マタイによる福音書16章 ペテロの信仰告白の内容
時のしるし 16章1〜4節
「パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。」
(「マタイによる福音書」16章1節、口語訳)
ファリサイ派とサドカイ派(1節)は普通だと互いにかなり険悪な間柄でした。サドカイ派は世俗的であり、復活が起きることも信じていませんでした。一方、ファリサイ派は熱狂的なまでに宗教的でした。しかし今回は、共通の敵(イエス様)が彼らを一致団結させることになりました。
サドカイ派はイエス様にほとんど関心がなかったため、「マタイによる福音書」では彼らの登場について三度の言及しかありません。ここで扱っている箇所(1、6、11、12節)のほかには3章7節と22章34節だけです。サドカイ派と比べてファリサイ派はその教えがイエス様の教えと部分的に類似する側面があったため、度々イエス様と論争を繰り返しています。
「天からのしるし」(1節)は神様がイエス様の後ろについておられることを証するものでした。しかし、イエス様は彼らの要求に応じられませんでした。イエス様は御自分がメシア(救世主)であることを示す数々のしるしをすでに与えて来られたからです。それらが「メシアのしるし」であることを認めたくないのであれば、どのような新しいしるしも無意味です。それゆえ、イエス様は反対者たちとの間に無益で実りのない対話や論争を始めようとはなさいませんでした(4節)。
「「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。」
(「マタイによる福音書」16章4節、口語訳)
イエス様の講話は「言葉遊び」に満ちています。イエス様の反対者たちは「空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができない」のです(3節)。彼らは空(英語ではsky)のしるしの判断の仕方は知っていたのに、天国(英語ではheaven)のしるしを判断するやりかたは知りませんでした。これからの一日の天気を予測することはできたのに、間近に迫っている救いの日の到来についてはまったく予知できなかったのです。
「ヨナのしるし」(4節)はイエス様が三日目に復活なさったことを指しています(12章38〜42節も参照してください)。またこのしるしは、預言者ヨナの時代の人々がヨナの伝えた神様のメッセージに示したのと同じ反応をイエス様の宣べ伝える福音に対しても人々が示すことになる、すなわち福音をユダヤ人たちは拒絶し異邦人たちは受け入れることになる、という預言でもありました。
「また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」
(「マタイによる福音書」16章3節、口語訳)
神様から人間に与えられている理性は信仰にかかわる事柄を評価する場合にも利用してよいという立場をイエス様がとっておられることに注目してください(3節)。理性を排して感情だけで信仰にかかわる物事を判断しようとすると、多くの場合、非常に底が浅い宗教性に留まることになってしまうのです。
偽りの教義に対するイエス様の警告 16章5〜12節
「弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。」
(「マタイによる福音書」16章5節、口語訳)
福音書の中で「向こう岸」(5節)は普通はゲネサレト湖の東岸を指しています。そこは異邦人の居住地域だったので、弟子たちがパンを持参するのを忘れたことは大きな問題になりました。その地域ではユダヤ人が作ったパンを買うことができなかったからです。このような背景を踏まえると、イエス様がパン種について語られたときに弟子たちが実際のパンを思い浮かべたことに納得がいきます(7節)。
イエス様は弟子たちに御自分が持つ権威を思い出させます(9〜10節)。それゆえ、彼らはたとえパンを持ってくるのを忘れてしまっていても飢え死することはありえないのです。神様は以前祝福してくださったように今もまた私たちを祝福することがおできになる、というように私たちは神様を信頼し続けるべきなのです。
教義は無意味なものではありません。教義は私たちを正しい方向にも間違った方向にも導く可能性があるものだからです。教義と生きかたを互いに正反対なものとみなすのは作為的であり適切ではありません。正しい教義からは正しい生きかたも生じてくるはずだからです。たしかに教義だけでは「無味乾燥な正しさへの固執」が生じる場合がありますが、教義そのものが欠如していると感情が宗教心を支配するようになり、さらにやっかいで大きな問題に陥りやすくなります。教義は私たちが観察できることや理解することにさえ影響を与えます。科学や哲学がその例です。ある学派が支配的になると、観察結果や世界観はそれに基づいて解釈されるようになります。そして新しい学派が勝利を収めると、従来の多くの観察結果が新しい意味を帯びるようになります。著名な哲学者ヘーゲルは最新の事実によって彼の理論が間違っていたことが証明されたという知らせを臨終の間際に受けたと言われています。それに対して彼はこう答えたそうです。「(私の理論ではなく)事実の方が悪いのだ!」
福音の核心 16章13〜20節
この箇所の出来事は「マタイによる福音書」の中盤に位置しています。古典古代では最も重要な事柄を著作の中心付近に配置する書きかたがよくありました。マタイも同じようにしています。福音書の最も核心的な問いは「イエス様はどのようなお方なのか」ということです(「ヨハネによる福音書」20章30〜31節も参照してください)。このことを理解しないかぎり、福音書を読んでいてもその恩恵を受けることができません。
「ピリポ・カイザリヤの地方」(13節)はガリラヤ湖の北方にあるヘルモン山の麓の辺りを指しており、ヨルダン川の最東端の支流の始点でもありました。以前この地方は「パネアス」と呼ばれていましたが、かつてそこに神殿があったギリシア神話に出てくる「パン」という偶像神の名に由来しています。現在その場所は「バニアス」と呼ばれています。
この箇所でのイエス様はガリラヤから離れた異邦人の地域におられたことになります。そして、ここからイエス様のゴルゴタの十字架への道が始まります(21〜23節も参照してください)。
「イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。」 (「マタイによる福音書」16章13〜16節、口語訳)
「人の子」(13節)は次の「ダニエル書」の箇所に出てきます。世の終わりに現れる人物のことです。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
見よ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者のもとに来ると、
その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、
諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
その主権は永遠の主権であって、
なくなることがなく、
その国は滅びることがない。」
(「ダニエル書」7章13〜14節、口語訳)
「人の子が誰か」をめぐる人々の意見はまちまちで、「人の子」に対して抱いている彼らの期待を美しくまた敬意を込めて表す名称でありました(14節)。それにひきかえ、彼らにとってのイエス様はたんなる偉大な「神の人」に過ぎなかったのです。ところが、ペテロはイエス様が神様御自身であるとはっきり信仰告白しています(16節)。ここには今日でも正しい判断と間違った判断とを分かつ「根本的な分岐点」が明示されています。それは、イエス様はたんなる人間なのか、それとも教会が最初から教えてきたように、神様でもあり人間でもある特別な存在なのか、ということです。
パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と言っています(「ローマの信徒への手紙」10章10節)。それゆえ、イエス様は弟子たちに「人の子」についてどう考えているかと尋ねられたのです。弟子たちはイエス様をどのように理解していたのでしょうか。世論や教会の教えの背後に自分を隠すことは誰にもできません。「イエス様は誰か」という問いにすべての人が個人的に答えなければならないのです。
「すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」」
(「マタイによる福音書」16章17節、口語訳)
ペテロの信仰告白は人間からではなく神様から出たものであるとイエス様は言っておられるのです(17節)。このことをまもなく扱う21〜23節と合わせて読むことが大切です。ペテロの「人となり」ではなく、ペテロの「公の信仰告白」こそが「鍵」となるからです。
「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」。
(「マタイによる福音書」16章18節、口語訳)
この信仰告白の上にキリスト教の教会は建てられ、今もなお建て続けられています(18節)。ローマ・カトリック教会はペテロの信仰告白ではなくペテロ個人のほうを教会の基盤とみなして重視しましたが、これは間違いです。パウロは次のように書いています。
「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」2章20〜22節、口語訳)
パウロによれば「教会」は使徒たちと預言者たちによって据えられた土台の上に建てられており、その礎石、すなわち教会が立つか倒れるかを左右する「隅のかしら石」がイエス・キリストです。
マタイは福音書の4章18節ですでにシモンを「ペテロ」と呼んでいますが(「ペテロと呼ばれたシモン」)、本当ならば、今ここで扱っている箇所の出来事の後からこの呼称を用いるほうが自然だったでしょう。また、ペテロには「ケファ」という別名もありました。「ペテロ」はギリシア語で「岩」を意味する「ペトラ」に由来し、「ケファ」はそれに相当するアラム語の「ケーファ」に由来しています。後者に従ってパウロはペテロを「ケパ」(表記の違いは翻訳によるものであり、ギリシア語では両者ともに「ケーファース」です)と呼んでいます(「コリントの信徒への第一の手紙」1章12節および3章22節および9章5節および15章5節、「ガラテアの信徒への手紙」1章18節および2章9、11、14節、「ヨハネによる福音書」1章42節)。
「メシア」(16節)はアラム語やヘブライ語で「油を注がれた者」を意味し、ギリシア語でそれに対応する言葉が「キリスト」です。
「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
(「マタイによる福音書」16章19節、口語訳)
「解くこと」(19節)は(イエス・キリストにおける)「罪の赦し」を意味しています(18章15〜20節も参照してください)。まさにこれを宣べ伝えていくことこそが、地上における教会の中心的な使命なのです。その一方で、もちろん「つなぐこと」(悔い改めない者を「罪の中に縛られた状態」に置くこと)も教会に与えられた「鍵」のもう一つの大切な機能です。「鍵」は使徒ペテロを表すシンボルともなっており、例えばヘルシンキ大聖堂の屋根にあるペテロの彫像にも鍵があります。
群衆はメシア(救世主)について誤った期待を抱いていました(「ヨハネによる福音書」6章14〜15節も参照してください。このヨハネの箇所は「マタイによる福音書」14章13〜21節に述べられている食べ物の奇跡と関連しています)。そのような誤解をこれ以上助長しないために、群衆には奇跡の力によって食事を与えるべきではなく、弟子たちのほうでもイエス様がメシアであることについて沈黙を守るべきだったのです(20節)。しかし、弟子たちも救世主イエス様が実際にどのようなお方なのかをまだ正しく理解してはいませんでした(22節)。ゴルゴタの十字架上でのイエス様の受苦は弟子たちにとっても大きな驚きと失望だったのです。
受難についての最初の告知 16章21〜23節
「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。」
(「マタイによる福音書」16章21〜22節、口語訳)
以前にもイエス様は御自身の死についてそれとなく言及してこられました(9章15節(花婿が連れ去られる)、12章40節(ヨナのしるし))。しかし、今回初めて御自分が殺されて三日目に復活なさることを率直に述べられました。
この段階になってイエス様は、「メシアに従うこと」がいったい何を意味するのか、弟子たちにきちんと話しておかれたかったのです。それは、弟子たちにはこれからどのような道が待ち受けているのか(21〜23節)、また、それは何を意味するのか(24〜28節)ということでもありました。
長老たち、祭司長たち、律法学者たちはユダヤ人の最高意思決定機関である「サンヘドリン」を構成していました(21節)。
ペテロも他の弟子たちもここでのイエス様の言葉をまるで聞いていないかのような印象を私たちは持ちます。彼らはイエス様のこれから受けられる苦しみと死については聞き取ったものの、復活の話のほうは耳に入らなかったようなのです。これと同じようなことは私たちにも起こりえます。神様の御言葉の約束の一部分しか聞き取ったり読み取ったりできない状態のことです。
「イエスは振り向いて、ペテロに言われた、
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。」
(「マタイによる福音書」16章23節、口語訳)
ここで「岩」(ペテロのこと)は「つまずきの石」となりました。この時のペテロ(ギリシア語で「岩」は「ペトラー」といい「ペテロ」の名前の語源になっています)は神様の御声ではなく、自分の心の声、実際にはサタンの声に耳を傾けてしまいました。だからこそ、イエス様はペテロに厳しい言葉を投げかけられたのです(23節)。
「サタン」はヘブライ語に由来する言葉であり、「敵対者」または「告発者」という意味です(「ヨブ記」1章6〜12節を参照してください)。
ペテロがここで道を踏み外したのは「自分がイエス様から特別扱いされている」と錯覚して傲慢になり自分を過大評価したことが原因ではないかと私(パシ・フヤネン)は考えています。信仰に関わる「霊的な傲慢さ」は教会におけるさまざまな堕落や問題の原因となることが多いとも言えます。
イエス様に従うことの代償 16章24〜28節
上述の出来事は「自己否定」とはどういう意味かを示す好例です。ペテロは自分自身の考えや希望を捨てて、イエス様における神様の御意思に従わなければなりませんでした。
「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」
(「マタイによる福音書」16章26節、口語訳)
神様は私たちに命を賜りました。イエス様だけが私たちに真の霊的・信仰的な命を賜ることができるのです。イエス様の贖罪の御業においてのみ、私たちは永遠の命をいただくことができます。それを放棄するのは愚かなことです。もしも私たちが神様の恵みを放棄するならば、私たちを贖い出す手段は他にはもう何も残っていないからです(26節)。
多くの人は「この世の祭壇」で自分の命を犠牲にしてしまってから、ようやく初めて26節のもつ重大な意味を理解するようになります。人々の間や国家間でのこの世における覇権争いは依然として終わる兆しがありません。この世の終わりが近づくにつれて、神様の敵対者サタンは人々から神様の御国をどうにかして奪い去ろうとますます力を注いできています。
私たちは自分がどのような状況からどのような場所に救い出されたのかを深く理解すべきです。
「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
(「マタイによる福音書」16章27〜28節、口語訳)
27節はイエス様の再臨についての最初の預言です。
28節は福音書の中でも難解な箇所の一つです。それは、イエス様の再臨がその世代の人々が生きている間に起こることを示唆しているようでもあります。実際にはそうはなりませんでしたが、初期の教会はイエス様の御言葉に深い敬意を払い、その難解さにもかかわらずこの箇所を福音書の中に記録し保存したのです。
イエス様の発言の意味が上述の一つの解釈だけであると考える必要はありません。その発言はマタイが次の箇所で述べている「変容の山で弟子たちの中の三人がイエス様の栄光を見ることができた」という出来事を示唆している可能性もあるからです。イエス様の再臨がごく近い将来に起こるのならば、今イエス様の御言葉を聞いている人々の中に再臨の時にもまだ生きている者もいると強調されているのはいささか奇妙に思えます。
イエス様は御自身の復活について、またサタンに対する勝利を明示なさった聖霊様が人々に注がれることについて語っておられるのかもしれません。しかしたとえそう考えたとしても、少なくとも何人かは「その時」にも生きていると強調されていることにはやはり問題が残ります。実際は、実に多くの弟子たちが復活されたイエス様の目撃者となったからです。
イエス様はここでエルサレム神殿が徹底的に破壊された西暦70年の出来事を予言しておられるという可能性もあります。それは旧約の時代が終わったことについての最後のしるしでした。それ以降、旧約に基づく犠牲の儀式はもはや行われなくなったのです。
今まで見てきたようにこれは解釈が難しい箇所です。しかし、イエス様の再臨の時期についてイエス様御自身の認識が間違っていたとみなす現代の一部の神学者たちの説明は安易過ぎます。