フィリピの信徒への手紙 4章 喜びにあふれる生き方

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「フィリピの信徒への手紙」はパウロの「喜びの手紙」と呼称されることがよくあります。パウロは投獄中の身でありながら喜びを持ち続けることができたからです。この喜びはとりわけ「フィリピの信徒への手紙」の最後の章から溢れ出ています。

「フィリピの信徒への手紙」4章1〜3節 一致した信仰をもつことへの奨励

「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章1節、口語訳)

自分の信仰がいったい何に基づき保たれているのか、キリスト信仰者は常に確認する必要があります。イエス様は次のように教えておられます。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。」
(「マタイによる福音書」7章24〜27節、口語訳)。

人間が勝手に作り上げたものではなく神様が築いてくださった基盤の上にキリスト教信仰は保たれています。

この基盤には信仰がもたらす「躓き」と「安全さ」の両方が含まれています。多くの人は自分の力で自分のための「救い」を作り出したいと願っています。しかし聖書は私たちにたった一つの道だけを示しています。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

人が救われるのはひとえに神様の御業によるものです。この真理を認めようとしないかぎり人は救いの確信をもつことが決してできません。人間の行いはいつも欠けたところがあり不完全なものであるため、それに依り頼んで何らかの「救い」を捏造する試みはいつまでたっても不確実なままだからです。

「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章2節、口語訳)

上の節でパウロはフィリピの教会の二人の女性が互いの意見の食い違いを解決するように奨励しています。パウロはどちらかの側につくことはせず、またこの争いの解決のために指示を与えもしませんでした。それでもパウロの嘆願は徒労に終わることはなかったと思われます。彼女たちがパウロに何の応答もしなかったとは考えにくいからです。

他のキリスト信仰者の嘆願や聖霊様の御業の働きかけによって悔い改めてへりくだり神様と和解するように導かれたという経験がもしかしたらあなたにもあるのではないでしょうか。

「ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章3節、口語訳)

上の節でパウロは「真実な協力者」にお願いしています。この人物が誰なのか私たちは知りません。ギリシア語では「スジュゴス」ですが、これが固有名詞なのかそれとも口語訳にあるように「協力者」という一般的な呼称なのかさえわかりません。古典古代の文献では「スジュゴス」という名前を持つ人物は知られていないようです。この単語の文字通りの意味は「同じくびきを担う者」であり、親しい同僚を意味しています。いずれにせよパウロの考えを理解する上ではどちらの意味で考えてもあまりちがいがありません。

例えば会社の話し合いや国家の内外の交渉、さらにはキリスト信仰者同士の間の争いにおいても、敵対し合う者たちの間の膠着状態を緩和して両者をふたたび話し合いの場につけるために外部の調停者が必要になる場合があります。

なお上節の最後でパウロが言及している「いのちの書」はすでに旧約聖書の時代にも知られていたものです(「出エジプト記」32章32節)。人間にとって最大の喜びは自分の名前が天国に記されていることであるとイエス様は教えておられます(「ルカによる福音書」10章20節)。また「ヨハネの黙示録」では「いのちの書」について多くの大切なことが語られています(例えば「ヨハネの黙示録」20章15節、21章27節など)。

「いのちの書」は神様が救ってくださる人々の名前が記された書のことであり、天国での「教会員名簿」や「住民登録」のようなものであると言えるでしょう。

「フィリピの信徒への手紙」4章4〜9節 主にある喜び

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章4節、口語訳)

「キリストにあって」とか「主にあって」という聖書特有の言い回しには、より簡明な他の言い方に変えると十分には表せなくなる何か大切なものが含まれています。それゆえ翻訳においても新約聖書ギリシア語や旧約聖書ヘブライ語に特有な言い回しをできるかぎり尊重する必要があるのです。

「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章5節、口語訳)

この節でパウロはキリスト信仰者に残されている時が実は短いことを強調しています。どの時代にあってもキリスト信仰者はキリストの再臨が自分の生きているうちに実現することを待望するべきなのです。私たちが死んでからキリストの再臨までの間にどれほどの時が経つことになるのかは重要ではありません。私たちには自分に与えられたこの命しかなく、私たちの時は私たちが死ぬ時点で終わるからです。むしろ重要なのは私たちがこの世でどのように過ごすのかということです。これが永遠の世界での私たちの居場所を決めることになるからです。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章6節、口語訳)

私たちが何かについて祈り願う前からすでに神様はすべてをご存じです(「マタイによる福音書」6章32節)。しかしそうだとしたら、なぜ私たちは祈る必要があるのでしょうか。祈りは決して一方通行的なものではないからというのがその答えです。祈りは私たちから神様への語りかけにすぎないものではなく、神様から私たちへの語りかけでもあります。祈りは神様の態度を変えるためというよりも、むしろ祈る本人のほうを変えていくことができる働きなのです。

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章8節、口語訳)

この節でパウロは当時の世界のストア派の哲学が善とみなしていたことがらを列挙しています。キリスト信仰者はこの世的なもの一切合切を捨てるという極端な態度をとるべきではありません。この世はたしかに罪の中に堕落してはいますが、それでも神様のお造りになった世界であることに変わりはないからです。

「あなたがたが、わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことは、これを実行しなさい。そうすれば、平和の神が、あなたがたと共にいますであろう。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章9節、口語訳)

3章17節と同様にこの節でもパウロはふたたび自分のことをフィリピの信徒たちに模範として提示しています。しかし現代の私たちのうちのどれほど多くのキリスト信仰者が自分自身を他の人々に対して模範として示す勇気をもっていることでしょうか。

この節の最後の部分は神様なるイエス様が御自分の者たちと常に共にいると約束してくださっていることを私たちに思い起こさせようとしています(「マタイによる福音書」28章20節)。ところが私たちには、できることなら神様から放っておかれることをひそかに期待してしまうような場合があるのではないでしょうか。

「フィリピの信徒への手紙」4章10〜20節 フィリピの信徒たちからの贈り物への感謝

「さて、わたしが主にあって大いに喜んでいるのは、わたしを思う心が、あなたがたに今またついに芽ばえてきたことである。実は、あなたがたは、わたしのことを心にかけてくれてはいたが、よい機会がなかったのである。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章10節、口語訳)

「コリントの信徒への第二の手紙」8章3〜4節によれば、マケドニヤの諸教会は貧しかったようです。フィリピの信徒たちによるパウロの伝道活動の経済的支援が途絶えていた理由は、彼らにその余裕がなかったためだったのでしょうか、それとも彼らがパウロのもとに献金を届けることができなかったためだったのでしょうか。はっきりしたことは何もわかりません。

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」
(4章12節、口語訳)

この節でパウロは自分がどのような状況の中にあっても生きていく術を身につけていたためフィリピの信徒たちの援助なしでも困窮することはなかったと言っています。それによってパウロはフィリピの信徒たちを慰めているのです。さまざまな国民にとっての使徒であったパウロにはこのような生活の知恵はなくてはならないものでした。現代の多くの宣教師たちにとってもこの節にあるような知恵が必要とされています。

この節が私たちに教えているのは、私たちは自分に起こることを自分で決めることがいつでもできるわけではないが、私たちに起こることに対して私たちがどのような態度を取るかについては私たち自身で決めることができるということです。

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章13節、口語訳)

この節はパウロの忍耐強さの秘訣を明らかにしています。彼は自分の全人生が神様の御手の中にあることをはっきり見ることができました。それゆえ彼はすべてを神様から来たものとして受け止めることができたのです。

口語訳では「わたしを強くして下さるかたによって」と訳されていますが、ギリシア語を直訳すれば「わたしを強くして下さるかたにおいて」になります。ここでも「神様において」という表現が用いられていることに注目しましょう。

「ピリピの人たちよ。あなたがたも知っているとおり、わたしが福音を宣伝し始めたころ、マケドニヤから出かけて行った時、物のやりとりをしてわたしの働きに参加した教会は、あなたがたのほかには全く無かった。またテサロニケでも、一再ならず、物を送ってわたしの欠乏を補ってくれた。わたしは、贈り物を求めているのではない。わたしの求めているのは、あなたがたの勘定をふやしていく果実なのである。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章15〜17節、口語訳)

上掲の箇所に「物のやりとり」や「勘定」といった商業用語(どちらにも「決済」を意味するギリシア語「ロゴス」が入っています)があるのはフィリピの最初のキリスト信仰者が「紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人」(「使徒言行録」16章14節)であったことにも関わりがあるかもしれません。

「わたしは、すべての物を受けてあり余るほどである。エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて、飽き足りている。それは、かんばしいかおりであり、神の喜んで受けて下さる供え物である。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章18節、口語訳)

この節にも当時の経済用語が使われています。「物を受けて」はギリシア語で「アペコー」と言い「受領する」という意味です。つまりパウロはフィリピの信徒たちからの贈り物を受領したということです。

パウロは福音を宣べ伝える対価として経済的な利益を受けることをよしとしませんでした。ですから彼がフィリピの教会からの経済的な援助を受けたのは例外的なケースです(4章15節)。普段のパウロは自分で生活資金を稼いでいました(「使徒言行録」18章3節)。パウロが経済支援を受けようとしなかったのは「パウロは経済的な利益を見越してキリスト信仰者になった」と誰からも言いがかりをつけられないようにするためでもあったと思われます。

フィリピの信徒たちの贈り物が彼ら自身の「勘定をふやしていく果実」にもなるように願っているとパウロは17節で言っていますが、これはどういう意味なのでしょうか。

これには次のような実際的な説明を加えることもできます。もしもローマでパウロに有利な判決が下される場合、それはローマ帝国に住んでいる他のキリスト信仰者たちにも具体的な勝利となることでしょう。パウロはキリスト信仰者として自らの信仰に関わる案件に対して無罪の判決を受けた最初の判例となり、今後は帝国各地に住んでいる他のキリスト信仰者たちも迫害を受けずに済むようになることが期待されるからです。

しかしパウロの意図により近いと思われる説明は、フィリピの信徒たちが今までパウロに示してきた善意に対して神様は何らかのやり方で彼らに報いてくださるだろうとパウロが考えていたというものです。次の箇所を見てください。

「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章19節、口語訳)

「フィリピの信徒への手紙」4章21〜23節 自筆による終わりの挨拶

手紙を書く時にパウロは誰かに代筆させるのが普通でした。しかしパウロ本人による手紙であることの証拠として手紙の末尾部分だけは自筆で記すことがよくありました(「ガラテアの信徒への手紙」6章11節も参照してください)。なおギリシア語新約聖書の写本の一部にはパウロが「フィリピの信徒への手紙」を書いている時にエパフロデトが代筆を務めたことを示す署名(ギリシア語で「ディア・エパフロディトゥ」)が記されています。

「キリスト・イエスにある聖徒のひとりびとりに、よろしく。わたしと一緒にいる兄弟たちから、あなたがたによろしく。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章21節、口語訳)

この節の初めの部分はパウロの手紙が教会の礼拝で公に読まれたことを示唆しています(「コロサイの信徒への手紙」4章16節も参考になります)。「フィレモンへの手紙」は例外ですが、パウロの手紙は教会の指導者宛ての私信ではなく、教会の聖徒たち、すなわち教会員全員に向けて書かれた手紙だったからです。

「すべての聖徒たちから、特にカイザルの家の者たちから、よろしく。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章22節、口語訳)

「カイザル」とはローマ皇帝のことです。「カイザルの家の者たち」はその大半が奴隷や解放奴隷(自由人)から構成され皇帝の宮廷の組織の管理と経営の責任を担っていた人々です。

なお「カイザルの家の者たち」は首都ローマ以外の地域にもいたので、上節によって「フィリピの信徒への手紙」の執筆された場所を特定することはできません。

パウロが手紙の最後で「カイザルの家の者たち」について言及していることには励ましの意味合いもあったのでしょう。キリスト教信仰が「カイザルの家の者たち」の間にもしっかり根付いていたということになるからです。フィリピがローマの軍人たちの入植地であったことを踏まえると、おそらく「カイザルの家の者たち」にはフィリピの信徒たちの知り合いも何人か含まれていたのでしょう。とはいえキリスト教信仰がどの程度まで皇帝の近くの人々の間に広まっていたのかはわかりません。「カイザルの家の者たち」は大勢いましたし、彼らは必ずしも皇帝の側近のグループに属していたのではないからです。

パウロはこの手紙では彼の身近にいたキリスト信仰者たちの名前を記していません。おそらく彼らの身の安全を配慮したのでしょう。パウロが有罪の判決を受ける場合には彼の周辺の人々にも危害が及ぶ可能性があったからです。

「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」
(「フィリピの信徒への手紙」4章23節、口語訳)

手紙の最後を締めくくるこの祝福の言葉は空虚な紋切り文などではありません。この祝福には真実に満ちた意味と内容が含まれています。この祝福をはじめとしてキリスト教信仰で用いられる他の慣用句の数々を私たちが日常生活で本来の意味に留意しつつ正しく用いているか自問してみてください。

(終わり)