マタイによる福音書12章 御自分の権威と権力について教えるイエス様
安息日の主 12章1〜8節
「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」
(「マタイによる福音書」12章1節、口語訳)
「そのころ」という言葉は、福音書が書かれる以前にもイエス様の活動をめぐる伝承がキリスト教徒たちの礼拝で語られていたことに由来しています。おそらくマタイもこの箇所の出来事が前の章の出来事のすぐ後に起こったという意味合いで述べているのではないでしょう。
この箇所の出来事は5月の終わりか6月の初めの穀物の収穫期に起こりました。ユダヤ教の大きな祝祭の一つである七週の祭は(「出エジプト記」34章22節、「申命記」16章9〜10節)、キリスト教の聖霊降臨祭(ペンテコステ)と時期的に重なる春の収穫祭でした。
畑で麦の穂を食べることはまさにモーセの律法 (「申命記」23章26節(口語訳では25節))で許可されている行為であり、それには貧しい人々を助けるという目的がありました。ただし穀物は持ち去ってはいけないという条件が付いていました。
ファリサイ派が問題視したのは畑で麦の穂を食べること自体ではなく、イエス様の弟子たちが穀物を揉分けてきれいにしたことでした。その行為は安息日に行うことを禁止されている38種類の仕事の一つである「脱穀」とみなされうるからです。イエス様の弟子たちの行為のどのような点をファリサイ派が律法違反とみなして非難したのかを聖書本文のみから正しく把握するのは現代の多くの聖書の読者には容易ではありません。
イエス様はファリサイ派からの非難にお答えになるときにモーセの律法に反しているのにファリサイ派でさえ非難しようとしなかった旧約聖書における「ある出来事」を持ち出されました。
まず例えに挙げられているのはサウル王の怒りから逃れたダビデの行動です(4節)。ダビデとその部下たちは祭司だけが食べることを許されていた神殿の供えのために聖別されたパンを食べたのです(「サムエル記上」21章4〜7節)。それらのパンはちょうど安息日に新しいものと交換されたばかりのものでした。
職務上の理由から神殿の祭司たちは安息日に働かなければなりませんでしたが、それでも彼らは律法違反者とはみなされませんでした(5節)。特定の犠牲はまさしく安息日に捧げられなければならないものとされていました(「レビ記」24章8節、「民数記」28章9〜10節)。割礼も安息日に行われました(「ヨハネによる福音書」7章23節)。
「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』 とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。」
(「マタイによる福音書」12章7節、口語訳)
神様の御前で最も重要なのは外見的な清さではなく人の内奥にあるものである、とイエス様は言っておられます。7節には次の「ホセア書」からの引用が含まれています。
「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
(「ホセア書」6章6節、口語訳)
イエス様は敵対者を「攻撃」しておられます。「人の子は安息日の主である。」(8節)という宣言は、律法よりも偉大なお方、すなわち神様御自身だけが言ってよいことです。それと同様に、イエス様は神殿よりも偉大であるという6節の考えかたはイエス様が神様御自身でなければ成り立ちません。同時にそれは、神殿とその場所で犠牲を捧げる時代が間もなく終わり、イエス様がすべての人々の罪をすべて帳消しにするために御自分を完全な犠牲として捧げることになるという「しるし」でもありました。
4節の出来事は、イエス様こそが新しいダビデであられ、長い間その到来が待望されてきたダビデの子孫、旧約聖書に約束されたメシアであられるという真実に私たちの思いを導きます。
結局、これらすべての出来事はイエス様において「新しい信仰」が到来したことを意味しています。安息日規定とその遵守はユダヤ教において中心的な教えのひとつでしたし、それは今でも同じです。それゆえ、信仰の内容そのものを変えることなしには安息日規定を放棄することはできません。このことは後に使徒パウロが安息日と割礼をめぐって敵対者と戦わなければならなかったことにも表れています。
5節には「声を出して読む」という意味の言葉(ギリシア語で「アナギノースコー」という動詞のアオリスト形)があります。会堂(シナゴーグ)の礼拝では聖典が常に朗読されていましたが、古典古代では一人きりで聖典を読む場合にも朗読されました(「使徒言行録」8章27〜30節も参考になります)。
7節で、イエス様は弟子たちの無罪を宣言します。彼らが伝統的なユダヤ教の規則や律法学者によるモーセ律法の解釈に違反したことは彼らを罪に定めるものではありませんでした。新しい信仰が芽生えようとしていたのです(9章14〜17節も参照してください)。イエス様にとって律法は人間が神様に向かって修練するための「手段」でした。ところがファリサイ派にとっては律法が「自己目的」となっていたのです。
イエス様は「メシア」や「ダビデの子」という称号を御自分に対して適用されることを望まれませんでした。それらの名称は当時のユダヤ民族の政治的な解放者のイメージと非常に強く結びつけられていたからです。それゆえ、イエス様は次に引用する「ダニエル書」に登場する「人の子」という称号を御自分に対して用いられたのです(8節)。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
見よ、人の子のような者が、
天の雲に乗ってきて、
日の老いたる者のもとに来ると、
その前に導かれた。
彼に主権と光栄と国とを賜い、
諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
その主権は永遠の主権であって、
なくなることがなく、
その国は滅びることがない。」
(「ダニエル書」7章13〜14節、口語訳)。
安息日に病気を癒してもよいのか? 12章9〜14節
「イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。」
(「マタイによる福音書」12章9節、口語訳)
ここのギリシャ語本文は二つのやりかたで理解することができます。第一に、イエス様が前述のファリサイ派の会堂を訪れたときに安息日をめぐる新たな論争が生じた、と考えることができます。第二に、会堂(シナゴーグ)というユダヤ教を象徴する場所からキリスト教徒たちが追い出されたため、会堂がキリスト信仰者たちにとってもはや「私たちのシナゴーグ」ではなく「彼らのシナゴーグ」に過ぎないものとなってしまったという事実にマタイが言及していると考えることもできます。
「すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。」」
(「マタイによる福音書」12章10〜11節、口語訳)
「一匹の羊」という表現でイエス様はその羊の持ち主が直面した状況の困難さと悲惨さを強調しておられます。家族にとっての唯一の羊が死の危険にさらされていたからです。
ファリサイ派は安息日に生死に関わる状況にある人々を除いては助けることを認めていませんでした(10節)。その他の癒しの行為は安息日には禁じられていたのです。この箇所の「片手のなえた人」は長い間病気だったため、その病気を癒すのは一日かそれ以上待ってからでもかまわないはずでした(10節)。
安息日での労働を禁止するファリサイ派は安息日に困った状況に陥った動物に対して安息日の間は餌を与えるだけにして安息日が終わってから窮境から助け出してやるというやりかたを推奨していました。しかし、安息日にも動物を助けなければならないというのがイエス様の明快な考えかたです(11節)。宗教改革者マルティン・ルターは「キリスト信仰者としての愛と避けようがない必要に迫られた場合には安息日にも仕事を行ってもよい」と教えました。
「そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。」
(「マタイによる福音書」12章13節、口語訳)
その人にとってイエス様の命令を実行するのは不可能なはずでした(13節)。なえた手を伸ばすことができなかったからです。このことはイエス様の助けがあってこそ可能になったのです。この出来事は信仰の生まれる過程についての具体例を私たちに提示しています。人間に対する神様の働きかけがなければ、誰も信じるようにはならないのです。このことについてルターの「小教理問答」の信仰告白の説明も次のように教えています(以下、このハンドブック翻訳者・高木によるドイツ語版からの拙訳)。
第三条 聖化について
聖霊を、私は信じます。
また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
これは、どういうことですか?
答え。自分自身の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないことを、私は信じます。それに対して、聖霊様が地上のすべてのキリスト信仰者を召し集め、照らし、聖とし、イエス・キリストの御許において唯一の正しい信仰のうちに保ってくださるのと同じようにして、聖霊様は福音を通して私を召し上げ、その賜物をもって私を照らし、正しい信仰のうちに私を聖とし、保ってくださることを、私は信じます。キリスト信仰者たちの中において、聖霊様は、私とすべてのキリスト信仰者に対して、日々すべての罪を豊かに赦し、そして終わりの日に、私と死者全員をよみがえらせ、キリストを信じるすべての人々と並んで、私にも永遠の命を与えてくださいます。これは確かに本当のことです。
「パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。」
(「マタイによる福音書」12章14節、口語訳)
14節で、イエス様に敵対する人々の「イエスを殺したい」という願望が初めて明らかになります。
ファリサイ派は安息日における善行を禁止しました。ところが、人を殺す計画を立てることは禁じていなかったものと見受けられます(14節)。結局、ファリサイ派が関心を持っていたのは正義や神様の御意思ではなく自分たちの権力の維持だったのです。
苦しむ主の僕 「マタイによる福音書」12章15〜21節
敵対者たちはその策略をイエス様に対して隠しておくことはできませんでした(15節)。ここでイエス様は逃げたのではなく撤退なさったのです。今はまだ「最終決戦の時」ではなかったからです。しかし、いずれその時が必ず来ることになっていました。
8章4節と同じく12章16節でもイエス様は御自分が癒した人々に対して起きた奇跡について周囲に言いふらすことを禁じました。ユダヤ人たちが待望していたようなローマ帝国に勝利する「征服者としてのメシア」に御自分が関係づけられることをイエス様は望まれなかったのです。しかしこの禁止は、御自分がたんなる「癒しや奇跡を起こす者」とみなされるのをイエス様は望まれなかったということにも関係があるのかもしれません。御自分の伝道の働きをいずれ引き継げるように、イエス様は弟子たちに教えなければなりませんでした。
「見よ、わたしが選んだ僕、
わたしの心にかなう、愛する者。
わたしは彼にわたしの霊を授け、
そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
彼は争わず、叫ばず、
またその声を大路で聞く者はない。
彼が正義に勝ちを得させる時まで、
いためられた葦を折ることがなく、
煙っている燈心を消すこともない。
異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
(「マタイによる福音書」12章18〜21節、口語訳)
上掲の18〜21節は「イザヤ書」42章1〜4節からの引用です。これは「主の苦しむ僕」についての預言の一つです。イエス様は敵対者が滅ぶのを望まれず、謙虚に脇に退かれました。ここでのマタイの本文はヘブライ語旧約聖書の原文よりもギリシア語旧約聖書七十人訳(セプトゥアギンタ)に近いものですが、マタイ自身によるギリシア語訳である可能性もあります。
いずれイエス様の力がすべての人々に明らかにされる時が来ます。20 節の「彼が正義に勝ちを得させる時まで」という表現は世の終わりの時にどのような変化が起きるかを示唆しています。
「異邦人」(ギリシア語で「エトノス」)を救うための伝道という考えかたが18 節と21 節に合わせて2回出てきます。これもマタイ自身の考えたものではありません。マタイが旧約聖書の預言者の言葉をここで引用していることからもそれがわかります。異邦人の救いという考えかたはすでに旧約聖書の中に見出されるのです。さらに突き詰めて言えば、これは預言者自身の考えたものですらなく、「主はこう言われる」という預言の定型文にみられるように主なる神様御自身に由来するものなのです
イエス様には誰の力が働いているのか? 12章22〜32節
「そのとき、人々が悪霊につかれた盲人で口のきけない人を連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。」
(「マタイによる福音書」12章22節、口語訳)
22 節は、悪霊も病気を引き起こす可能性があることを示唆しています。とはいえ、すべての病気が悪霊のしるしであるという意味ではもちろんありません。
話す能力を得たその人はすぐに「何を話すべきか、また何を話してはいけないのか」について教えを受けました。
敵対者たちはイエス様が行われた奇跡自体を否定することができなかったので、起きてしまった奇跡を何らかのやりかたで批判し断罪する必要に迫られました。それで彼らは「イエスは神の敵であるサタンと同盟関係にある」と主張したのです(24節)。彼らは以前にも同じことを主張しています(9章34節)。それがどれほど常軌を逸した考えかたであったとしても、彼らはイエス様のなさった奇跡に対して自分たちに都合のよい何らかの説明付けをしなければならない状況に追い込まれていたのです。
たしかにすべての奇跡が神様の働きかけのしるしとはかぎりません。敵対者は神様の働きを真似することで人々を迷わせようともするからです。例えば次の「コリントの信徒への第二の手紙」の箇所で、使徒パウロはそれについて述べています。
「しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」11章14〜15節、口語訳)。
イエス様は反対者の考えかたがいかに非論理的で不可能なことか看破なさり(25〜26節)、さらに重要なことを次のように指摘なさいます。
「もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。」
(「マタイによる福音書」12章27〜29節、口語訳)
27節からもわかるように、当時のユダヤ社会には悪魔祓い師もいました(「使徒言行録」8章も参照してください)。
マタイは28節で初めて「神の国」(ギリシア語での基本形は「ヘー・バシレイアー・トゥー・テウー」)という表現を使っています。それは福音書全体の中で4回だけ使用されています(他の該当箇所は「マタイによる福音書」19章24節および21章31節および21章43節になります)。マタイは他の箇所では「天の国」(ギリシア語での基本形は「ヘー・バシレイアー・トゥー・ウーラノーン」)という表現を合わせて32回も用いています。
もしもサタンがかつて「自分のもの」として奪い取った人々を今手放さなければならなくなっているとするならば、まさにこれこそが神様の御国が到来した「しるし」なのです(28節)。サタンより強い者だけがサタンを倒すことができ(29節)、それができるのは活ける神様だけだからです。それゆえ、イエス様は必然的に神様と同じ側の存在、それも神様と「たんに似ている」だけではなく「まったく同質なる」お方(神様御自身)であるということになります。
「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである」。
(「マタイによる福音書」12章30節、口語訳)
今まで述べてきたことは30節にも関係しています。イエス様に従いたくない者は神様の御国から離れていくのです。人は御国の内側と外側に同時に存在することはできないからです。
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」
(「マタイによる福音書」12章31〜32節、口語訳)
ここでイエス様は深刻な警告を与えておられます。「神が働くところではサタンも働く」と主張し始める者たちは実のところ神様に反抗しており、不信仰の罪だけではなく冒涜の罪も犯しているのです。それらの罪が嵩じると、彼らは聖霊様も侮辱するようになるという危険が生じます。そうなってしまった者はもはやいかなる意味でも神様を待ち望まなくなります。そして、神様を待ち望んでいない人は自らの罪が赦されることも願わなくなるので、神様からの罪の赦しも自分に受け入れることもできなくなってしまいます。「誰もが天国に行ける」といった間違った主張はこの箇所でのイエス様の教えと全く乖離しています。このような主張は聖書に基づくものではなく、神様の恵みについての誤解によるものであり、教会の歴史においても異端の宣告を繰り返し受けた考えかたです。にもかかわらず、いつの時代にもこのような主張をする者たちが絶えず出現してきます。
「自分は聖霊様を侮っているのではないか」という不安を抱えている人たちの多くは、イエス様が31〜32節で罪の赦しをどれほど強調なさっているか、よくわかっていません。そのように自分に問いかける姿勢こそ、その人が決して聖霊様を侮ってはいないことの確かな証拠なのです。聖霊様の働きかけがなければ、人は罪を悔いることも神様を待ち望むことも決してできません。聖霊様を嘲笑する行為は、その結果として、神様を完全に無視するような「かたくなな心」を生じさせます。私たちが神様への信仰と待望を持てているのは私たちのうちにおける聖霊様の働きかけによるものなのです。
「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」
(「ローマの信徒への手紙」8章9〜11節、口語訳)。
心の思いは口に出る 「マタイによる福音書」12章33〜37節
この箇所は前の箇所に関連しており、やはりイエス様の敵対者たちについて述べています。彼らの言葉遣いは彼らの心の中の思いを明るみに出しています。
34節でイエス様は洗礼者ヨハネが使用した「まむしの子ら」(3章7節)という名称も用いておられます。イエス様の敵対者たちは毒牙を持っており、彼らの活動の「成果」がいかなるものかについてはすぐ前の箇所で扱いました。聖書ではサタンは蛇と関連付けられています(「創世記」3章14〜15節)
「善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。」
(「マタイによる福音書」12章35節、口語訳)
この35節と同様に、ルターは「善い行いが善い人を作るのではなく、善い人が善い行いをするのである」と教えました。イエス様は木とその果実についての譬で、それとまったく同じことを強調なさっています(33節)。それぞれの木はその種類に応じた果実を実らせるのです。
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」
(「マタイによる福音書」12章36節、口語訳)
36節の「無益な」はギリシア語で「アルゴン」(形容詞の中性形)といい「不活性な」という意味です。これは化学用語では一つの希ガスの元素名でもあります(原子番号18番)。「希ガス」は他の化学物質とほとんど反応しないガス(気体)のことです。アルゴンは望ましくない化学反応(例えば溶融金属が大気中の窒素や酸素と反応すること)が溶接中に起きるのを防ぐシールドガスとして使用されます。イエス様は、効果のない、真実ではない、根拠のない言葉の使用について私たちに警告なさっておられるのです。
「あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
(「マタイによる福音書」12章37節、口語訳)
37節は、人の口から出てくる言葉たちが信仰あるいは不信仰というその人の中にすでにあるものを明らかにするということに関連しています。
なお、「ヤコブの手紙」3章2〜12節は37節についての適切な説明として読むこともできます。
ヨナのしるし 「マタイによる福音書」12章38〜42節
「そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。」」
(「マタイによる福音書」12章38〜39節、口語訳)
イエス様がこれまでになさってきたすべてのことを踏まえると、さらに「しるし」が要求されているのは少し奇妙に思えます(38節)。しかし、ここではほかでもなく「天からのしるし」が求められているのです(16章1節も参照してください)。福音書にはイエス様が人々から「しるし」を求められた箇所が全部で6箇所あります。それらは「マタイによる福音書」では上記の2箇所に加えて24章3節があり、さらに「ルカによる福音書」11章16節、「ヨハネによる福音書」2章18節および6章30節にあります。
イエス様は「しるしを求めることは不信仰のしるしである」と明言しておられます(39節)。「不義な時代」はギリシア語原文では「ゲネア・モイカリス」と言い、「不貞の時代」という意味になります。この表現は神様とイスラエルの民の間に交わされた契約を「婚姻関係」に相当するものとみなしたユダヤ教の考えかたに関連しています。この婚姻の契約違反は最も悲惨な形で預言者ホセアの結婚に表れています(「ホセア書」1〜3章)。ここでイエス様はユダヤ人の指導者たちがその契約を破って神様との契約関係から脱退したと言っておられるのです。聖書の読者には、非常に滑らかで読みやすい文章を好むだけではなく、新約聖書の背景にある旧約聖書も詳しく学んでいこうとする心意気も是非もっていただきたいと思います。
「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。」
(「マタイによる福音書」12章40〜41節、口語訳)
神様は「ヨナのしるし」のみをお与えになる、とイエス様は言っておられます。それが何なのかについては次のような二つの理解の仕方があります。第一に、イエス様が死から三日目に復活なさることについての預言として、第二に、イエス様の説教として理解するやりかたです(40〜41節)。
「しるし」は持続する信仰を生み出しません。このことは「出エジプト記」でモーセがエジプトのファラオや賢者たちと繰り広げた奇跡の応酬の中で起きたさまざまな「しるし」のもたらした効果を見てもわかります。
イエス様を荒野で試みたときにサタンもイエス様から「しるし」を要求しました(4章1〜7節)。
ユダヤ人の暦とギリシア人の暦では24時間に満たない一日も場合によっては「丸一日」として計算されました。例えば上掲の箇所の「三日三晩」は金曜日(イエス様が十字架で死なれた日)、土曜日、日曜日(イエス様が復活された日)の三日間を意味しています。しかし、通常の24時間の暦で考えるとイエス様が墓の中におられたのは正味二日間弱になります。
41〜42節は、むしろ異邦人たちのほうがイエス様の時代のユダヤ人たちよりも神様の御業を信じやすかったことを示しています。「南の女王」(42節)がソロモン王をはるばる訪ねに来たことは「列王記上」10章1〜13節(「シバの女王」)に記されています。
埋められていく隙間 「マタイによる福音書」12章43〜45節
ユダヤ人たちは荒れ果てた場所を悪霊ども(「アザゼル」)の住処と考えていました(「レビ記」16章10節)。
人の内面が空っぽになると、それは遅かれ早かれ何かで満たされていきます。しかも多くの場合には以前よりもさらに劣悪なもので満たされてしまうのです。この点でジークムント・フロイトの流れを汲んだ精神分析や現代心理学は重大な間違いを犯しました。人の心理からたんに悪いものを取り除くだけで代わりに良いものが何も与えられないならば、人の心の病を根本的に解決することはできないのです。
残念ながら、フロイトの教えは西欧の諸教会の霊的なカウンセリング活動にも広範に取り入れられてしまっています。
現代の西欧諸国の諸教会は一般社会の現代的な価値基準に迎合することで外面的には以前よりも「健康」になってきているようにも見えます。しかし、実質的には悪化の一途を辿っているのです。この短い箇所はその理由について説明しています。キリスト教に基づく信仰生活の基盤である聖書の教えが人々に受け入れられなくなってくると、彼らの心の奥底はキリスト教信仰以外の何かに基づく偽りの安逸で満たされるようになるからです。
イエス様の肉親たち 12章46〜50節
マタイにはマルコの文章を省略する傾向がよくみられます。今回の箇所では、短縮の影響で「マタイ福音書」が描写している状況を理解するのが「マルコによる福音書」の該当箇所よりも難しくなっています。
イエス様の母親と兄弟たちはイエス様が正気を失ったと思い込んで迎えに来た、とマルコ(「マルコによる福音書」3章21節)は述べています。そして、これは母親や兄弟たちに対してイエス様が厳しい態度を取られたことについての説明にもなっています。イエス様は正気を失っていたわけではなく、神様から与えられた使命を果たしておられたのです。
この箇所の出来事は、どれほど親密な人間関係であろうとも、あなたと神様の間の関係への障壁となるべきではないことを私たちに思い出させてくれます。
49節の「弟子」は十二使徒よりも広い集団を指しています。福音書の他の箇所でこの言葉はもっと広範な弟子たちのグループについて使われています。
ヨセフはこの箇所の出来事では言及されていません。イエス様が公に宣教活動を展開なさった時の出来事でもヨセフについての記述は欠落しています。このことはイエス様の公の宣教が始まる前にヨセフがすでに死去していたという可能性を示唆します。当時の中近東地域では夫婦間の年齢差が非常に離れている場合もありました。13章55〜56節には、イエス様の兄弟の名前が挙げられており、イエス様の姉妹たちにも言及されています(「母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」)。