マタイによる福音書25章 世の終わりの時が到来し、天の御国への扉は最終的に閉ざされる
この章には「マタイによる福音書」での最後の三つの譬が収められています。ここではまだイエス様はエルサレムの神殿の向かいにあるオリブ山に留まっておられ、弟子たちに終末について教えられます。
愚かな花嫁と賢い花嫁 25章1〜13節
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。」
(「マタイによる福音書」25章1節、口語訳)
「十人のおとめ」(1節)とは花嫁に付き添う未婚女性の友人たちのことです。「おとめ」(処女)はギリシア語では「パルテノス」といいます。「おとめ(処女)であること」はヘブライ語で「べトゥリーム」といい、「士師記」11 章37〜38節の「エフタの娘の悲劇」に用例がみられます。
花婿は男性の友人たちと一緒に自分の花嫁を(彼女の父親の)家から迎えに行き、行列を組んで自分の家まで連れてきます。花嫁に付き添うこれらの「おとめ」たちは道沿いのどこかで待っていました。彼女たちは花嫁の家から出かけて花婿をより遠くまで迎えに行けば行くほど、よりいっそう大きな栄誉が与えられたのです(6節)。
「その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。」
(「マタイによる福音書」25章2〜4節、口語訳)
この譬の主題は「善と悪」ではなく「愚かさと賢さ」です(2節)。思慮深いおとめたちは花婿を出迎えにいく時にあかりも油もちゃんと用意していました(4節)。この点にぜひ着目してください。人は信仰に基づいて自分の生きかたを正しい方向に変えていなければなりません。自分が信じていることが真実であるなら、それに従って生きていこうとしなければならないのです。信仰にはこのような実践的側面があります。
油の入った容器を携えていくのは当然するべきことでした(4節)。夜には、たいまつのような「あかり」が屋外で使われていたからです。容器に入っていた油は15分ほどしか「あかり」を灯すことができなかったので、花婿の到着が遅れた場合に油が足りなくなるのは明らかでした。なお、使用された油はオリブ油でした。
聖書の中で「あかり」は神様の御言葉の象徴として用いられています。「詩篇」119篇105節には「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」とあります。周囲が暗くなればなるほど、それだけ私たちの理性には迷いが生じやすくなることをわきまえておくことは大切です。だからこそ、私たちは神様が御言葉を通して語られたことだけをしっかりと信じ続けるべきなのです。
「花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。」
(「マタイによる福音書」25章5節、口語訳)
この譬の中で十人のおとめたち全員が眠り込んでしまったことも注目すべき点です。「目を覚まし続ける」ということはたんに目を覚ましているというだけでなく、適切な備えをすることも含意しています。
この譬の舞台が夜であったことは示唆的です。終末の時代には実に教会においてさえも闇が猛威を振るうようになることを私たちキリスト信仰者は覚えておかなければなりません。
花婿が遅れたのは日常的な手続き上の問題がその原因だったかもしれません。婚姻の成立する土壇場まで「花嫁料」をめぐって花婿側の家族と花嫁側の家族の間で交渉が続けられる場合もあったからです。中近東で結婚は家族間の合意に基づくものであったことを思い起こしましょう。ヨーロッパにおいてさえ「恋愛結婚」は比較的近年になって「発明」されたものです。
神様はキリストの再臨も遅らせておられます。しかし、実はそれは神様の恵みのしるしなのです。神様はできるだけ多くの人が救われることを望んでおられるからです。
「ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。」
(「マタイによる福音書」25章8〜9節、口語訳)
救いには二つの側面があります。まず、ゴルゴタの十字架における神様の救いの御業です。これによってすべての人に救われる可能性が提供されることになりました。そして、この救いの側面は十人のおとめ全員が「あかり」を持っていたという点に表れています。しかしそれに加えて、個人的な何か、他の人に与えたり他の人と共有したりできない何かが必要とされるのです(9節)。人に救いをもたらすのは「心からの信仰」です。他の人の代わりに信じてあげることは誰にもできません。
「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。」
(「マタイによる福音書」25章10〜12節、口語訳)
この譬はまた「二つのグループ」に分離されるということも教えています(10〜12節)。これは終末に関するイエス様の教えにみられる一般的な特徴です。当然ながら、すべての人が救われることにはなりません。世の終わる時が来て天の御国への扉が閉ざされたなら、再びそれを開くことは誰にもできなくなります。「ヨハネの黙示録」3章7節には「ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。」とあります。
十人のおとめたちの中には花婿を待つ態度がその後の彼らの行く末を決定づけた者たちもいました。今日の教会にもそれと同じことが言えます。キリストの再臨が遅れているということによってキリスト信仰者たちの信仰は今も試されているのです。「キリストがいまだに再臨していない以上、これからも二度と再臨することはない」という主張が歴史を通じて度々なされてきました。すでに初期の教会においてさえキリストの再臨を信じなくなった人々が現れたのです(例えば「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章13節〜5章11節を参照してください)。現代ではまさにそのような考えかたをする人々の数が著しく増加してきています。キリストは「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(「ルカによる福音書」18章8節より)、すなわち再臨の時にこの地上から(活きた)信仰をもつ人間を見出すだろうかと言わざるを得ませんでした。外面的には十人全員が等しく花婿を待ち続けているかのように見えたものの、実はそのうちの半数のおとめたちには花婿の再臨の時への備えが欠けていたのです。
この譬は目をさましていること(13節)だけではなく、適切に準備すること(8〜9節)の大切さについても教えています。かつてフィンランド・ルーテル福音協会の国内宣教長であったヴァイノ・ウーシタロ牧師はユリハルマ市の教会の牧師だった頃に起きたある出来事について次のように語ったことがあります。彼がヴァーサ市に車で向かっていたとき、橋の上で対向車が別の車を追い越そうとしました。その橋では3台の車が並んで通れるような道路の幅はありませんでした。事故が避けられないとわかった彼は「これはもう助からない!」と思いました。その瞬間には何か崇高なことや人生の走馬灯などを見ることはありませんでした。もしもあの事故が命取りになっていたならば「準備する時」はなかったでしょう。あのごく短い瞬間ではこの世から旅立つ準備をしたくてもできなかったとも言えます。本来ならば、その出来事の起こる時にはすでにあらかじめ「出発」の準備を整えていなければならなかったのです(10節)。
「神様が私たちを知っている」という事実は「私たちが神様を知っている」ことよりもはるかに偉大で重要なことです(12節、また「ガラテアの信徒への手紙」4章9節も参照してください)。
「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。」
(「マタイによる福音書」25章13節、口語訳)
13節は「終わりの時を知る者は誰もいない」ということを改めて私たちに思い出させてくれます。
しもべたちに託された資金 25章14〜30節
「ルカによる福音書」にはこの譬と非常によく似た譬が記されています(「ルカによる福音書」19章12〜27節)。しかし、マタイとルカの間には重要な違いもあります。イエス様が同じかあるいは似たような譬を異なる状況下で何度も繰り返して人々に語られたのは明らかでしょう。そのため、複数の福音書にある程度互いに似通った譬が登場するのです。それらを「同一のもの」とみなしたり、それらの「原型」を探そうとしたりする現代の聖書学研究の常套手段は無駄な試みです。
実のところ、この譬は「マタイによる福音書」の最後の箇所(「マタイによる福音書」28章18〜20節)と合わせて読むべきものです。まさにその箇所にこの譬の説明が記されているからです。イエス様は天の御父の御許に戻られたとき、御自身の務めを「御自分のものたち」に委ねられました。そして、この務めを彼らがどのように実行したかをいつか神様に報告することになります。その時に「私たちの受けるべき分」はいったい何になるのでしょうか。私たちは10タラント、4タラント、それとも1タラントを持って神様の御前に立つことになるのでしょうか。
当時の中近東には多くの農場があり、その所有者は首都ローマを含む大都市など他の場所に住んでいました。彼らは自分の資産を信頼できる召使い(通常の場合は奴隷)に委ねていました。この譬は当時のそのような日常的な状況からとられたものです。
主人はそれぞれの召使いの能力と才覚に応じて資金を貸与しました(15節)。彼らにとって不可能であるようなことを彼らからは要求なさいませんでした。1タラントを受け取った者には5タラントを使いこなす才覚はなかったでしょう。しかしまた、そのような無理な要求もされなかったのです。
タラントは元々約30キログラムに相当する重さの単位でしたが、時が経つにつれてお金を表すようにもなりました。これと同様のことが後にヨーロッパでも起こりました。お金は最初大きな金属板でしたが、後にお金の価値は黄金に結び付けられるようになりました(こうして「金本位制」という、国家が一定量の金とお金を交換することを保証する制度ができました。しかし、今日ではお金は国際金融市場における合意によって形成された価値のみを持っています)。
多くの言語で「タラント」という言葉の派生語は「才能」(英語でtalent)を意味します。
この譬に出てくる金額はどれも非常に高額なものでした。1タラントは6000日分の賃金、すなわち約20年分の賃金に相当し、したがって5タラントは100年分の賃金に相当しました。ある人が旅に出かける前に僕たちに預けた資産の合計金額である8タラントは48000デナリであり、人が年間300日間働く場合に160年分の賃金に相当します。現代のお金に換算すると数百万ドルといったところでしょうか。
最初の二人の僕は主人から与えられたお金を2倍に増やすことに成功しました。しかし、主人は最後の僕に対しては、その僕から1タラントにさえ満たない金額しか受け取れない場合であっても、それを承認してくれたことでしょう。最後の僕の犯した過ちはお金を増やすのに失敗したことではなく、お金を増やす試みさえ放棄したことです。最後の僕は安全策を講じようとした結果、逆に最も厳しい罰を受けることになったのです。お金は使うために与えられたものであって、隠しておくためのものではありません。福音書についてもお金についてと同じことが言えます。福音書も人々から隠しておくべきものではないのです(「マタイによる福音書」5章14〜17節を参照してください)。
21節と23節には「主人と一緒に喜んでくれ」という表現があります。これは主人の旅からの帰還を祝うために催された帰還の祝宴だったに違いありません。これらの節は天においても「仕事が遂行される」ことを示しています。天の御国はただ休息して横になっている場所ではないのです。
当時の律法学者たちは他人の財産は地に埋めるべきだと教えていました。もし誰かがそれを見つけたとしても(13章44節を参照してください)、それを隠した者は、仮に他の誰かがそれを見つけて持ち去った場合にも、その消えた財産を弁償する責務を負わずに済んだのです。
三番目の僕が主人に言った言葉からは彼が主人に対して元々否定的な先入観を持っていたことが伝わってきます。しかも、三番目の僕はその先入観に基づく行動さえ起こさなかったのです。主人から預けられたお金をただ大事にしまっておくだけでは主人が満足してくれないことを知っていたにもかかわらず、そのお金を失うことを恐れすぎたあまり、必ず悪い結果に終わるような道を選んでしまったのです。こうして三番目の僕は自分で自分を裁くことになりました。残念ながら、多くの人は三番目の僕が主人に対してもっていたのと同じような完全に間違った先入観を神様に対しても抱いています。私たちは「譬」の細部にばかりこだわった「聖書解釈のやりかた」や「実生活への適用のやりかた」をしないように注意する必要があります。
「それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。」
(「マタイによる福音書」25章27節、口語訳)
ユダヤ教では利子を取ること(27節)は悪とされていました。モーセの律法はユダヤ人から利子を取ることを禁じていましたが、異邦人から取ることは許可していました(「レビ記」25章35〜38節)。「出エジプト記」22章24節(口語訳では25節)には「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」とあり、「申命記」23章20〜21節(口語訳では20節)には「外国人には利息を取って貸してもよい。ただ兄弟には利息を取って貸してはならない。これはあなたが、はいって取る地で、あなたの神、主がすべてあなたのする事に祝福を与えられるためである。」とあります。
27節の「銀行」という口語訳は時代錯誤的な訳語です。「銀行」(英語でbank)という言葉はずっと後になってできたもので、イタリア語で「ベンチ」を意味する「panca」に由来しています。ギリシア語原文では「机」を意味する「トラペザ」という言葉が用いられています。他には「両替屋」という訳語もあります。エルサレムの神殿ではその中庭にも両替屋たちが机を置いていたのです(21章12節)。
28節は、僕たちが新たに獲得したタラントだけでなく最初に元手として主人から与えられた1タラントも合わせて保持するのを許されたことを示唆しています。
「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
(「マタイによる福音書」25章29節、口語訳)
人が富裕になるためには「元金」を最初に用意しておくことが必須とされるという特徴が資本主義経済にはあります。三番目の僕は主人から莫大な金額を元金として受け取っていたにもかかわらず、それを運用するのをためらったために、実際には何も持っていないに等しかったのです。このことは救いについての比喩になっています。皆に提供されている神様からの救いを皆がこぞって受け取ることは起こらず、せっかくの救いを地中に深く隠してしまう人々も大勢いるのです。29節の考えは13章12節にも見られます。
この譬は「外の暗い所」という地獄についての比喩(30節)で閉じられます。ここでも二つグループへの分裂が描写されており、それと同時に、次の譬、すなわち最後の審判(31〜46節)への導入部にもなっています。これは「マタイによる福音書」の中でイエス様が語られた最後の譬です。
この譬は神様の裁きと公正さを力強く明示しています。すべての人が同一の基準で裁かれたのではありません。2タラントを受け取った人が10タラントや5タラントを無理に稼いで主人に献げる必要はなかったのです。最後の審判においても神様は救いの福音を受け入れる各人の能力を考慮に入れてくださいます。ですから、「ある人々にとっては不公平な裁きになるのではないか」などと心配する必要はありません。私たちが自問すべきなのは「なぜ世界中のすべての人が私たちと同じだけのタラントを受け取っていないのか」ではなく、「私たちは与えられた福音の御言葉によって何を行うのか」なのです。
私たちが責任を負っているのは「自分が持っているもの」に対してであって「自分が持っていないもの」に対してではないことを忘れてはなりません。2タラントを受け取った人は「新たに5タラントも稼げないのではないか」などと心配する必要はなかったのです。
また、この譬は金持ちになることや商売すること自体は(ときおりなされる主張とはちがって)聖書に反する行為ではないということを示しています。資本主義的経済は利益を上げ続けることによって成り立っています。利益を求めて行動を起こさなければ、誰にとっても良い状態は生じません。しかしまた一方では、富が決して私たちの偶像になってはいけないことも忘れてはなりません。遅かれ早かれ、私たちは富を手放さなければならなくなる時がくるからです(19章16〜26節を参照してください)。
この譬は前述の十人のおとめの譬の説明にもなっています。「目を覚ましていること」は「何もしないでいること」と同じではないのです。
二つに分たれる 25章31〜46節
25章の最後のこの箇所はたんなる譬ではなく、最後の審判で何が起こるかを描写したものでもあります。
この箇所についての説明はこじつけになってしまう危険性があります。特定の難しい論点をきちんと説明せずに誤魔化したいという誘惑に駆られるのです。しかし、ここでも私たちは聖書を人間の望むようなかたちに改変され書き直されたものとしてではなく元々書かれているかたちで読むべきです。
「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。」
(「マタイによる福音書」25章31節、口語訳)
人の子がその栄光の座につくこと(31節)は今や裁きが始まったことのしるしでした。
「そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」
(「マタイによる福音書」25章32〜33節、口語訳)
32節は先にまず復活が起きることを前提としていますが、復活には言及していません。この箇所はすべての時代のすべての人々について当てはまる出来事です。
裁きが宣告される以前からすでに二つのグループが別々に用意されています(32〜33節)。今は裁きが宣告される時であり、裁きの内容はそれぞれのグループに対してすでに明確になっており、また最終的な決定も下されています。人間ひとりひとりが永遠の世において配置される立場や居場所はこの世が終わってからようやく決定されるものではなく、人がこの世で生きている間にか、あるいは遅くとも死ぬ間際にはすでに決まってしまうのです。
羊飼いは毎晩、羊とやぎを別々のグループに分けました(32節)。やぎは羊よりも寒さに弱い生き物だからです。
「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、
『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。』」
(「マタイによる福音書」25章34節、口語訳)
右側(34節)のほうが左側よりも価値が高いこと(ちょうど羊がやぎよりも価値の高い動物であったように)は競技における表彰台の位置関係を見ても明らかです。銀メダルを獲得した競技者の位置は金メダルを獲得した勝者の位置の右側(向かって左側)にあります。
ラビたちは「世界が創造される以前に次の七つのことがすでに定められていた」と教えました。
1. 律法
2. 悔い改め
3. 楽園
4. 地獄
5. 栄光の御座
6. 天の神殿
7. メシアの御名
「この箇所は行いを通して人は救われることを教えている」という間違った解釈がしばしば主張されてきました。しかし、そのような主張は一つの重要な点を見落としています。それは二つのグループの応答(37〜39節と44節)です。どちらのグループも自身の救いに貢献するようなことを自分が行ったとは夢にも思っていなかったという点です(「イザヤ書」58章6〜7節を参照してください)。左手は右手が何をしているのか知りませんでした(「マタイによる福音書」6章3節)。もしも地獄に落ちた人々が自分の不作為(やるべきことをないがしろにしたこと)のもたらす結果を知っていたのなら、彼らはまず確実にしかるべき行動をとったことでしょう。聖書が繰り返し教えているように「木は種類に応じた実を結ぶ」のです。宗教改革者マルティン・ルターの言いかたを借りるなら、「善い行いが善人を形作るのではなく、善人が善い行いをする」のです。
この譬はキリスト教信仰がイデオロギーではなく「生きかた」であることを私たちに厳かに思い起こさせてくれます。
聖書において「兄弟」(40節)とは本来の意味での「キリスト信仰者」を指しています(18章15節、特に10章42節(「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」」)を参照してください)。それゆえ、この箇所は(他の諸宗教にも見られるような)一般的な慈善行為についてではなくキリスト信仰者であるがゆえになされる善い行いについて語っていることになります。もちろん、私たちは皆、隣人を愛するように召されています(22章39節)。しかし、そのような隣人愛は私たちが救われるための根拠とはなりえません。
41節は「永遠の火」(地獄)が「悪魔とその使たちとのために用意されている」ことを明示しています。誰もそこにわざわざ落ちて行く必要はないはずなのですが、神様の恵みと救いをないがしろにして受け入れない者たちは結局そこに落ちて行くことになります。
46節は特に永遠の裁き(「永遠の刑罰」と「永遠の生命」)について述べています。これらの裁きが何か別の裁きと取り替えられるようなことはもう起こりません。最後の審判において地獄に定められた者を天の御国にふさわしい者へと浄化してくれる「煉獄」のような中間的な場所は存在しないのです。
「マタイによる福音書」ではイエス様の教えの箇所はここで終わります(26章1節を参照してください)。