マタイによる福音書10章 イエス様の弟子たちが初めて伝道に携わる期間
十二使徒 10章1〜4節
ルカはイエス様が使徒たちを選ぶ前に山で「夜を徹して」神様に祈られたと伝えています(「ルカによる福音書」6章12節)。私たちもまた重要な決断をするための準備を神様と一緒に行うべきなのです。
「そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。」 (「マタイによる福音書」10章1節、口語訳)
弟子たちは霊的な戦い、すなわち悪霊とその振るう悪の力とに対する戦いの只中に送り込まれました(1節)。福音を宣教する働きは常にサタンの悪の力との戦いです。これは常に覚えておくべき重要事項です。
私たちは十二使徒についてほとんど知りません。福音書記者たちは彼らの個人的な出来事を記録に残すことに興味を示さなかったのです。
なぜ使徒は十二人いたのでしょうか。彼らは旧約の十二人の族長たち、すなわちヤコブ(またの名をイスラエル)の十二人の息子に対応する存在でした。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダが死んだ後、彼の代わりにマッテヤが選ばれました(「使徒言行録」1章15〜26節)。しかしその後、使徒のグループは補充されなくなりました。たしかにパウロは「使徒」と呼ばれていましたが、自分が十二使徒の一人であると主張したことはありません。
マタイは「使徒」という言葉を一度だけこの箇所で使用していますが(2節)、通常は「弟子たち」あるいは「十二人」について述べています。
「使徒」(2節)とは、この世的な意味では自分を派遣した主人を代表する権限を与えられた使者のことでした。イエス様によって選ばれた使徒たちもたしかにそのような人々ではありました。彼らはイエス様とその権威を代表していたからです。1節での「呼び寄せて」と「お授けになった」という言い回しに注目してください。また40節の「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」というイエス様の御言葉も参考になります。
ペテロの名前が使徒として一番目に挙げられています(2節)。彼は最初から使徒たちの指導者的存在であったようです。
ここでのリストで使徒は二人ずつ表示されています。おそらく彼らはそれぞれ二人組で福音を宣べ伝えに旅に出かけたのでしょう(「マルコによる福音書」6章7節)。
ピリポ (3節)はディアコニア担当者ピリポ(「使徒言行録」6章5節)とまったく同じ名前です。この名前はギリシア語では「馬を愛好する者」または「馬の友」を意味しています。
バルトロマイ(3節)はナタナエル(「ヨハネによる福音書」1章45〜51節)と同じです。この名前は「トルマイの息子」を意味します。
トマス(3節)は「デドモと呼ばれているトマス」(「ヨハネによる福音書」21章2節)と同じで「双子」を意味します。
この箇所の十二使徒のリストで使徒の職業まで記されているのはマタイの「取税人」だけです(3節)。他の三つの使徒のリスト(「マルコによる福音書」3章16〜19節、「ルカによる福音書」6章14〜16節、「使徒言行録」1章13節)はすべて同じく「マタイ」という人物を挙げています。とはいえ、マルコとルカの使徒のリストではマタイが取税人のレビであったとされています(「マルコによる福音書」2章13〜17節(「アルパヨの子レビが収税所にすわっている」)、「ルカによる福音書」5章27〜32節(「レビという名の取税人」))。
タダイ(3節)はいくつかの写本では「レッバイオス」という名前で出てきます。彼は「ヤコブの子ユダ」とも呼ばれていますが(「ルカによる福音書」6章16節)、イスカリオテのユダがイエス様を裏切る事件を起こした後、このイスカリオテのユダと区別するために「タダイ」と呼ばれるようになったのだと思われます。例えば「ヨハネによる福音書」14章22節には「イスカリオテでない方のユダ」と書かれています。
「熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。」
(「マタイによる福音書」10章4節、口語訳)
4節で「熱心党」はギリシア語では「カナナイオス」といい、それに対応すると思われるヘブライ語「カンナー」は「妬む」という意味をもっています。このシモンはルカでは「熱心党と呼ばれたシモン」と呼ばれており、そこでの「熱心党」という単語はギリシア語で「ゼーローテース」といいます(「ルカによる福音書」6章15節)。その複数形「ゼーロータイ」(熱心党)とは、征服者であるローマ人たちを暴力的手段に訴えてイスラエルから追い出しユダヤ人たちの自由と独立を取り戻すことを目的とする戦闘員の集団のことでした。
「イスカリオテ」という言葉(4節)の由来は明確にはわかっていません。それは「ケリオトの男」という意味である可能性があります(「ヨシュア記」15章25節を参照してください)。もしそうであるならば、このユダはイエス様の弟子たちの中でただひとり南のユダヤ地方出身の者であったことになります。これとは別の説明として、「イスカリオテ」が「殺人者」を意味するラテン語「シカリオット」が変形した言葉であるとみなすものもあります。この場合、イエス様の十二弟子の中にユダヤ人たちの民族的な自由と独立のために戦う闘士が二人もいたことになります。
伝道旅行をする際の注意事項 10章5〜15節
神様の御国の働きは神様から与えられた指示に従って行われなければなりません(5節)。
この箇所の伝道旅行は特別なケースでした(5節と9〜10節を比較してください)。弟子たちはまだ異邦人の只中へ入って行く準備ができていませんでした。「使徒言行録」が記しているように、異邦人伝道はイエス様の復活後も彼らにはやはり困難な仕事でした。まだこの箇所の段階では、福音を理解して信じるための最良の基盤がすでに整っている場所、すなわち旧約の民であるユダヤ人たちの只中において伝道する時期だったのです。
イスラエルは「失われた羊」のような状態に陥っていました(6節)。その指導者たちが真の羊飼いではなく、逆に人々を迷わせていたからです。
弟子たちの伝えるべきメッセージ(7節)は洗礼者ヨハネ(3章2節)やイエス様(4章17節)のメッセージと同じものでした。それは、イエス様を通して天の御国が近づいてきたということです。
「病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」
(「マタイによる福音書」10章8節、口語訳)
イエス様の弟子たちが伝道旅行で奇跡を行うのは(8節)、彼らが神様から正式な許可をいただいた上で伝道するよう派遣されたことを正式に証明するためでした。例えばパウロは「コリントの信徒への第二の手紙」12章12節で、「わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。」と書いています。福音書は弟子たちが死者をよみがえらせたとは述べていません。それに対して、「使徒言行録」はペテロ(「使徒言行録」9章36〜41節)とパウロ(「使徒言行録」20章7〜12節)が死者をよみがえらせた出来事について記録しています。
「財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。」
(「マタイによる福音書」10章9〜12節、口語訳)
この伝道の旅は「試験」でもありました。神様を信頼して自分の全人生を神様に委ねる勇気があるかどうか、弟子たちは試されたのです(9〜10節)。福音を宣べ伝えたり奇跡を行ったりすることへの対価として報酬を受け取ることは行われませんでした。恵みは「無料のもの」だからです(8節)。そうであっても、恵み深き神様に対して感謝する心をもった人たちを通して福音の宣教者たちにも生活の糧がもたらされることになったものと思われます(10節)。
弟子たちは「どの町、どの村にはいっても、」家から家へと訪ね歩くようなことはしませんでした(11節)。そのようなことをすれば、人々の間に妬みと間違った競争意識を引き起こすだけでしょう。パウロもイエス様の弟子たちと同じやりかたを採用しました(「使徒言行録」18章2〜3節)。このようにして福音の働きと宣教のための「拠点」が形成されていったのです。最初期のキリスト教徒たちは個人の家で集会をもちました。教会が建てられるようになったのはキリスト教がローマの国教とされた西暦4世紀に入ってからです。
ある家とその住民たちがイエス様の弟子たちの福音宣教の基点となるのにふさわしいかどうか(11節)は挨拶(12節)との関連で明らかにされました。今もそうですが、ユダヤ人の挨拶は「シャローム」(「平和」という意味のヘブライ語)でした(12節)。
「もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。」
(「マタイによる福音書」10章14節、口語訳)
足のちりを払い落とす行為(14節)は使徒たちがそれらの人々とは(神様による最後の裁きの時にも)共通点を何も持っていないことについての「しるし」でした。それは「自分たちはいったい誰を拒絶したのか」を人々に考えさせるための「しるし」でもありました。ユダヤ人たちは異邦人の居住地域から「自分たちの土地」に移住したときも、この節と同じように足のちりを払い落としました。ユダヤ人たちは異邦人地域から足のちりさえ携えて行きたくはなかったのです。
キリスト信仰者は自ら進んで迫害されることを望むべきではありません(14節)。福音がある地域で受け入れられない場合、それは神様がその地域住民に福音を受け入れるための心の準備をなさらなかったという意味になります。 人が福音を受け入れることは常に神様の奇跡なのであり、私たち人間には誰かに福音を受け入れるように強制する力はありません。これは昔も今も「効率」の問題でもあります。働き人が少なすぎる場合には(9章37〜38節)、福音伝道の働きが捗っているところにこそ働き人たちを投入していかなければなりません。こうすることでさらに新しい働き人たちを獲得していくことができるようになります。しかし「神様はふさわしい時に福音を受け入れる心を住民に与えてくださる」と信じつつ、「その地域での宣教活動をいつまで行い続けていくべきか」あるいは「宣教活動の今後の展開のためにあえて別の地域に移動していくリスクをどのタイミングでとるべきか」といった問題について正しい判断を下すのは常に非常に難しい問題です。
「あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。」
(「マタイによる福音書」10章15節、口語訳)
旧約聖書においてソドムとゴモラ(15節)は人間たちがその邪悪さのゆえに神様を拒絶してしまう極端な例になっています(「創世記」18章16節〜19章30節)。ところが、福音を否定して拒絶することは律法を否定する場合よりもさらに厳しい裁きを招くことになり、重大な責任を自ら背負うことになるのです(「伝道の書」1章18節も参照してください)。
「楽な道」は約束されていない 10章16〜31節
「信じるようになれば、あなたの抱えている問題はすべて解決されて人生は楽園みたいになるよ」といった甘い約束の言葉で福音を信じるように勧誘を受けるケースも時おり見られます。しかし、イエス様はそのような約束を与えておられません。それどころかむしろ、不信仰な世界の只中で生きている人が福音を信じるということがいかなる困難をもたらすか、一切の虚飾を廃して説明してくださったのです。
「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」
(「マタイによる福音書」10章16節、口語訳)
羊飼いの仕事は羊を獣から守ることでした(16節)。神様の敵対者が思う存分「神様の側にいる人々(キリスト信仰者たち)」を迫害し放題であるかのように見える局面が現実ではしばしばあります。しかし、イエス様は「御自分のものたち」を大切に守っておられるのです(29〜31節を参照してください)。
素直さに欠けた小賢しさは人の心を頑なにしてしまいます(16節)。「素直」とは無批判に何でも信じてしまう単純さのことではなく、真心から真理に従う生きかたを表しています。
「人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。」
(「マタイによる福音書」10章17節、口語訳)
17節の「衆議所」(ギリシア語で「シュネドリオン」の複数形)はユダヤ教において最も低い位の司法の場である会堂(ギリシア語で「シュナゴーゲー」の複数形)の評議会を指しています。
通常の場合、会堂(シナゴーグ)(17節)はキリスト教が公の場に登場する以前に「ユダヤ教信仰復興運動」を推進したファリサイ派に主導されていました。一般的に新しい運動が突然始まって急速な広がりを見せるとき、古い運動の支持者たちから受け入れられない場合がしばしばあります。これと同じようなことが教会の歴史の中では何度も繰り返されてきました。宗教改革者マルティン・ルターは「教会は常に改革されていかなければならないし、ある種の改革がその最終的な段階になると考えるべきではない」と教えています。
キリスト信仰者たちはイエス様の復活の出来事の後まもなくユダヤ教の会堂から距離を置かれるようになりました(17節、「ヨハネによる福音書」16章1〜4節節)。西暦90年代になると、キリスト教徒が会堂に所属することがまったくできなくなってしまいました。会堂の会員になることを希望する者にはイエス様を呪う祈りを朗誦することが義務付けられたからです。これによりユダヤ教とキリスト教は最終的に互いに分離することになりましたが、それは避けようがないことでもありました(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節も参照してください)。
「またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。」
(「マタイによる福音書」10章18節、口語訳)
「彼らと異邦人」というようにユダヤ人たちは世界を彼ら自身と異邦人とに二分して考えていました(「ガラテアの信徒への手紙」2章15節も参照してください)。ここで「異邦人」と訳されているギリシア語は「エトノス」の複数形であり、「諸国民」という意味も持っています。ユダヤ教の立場からするとユダヤ人以外の「諸国民」はすべて一様に「異邦人」扱いになるのです。
イエス様が言われるように、キリスト信仰者たちは裁きを受けるために支配者たちの面前に連行されていき、裁きの場において世の支配者たちにも信仰の証をしなければならなくなります(18節)。例えばパウロもアグリッパ王と総督フェストの前でまさしくそのような証を行なっています(「使徒言行録」26章24〜29節)。
「彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。」
(「マタイによる福音書」10章19〜20節、口語訳)
イエス様は聖霊様を「御自分のものたち」(キリスト信仰者たち)の教師、助け手として送ってくださることを約束してくださいました(19〜20節、「ヨハネによる福音書」14章15〜31節、「使徒言行録」4章8〜12節)。「何をどう言うべきか、その内容のすべては聖霊様から授けられる」という約束が実現する場は、特にこの箇所では通常のように礼拝において御言葉の解き明かしをする説教壇ではなく、裁判の行われる法廷になっています。この点に注目しましょう。そのような裁きの場に引き出された場合にも、キリスト信仰者は自らの信仰を公に宣言し証する心の準備を日頃から整えておかなければなりません。
キリスト信仰者にとって最も困難なことの一つは、最も近しいはずの自分の家族が「自分がキリストを信じていること」に反対しているという事実を認めることです(21節)。教会の歴史にはこのような例が非常にたくさんあります。
「またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」
(「マタイによる福音書」10章22節、口語訳)
22節の「すべての」とはユダヤ的な表現であり、「多くの」という意味で用いられています。このことからも分かるように、ユダヤ人の中にもイエス様を信じる人々が少数ながらも存在しました。迫害を受けたことがきっかけで逆に教会が成長するという現象は歴史を通じ今に至るまでしばしば起きてきたことです。1949年に共産主義者たちが中国での福音伝道活動を禁止したとき、中国国内には約50万人のキリスト教徒がいました。そして1990年代に中国政府が国内での福音伝道活動を再び認めるようになったとき、中国国内には約3000万人ものキリスト教徒がいたと推定されています。これは迫害前に比べると60倍に相当する人数です。これと同じ時期に教会がこれほど急速に成長した場所がどこか他にあったでしょうか。
私たちキリスト信仰者の最終目標は常に明確でなければなりません。それは天の御国と救いです(22節)。
「一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。」
(「マタイによる福音書」10章23節、口語訳)
迫害を受けることを自ら率先して求めるべきではありません(23節)。この聖句はどこか謎めいています。とはいえ、使徒たちの時代には迫害によってユダヤ人たちの間での福音の宣教が中断されたことをこの聖句は示唆しているとも考えられます。パウロの預言(「ローマの信徒への手紙」9〜11章)によれば、世の終わりには、キリストの再臨の起ころうとしているまさに直前にユダヤ人たちの間で信仰覚醒運動が起こるとされています。
「弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。」
(「マタイによる福音書」10章24〜25節、口語訳)
信仰のゆえに困難に陥ったときにキリスト信仰者は常にキリストの苦しみを思い出すべきです(24〜25節)。キリストは私たちの救いのために人間が自分の救いのために支払わなければならないよりもはるかに高い代償を払ってくださったのです。
25節の「ベルゼブル」は悪霊どもの長であると考えられていたカナン人の偶像神でした(「列王記下」1章2節)。マタイはイエス様に向けられたこれらの告発について後に12章で述べることになります(12章22〜32節)。このことは福音書記者たちが必ずしもすべての出来事を時系列通りに述べてはいないことを私たちに思い出させます。その一方で、同じような告発が一度ならず何度も繰り返してイエス様に向けられたことも覚えておくべきでしょう(9章34節も参照してください)。
「ベル」はヘブライ語の「バアル」に対応する言葉で「主人」という意味をもっています。「ゼブル」はヘブライ語で「家」や「住居」という意味があります。また、「ゼブル」の代わりに「ハエ」を意味する「ゼブブ」に対応させる解釈もあります。
「だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」
(「マタイによる福音書」10章26〜28節、口語訳)
悪を行使する人間の力は結局のところ限定的なものです(28節)。それゆえ、悪事を行う人間の力にはおびえるべきではありません(26節)。悪はキリスト信仰者のからだを殺すことはできますが、キリスト信仰者から永遠の命を奪い去ることはできないのです。
屋根の上からだと声や音が周囲によく響き渡ります(27節)。福音は人々から隠されておくべきものではありません(5章14〜16節)。
使徒たちの中で殉教せずにすんだのはヨハネだけでした(28節)。使徒たちは死に直面しても最後までイエス様への忠実を貫いたのです。
「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」
(「マタイによる福音書」10章29節、口語訳)
二羽のすずめは一アサリオンで買うことができ(29節)、五羽のすずめは二アサリオンで買うことができました(「ルカによる福音書」12章6節)。神様はそのような「ただ同然の」すずめのことさえもよくご存知なのです。そして、すずめが神様から知られることのないまま地面に落ちることもありません。
血と汗と涙 10章32〜42節
この箇所の聖句を読むときには、イエス様のことを三度も「知らない」と言って否定したペテロが(26章69〜75節)その罪を赦されて主の使徒になったことを思い出すとよいでしょう。
「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」
(「マタイによる福音書」10章32〜33節、口語訳)
信仰告白の反対は信仰否認です。実のところ、32 節の「受けいれる」にはギリシア語で「一致した内容を話す」という意味の「ホモロゲオー」という動詞が用いられています。
イエス様が約束なさった平和(「ヨハネによる福音書」14章27節)とは、内なる平和、救いにあずかっているという自覚、そして永遠の命を意味しています。この世の人生では信仰者の置かれている状況が普通の意味での平和からは遠くかけ離れている場合があります。イエス様は旧約聖書の預言する「平和の君」です(例えば「イザヤ書」9章5節(口語訳では6節)および11章1〜9節)。とはいえ、イエス様のもたらす平和はこの世が期待するような平和ではありません。
イエス様とイエス様への信仰は家族内での分裂を引き起こす場合もあり、全世界も真二つに分けてしまいます(34〜36節)。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
(「マタイによる福音書」10章37〜39節、口語訳)
イエス様を愛する正しいやりかたはたったひとつだけです。それはイエス様を何よりもまして愛することです(37〜39節、「ルカによる福音書」18章18〜27節も参照してください)。これらの聖句は私たちに「人生で最も大切なのは何か」と問いかけています。
「十字架」(38節)は死のしるしでした。この箇所の時点ではまだ「十字架」は未来の出来事であり、ちょうどイエス様はゴルゴタへと向かう旅の途上にありました。私たちは日々この世に対して死に、イエス様に従って行かなければなりません(「ルカによる福音書」9章23〜24節)。「十字架を背負う」とはイエス様に結びつき続けることです。とはいえ、私たちが人生で遭遇する困難の全部が聖書の言う意味での「私たちの十字架」であるとは限りません。
命はさまざまな形で失われてしまう可能性があります。しかし、命を再び見出す正しいやりかたはただ一つです。それはイエス様を信じることです(39節)。
「あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。」
(「マタイによる福音書」10章40節、口語訳)
キリスト信仰者は「キリストの代理人」です。この意味で、キリスト信仰者の「信仰告白の声」を聴く者は神様の御声を聴いていることになります(40節、「ルカによる福音書」10章16節も参照してください)。
「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。」
(「マタイによる福音書」10章41節、口語訳)
受けいれること(41節)は、与える者と「同じ信仰」と「同じ目標」を自分に受け入れる、というしるしでもあります。これはまた、神様の御国の働きにおいてさまざまな人々が異なる役割を受け持っていることも思い起こさせます。例えば実際に宣教活動を行う人もいれば、その人を陰で支える人もいます。
「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
(「マタイによる福音書」10章42節、口語訳)
イスラエルのような暑い国では、「冷たい水一杯」が大いなる友情や相手への敬意のしるしとなります(42節、また25章31〜46節も参照してください)。