マタイによる福音書19章 エルサレムへの旅におけるイエス様の重要な教え
ここでイエス様はガリラヤを後にし、エルサレムとユダヤへと向かう旅を始められます。この旅のルカによる描写は長大なものになっています(「ルカによる福音書」9章51節〜19章27節)。イエス様は何度も御自分の受ける苦しみについてこれまでも語ってこられたのに、弟子たちはエルサレムでどのようなことがイエス様を待ち受けているか、未だに理解できていませんでした(20章17〜19節)。
結婚と離婚について 19章1〜12節
この箇所の冒頭にはマタイの用いる典型的な表現が含まれており、これによって彼はイエス様の長い講話の箇所が今ここで終了したことを示しています(7章28節、11章1節、13章53節、26章1節を参照してください)。
「イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。」
(「マタイによる福音書」19章1節、口語訳)
イエス様は当時の通常の通行路であったヨルダン川の東側を進んで行かれました(1節)。サマリア人はユダヤ人を嫌っていたため、人々がガリラヤからヨルダン川の西側にあるサマリアを経由してユダヤへ旅するときには諍いが起きることが頻繁にありました(「ルカによる福音書」9章51〜53節を参照してください)。
この旅の間もイエス様は教えと癒しの働きを続けられました(2節)。ユダヤ教では「癒し」には宗教的な意味付けもされており、身体に障害のある人や律法的な意味で汚れている人は聖所に入ることが許されませんでした(「レビ記」21章16〜24節)。イエス様は彼らを癒すことによって彼らにも過越祭のときに神殿の祭儀に参加する機会をお与えになったのです。
「さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。」
(「マタイによる福音書」19章3節、口語訳)
イエス様はすでに山上の説教(5章27〜32節)で結婚と離婚について教えておられます。おそらくイエス様の反対者たちはこの問題に関するイエス様の教えの内容をすでによく知っていたことでしょう。
離婚はユダヤ人社会では難しい問題でした。「離婚はどのような場合に可能なのか」という論点をめぐってラビたちの立場は互いに大きく異なっていました。最も厳しい立場をとるラビ(例えばラビ・シャンマイ)はイエス様と同様の意見を持っていました。すなわち、不貞だけが離婚する正当な理由として認められると主張したのです。その一方で、より自由な解釈をとる立場のラビたちは、妻が食べ物を焦がした場合や夫がより美しい妻を見つけた場合など、ほぼどのような理由であっても離婚を容認する立場をとりました。極端にリベラルなラビたちによれば、男性は自分が離婚する決断についてどのような形であれまったく正当化する必要さえありませんでした。夫が妻に「離婚したい」と告げるだけで十分だとされたのです。
結局のところ、これは「律法」(ヘブライ語で「トーラー」)に分類される旧約聖書の最初の五つの文書の文言の解釈をめぐる問題でした。「申命記」24章1〜5節で、モーセは「離縁状」(離婚証明書)を与えることを述べています。その文脈の中でモーセは、もし夫が妻に「恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、」すなわち何か不快な点があることに気づいたら、と書いています。とはいえ、夫から見て妻が望ましくない要件を満たしているとみなされる「十分な理由」とはいったいどのようなものなのでしょうか。
「離婚」が夫の権利に属する事柄であったことは注目に値します。やや単純化して言えば、妻は夫の所有物であり、夫はこの「所有物」に対して何でもやりたいことができたということです。こうした状況を踏まえた上でモーセは「離縁状」(離婚証明書)を規定しました(7節)。「離縁状」(離婚証明書)は夫に捨てられた妻に何らかの保護をもたらすものではあったからです。「離縁状」のおかげで彼女は売春婦にはならずに他の男性と再婚できる場合もありました。現代とは異なり当時の社会では女性が有給の仕事で自活する可能性はほとんどありませんでした。
しかし、聖書は結婚を夫の視点からのみ見ているわけではありません。例えば「申命記」24章5節には夫の妻に対する義務についても述べられています(「人が新たに妻をめとった時は、戦争に出してはならない。また何の務もこれに負わせてはならない。その人は一年の間、束縛なく家にいて、そのめとった妻を慰めなければならない。」)。聖書は夫婦を一方が他方より上位にくる「上下関係」としてではなく、「一体」とみなしています。
「イエスは答えて言われた、
「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。」
(「マタイによる福音書」19章4〜6節、口語訳)
イエス様は結婚が神様によって定められた「創造の秩序」に関わるものであることを私たちに思い起こさせてくださいます(4〜6節、「創世記」1章27節および2章24節を参照してください)。この点について自然界を観察してみると、神様は別の種類の道を選ぶこともできたことがわかります。鳥類の中で白鳥は「一夫一婦制」を守っていますが、他の多くの鳥類は毎年夏ごとに別の配偶者を持ちます。ミツバチの場合、一匹の女王蜂には無数の「夫たち」がいます。おそらく最も珍しい習性を持っているのはカマキリで、交尾後にメスがオスを食べてしまいます。神様が人類のために今とは別の夫婦生活の形態を選択するということも原理的には可能ではあったでしょう。しかし、夫と妻が彼らの間に生まれてくる子どもたちのために互いに生涯にわたって結婚することこそが、神様によって制定された結婚の仕組みであると理解するのは難しくありません。
例えばフィンランドでは「独身の女性や同性愛の女性のカップルには人工授精によって妊娠して子どもを得る権利がある」と主張する人々が多数いる一方で、子どもたち自身の権利を擁護する主張があまりなされませんが、実に奇妙な現象です。神様はすべての子どもに自分の父親と母親を持つ権利を与えておられるのです。子どもの側に立ったこの権利のためにどのような解決を社会は与えることができるのでしょうか。現代社会では子どもには本当に権利がないのでしょうか。
十戒のうちの二つの戒め(第六戒と第十戒)が結婚と密接に関連しています。このことは人類や社会にとって結婚が非常に重要なものであることを示唆しています(第六戒「あなたは姦淫してはならない。」(「出エジプト記」20章14節)、第十戒「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」(「出エジプト記」20章17節))。
残念なことに、同時代のユダヤ人たちが事実上「一夫多妻制」に移行していたという現実をパウロも認めざるを得ませんでした(「ローマの信徒への手紙」2章22節)。この「一夫多妻制」では、夫は一度に多くの妻を娶るのではなく、妻を次々と新しく取り替えていきます。この点について私たちの時代が彼らの時代と比べて良くなっているとは言えません。むしろ、状況はどんどん悪化してきているのがわかります。近年のフィンランドでは結婚した夫婦のうち約半数以上が離婚してしまいます(2023年だと結婚のうちの55%が離婚になっています)。ロシアの場合だと離婚率は80%にものぼります。あるときロシアで私と他の二人が車に同乗していました。男性の乗客は今の結婚は4度目だと言い、女性の乗客は4度目の結婚をしたいと言っていました。ロシアには路上で生活している子どもたちが200万人もいると言われますが、これはスターリンによって始められた「家庭の破壊」が引き起こした悲劇の一例です。
夫と妻は一つです(6節)。特に家族に子どもがいる場合に配偶者の片方が自分の子どもたちを後に残して家を出ていくことができるというのは私には理解しがたいことです。
「彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。」」
(「マタイによる福音書」19章7〜8節、口語訳)
7節でイエス様の反対者たちはイエス様とモーセを対立させようと目論みます。モーセが間違っているはずがないからです。イエス様はそれに対して、ここでモーセの言っていることが命令ではなく人間の邪悪さゆえになされた譲歩であると看破なさいます。
何十年も前に私は米国の悪魔崇拝者たちが聖職者たちの結婚生活の破綻を願う特別な「祈りの戦い」を開始したというニュースを聞きました。神様の敵対者たちでさえ教会と社会にとっての結婚の重要性を理解しているのです!
「そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
(「マタイによる福音書」19章9節、口語訳)
実のところ、イエス様は離婚をまったく認めておられません。イエス様が容認なさったのは「法的な別居」までです。離婚した者たちは離婚相手が生きている間は再婚することができないのです(9節)。
なお、9節の終わりの括弧内の「追加」として「また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」と付記されている翻訳もあります。これは「マタイによる福音書」5章32節からの引用であり、この箇所には元々含まれてはいませんでしたが、イエス様の教えの内容に一致するものではあることを示唆しています。
「というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
(「マタイによる福音書」19章12節、口語訳)
12節の元のギリシア語テキストでは「エウヌーコイ」(「宦官」という意味の言葉の複数形)となっています。
この12節は、ローマ・カトリック教会の司祭の独身制と修道生活を正当化する根拠として引き合いに出されてきました(「コリントの信徒への第一の手紙」7章32〜40節を参照してください)。しかし、この箇所でイエス様が「自発的な選択」について語っておられることに注目しましょう。聖書によれば、ペテロも結婚していました。すなわち、ローマ・カトリック教会はペテロを初代の教皇とみなしているにもかかわらず司祭たちには生涯独身を貫くことを強制するようになったということになります。例えばオーストラリアのローマ・カトリック教会の司祭たちは独身制の廃止を求めたことがあります。また、アフリカでは人々は非常に若くして結婚するため、独身の司祭を得ることはほとんど不可能に近いです。
この箇所のイエス様の教えは現代という時代や教会ではたしかに実行不可能に思えるものかもしれません。例えばフィンランドのルーテル教会の司教たちは「結婚式を執り行う牧師は一般社会の法律に従わなければならない「公務員」であるから、イエス様の(この箇所の)教えに基づく「自らの良心」を盾にして、再婚希望者の結婚式の執行を拒否するべきではない」と牧師たちに「教導」したことがあります。キリスト教会には、それを取り巻く社会一般の考えかたに順応していくうちに社会と同一化してしまい、教会独自の聖書的な基準を守り抜く気概をなくしてしまう危険がありますが、それはすでに現実のものとなっています。例えば多くの西欧諸国ではルーテル教会ばかりではなくローマ・カトリック教会でもそのような状態になってきています。
当時の社会にも人々が離婚するケースはありました。ですから、結婚や離婚に関するイエス様の教えはすでに当時の一般的な考えかたや教えかたとも異なっていたことになります。現代に生きる私たちもこのことを心に留めておくべきでしょう。
「子ども」をめぐって 19章13〜15節
「そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。」
(「マタイによる福音書」19章13〜15節、口語訳)
すでに述べたように、古典古代では「子ども」はほとんど価値のない存在とみなされていました。
この点でもイエス様の教えは当時の「主流」とは異なっており、まさしく革命的でした。イエス様は子どもたちを御自分の同胞として受け入れただけではなく、大人たちの模範ともされたのです(14節)。
成人洗礼運動(幼児洗礼を否定し、成人にだけ洗礼を授ける運動)は「イエス様はこの箇所で子どもたちに洗礼を授けたのではなく祝福しただけである」と主張してきました。これに対しては「イエス様は大人にも洗礼を授けなかった」と答えることができます(「ヨハネによる福音書」1章33節と比較してください)。私たちはイエス様が授ける洗礼について「御霊によってバプテスマを授けるかた」という言及以外は何も知りません。またイエス様の公の宣教期間中の洗礼については何も述べられていません。イエス様は御自分の死と復活が成し遂げられた後に「洗礼」を教会の一員となるための「入り口」として設定なさったのです(28章18〜20節)。
マタイは「子ども」を意味する一般的な単語を使用しています(ギリシア語の「パイディア」、これは「パイディオン」の複数形です)。これと対応する箇所でルカはその単語を「腕の中の赤ちゃん」といった非常に小さな子どもを意味する単語に変えています(「ルカによる福音書」18章15〜17節、ギリシア語の「ブレフェー」、これは「ブレフォス」の複数形です)。ユダヤ教では子どもたちは一歳の誕生日に会堂(シナゴーグ)に連れて行かれてラビから祝福を与えられました。
初期の教会では「幼児洗礼」について議論されたことすらありません。もしそれが何らかの意味で「問題」であったのなら、間違いなく議論されたはずです。ここではさらに当時は召使いたちさえも家族の一員とみなされていたことも覚えておくべきです。家族の中にキリスト教徒と異教徒が両方混在している状態はまったく想像もできないものだったので、キリスト教徒の家族の子どもたちも当然洗礼を受けていました。
この箇所でも私たちは神様のなされた選択に満足しなければなりません。いかなる(合理的な)理由によってもそれを覆そうとしてはいけないのです(13節を参照してください)。
最近のフィンランドのルーテル教会における大きな問題は「いったい私たちは子どもたちに何を与えたいのか」ということに集約されます。洗礼を受ける子どもの割合は年々減少してきています。しかし、洗礼を受けた後の子どもたちに対して親をはじめとする大人たちはどのような態度で接しているでしょうか。私たちは子どもを本当に天の御国に導きたいと思っているのでしょうか、それとも「物質的な天国」に誘いたいと心密かに願っているのでしょうか。
金持ちは救われるか? 19章16〜26節
「青年」(22節)はギリシア語で「ネアニスコス」といい、24歳から40歳までの男性のことを指しています。なお、その男性(16節「ひとりの人」)のことをルカは「ある役人」、すなわち高い地位にある人物であったと述べています(「ルカによる福音書」18章18節)。マタイのこの箇所でその男性のした質問はユダヤ教の信仰に沿ったものです。彼は「どんなよいことをしたらいいでしょうか」(16節) と尋ねたのです(「使徒言行録」2章37節も参照してください)。彼らユダヤ人にとって「救い」は常に「行為」であったため、イエス様が教えられた「神様の恵み」を正しく把握することは非常に難しく、率直に言えば不可能だったのです。
その青年は神様の御意思に従うために努力を積んできました。そして自分自身の理解によれば、それに成功したとも考えていました(20節)。彼はそれでもなお、永遠の命を得るために自分の信心では十分ではないとも感じていたのです。ユダヤ教にはいわゆる「タウの人々」がいました。彼らはアレフからタウまで、すなわちヘブライ語アルファベットの最初の文字(アレフ)から最後の文字(タウ)まで神様の戒めである律法を「始めから終わりまで」完全に満たしたと考えられていました。このことについては「フィリピの信徒への手紙」3章5〜6節で「律法の義については落ち度のない者」と自負したパウロが参考になります。パウロは同じ手紙の続きの箇所の7〜9節で、救いはキリストの働きのみに基づいてもたらされることを明言しています(「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 」)。
「この青年はイエスに言った、
「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。」
(「マタイによる福音書」19章20節、口語訳)
この青年の質問(20節)は「律法主義」(人間の行いに基づいて救いを得ようとする生きかたや考えかた)の内包する根本的な問題を明示しています。人間は律法の規定に自分が十分従ったかどうか、決して確信をもつことができません。「恐れ」という感情はキリスト教信仰以外の他の諸宗教の信仰のありかたを最もよく表しているとも言われます。自分が救われるために十分に善良であったかどうか人間は決して確信をもてるようにならないからです。
「「イエスは言われた、
「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。」
(「マタイによる福音書」19章17節、口語訳)
17節は難解な箇所として知られています。この箇所に基づいて「イエス様は「よいかた」ではなかった」と結論するべきではありません。ここでの「よいこと」とは「いつくしみ深いこと」とほぼ同義です。
「主に感謝せよ、主は恵みふかく、
そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」
(「詩篇」136篇1節、口語訳)。
この世でイエス様は神様の隣に御自分をもち上げることを望まれませんでした。神様はただお一人だからであり、憐れみをもって救ってくださるお方はお一人だけだからです。しかし同時に、17節には偉大なる奥義が含まれています。それでもなお「イエス様御自身は神様であられる」ということです。
「彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。」
(「マタイによる福音書」19章18〜19節、口語訳)
18〜19節でイエス様は律法の第二の板に書かれている隣り人に関わる戒めを列挙なさっています。ただし、第九と第十の戒めは「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という「レビ記」19章18節の戒めに基づいて表されています。ここでは、律法を厳密に守ることは救いのためには役立たないことが示唆されています。イエス様はモーセの律法を旧約聖書とは順序も内容もやや異なる形で列挙しておられるのです。
青年は自分が七つの戒めを(もちろん第一の石板の三つの戒めも含めて)すべて守ってきたとイエス様に言い切りました(20節)。新約聖書の写本によっては、ここに「私の幼い頃から」(ギリシア語で「エク・ネオテートス・ムー」)という補足が入っています。この補足はユダヤ人が13歳(男子が「律法の子」とされる年齢)になると律法の遵守を要求されるようになることを指しています。
律法の本来の使命は、私たちの心のうちに罪の意識を生じさせるとともに神様の憐れみと罪の赦しへの切なる願いを呼び覚ますことです。ただ表面的に律法に従うという「行いの義」に頼る心はそれらを生み出すどころか、むしろ霊的・信仰的な意味での傲慢さを生じさせてしまいます。
マルコはイエス様が「彼に目をとめ、いつくしんで言われた」と書いています(「マルコによる福音書」10章21節)。このことは、イエス様が青年にその信仰的な脆さを自覚させたかったというよりは、むしろ彼を本当に「神様の御国」、「永遠の生命」に招き入れたかったということを示唆しています(16節)。
21節の「あなたの持ち物を売り払いなさい」というイエス様の命令あるいは奨励はその青年の弱点、すなわち「アキレス腱」を直撃しました。彼は永遠の生命よりも自分の財産のほうに愛着を持っていたのです。実のところ、彼は他のすべての戒めを守るための基礎であり出発点でもある第一戒(「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(「出エジプト記」20章3節))さえ守ることができていなかったことになります。
さらにイエス様の命令・奨励は、神様の御国よりも価値のあるものは他に何もないことも私たちに思い出させてくれます(16章24〜28節を参照してください)。神様が私たちに「放棄してほしい」と望んでおられるものすべてを実際に放棄する心構えを私たちは普段から持っていなければなりません。
「イエス様の御言葉はすべての時代とすべてのキリスト教徒に当てはまる」という解釈がときおり提示されてきました。しかし、イエス様はすべての人に同じことを要求したわけではありません。例えば、裕福なニコデモは自分の財産を私有するこのを認められていました(「ヨハネによる福音書」3章1〜21節)。私たちにとっての「偶像」(偽の神々)を私たちから取り除きたい、とイエス様は願っておられます。宗教改革者マルティン・ルターは「大教理問答」の中で「人にとっての神あるいは偶像とはその人が依存していると感じている存在のことである」と看破しています。
富そのものは罪ではありませんが、金銭欲は罪です(「テモテへの第一の手紙」6章2〜10節を参照してください)。しかしその一方で、金銭、名声、名誉など実にさまざまなものが神様の御国に入る上での「障害物」になってしまう可能性があるという現実を正しく認識することも大切です。貪欲が実は偶像崇拝にほかならないことをパウロも教えています(「エフェソの信徒への手紙」5章5節)。
「イエスは彼に言われた、
「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。」
(「マタイによる福音書」19章21節、口語訳)
その青年には神様に従う心構えが一応はありました。しかし、それは神様の御意思に従ったものではなく、自分に都合のよい条件付きのものにすぎなかったのです。天の御国に入るのはイエス様が開かれた道を通してのみ可能になることです(「ヨハネによる福音書」14章6節)。それゆえ、救い主に従うことが重要になります(21節)。「私について来ないで。私も道に迷っているから!」(”Don’t follow me – I am lost too!”)というステッカーが貼られた車を私(パシ・フヤネン)は見かけたことがあります。残念なことに、今日の多くの教会はその扉に同じ「ステッカー」が貼られているような霊的・信仰的な状態になってしまっているのかもしれません。
24節の難解さをわかりやすく説明する試みとして、例えば「エルサレムの城壁にあった「針の穴」と呼ばれる小さな門はラクダが背から荷を下さなければ通れないほど低かった」という説が提示されたことがあります。これには「人は自分の荷を捨てることによってのみ神様の御国に入ることができる」という教えが含まれています。この箇所を理解しやすくする別の説明では、「ラクダ」という単語の文字を一つ変えると「ロープ」を意味するギリシア語の単語が得られることから着想を得ています。しかし、これら「合理的な説明」の試みは徒労に終わりました。というのは、25〜26節はイエス様がこの箇所でまさしく「不可能なこと」を話題になさっていることを明らかにしているからです。それは、当時知られていた最も大きい動物(23章24節)が当時知られていた最も小さい穴の中を通るということです(7章13〜14節、「ルカによる福音書」13章24節を参照してください)。
救われる人々から神様は人間には誰ひとり達成できない「不可能なこと」を要求なさいます。それは、たんに財産を手放すという問題だけではありません。イエス様の弟子たちは所有財産の放棄を実行していましたが(27節)、そのような彼らでさえ「では、だれが救われることができるのだろう」と問わざるを得なかったのです(25節)。救いは神様によってのみ可能となることです(26節)。それはおひとり神様による御業なのです。人は自分のいかなる行いによっても自身を救うことはできません(16節)。それができるのは神様だけなのです。神様にとって「不可能なこと」は何もないからです(「創世記」18章14節、「ヨブ記」42章2節(「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。」)、「ゼカリヤ書」8章6節)。おひとり神様だけが罪深い人間さえも救うことができるのです。
弟子たちに将来与えられる報酬 19章27〜30節
金持ちの青年が失敗した点においてペテロは自分と他の弟子たちのほうは成功を収めたと感じていたようです。すべてを捨ててイエス様に従ってきたからです(27節を21節と比較してください)。それでは彼らは金持ちの青年が求めた報酬である永遠の生命(16節)を受けることになるのでしょうか。「永遠の生命を受けつぐ」とイエス様はたしかに答えておられます(29節)。しかし、すでにこの世での人生においてイエス様に従う人々の人生の変化は始まっているのです。彼らは多くのものを手放さなければならなくなりますが(28節)、その代わりとして「その幾倍も」受け取ることになります(29節)。
「イエスは彼らに言われた、
「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう」。」
(「マタイによる福音書」19章28節、口語訳)
彼らが受け取れる最も重要なものは「救い」です(28節、「コリントの信徒への第一の手紙」15章19節を参照してください)。28節の「世が改まって、」という箇所にはギリシア語原文で「再生」という意味を持つ単語(「パリンゲネシア」)が用いられています。
「おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。」
(「マタイによる福音書」19章29節)
キリスト信仰者が捨てるべき「親族のリスト」(29節)には配偶者が含まれていないことに注目してください。これはペテロが結婚していたからである(「マルコによる福音書」1章30節、「コリントの信徒への第一の手紙」9章5節)と説明する人たちもいますが、そうではありません。他の人間関係と比べて夫婦の関係は独特なものなのです。彼らは「一つ」であり、神様によって結び合わせられています(9節)。それゆえ、神様が彼らを引き離すことはありえません。信者に対して「未信者」の配偶者との別居や離婚を勧めたり要求したりする自称キリスト教徒のグループの主張や行為は聖書に反する異端にほかなりません(「コリントの信徒への第一の手紙」7章10〜16節を参照してください)。
神様は御自分が要求なさる以上のものをキリスト信仰者に常に与えてくださることに注目してください(29節)。例えば、たとえ親戚のうちの何人かとの関係が壊れたとしても、彼らの代わりとして、信仰における新しい兄弟姉妹が与えられるようになります。
神様から離れている人生は不完全な人生です。そこには神様からのみ見出される「人生の最も深い目的」が欠如しているからです。キリスト信仰者の人生は「満たされた人生」です。
「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。
(「マタイによる福音書」19章30節、口語訳)
30節はペテロへの警告も含んでいます。「ペテロよ、あなたは私に従った最初の者であり、私のためにすべてを捨てた。だからといって、あなたが私をいつか見捨てて、信仰者のうちで最後尾になることが起こらないとはかぎらない」という警告です。ここでイエス様は「恵み」についても強調なさっています。神様による優先順位は恵みを知らない人間のそれとは異なっているのです。
キリスト教信仰とは「今、何かを放棄すれば、利子をつけて後からそれを取り戻せる」というような「戦術」ではありません。 天の御国における優先順位を決めるのはおひとり神様だけなのであり(「マルコによる福音書」10章40節)、私たち人間の信心深さや行い、あるいは、さまざまなものを放棄することによるものではありません。
「信仰が祝福をもたらす」という考えかたも正しくありません。いわゆる「繁栄の神学」は神様が「御自分のものたち」を世俗的な意味でも祝福してくださるという前提に基づいています。それに対して、聖書により忠実な考えかたは例えば私の友人が28節に「付け加えた」次の言葉に表されています。「しかし、彼らは迫害されて焼かれるのです!」
次の章の「ぶどう園の労働者」の譬(20章1〜16節)もペテロの質問に対するイエス様のお答えになっています。