テサロニケの信徒への第二の手紙2章 最後まで堅く信仰に留まりなさい

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

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この章でパウロは「テサロニケの信徒への第二の手紙」の主題である「キリストの再臨」を取り扱っています。

神様のタイムスケジュール 「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章1〜12節

イエス様の再臨について正しく語ろうとせず信じようともしない宗教のありかたは使徒的な純正のキリスト教ではありません。

「わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章5節、口語訳)

この節からはパウロが以前に短期間訪問した際にテサロニケの信徒たちにキリストの再臨について教えていたことがわかります。この点に関して現代の多くの教会は好ましくない方向に変わってしまいました。例えば多くのルター派の人々はこの世の終わりにまつわる出来事について言及を避けようとする傾向が見られます。

教会史を振り返ると「ヨハネの黙示録」の終末感が多数のキリスト信仰者の心をとらえ、それと関連して行き過ぎた聖書解釈が試みられた時期が幾度もありました。これと同じことが当時のテサロニケの教会でも起きていたようにみえます。しかし終末をめぐる不適切な聖書解釈のあおりを受けてこの重要な主題が現代の教会でまったく無視されるか、あるいは正しく教えられなってしまうのはとうてい容認できることではありません。

「霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章2節、口語訳)

上掲の節での「わたしたちから出たという手紙」とは偽名で書かれた手紙のことでしょうか、それともパウロ自身による「テサロニケの信徒への第一の手紙」が誤って解釈されたことを示唆しているのでしょうか。

「テサロニケの信徒への第二の手紙」をパウロ以外の誰かが書いたものと仮定すると、偽名の手紙が偽名の手紙の危険について警告していることになり、自己矛盾が生じます。この正当な批判に対する反論として「まさに上節によって偽名の著者は

この手紙に対する著者の偽名疑惑を晴らそうとした」という主張もあるにはあります。「上節は偽名の手紙がパウロ本人による手紙であることを保証するために書かれた」というわけです。しかしもしもパウロ以外の誰かがこの手紙を書いたとしたら、はたして上節の言葉は手紙の読み手たちに信用されたでしょうか。

多くの異端教師たちは自分が見た幻を自分の教えの正しさの根拠にして「霊が私に語った」などと主張します。しかし聖書は次のように教えています。

「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」
(「ヨハネの第一の手紙」4章1節、口語訳)

霊が神様に由来するものかどうか確かめなければなりません。

「しかし、わたしは、現在していることを今後もしていこう。それは、わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者どもから、その機会を断ち切ってしまうためである。こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章12〜15節、口語訳)

サタンは光の天使に擬装することができるし、実際に何度も偽りの姿で人々の前に現れてきました。異端は多くの場合、正統な教えに真っ向から反する教えというかたちはとりません。異端が正しい教えに加える変更はほとんど目立たないものでさえあります。しかしまさにそれゆえに、この微細な変更がもたらす正しい教えからの逸脱はそれだけいっそう重大な意味を帯びてきます。

このような異端の例として「キリストの再臨は間近である」と主張して日常の仕事を放棄したテサロニケの信徒たちがいました。彼らの中には「キリストの再臨はもうすでに起きた」と考えた者たちも含まれていた可能性があります。このような異端の現代での代表的な例はエホバの証人のものみの塔の協会です。彼らの教えによれば、1914年10月1日にキリストは目には見えないかたちですでに再臨したためキリストの再臨はもはや起こらないとされます。このような主張に対して聖書は例えば次のように答えています。

「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章23〜31節、口語訳)

時代が下ると使徒たちの名前を借用した書物群が流布し始めました(「ペテロの黙示録」など)。

「だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章3節、口語訳)

この節はキリストが再臨する「前提条件」についてパウロが述べているものと一般的に解釈されています。キリストの再臨の起こる前に、信者の一部がキリスト教信仰を棄教し「滅びの子」がキリストよりも前に出現することになっているのです。しかしこの節は今までの文脈にも関連しています。3節の述べている「背教」は2節で描かれたようなかたちで起こるかもしれないからです。神様の敵対者は2節で述べられたようなやりかた(「主の日はすでにきたとふれまわる者」の出現)によって人々を惑わせようとする可能性があります。

終わりの時には大規模な背教が起こることをイエス様も予言なさっています(「マタイによる福音書」24章10〜31節)。

「彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章4節、口語訳)

「神の宮」とは西暦70年にローマ軍によって破壊されたエルサレム神殿のことでしょうか。イエス様の再臨の前にこの神殿が再建されるという予言は聖書にはありません。ですから、パウロはおそらく何か別の神殿について述べているものと思われます。例えば「反キリスト」が自分のために建てさせた神殿で「我は神なり」と宣言するという意味なのかもしれません。

ユダヤ人の歴史を繙けば、エルサレム神殿が宗教的に汚されたり汚されそうになったりしたことが実際に何度も起きたことがわかります。紀元前167年にシリヤ王アンティオコス・エピファネス4世がエルサレム神殿に自分の像を建立し、そこで(ユダヤ人が宗教的理由から忌み嫌う)豚を犠牲として捧げました。紀元前63年にはポンペイウスに率いられたローマ軍がエルサレム神殿に侵入して汚し、ローマの軍旗が神殿の領域に立てられました。西暦40年にローマ皇帝カリグラはエルサレム神殿に自分の像を建てようとしましたが、諸般の事情で遅延しているうちに翌年暗殺されてしまったため、この計画は頓挫しました。

神様の敵対者なる「反キリスト」の基本的な特徴は上掲の2章4節によくあらわれています。反キリストは自分を神様よりも上に位置付け、最終的には神自身とみなします。この節でパウロはローマの「神的な」諸皇帝を暗に示唆していると考えたくもなりますが、パウロが彼らだけのことを念頭に置いていたとはとうてい思えま

せん。サタンは歴史を通じて同様の策略を行使して人々を騙し異端に巻き込み神様から離反させ滅ぼさせようとしてきたのです。

「そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章6節、口語訳)

この節でパウロはキリストの再臨の実現を阻止している事柄あるいは人物について述べています。これはいったい何のことでしょうか。教父アウグスティヌスは自分にはわからないことを率直に認めています。しかし当然ながら今までさまざまな推測が提案されてはきました。ここでは例として次の4つを挙げます。

1)教会と神様なる聖霊様
2)福音を宣教したパウロ
3)福音が未だすべての国民に宣べ伝えられてはいないこと(「マタイによる福音書」24章14節、「マルコによる福音書」13章10節)
4)当時の地中海世界の法と秩序を統率していたローマ帝国

結局、ここで問題になっている事柄あるいは人物について確かなことは何も言えません。とはいえ万象の背景に神様の御計画が常に存在しているのは確かです。神様が選ばれた「時」が来ると、聖書に記された通りに諸々の出来事が前へと進み始めるのです(「ヨハネの黙示録」9章15節、20章1〜3節)。

不法が多くの者を惑わす

「その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章8節、口語訳)

この節でパウロが「不法の者」と呼んでいる存在は新約聖書の他の箇所では「反キリスト」という名でも知られています(「ヨハネの第一の手紙」2章18、22節および4章3節、「ヨハネの第二の手紙」7節。また「ヨハネの黙示録」13章も参照してください)。

反キリスト(不法の者)は人間の姿で現れたサタンではないことに注目しましょう。「不法の者が来るのは、サタンの働きによる」(2章9節)というように、これらは別々のものとして識別されているからです。

反キリストが正しい信仰に反抗するやりかたは「正しいことをすべて否定する」というかたちをとるとはかぎりません。正しいことを変質させたり捏造したりする場合もあります。その意味で反キリストは必ずしも「キリストと正反対な者」としてではなく「キリストに似た偽物」として出現する可能性もあります。

反キリストかどうかを確実に識別することができる重要な基準があります。それは反キリストが「イエス様はキリスト、世の救い主、神様なり」という真理を否定するという点です(「ヨハネの第一の手紙」2章22節)。

さまざまな奇跡をこれ見よがしに実演してみせることによって神様の敵対者は大勢の人々を、しかも多くのキリスト信仰者たちのことさえをも惑わせます(2章9節、「マタイによる福音書」24章24節)。

「また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章10〜12節、口語訳)

上掲の箇所は「真理」と「偽り」について述べています。真理とは「イエス様こそが救い主であり、イエス様を信じる者たちのみが救われる」という神様の啓示です。「偽り」とは「反キリストは神である」という誤った主張です。

イエス様は真理に満ちておられます(「ヨハネによる福音書」1章14節)。それと対照的に神様の敵対者は偽りで充満しています。

救いへと選ばれし者たち 「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章13〜17節

聖書は「神様による選び」について明確に教えています。パウロはこれから取り扱う「テサロニケの信徒への第二の手紙」の箇所に加えて、例えば「エフェソの信徒への手紙」1章4節、「コロサイの信徒への手紙」3章12節でも、この主題に言及しています。イエス様も「ヨハネによる福音書」で次のように言っておられます。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」
(「ヨハネによる福音書」15章16節、口語訳)

神様による選びについて旧約聖書も全体を通じて語っています。それもそのはず、旧約聖書は選ばれた民の歴史についての書物だからです。

ところが人間の理性は神様による選びを認めようとしないため、私たちはこの主題について互いに話し合ったり教えたりすることもありません。

神様による選びの教えの基点となる聖句は「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」(「テモテへの第一の手紙」2章4節)です。イエス様は全人類のすべての罪のために十字架で死んでくださいました。そのおかげで、強制的に永遠の滅びに落とされる人間はこの世にはひとりも存在しません。

ただし現実には全人類がこの福音を受け入れることにはなりません。福音を受け入れる人もいれば受け入れない人もいます。そうなる理由はまったくの謎です。

宗教改革者マルティン・ルターが聖書に基づいて教えたことですが、永遠に滅ぶべくあらかじめ選ばれている人間は誰ひとりいませんが、神様によって救いへと選ばれている人たちはたしかに存在します。まず先に神様のほうから私たちを救うために見つけてくださるのです。そうでなければ、私たちのほうから神様を見つけようとしても決してうまくいきません。

ここでパウロは人が間違った確信をもたないように釘を刺しています。「選ばれた者が人生の途中で信仰を捨てて恵みから滑り落ちるようなことは決して起きない」とはかぎらないからです。実はこれこそが2章1〜12節の扱っている主題にほかなりません。棄教してしまう危険は誰にでもあります。だからこそ私たちは信仰的に目を覚ましていなければならないのです。

「そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章15節、口語訳)

サタンは次の三つの方法で私たちを自分の帝国に引き戻そうとします。
1)迫害や圧迫によって
2)理性が容認するような間違った教えによって
3)罪深い生きかたの中に追い落とすことによって

「そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。」
(「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章14節、口語訳)

私たちはいついかなる時もキリストのうちに、使徒たちが伝えてくれたキリストの正しい教えのうちに、留まるべきなのです。福音は信仰を生み出すだけではなく信仰を育み保ってくれるものです。