくださった御業を忘れてしまうからです(「詩篇」106篇7、13節を参照してください)。

キリスト信仰者はこの世の国民だけではなく天の御国の臣民でもあり(「フィリピの信徒への手紙」3章20節)、神様の賜った素晴らしい約束の遺産継承者でもあります(「ローマの信徒への手紙」8章17節)。

「もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章29節、口語訳)。

キリスト信仰者は神様の御意思に従うことが常に最優先されるべきであることをわきまえていなければなりません。それゆえ、この世の支配者の意向に従ってもよいのはそれが神様の御意思と矛盾していない場合に限られます(「使徒言行録」5章29節)。

「わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」
(「テトスへの手紙」3章3〜5節、口語訳)

上掲の箇所には「以前は」と「ところが今や」とがペアをなす信仰の歩みの証が記されています。「以前の私たちは様々な罪に塗れていたが神様の働きかけによって今や新たな人とされた」という構成の証です。このように「以前は」と「ところが今や」という構成をもつ信仰の証に対しては慎重かつ批判的に接したほうが良い場合もありますが、この構成自体は聖書に沿ったものです。ほかならぬ神様との出会いこそが人間を根本的に変えるからです(「ローマの信徒への手紙」6章15〜23節、「コリントの信徒への第一の手紙」6章11節、「エフェソの信徒への手紙」2章1〜10節、「コロサイの信徒への手紙」3章5〜11節)。

「ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」
(「テトスへの手紙」3章4〜7節、口語訳)

前の引用箇所と一部重複していますが、上掲の箇所にはキリスト教信仰の核心である福音のメッセージが簡潔にまとめられています。その中心に神様の恵みがあることに注目しましょう。「私たちが自分の人生で神様に対して何ができたのか」ということではなく「神様が私たちの人生で何をしてくださったのか」ということこそが重要なのです。この箇所はギリシア語原文では一つの文になっており、最初期のキリスト教会における信仰告白だったのではないかとも考えられています。

上掲の箇所は洗礼についてきわめて明瞭に述べています。洗礼は「恵みの手段」です。この手段を通して神様は私たちを御自分と結びつけてくださるのです。洗礼の記述が聖霊様に関連づけられていることにも注目してください。

「再生」(新たな誕生)というテーマは「私たちの人生を補強したり修復したりするだけで満足してしまうのではなく完全に新たにするまで働きかける」という神様の御意思を強調しています。

「この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた」の「注がれた」という動詞はギリシア語原文では動作の継続的な側面(アスペクト)を強調する未完了過去形になっています。これは神様が聖霊様を通してキリスト信仰者の中で御業を続行されていることを表しています。

それとは対照的に「ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」の「救われたのである」という動詞はギリシア語原文ではアオリスト形になっており、すでに完遂された一回的な動作の側面(アスペクト)を強調しています。これは救いがイエス様のゴルゴタの十字架での死によってすでに成し遂げられたことを表しています。

「永遠のいのちを望むこと」は聖書ではあいまいな希望や期待などではなく未来を眺望できるような確かな信頼を意味しています。

異端を避けなさい 「テトスへの手紙」3章8〜11節

「この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。」
(「テトスへの手紙」3章8〜9節、口語訳)

「この言葉は確実である」という表現は牧会書簡の他の箇所でも4回用いられており、キリスト教信仰の中心的な真理に言及される際に登場します(「テモテへの第一の手紙」1章15節および3章1節および4章9節、「テモテへの第二の手紙」2章11節)。この箇所の直前の「テトスへの手紙」3章4〜7節には聖書全体を通じてキリスト教信仰が最も凝縮されたかたちで表明されています。

「系図」と「律法についての論争」は異端の教師たちがユダヤ教の背景を持っていたことを示唆します(1章10節も参考になります)。しかしグノーシス主義がさまざまな宗教から自分に都合の良い要素をかき集めて構成された混合宗教であったことをここで再度想起するべきです。宗教的な風格を取り繕うためにグノーシス主義もまた独自の「系図」を捏造して利用しました。

当時のエフェソでも律法をめぐる論争が生じていました(「テモテへの第一の手紙」1章3〜7節)。

異端の教師たちとの論争は「無益かつ空虚なこと」です。なぜなら彼らはすでに誤った道を自らの意思で選んでしまったからです。彼らには警告しなければなりません。しかし彼らが異端に拘泥する場合には、彼らを他の教会員たちの中から締め出さなければなりません。これは彼らが新たに他の人々を正しい信仰から異端の道に幻惑しないようにするためです(「マタイによる福音書」18章15〜17節、「テモテへの第一の手紙」1章20節)。

信仰者たちの正しい信仰と適切な生活態度は教会を信仰的によりいっそう堅固に建て上げていきます。それに反して信仰者間の「争い」は教会にとって決して建設的ではありません。

パウロは「良いわざ」について牧会書簡で通算14回述べています。昔も今も「良いわざ」は教会の外の人々に対する信仰の証となってきました(2章9〜10節)。それと同時に「良いわざ」は正しい信仰の教師たちを異端の教師たちから明確に区別する目印でもあります(1章16節)。

牧会書簡には異端に対する警告が大量に記されています(1章10〜11節および3章9〜11節、「テモテへの第一の手紙」1章4〜7節および4章7〜8節および6章3〜5節、「テモテへの第二の手紙」2章14〜18、23〜25節)。最初期の教会を理想化するべきではありません。教会の創立以来、絶えず悪魔(サタン)は教会に様々な「毒麦」(異端)を撒き散らし正しい信仰を圧殺しようと画策してきたのです(「マタイによる福音書」13章24〜30、36〜43節も参考になります)。

終わりの挨拶 「テトスへの手紙」3章12〜15節

「わたしがアルテマスかテキコかをあなたのところに送ったなら、急いでニコポリにいるわたしの所にきなさい。わたしは、そこで冬を過ごすことにした。」
(「テトスへの手紙」3章12節、口語訳)

パウロは自分が冬を過ごすつもりでいたニコポリにテトスが来てくれるのを待望していました。ニコポリはギリシア語では「勝利の都市」という意味を持ち、ギリシア西部のアドリア海の沿岸にほど近く、現在のギリシアとアルバニアの境あたりに位置していました。

執筆当時おそらくパウロはニコポリへと旅をしていたと思われるので「テトスへの手紙」はニコポリではないギリシアのどこか他の場所で書かれたのでしょう。もしそうならば、パウロは「テトスへの手紙」執筆時には投獄されていなかったことになります。

テトスがクレテから出発できるようにするためにパウロはテトスの代理を務める教会の責任者としてアルテマスかテキコをクレテに派遣する予定でした。

アルテマスは私たちには知られていない人物です。新約聖書に彼の名前が出てくるのはこの箇所だけです。

テキコはパウロの親しい同僚であり、パウロの手紙をコロサイに運びました(「コロサイの信徒への手紙」4章7〜8節)。パウロは彼を「主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコ」と呼んでいます(「エフェソの信徒への手紙」6章21節)。またテキコは「エフェソの信徒への手紙」をエフェソの信徒たちのもとに届けたことでも知られています。それ以外にもテキコはパウロの代理人として活動したことがあります(「使徒言行録」20章4節、「テモテへの第二の手紙」4章12節)。

「法学者ゼナスと、アポロとを、急いで旅につかせ、不自由のないようにしてあげなさい。」
(「テトスへの手紙」3章13節、口語訳)

「テトスへの手紙」をクレテに届けたのはおそらくゼナスとアポロだったのでしょう。

ゼナスは私たちには知られていない人物です。法学者である彼はユダヤ人律法学者であった可能性があります。

「アレキサンデリヤ生れで、聖書に精通し、しかも、雄弁なアポロというユダヤ人」(「使徒言行録」18章24節)は、少なくともエフェソやコリントで宣教したアポロとは同一人物であったと思われます(「使徒言行録」19章1節、「コリントの信徒への第一の手紙」1章12節および3章4〜6、22節)。

「わたしと共にいる一同の者から、あなたによろしく。わたしたちを愛している信徒たちに、よろしく。
恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」
(「テトスへの手紙」3章15節、口語訳)

「テトスへの手紙」はごく一般的な終わりの挨拶で閉じられています。「恵みが、あなたがた一同と共にあるように」という表現で現代のキリスト信仰者たちもまた互いに神様からの祝福を願います。

(おわり)