マタイによる福音書第5章 さいわいな人生を送るために
聖書の中で最も有名な講話
マタイはイエス様の講話を幾つも収集して福音書にまとめています。それらの中で最も有名なのは「山上の説教」すなわち5章から7章までの箇所です。しかし、重要な御言葉集は他にも多数あります。天国についての譬(13章)、論争(22章)、イエス様の敵対者たちへの「わざわい」の託宣(23章)、そして「世の終わり」についての教え(24〜25章)などです。
「山上の説教」はたんなる道徳と倫理の教訓であるとみなされる場合がよくあります。もちろんこの説教集には、神様の御心に従うため、また人生において神様の祝福を享受するために「人はどのように生きるべきか」についての指示も多数含まれています。それでも、この説教集はただの道徳論ではありません。そもそも人にはキリスト教も含めた宗教一般のことを「良い人生を送るためのシンプルな教え」とみなす傾向があります。しかし、聖書の教えはもっと現実を見据えたものです。聖書によれば、人は自らの生活態度を改善するだけでは神様の御前で耐えうる「十分な聖さ」を獲得することができません。私たちが救われるためにはそれ以上のものが必要なのです。それは、罪深い私たち人間に代わって成し遂げてくださったイエス様の贖いの御業です。
「山上の説教」とは「人はキリスト信仰者としてどのように生きるべきか」についての教えであるととらえることができます。そしてその際には、「キリスト信仰者の人生は常に聖書の教えに基づくべきものである」ということを自覚するのが大切になります。結局のところ、聖書の教えは倫理観や道徳論ばかりではなく、キリスト教の教義の内容に関しても重要なのです。
イエス様が第6章の終わりで教えておられること(6章25〜34節)をここで思い出しましょう。人生で最も大切なのは外面的なことではなく、なによりもまず神様の御国を求めることなのです。そのように生きようとするとき、神様は私たちが本当に必要としているものをすべて与えてくださるのです。
この箇所には、人々が宗教や人生に期待して求めていることと、人々に対する神様の御意思との間にある「緊張関係」とがはっきり浮き彫りになっています。それと同じことがイエス様の講話の最後でも明らかにされています。人々がイエス様の教えに驚愕したのは、イエス様がユダヤ人の律法教師たちとはまるで異なり、「権威ある者のように」教えられたからです(7章28〜29節)。
山上の説教には神様からの三つの要求と人間が必要とする三つのものが示されていると見ることができます。
神様からの三つの要求
1)律法学者やファリサイ派の義にまさる真の義(5章13〜20節)
2)律法に完全に従うこと(5章21〜48節)
3)人が自分に栄誉を求めるのをやめること(6章1〜18節)
人間が必要とする三つのこと
1)明日(将来)の心配事から解放されること(6章19〜34節)
2)隣り人をないがしろにする態度を改めること(7章1〜12節)
3)「にせ預言者」の異端に惑わされないこと(7章13〜23節)
「さいわい」なのは誰か 5章1〜12節
この箇所でイエス様の言われる「さいわい」は普通の意味での「幸せ」とは異なるものです。それは「祝福」と「幸福」の相違であるとも言えます。一般的に考えると、人は具体的な問題も困難もない状態にいるときに「人生は順調だ」というように幸福感を味わうものです。しかし、イエス様によって祝福され「さいわい」なる存在とみなされた人々の中には、人間的にみると決して楽でもなく羨ましいとも思えないような生活を送っている人たちがたくさん含まれています。「さいわいであること」とは「祝福されていること」であると言い換えてもよいのかもしれません。
マタイは5章1節でイエス様が山に登られ、8章1 節でそこから降りて来られたことを記しています。このことによってマタイが言おうとしていることは明らかです。「山上の説教」はイエス様が一度にその内容全部を話された講話を集めたものであり、イエス様が異なる時期に異なる場所で宣べ伝えた数々の講話の寄せ集めではないということです。ルカは、同様の内容を含むイエス様の講話(「ルカによる福音書」6章20〜49節)が宣べ伝えられた場所を「平地」(「ルカによる福音書」6章17節)に設定しています。そのため、それらの講話は「野外説教」と呼ばれることもあります。多くの聖書学者たちはこれら二つの説教が同じ説教であると考えており、ルカはそれを地理的に異なる場所に設定しているだけであると主張しています。しかし私(このガイドブックの著者パシ・フヤネン)にはイエス様が様々な状況や場所で同じ内容の教えを何度も繰り返して民衆に宣べ伝えなかったとはどうしても思えないのです。重要なことを一度しか語らないということがはたしてありえるでしょうか。ユダヤ教社会では物事を学ぶためにはそれを何度も繰り返して学ぶ必要があるとされていました。ユダヤ教の教師であるラビたちには独自の考えを一度も述べずに以前のラビたちの教えをそのまま繰り返して民衆に律法を教えることを誇りとする傾向さえありました。
「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 」
(「マタイによる福音書」5章1〜2節、口語訳)
権威ある教師たちは着座してから教え始めました(1節、「ルカによる福音書」4章20節と比較してください)。
「イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」(2節)という表現には厳粛な響きがあります。イエス様の教えが重要なものであり、イエス様は教師としても重要な存在であったことが強調されているのです。
「さいわい」(3節)はギリシア語で「マカリオス」といい、「状況に左右されないような喜び」と言い換えることもできると思われます。「ヨハネによる福音書」でイエス様は弟子たちに次のように言っておられます。
「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない」。
(「ヨハネによる福音書」16章22節、口語訳)。
「さいわいである」という託宣を含むイエス様の教えのうち前半の四つのものは「キリスト信仰者と神様との間の関係」についてであり、後半の四つのものは「キリスト信仰者と隣り人たちとの間の関係」についてのものです。
最初と最後の「さいわい」についての教えには、その「報酬」としては同じもの、すなわち「天の御国」が挙げられていますが、他の箇所ではいろいろと異なる「報酬」が挙げられています。
「さいわいである」という託宣によるイエス様の教えはキリスト信仰者全員の有している特徴を描いています。キリスト信仰者たちの中にはイエス様を信じているがゆえに他のキリスト信仰者たちよりも苦しみを多く受けなければならない人々もたしかに存在します。しかし、キリスト信仰者として私たちは自分の人生において「さいわいである」というイエス様の託宣の教えに出てくるすべての事柄に向き合う心構えができていなければなりません。キリスト信仰者にとって「さいわいであること」は今すでに真実になっているとも言えます。しかし、それがようやく完全に実現するのは天の御国においてなのです。
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである」。
(「マタイによる福音書」5章3節、口語訳)
最初に「さいわいである」と宣言されるのは「こころの貧しい人たち」です(3節)。彼らが神様の御前で頼れるものは神様以外には何もありません。他の人々の前だけでなく神様の御前でも富は人を頑なにしたり自己満足に浸らせたりする傾向があることについて旧約聖書で度々述べられています。例えば「箴言」の次の箇所です。
「わたしは二つのことをあなたに求めます、
わたしの死なないうちに、これをかなえてください。
うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
貧しくもなく、また富みもせず、
ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。
飽き足りて、あなたを知らないといい、
「主とはだれか」と言うことのないため、
また貧しくて盗みをし、
わたしの神の名を汚すことのないためです。」
(「箴言」30章7〜9節、口語訳)。
「貧しい人たち」はいかなる「自分のもの」にも頼ることができないので、神様とその救助に頼らなければ生きていけない状態にいます。
「天国」(3節)という表現には、そこに到着して一員に加えられるという意味も含まれています。「貧しい人たち」の唯一の安全な避難場所は神様でしたし、それは今でも同じであると言えます。例えば「ゼパニヤ書」3章12節には「わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。」と書かれています。
「「悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう」。」
(「マタイによる福音書」5章4節、口語訳)
第二に、「悲しんでいる人たちは、さいわいである」と宣言されています(4節)。その「悲しみ」は自分の罪や弱さによる悲しみであったり、外部からの事情のせいで引き起こされる悲しみであったりもするでしょう。一般的には彼ら「悲しんでいる人たち」も「この人生で辛い目にあっている人々」とみなされるでしょう。しかし、キリスト信仰者にとっては「この人生だけがすべてではない」のです!
「イザヤ書」(61章2節)は、来るべきメシアが「主の恵みの年と われわれの神の報復の日」に「すべての悲しむ者を慰め」るであろう、と預言しました。ゴルゴタの十字架で神様の御子が成し遂げてくださった「罪の赦し」以外に、罪がもたらす悲しみに対する慰めは何も存在しません。
また、使徒パウロは神様の御意思に添った悲しみは救いにつながることを次のように教えています。
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」7章10節、口語訳)。
第三に、「柔和な人たちは、さいわいである」とイエス様は宣言なさいます(5節)。
「柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。」
(「マタイによる福音書」5章5節、口語訳)
「柔和な」と訳されているギリシア語(単数形だと「プラウス」)の意味を正確に伝えるような日本語訳はなかなか難しく、様々な訳語が候補として浮かびます。例えば「物静かな」とか「理知的な」などです。イエス様は11章29節で御自分についても同じ単語を使っておられますが、その箇所も口語訳では優しいという意味で「柔和」と訳されています。「柔和な人たち」とは、自らの手で正義を行使しようとはせずに神様の救助を信頼する心構えができている人々のことです。例えば「詩篇」37篇11節には「しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。」と書かれています。ここでの「柔和な者」とはヘブライ語で「アニー」(「虐げられた、貧しい、柔和な」といった意味の言葉)の複数形になっています。人が「こうなるだろう」と一般的に予想しているのとは異なり、地を受け継ぐことになるのは「柔和な人たち」なのです。
「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう」。
(「マタイによる福音書」5章6節、口語訳)
第四に、「義に飢えかわいている人たちは、さいわい」なのです(6節)。それは、彼らの願いが叶えられ、必要な栄養が十分に与えられるからです。
「あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう」。
(「マタイによる福音書」5章7節、口語訳)
第五に、「あわれみ深い人たちは、さいわい」です(7節)。なぜなら、あわれみ深い「報酬」として彼らは罪の赦しをいただけることになるからです。ここでは一般的にもよく知られている「人生の法則」が実現します。人は自分で蒔いたものを自分自身で刈り取ることになるのです。
「心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう」。
(「マタイによる福音書」5章8節、口語訳)
第六に、「心の清い人たちは、さいわいである」と宣言されています(8節)。ユダヤ教では外面的な清さが追求されましたが、神様の御前ではそれだけでは十分な清さではありません。神様は人の心の奥底まで見抜いておられるからです。次の「詩篇」の箇所はそれについて述べています。
「主の山に登るべき者はだれか。
その聖所に立つべき者はだれか。
手が清く、心のいさぎよい者、
その魂がむなしい事に望みをかけない者、
偽って誓わない者こそ、その人である。
このような人は主から祝福をうけ、
その救の神から義をうける。
これこそ主を慕う者のやから、
ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。」
(「詩篇」24篇3〜6節、口語訳)。
神様は信仰によって私たちの心を清めてくださいます(「使徒言行録」15章9節)。心の清らかな人は神様にお目にかかることができるのです。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう」。
(「マタイによる福音書」5章9節、口語訳)
第七に「さいわい」とされたのは「平和をつくり出す人たち」です(9節)。イザヤはメシアを「平和の君」とも呼んでいます(「イザヤ書」9章5〜6節)。世界で最も有名なキリスト教関連の書籍の中の一冊として、福音伝道者ビリー・グラハムの「神様との平和」という本があります。神様との平和こそ、すべての人が何よりも必要としているものです。そして、この地上で実現する平和もまた、神様から人類への大切な贈り物なのです。
平和を実現する者の報酬は「神の子」という呼称をいただくことです。聖書では、名前は単なる文字の組み合わせではなく、その名の人の本質を表しているものであるということを覚えておきましょう。その名の通りに彼らは「神様の子どもたち」なのです。
「義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである」。
(「マタイによる福音書」5章10節、口語訳)
第八の「さいわい」なグループは自らの信仰のゆえに迫害を受けてきた人たちです(10節)。神様の御意思について理解を示さないこの世の人々は、御心に従って生きようとする信仰者たちを迫害し始めます。世界史にはこうした事例が多数あります。例えば「アモス書」5章12節には、「わたしは知る、あなたがたのとがは多く、あなたがたの罪は大きいからである。あなたがたは正しい者をしえたげ、まいないを取り、門で貧しい者を退ける。」と書かれています。しかも、宗教迫害は過去の歴史にすぎないものではなく、今日でも世界の様々な地域で現実に起きていることです。例えば一部のイスラム教の国々でキリスト教徒は最も厳しい迫害を受けています。
使徒パウロは迫害が「救いのしるし」であるとさえ言っています(「フィリピの信徒への手紙」1章27〜30節)。迫害はキリスト信仰者がイエス様に従うために負わなければならない代償のひとつなのです。
迫害された者たちへの「報酬」も天国であるとイエス様は言っておられます。
「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。
(「マタイによる福音書」5章11〜12節、口語訳)
この箇所でイエス様はすべての弟子たちに向けて語りかけておられます。イエス様は彼らに楽な道ではなく多くの困難があっても最終的には天国に導いていく道を約束してくださったのです(11〜12節)。
11節の「わたしのために」という言葉に注目してください。迫害や圧迫はそのすべてが神様の御意思に従おうとするためだけに起きるものではありません。私たち自身の行動や他の人々に対する態度に多くの落ち度があるゆえに迫害や圧迫が起きる場合もあるのです。
12節は、新約における神様の御民も旧約における敬虔な民や預言者と同じ立場や状況に置かれることになることを告げています(12節、「詩篇」44篇23節も参照してください)。
「報い」(12節)は人間自身による善行のもたらす「功績」などではなく、「神様の子どもであり続けたい」という信仰者の切なる願いへの「報償」であるとも言えるでしょう。
地の塩、世の光として 5章13〜16節
「「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」。」
(「マタイによる福音書」5章13節、口語訳)
「塩」(13節)には味付けと保存という二つの役割があります。キリスト信仰者は神様の御意思を「味付け」としてこの世にもたらすべきなのです。また、キリスト信仰者の使命は人類を罪による腐敗から守って「保存」することでもあります。塩は犠牲の祭儀(「レビ記」2章13節)や契約の締結の際にも使用されました。「塩の契約」については「歴代誌下」13章5節や、次に引用する「民数記」の記述があります。
「イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である」。
(「民数記」18章19節、口語訳)
死海から採取された塩は不純物を含んでいることが多かったため、そのままでは腐敗してしまう危険がありました。また当時、ゴミは路上に放置されました。投げ捨てられたものはそこを通る人々に踏みつけられたのです。
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない」。
(「マタイによる福音書」5章14節、口語訳)
「光」(14節)は物事の真の状態を明るみに出します。皆がそうなることを望むとは限りません。「暗闇の中に留まりたい」と願う人々も中には出てきます(「ヨハネによる福音書」1章9〜12節を参照してください)。
光の場合と同じようなことが塩についても言えます。開いた傷口に塩が入ると痛みを感じます。多くの人は自分の人生の歩みが欠点だらけであるという不都合な真実を神様の御前で宣告されることに関心を持ちたがりません。
神様が私たちに本当に望んでおられることを人々に思い出させようとしたせいで、私たちが彼らからの好意を失ったり支持を得られなくなったりしたとしても、キリスト信仰者として私たちは彼らが永遠の滅び(地獄)へと向かう旅を続けていくのを黙認することはできません。
高い山の上にある町は遠くからでもよく見えます(14節)。キリスト信仰者の使命は、天国への正しい道を照らし出す「灯台」のような存在になることです。また、それ自体は暗くて光を発しないものの太陽の光を反射して輝く「月」をもうひとつの比喩として考えることができるでしょう。キリスト信仰者も自分の光ではなくキリストの光を輝かせる存在であるべきなのです。
「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。
(「マタイによる福音書」5章15〜16節、口語訳)
当時の住居には部屋が一つしかないことが多く、また部屋全体を照らさなければならないランプも一つしかないことがしばしばありました(15節)。それゆえ、光がより広い範囲を照らせるようにランプを燭台の上に置く必要がありました。「枡」はランプを消すために使用されました。これは消灯したときに煙が部屋にこもらないようにするためです。それと同じように、キリスト信仰者は自分の信仰を隠したり押し殺したりするべきではなく、むしろすべての人々に信仰を明示することで彼らもイエス様とのつながりを見出せるようにするべきなのです(16節)。人々はキリスト信仰者の心の中の「信仰」を見ることはできませんが、信仰が生み出す「行い」を見ることはできるからです。
ここまでのことを簡単にまとめると、「塩」も「光」もこの世におけるキリスト信仰者の使命の表現になっています。「塩」はこの世を腐敗させる悪を防ぐことを、「光」は善を擁護し推進することをそれぞれ表しているのです。
律法を完全に遵守することだけが救いをもたらす 5章17〜20節
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」。
(「マタイによる福音書」5章17節、口語訳)
「律法や預言者」(17節)は当時の一般的な用法では旧約聖書全体を指していました。イエス様がこの世に来られたのは旧約の預言者たちのメシア預言を成就するためでした。しかしそれは、モーセの律法の要求する「犠牲」の最終目的である、全人類のすべての罪の完全な帳消しを実現するためでもあったのです。
イエス様はファリサイ派の律法の解釈に従うことを望まれませんでした。このことはとりわけ安息日規定の正しい遵守をめぐる論争において顕在化しました。その結果、「イエスは旧約聖書を否定している」と誤解する人々が増えかねない状況になりました。しかし、実際にイエス様が否定なさったのは「人間たち」(ファリサイ派や律法学者たち)が勝手に旧約聖書に追加した事項だけだったのです。それと同様に宗教改革者マルティン・ルターも人間たちが後から勝手に追加した事柄から元々の聖書の原文とその真意を探究するという問題と格闘しなければなりませんでした。
「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」。
(「マタイによる福音書」5章18節、口語訳)
「よく言っておく。」(18節)はギリシア語では「アーメン」であり、「まことに」とも訳せます。福音書で一般的によく用いられているこの言葉はイエス様の権能を明示しています。それは旧約の預言者の「主はこう言われる」や「主の言葉を聞きなさい」といった表現に対応するものです。イエス様は神様のすべての約束に対する「アーメン」であるとパウロも次のように言っています。
「なぜなら、神の約束はことごとく、彼において「しかり」となったからである。だから、わたしたちは、彼によって「アァメン」と唱えて、神に栄光を帰するのである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」1章20節、口語訳)。
前述の「マタイによる福音書」の箇所の「一点」はギリシア語原文では「イオータ」というギリシア語のアルファベットの文字の訳語です。このギリシア文字はヘブライ語のアルファベットの中で最小の文字であるヘブライ語の「ヨード」に対応しています。また「一画」はギリシア語原文では「ケライアー」(「小さい角」という意味)といい、文章を正しく仕上げるためにアルファベットに付加されたごく小さなアクセント記号のことです。これらの表現は律法がわずかな変更も加えられないままの状態で細部に至るまで非常に正確に有効であり続けるということを強調しています。
「ローマの信徒への手紙」10章4節には「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。」とあります。キリストは「律法の終わり」なのです。しかし、それは「律法が廃絶された」という意味ではなく、「私たちが永遠の命を得ることができるようにキリストが私たちのために律法を成就してくださった」ということです。「何にもまして神様を愛し自分自身のように隣り人を愛することを律法は私たちに教えている」という基本原則に集約できます(「マタイによる福音書」22章34〜40節を参照してください)。人生におけるこの基本的な真理は決して覆されることがありません。
「ことごとく全うされる」(18節)という表現は「世の終わり」を示唆しています。聖書はその冒頭の「創世記」1章で「世界の始まり」について語っていますが、それと同じように「世界の終わり」についても述べているのです。宇宙には始まりと終わりがあります。
「それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」。
(「マタイによる福音書」5章19節、口語訳)
私たちの誰ひとり、たとえそれが教会の最良の教師であろうとも、神様の律法すべてに完全に従うことはできません。だからといって、「誰ひとり律法を完全に成就することはできないのだから、律法を廃棄してもかまわない」などと教え始めることは許されないし、そうするべきでもないのです(19節)。
「牧師であっても他の人々と同じように罪深い存在であり、全面的に神様の律法に従うことはできないのだから、神様の律法に従うように人々に要求することはできないはずではないか」といった主張が今日ではしばしば聞かれます。それに対して、イエス様は「教会の教師たちが神様の律法に従ってよりよい生きかたをすることができるのならばそれに越したことはないが、たとえ彼らが最悪の生きかたをしていたとしてもそのことが神様の律法自体を無効にすることはできない」というように教えておられます。神様の律法の価値は「律法が守られるかどうか」に応じて変動するものではなく、「律法を授与したのは誰か」によって決定されるものだからです。
ファリサイ派は「律法の中には重要な戒めとそうではない戒めとがある」というような教えかたをしました。このことはファリサイ派に属するある律法学者が律法の中で最も重要な戒めについてイエス様に質問した出来事からもわかります(「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」(22章36節))。
全部で613個ある律法は「これこれのことをしてはいけない!」という365個の禁止と「これこれのことをしなさい!」という248個の命令という二つのグループに区分することができます。
「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」。
(「マタイによる福音書」5章20節、口語訳)
聖書の翻訳の中には、神様の意志に従うことと義とされることの間の関連性を強調することによってあたかも人がよい行いによって義とされるかのような誤解を与えかねないような翻訳もあります。しかし、ギリシア語本文はそれとはまったく異なるやりかたで理解できるように書かれています。この問題の核心は「私たちはどのように救われ義とされたいのか」ということです。おそらく今日のキリスト信仰者の多くはイエス様の時代の律法学者やファリサイ派とくらべて自分たちが律法にほとんど従えていないという現実を認めるほかないことでしょう。それでも、私たちは「イエス・キリストを信頼し信じているがゆえに私は救われている」と確信を持って言えるのです。
「律法学者やパリサイ人の義にまさって」いる「義」とは、量的な意味ではなく質的な意味で優れている義のことです。この義は「律法学者やパリサイ人の義」よりも深い義であるとも言えるかもしれません。
律法学者とファリサイ派の宗教性は外面的なものでした(6章2、5、7節にその例が挙げられています)。しかし、イエス様に従う者たちの信心深さは内面から滲み出てくるものでなければなりません。そして、この信仰は罰せられることへの恐れやその他の理由からではなく、神様の御意思を実現したいという切なる願いに基づくものでなければならないのです。
第五戒について 5章21〜26節
ここからは十戒のうちのいくつかの戒めについてのイエス様の教えを取り上げていくことにします。まず、イエス様は第五戒(「殺すな」)を解き明かされます。イエス様は旧約の戒めが今も有効であることを指摘し、さらに戒めに対して旧約よりも厳しい内容と新しい意味を付加なさいました。宗教改革者マルティン・ルターは教理問答書の戒めに関する説明文にそれと同じようなことを書き記しています。教理問答書は「この戒めはどういう意味ですか?」という質問への答えという形式で戒めの意味を解き明していきます。その際に、戒めが適用される範囲を旧約のモーセの律法よりも大幅に拡大しているのです。
「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」。
(「マタイによる福音書」5章21〜22節、口語訳)
21節の「と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 」という部分をギリシア語原文でみてみると「昔の人々にそう言われていたのを、あなたがたは聞いたことがある」となります。これは宗教にかかわる知識を次の世代へと伝えていくときのユダヤ人のやりかたをよく表しています。現在の紙の「書物」に該当する当時の「巻物」は非常に高価で稀少な物であり、文字通り「宝物」でした。このような制約もあってユダヤ教を次世代に教え伝えていくことは口頭によって行われたのです。 このことを踏まえると、現代ならば「(・・・)をあなたがたは読んだことがある」と意訳することもできそうです。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。」(22節)という表現でイエス様は旧約の戒めの意味やそれまでの一般的な理解のしかたを覆そうとされているのではなく、戒めを拡大し、深め、さらには研ぎ澄まそうとなさっているのです。その結果として、イエス様の講話を聴いて受け入れる者は誰であれ、たとえ他の人々からはどれほど良い評判を得ていた人だとしても、神様の御前では自分が律法の違反者にすぎないことを認めざるをえなくなるのです。
悪い行いは人間の心の中の態度から生じます。行いはその人の内側にあるものが表面化したものにすぎません。この箇所で殺すことだけではなく怒ることも断罪されているのはそのためです。怒りは鎮められなければ実行に移されてしまうものだからです(22節)。「裁判」(22節、ギリシア語で「クリーシス」))とは司法機関において最下級の地方裁判所で下された判決を意味しています。「議会」(ギリシア語で「シュネドリオン」)はそれよりも上級の裁判所のことであり、ユダヤ人指導者たちによる最高意思決定機関である最高議会のことを指しています(22節)。この箇所でいう「怒り」とは長期間にわたって持続する怒りの感情を指しており、怒っている間に何らかの理由からその怒りが増幅されてしまう場合も含まれています。怒りを完全に防ぐことは誰にもできませんが、それが長期にわたる怒りに変わってしまうのを防ぐことは不可能ではありません。例えば「エフェソの信徒への手紙」4章26節には「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」と書かれています。
「愚か者」(22節)というのは軽い悪口ではありますが、これは相手への軽蔑心から、しかもおそらくは相手への怒りから口をついて出てくる言葉です。このような言い回しはその隣り人との関係が良好である場合には使われないはずです。
「ばか者」(22節)という言いかたはもはや明確な侮辱です。この表現を使用する者は神様によって罰せられることになります。旧約聖書において狂気は神様を蔑ろにする邪悪さと関連付けられていることが多いです。例えば「詩篇」14篇1節には「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。」と書かれています。
「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」。
(「マタイによる福音書」5章23〜24節、口語訳)
他の人たちと仲良くできない人がどうして神様からの罪の赦しを自分がいただけることを期待できましょうか(23節)。もしもあなたが「自分は罪の赦しが必要である」と自覚しているなら、どうして「自分は隣り人に対してもその罪を赦そう」という心持ちにならないのでしょうか。神様との関係と隣り人との関係は互いに結びついているものなのです。このことは信仰の水平的次元(人と人との関係性)と垂直的次元(神様と人との関係性)というように十字架の形で図示して説明することもできます。
「あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない」。
(「マタイによる福音書」5章25〜26節、口語訳)
25節について、ギリシア語原文は原告と被告が一緒に道を進んで行く様子を描いていると解釈することができます。翻訳によってはこの二人が裁判所に向かう途中であるというように解釈しています。当時、それぞれの都市には7人の審判官からなる司法裁判所を設置するべきであるとされており、裁判の時には審判官たちが都市の門に集まりました。上記の箇所は裁判所へと向かう途中の二人について述べていると考えるのは自然な解釈です。二人の田舎の住人が裁判を受けるために裁判所のある都市へと旅している期間は裁判を経ずに彼らが互いに和解し合う最後の機会を提供しました。とはいえ、この「裁判所への道の途中」というように原文にはない解釈を付加することには常に危険がともないます。
怒りが長引いていくにつれて、和解するのはそれだけいっそう難しくなります。これと同じことは国家間の戦争の歴史にも見られます。場合によっては、どうして自分たちはいま戦争をしているのか、あるいは怒っているのか、その元々の原因すら分からなくなってしまうような状況が生じることさえあります。戦争の引き金を引いた最初の理由はすでに忘れ去られているのに、いわば「惰性」で不仲を続けなければならなくなっているのです。恨みはそれを抱く人間に対して酷い破滅をもたらします。復讐の連鎖を断ち切るのは大変なことです。復讐心を長く抱き続ければ続けるほど復讐をやめるのはよりいっそう困難になります。
第六戒について 5章27〜32節
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。 (「マタイによる福音書」5章27〜28節、口語訳)
性交を感情の伴わないたんなる行為とみなすのが現代流です。しかし、第六戒を守るか破るかは人の心の奥底にある感情によって決まります(28節)。それは結婚以外の性的関係(姦淫)に付随する感情のことです。神様は結婚生活において男性と女性が感情的な面でも互いに結ばれることを望んでおられます。
「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」。
(「マタイによる福音書」5章29〜30節、口語訳)
目(29節)と手(30節)自体には罪はありません。罪の原因は心の中に存在しています。私たちは天の御国への道の途上にあるすべての邪魔物を取り除かなければなりません。
右手(30節)のほうが左手よりも重要な手とみなされることが普通です。しかし、どのようなものであれ私たちから永遠の命を奪うほど貴重なものであってはならないのです。ユダヤ教では右手は左手よりも清い手であるとみなされていました。最善の選択肢(右手)でさえ悪いとみなされる場合、その人の置かれた状況は決して良好とは言えないことになります。
イエス様は私たちに「罪へと誘惑する目や手などがあたかも存在しないかのようにして生きていくべきであること」を教えてくださっている、と考えることもできるでしょう。目が私たちを罪に誘惑すると知っているのなら、私たちは目にその機会を与えずに、あたかも自分には目がないかのようにして生きるべきなのです。
「「また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている」。」
(「マタイによる福音書」5章31節、口語訳)
夫が簡単に妻を離縁できることがユダヤ教で一夫多妻制を促進した原因であると考えられています。夫は一度に多くの妻を持つことはできなかったものの、結婚と離婚を繰り返すことでいくらでも好きなだけの数の妻を持つことができたのです。モーセの律法は実際には離婚を許可してはいませんでした。しかし、夫が妻と離婚した場合の手続きについては具体的な指示を与えています(「申命記」24章1〜4節)。 モーセが与えた戒めには、夫婦が離婚した後で他の誰かと再婚してそれがやはり離婚に終わった場合に再び元々の相手とよりを戻すような事態になることを妨げるという目的がありました。「離婚した相手とは機会があればいつでも元通りに再婚できる」などと人々が考えて安易に離婚するのを防止しようとしたのです。
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである」。
(「マタイによる福音書」5章32節、口語訳)
イエス様は夫が離婚する正当な理由として結婚以外の性的関係(不貞、不倫)のみを認めておられます(32節、19章3〜12節も参照してください)。このことは上節の意味を明らかにします。それは「夫は妻を捨ててはならない」ということです。当時のユダヤ社会で夫に捨てられた妻には、1)父親の家に戻るか、2)新しい男性を見つけるか、3)売春婦になるか、の三つの選択肢しか事実上残されていなかったからです。しかし、妻がすでに不倫をしていた場合には夫が彼女を結婚外の性的関係から守る必要はなくなります。不倫のせいで彼らの結婚生活は事実上無効化されたからです。
イエス様の時代に「離縁状」(離婚証明書)を書く権利があったのは夫の側だけであったことをここで思い出しましょう。離婚するかどうかの決定は常に男性側が行ったのです。ユダヤ教の教師であるラビたちは人が離婚をするために必要とされる様々な「最低要件」を挙げています。ラビ・シャンマイはイエス様と同じ意見であり、姦淫(不倫)だけが離婚の十分な理由となるという立場をとりました。それに比して、ラビ・ヒレルはかなり緩い考えかたをとっており、妻の中に夫の気に入らない点がありさえすれば、それが何であれ十分な離婚の理由になるとしました。またラビ・アキバは、夫が現在の妻よりも美しい女性を見つけたのなら、それだけでも今の妻と離婚するのを許可する十分な根拠になると考えました。さらには、妻の作った食事が不味いというだけでも離婚するのに十分な理由とされたのです。しかも、離婚のために必要とされたのは二人の証人と離婚証明書だけでした。しかし、離婚証明書の本来の目的は女性の立場を保護することでした。離縁状は彼女にある種の法的地位を与える場合さえあったのです。
今日ではせっかく結婚しても離婚になってしまう人々も大勢います。他に、聖書によれば本来の結婚には含まれない「同性婚」のようなケースも増えてきています。
再婚についてルター派のキリスト教信仰は、実際には不倫しておらず無実であるのに結婚相手から見捨てられた側の者は再婚が許される、と伝統的に教えてきました。一方の側の悪い行いが無実な側から再婚する権利を奪うことはできないからです。
現実にはこれらの問題の扱いは非常にデリケートで難しい面があり、教会の規律よりもむしろ教会でのカウンセリングにかかわるケースのほうが多いです。
誓うことについて 5章33〜37節
モーセの律法は人に「誓うこと」を要求する場合がありました(例えば「民数記」5章16〜22節)。しかし、イエス様の時代のユダヤ教では今日の中近東においてと同様に「誓うこと」はごく一般的な行為となっていました。ほぼ何に関しても誓うことができたのです。多くの場合、誓いは神様の御名あるいは天や神殿の名においてなされたため、神様が誓いの「保証人」として引き合いに出されることがしばしば起こりました。神様が保証人になりたいとは決して思われなかったようなケースにおいても神様の御名による誓いが度々なされたのです。宗教改革者マルティン・ルターは「嘘には長い説明が必要だが、真実は端的に語られるものである」と言ったことがあります。
律法の教師たちは神様の御名において誓うことと他の誓いとを区別していました。神様の御名においてなされる誓いについては誓う者を束縛する力があるものとみなす一方で、他の誓いについては何らかの方法でいつでも解除可能なものとみなしたのです。しかし、人々は神殿や天の名において誓うことによってこの規則をすり抜けようとしました。このように誓うことで神様を保証人としつつも誓いを破る可能性を残したのです(23章16〜22節を参照してください)。当然のことながら、誓いに関連付けられたものの価値が高ければ高いほど、その誓いの重みもいっそう増しました。
なお、イエス様がここで話題にしているのは「誓うこと」についてであり、例えば法廷で証人や裁判官や兵士などに宣誓を要求する権利をそもそも国家や社会が有しているかどうかという問題ではありません。
復讐の放棄 5章38〜48節
「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」。
(「マタイによる福音書」5章38〜39節、口語訳)
38節の冒頭のような復讐法は他の宗教でも知られています。最も有名なのはおそらくハンムラビ法典でしょう。モーセの律法にもそれと同じ考えかたが含まれていることになります。「目には目を、歯には歯を」という刑罰の原則には、刑罰が犯罪に不釣り合いなほど厳しくなるのを防止するという目的がありました。すでにイエス様の時代には代償として金銭を支払うやりかたが一般化していました。
悪は悪によって克服されることはなく善によってのみ克服されるものであるということを人が心に留めておくのは実際には非常に困難です(39節)。
39節の「悪」はギリシア語では男性形なので、単なる抽象的な悪ではなく具体的に実在する個体の「悪」として大文字で書き記すこともできます。
人の右頬を手の甲で打つことは公の場でその人を侮辱する行為でした。それに対して、左頬を手のひらで打つことはより根深い悪意のこもった怒りの表現でした。
「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」。
(「マタイによる福音書」5章40節、口語訳)
上着(すなわち外套)を「質」として持ち主から取り上げることはモーセの律法では禁じられていました(「出エジプト記」22章26〜27節)。上着は貧しい人にとって悪天候から身を守るための最後の手段だったからです。イエス様はこの律法の要求を超えて行動をするようにと御自分に従う者たちに呼びかけておられます。人は自分の利益や権利だけに目を向けるのではなく、求められている以上のものを与える用意ができていなければならないのです。例えば「コリントの信徒への第二の手紙」6章10節はキリスト信仰者について「悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」と書いています。
「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」。」
(「マタイによる福音書」5章41節、口語訳)
「一マイル」(41節)はギリシア語で「ミリオン」といい、約1500メートルに相当します。当時のローマの兵士や役人は誰に対しても自分たちのための案内人、運び手、警備員になるように強制することができました。
ここでイエス様が言われたいのは「あきらめて相手の言いなりになりなさい」ということではなく、「神様がしかるべき時にすべての不正を償ってくださることを信頼しなさい」ということです。自分の権利を保持することに拘泥するのはあまり意味がありません。すべてをご覧になりすべての人に公正な裁きをいつか必ず下される神様がたしかに実在することをわかっている人は時宜に応じて自らの権利を手放すこともできるでしょう。
私的な復讐を禁じているイエス様の教えの対象は社会ではなくキリスト信仰者一人一人であることをわきまえておきましょう。社会の役割は正義を維持することにあります。その基盤になっているのは常に律法(法律)であり福音ではありません。
「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」。
(「マタイによる福音書」5章43節、口語訳)
43節でイエス様は当時の人々の一般的な考えかたを引用しておられます。神様は隣り人を愛することのみを命じられました。例えば「申命記」15章7〜8節には「あなたの神、主が賜わる地で、もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも、町の内におるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない。必ず彼に手を開いて、その必要とする物を貸し与え、乏しいのを補わなければならない。」とあります。ところが、ユダヤ人たちがその律法に「われわれは他の諸民族から距離をとって孤立するべきである」という考えかたを付け加えたときに「あなたの敵を憎みなさい!」という教えが事実上追加されることになったのです。しかし、イエス様はこのような「原則」を無効となさいます。このような付加事項は神様の御意思に沿ったものではなく人間の思いから出ているものだからです。神様は私たちに迫害する者を憎むのではなく迫害する者のために祈ることを望んでおられます。例えば「イザヤ書」53章12節は「それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」と書いています。
復讐の放棄は敵を愛することへの変化という意味します。
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか」。
(「マタイによる福音書」5章46節、口語訳)
取税人は血も涙もない暴利を貪る者とみなされていました(46節)。もし人が「自分にとって相手がどれだけ役に立つか」という基準だけで他人を扱うなら、それは神様から見ても他の人々から見ても何の報いももたらさないでしょう。もしも神様が人類をそのように扱われたのなら、世界は一日たりとも維持されなくなることでしょう。私たちが神様の大いなる善意に報いることは決してできません。
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。
(「マタイによる福音書」5章48節、口語訳)
「完全」であること(48節)は律法に照らして罪がないことや落ち度がないことではなく、神様の御霊がすべてにおいて私たちを導かれるようになることを意味しています。私たちキリスト信仰者は自分の利益や善を求めるのではなく、神様の御心と神様の御国の善を求めるのです。