マタイによる福音書6章 神様からの賜物である義のもたらす祝福

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

信仰生活を適切なやりかたで実践していくこと 6章1〜4節

ユダヤ人の信仰生活の実践には「施し、祈り、断食」という 三つの要素が含まれていました。

この章でイエス様はそれらすべてを取り上げておられます。そして、それら三つ全部がキリスト信仰者としての生活にも含まれていることを明確に示されます。

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。
(「マタイによる福音書」6章1〜4節、口語訳)

第一に(1〜4節)、イエス様は施しの正しいやりかたを教えておられます。「施し」とはたんにお金を与えることではなく「隣り人」(ユダヤ教では「他のユダヤ人」のことです)を様々なやりかたで助けることを意味していました。いわば「慈善活動」のようなものであったとも言えます。

2節の「ラッパを吹きならす」ことがどのようなことに直接関係しているのかは正確にはわかりません。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)では「ラッパを吹きならす」ことで今ちょうど献金を集め始めるということを知らせる慣習があったのかもしれません。あるいは、一部の「偽善者たち」(ギリシア語原文では「ヒュポクリーテース」の複数形)が率先して「ラッパを吹きならす」ことを本当に行なったのかもしれません。あるいはまた、これはたんなる比喩である可能性もあります。いずれにせよ、イエス様は人が自分の慈善活動のやりかたに他の人々からの注目を集めようとしないように警告しておられるのです。

2節の「偽善者たち」にはギリシア語では「俳優」という意味もあります。これは「実際の自分とは違う者として他の人たちから見られたい」と望んでいるような人間のことです。「偽善」は外面だけが金色に輝いている「金メッキ」のようなものであるとも言えます。これは人の内奥が美しい外面とはまったくの別ものであるという事実を浮き彫りにします。昔、私のある同級生が中学校の宗教の授業で「外部金メッキの反対は内部金メッキです!」と言ったことがあります。神様は人間の最も深い内面もしっかり見抜いておられます。神様を外側の金メッキで欺くことはできません。

3節の「右の手のしていることを左の手に知らせるな」という考えかたは、行為に二つの目的があってはいけないということも強調しています。援助の本来の目的は他の人たちを助けることであり、援助する者がそれによって褒められることではありません。残念ながら、現代社会における援助は公的な性格のとても強いものとなりました。「できるだけ多くの人々の関心を幅広く集めて困っている人たちを助けたい」という考えに基づいて援助がなされるからです。しかし、大規模なチャリティーコンサートの開催などについて「この催しで援助自体は副次的なものになってはいないか、何か別のことがより重要になっていないか」という疑問が浮かんでくる場合もあります。

施しやその他の援助は、援助を受ける側の人々の公の評判を落とさないためにも、人目を引かないやりかたでそっと実行されるものでなければなりません(4節)。残念なことに、助けを必要としている人たちの多くが周囲の人々からとても否定的なレッテルを貼られる傾向が今日でもみられます。

正しい祈りかた 6章5〜15節

「マタイによる福音書」をフィンランド語に翻訳したことのある詩人ペンティ・サーリコスキは5節での「偽善者たち」を「目の崇拝者たち」と意訳しています。この訳語はなかなか事の本質をついています。偽善者たちがどれほど他の人々の目を意識して行動しているかをよく表しているからです。彼らにとって最も重要なことは自分たちがどれほど優れているかを他の人々に見せびらかすことなのです。

ユダヤ教では毎日 3 回 (イスラム教では 5回)の祈りの時間がありました。例えば「詩篇」55篇18節(口語訳では17節)には「夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます。」とあります(「ダニエル書」6章11節も参考になります)。それらは、朝、昼、夕方でした(例えば「使徒言行録」10章9節)。それゆえ、偽善者たちは自分の信心深さが他の人々の目につくような場所にわざわざ出向いてタイミングを見計らって祈り始めることが容易にできました。そうすることで彼らの得る「報酬」は人々から注目を受けて賞賛されることでした。しかし、神様は彼らにいかなる報酬もお与えにはなりません。

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。
(「マタイによる福音書」6章6節、口語訳)

「へや」(6節)は実際には物置のような場所を意味していました。それは家の中で最も静かで閑散とした場所でした。この箇所でイエス様は「個人的な祈り」について語っておられます。なお「一般的な祈り」については7〜13節で扱われます。

「また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている」。
(「マタイによる福音書」6章7節、口語訳)

異邦人が「無駄に饒舌な祈り」を熱心な祈りであると勘違いした例は数多くあります。おそらくその中で最も有名なもののひとつは、それを回転させることで祈りを神々のもとに送ることができると考えられていた「祈りの風車」でしょう(例えばチベット仏教の瞑想道具であるマニ車)。古典古代の哲学者セネカは「長々と祈ることはかえって神々を疲れさせる」といったことを書いています。神様に対して付加されるいくつもの長い尊称は無駄な饒舌さとほぼ同様のものではないでしょうか。

「主の祈り」については優れた説明がたくさんあります。ルターの小教理問答の説明はおそらく最もよく知られているものです。大教理問答にはさらに詳細な説明が載っています。さらにルターは「主の祈り」を説明する別の本も書いています。

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように」。
(「マタイによる福音書」6章9節、口語訳)

イエス様が「私の父」ではなく「われらの父」に祈るように教えていることに注目してください(9節)。キリスト教信仰は常に共同体的なものなので「信仰の共同体」として祈るのは適切な祈りかたです。

主の祈りの中の最初の三つの祈りは「神様の御国」に関するものです。十戒もそれと同じことを教えています。私たちはまず神様の御国を求めなければならないのです。そしてその上で、この世での人生にかかわる他の事柄についても祈り求めていかなければならないのです(6章33節)

「天に」(9節)とは神様が「この世の外界におられる」という意味ではなく「目に見えるすべてのものの上におられる」という意味です。

「御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように」。
(「マタイによる福音書」6章10節、口語訳)

神様の御国は人間の意志が神様の御意思に従う時にのみ実現されるものです(10節)。

10節は、神様が世界を導いておられること、そして私たち人間がこの世で「偶然の出来事」によって翻弄されるような存在ではないことを私たちに思い起こさせてくれます。

「主の祈り」の中の第四の祈りから第七の祈りは人間が必要としている事柄について述べています。

「日ごとの食物」(11節)は「現在」と関連するもので、創造主であられ御父であられる神様が日々それを分け与えてくださっていることを私たちは実際に見ることができます。
「負債」(12節)(「ルカによる福音書」11章4節では「負債」と「罪」)は「過去」と関連しており、私たちは御子イエス様の十字架での贖いの御業を通して罪の赦しを受けます。
「試み」(13節)は「未来」に関連しており、聖霊様による導きとも関係があります。

とりわけ第四の祈りは私たち人間がこの地上で生きていく上で必要不可欠なものに関連しています。「日ごとの食物」(11節)とは贅沢品のことではなく、私たちの日常生活に必要なすべてのものを意味しています。

神様からいただく罪の赦しを実際に経験した人は自分の隣り人のことも赦さずにはいられなくなるものです(12、14〜15節、18章21〜35節、「ヨハネの第一の手紙」3章11〜17節も参照してください)。

「わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください」。
(「マタイによる福音書」6章13節、口語訳)

13節の末尾には「国と力と栄光とは永遠にあなたのものだからです。アーメン」という主の祈りへの添え書きがごく初期の段階で付加されました。しかし、この言葉は最初期の写本群には見られないため、現在では脚注扱いになっています。

「試み」すなわち「誘惑」は常に存在しています(13節、また18章7節(「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」)や26章41節(「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」)も参照してください)。

しかし、神様は誰のことも誘惑なさらないことをはっきり知っておく必要があります。このことについて例えば「ヤコブの手紙」1章13節(「だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。」)や「コリントの信徒への第一の手紙」10章13節(「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」)も参考になります。

13節の終わりにある「悪しき者」という言葉は英語でなら頭文字を大文字にして「Evil(悪)」と書いてもよいものでしょう。それは、神様の敵であるサタンがさまざまなやり口を試しながら私たちを神様から引き離そうとしているというこの世における霊的な現実を表しているからです。次の引用も心に留めておきましょう。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。」
「ペテロの第一の手紙」5章8節、口語訳)

正しい断食 6章16〜18節

フィンランドのルター派キリスト教会で断食は今日ではほとんど行われなくなりました。それとは異なり、ローマ・カトリック教会や正教会では断食は依然として行われています。例えば正教会では年間約200日の断食日があり、毎週水曜日と金曜日が断食するための日となっています(ユダヤ教では毎週の断食日は月曜日と木曜日でした。これらは、かつてモーセがシナイ山に登って神様から十戒を授かり、そこから降りてきた曜日に当たります(「ルカによる福音書」18章12節も参照してください)。

私たちルター派の教会暦ではアドベントの時期やイースター前の時期はどちらも「断食の時期」と呼ばれています。しかし「断食らしさ」はその時期に教会の礼拝が通常より若干簡略化された形で行われること以外にはあまり明確な特徴が見られません。

イエス様の弟子たちは洗礼者ヨハネの弟子たちとは異なり、イエス様の公の宣教活動の間、断食をしませんでした(9章14節)。しかし断食が話題になったとき、イエス様は御自身の死と復活の後に弟子たちも断食することになると語られました(9章15節)。実際にもその通りに最初期の教会では断食が実践されるようになりました(「使徒言行録」13章2節、14章23節)。

旧約聖書では年に一度だけの断食日として大贖罪の日(「ヨム・キプール」と呼ばれる日)(「レビ記」16章、特に29〜31節)が定められていましたが、律法学者の教えでは週に二回の断食日が要求されていました。

「「また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」。」
(「マタイによる福音書」6章16節、口語訳)

16節は、私たちがいったい誰のために断食をするのかを思い起こさせてくれます。断食をするのは他人のためなのか、自分自身のためなのか、それとも神様のためなのか、ということです。他の人々の注意を引くために断食するのは間違っています。そのかわり、断食は私たち自身と私たちの信仰にとっては有益なものです。断食は私たちが人生で本当に重要なことに関心を集中するのを補助してくれるからです。正しい断食は私たちを神様の御許へと近づけてくれるはずのものです。

断食は悔い改めの心が行為として表れたものでした。それゆえ、人は自分がどれほど真剣に自らの罪を悔いているか、どれほど信仰深い人間であるかを他の人々にひけらかす誘惑に駆られました(16節)。しかし本当に大切なのは自分が他の人々からどのように評価されるかではなく、自分は神様からどのように評価されているかということです(17節)。それゆえ正しく断食する者は断食が喜ばしい出来事のしるしであることを表す「油」を自分の頭に塗ることができるはずなのです。また「イザヤ書」58章によれば、真の断食には預言者イザヤの時代に多発したような「隣り人から略奪すること」ではなく、むしろ逆に「隣り人を気遣うこと」が含まれています。

重要な決断をする前に断食が行われることもよくありました。その例としては「エステル記」4章16節、「マタイによる福音書」4章1〜2節、「使徒言行録」13章1〜3節および14章23節(「また教会ごとに彼らのために長老たちを任命し、断食をして祈り、彼らをその信じている主にゆだねた。」)などがあります。

食物への欲求は私たちの基本的な欲求のひとつです。「貪欲」は残念ながら私たち人間に染み付いている(根本的な)罪の一つであり、ローマ・カトリック教会では「大罪」の一つに数えられています。断食は私たちに「正しい節制のありかた」を教えてくれるものです(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27を参照してください)。

昔、私のある友人は「私が子どもの頃は「必要なもの」は何も買ってもらえなかったけれども「それなしでは生きていけないもの」だけはちゃんと買ってもらえた!」と言ったことがあります。真の断食は私たちをそれと同様の状態へと導きます。このことは人生において何が自分に必要不可欠な大切なものであるかを見極められるのに役立ちます。そして、多くのものを手放すことができるけれども、神様の恵みを捨てることは決してできないことに私たちは気づかされるのです。

マモン 6章19〜24節

「「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」。」
(「マタイによる福音書」6章19〜21節、口語訳)

宝をたくわえる者(19節)は今日のことではなく明日と未来のことばかり考えています。将来に備えること自体は正しいものの、今日を生きることを忘れるのは間違っています。

この世における所有財産が確実に保全される保証はまったくありません。世界の歴史を振り返ると、人々からその所有物を一切合切奪い去ってしまった様々な災害が起きてきたことがわかります。

天に宝をたくわえること(20節)も未来に関わる行為です。イエス様への信仰は私たちに永遠の命を与えてくれます。何者であれ、あるいは何物であれ、この宝をキリスト信仰者である私たちから奪い去ることはできません。

21節を「あなたの宝のあるところに、あなたの思いもあるのです!」と訳した人がいますが適訳でしょう。人は自分にとって何が大切かを考えます。宗教改革者マルティン・ルターは、人間にとっての「神」とはその人自身が依存しきっていると感じている存在のことである、と大教理問答の第一戒の説明で述べています。ところで、あなたの人生は何に依存していますか。これを次のように言い換えてみましょう。あなたが人生で最後まで手放したくないものは何なのでしょうか。

「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」。
(「マタイによる福音書」6章22〜23節、口語訳)

22〜23節の説明は山上の説教の終わりの部分(7章24〜27節)の説明にもなっています。人間にとっての「人生の基盤」は何でしょうか。その基盤が正しければ、人生には正しい進路が与えられます。しかし基盤が間違っていれば、遅かれ早かれ破滅的な生きかたに陥ることになります。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」。
(「マタイによる福音書」6章24〜25節、口語訳)

「富」(24節)はギリシア語原文では「マモン」です。これは元々アラム語で「所有財産」を意味する言葉です。フィンランドの古い諺に「火は良い僕だが、悪い主人だ」というのがあります。富についてもそれと同じことが言えます。富自体は悪いものではありませんが、それを何のために、またどのように使用するかが問題となるのです。富をもって神様とその御国にお仕えすることもできます。しかし、富が私たちを神様から引き離してしまう場合もあるのです。

ギリシア語で「仕える」(24節)という言葉には「奴隷になる」という意味もあります。奴隷は主人の所有物であったため、同時に二人の主人の奴隷になることは不可能でした。もちろん、複数の主人が同じ奴隷を共有している場合もありましたが、一般的にみるとそのような状況はどちらの所有者にとってもやっかいなものでした。

ここでイエス様が私たちに与えておられる選択肢は二人の主人のうちのどちらか一方を選ぶことだけであることに注目してください。他の選択肢はないのです。神様とその敵対者のうちのどちらか一方だけを選ばなければなりません。中立な立ち位置は実は存在しないからです。

聖なる気楽さ 6章25〜34節

これは実に「難解」と言える聖書の箇所のうちの一つです。その意味を理解することは難しくないものの、実践するのは非常に困難な箇所だからです。イエス様は弟子たちをごくわずかの旅支度だけをさせて福音宣教のために遣わされました(10章5〜10節)。これは弟子たちにとって、神様がちゃんと彼らの面倒を見てくださることを信頼するという学びでもありました。

「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか」。
(「マタイによる福音書」6章25節、口語訳)

「思いわずらう」こと(25節)は、人生において「ある特定の事柄」については心配するべきではない、という意味ではありません。私たち人間が自分たちの力ではコントロールできないような事柄についてこの聖句は述べているのです。自分には変えられないような事柄について考え込んだり心配したりしても意味がありません。古来よりキリスト教会には次のような祈りが伝承されてきました。「神様、私が変えることができない事柄を受け入れる平静さと、私が変えることができる事柄を実行する力をどうか私にお与えください。そして、これら二つを互いに区別する知恵をお与えください!」

「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない」。
(「マタイによる福音書」6章26〜28節、口語訳)

自然およびその中に生きている動物たち(26節、また「詩篇」104篇21〜28節および147篇9節も参照してください)と植物たち(28節)は、神様がこの世の事象に対して細やかに働きかけておられることを私たちに絶えず思い起こさせてくれます。神様は創造主であられるだけではなく世界の維持者でもあられるのです。

心配することは人間の人生の長さを延ばしません(27節)。むしろ、それを著しく短縮してしまうものです。人生に対峙する人間の態度如何がその人の人生での満足感や体調にとても大切な意味を持っていることが近年ますます強調されるようになってきています。

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」。
(「マタイによる福音書」6章30節、口語訳)

近年にいたるまで、パレスチナには木がほとんど生えていなかったので、燃えるゴミはすべて有効活用されてきました(30節)。地中海の東端から内陸に吹き付ける乾燥した熱風はパレスチナにせっかく繁茂した植物たちもたった一日で枯らしてしまうほどでした。

キリスト信仰者は神様を信頼するべきです。私たちが何を必要としているか、神様はご存知ですし(32節)、すべて必要なものは時宜に応じて与えられるからです。

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 34だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」。
(「マタイによる福音書」6章33〜34節、口語訳)

神様による戒め(十戒)は、まず何よりも神様を愛さなければならないこと(33節)を私たちに思い出させてくれます。このことを実行するならば、他のすべても与えられるのです(22章34〜40節も参照してください)。しかしこれは、まず神様を求め、それから他のすべてを求めるという意味ではなく、常に神様による守りと導きの中に留まり続けることの大切さを説いているのです(「使徒言行録」4章19節も参考になります)。

34節と内容的に関連するキリスト教の古い教えに「昨日は過ぎ去り、明日はまだ来ていない。そして今日、主は助けてくださる!」というものがあります。「明日になったら、あるいは何々が済んでから、これこれの生きかたをすることにしよう」と先延ばししてしまう危険な誘惑に私たちは常にさらされています。ところが、私たちに確実に残されているのは実のところ「今日」というこの一日だけなのです。