マタイによる福音書7章 黄金律

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

正しい判断力 7章1〜6節

ルター派の信条の中でも多くの人には印象にあまり残っていないと思われる教義の一つとして「二つの統治権力に関する教義」というものがあります。ルターは世界には世俗的な統治権力と霊的な統治権力という二つの統治権力の領域があると教えました。神様が創造した世界にはそれ独自の法則があり、被造物はそれに従わなければなりません。もしもそれに従わないと困ることが起こります。しかし、教会や信仰生活にはそれとは別の法則があるのです。物事を単純化して理解したい場合には「世俗的な面では法律が力を持ち、信仰的な面では福音が力を持っている」という説明の仕方もできます。

現代の西欧社会における問題はこの社会が教会に世俗権力とは異なる行動をとる権利を与えたがらないことです。このため、社会が何かを承認する場合には教会もそれを承認しなければならないという社会的な圧力が教会にかけられるのです。

二つの統治権力を分立する原則に従うために設けられた社会モデルの一つとして西欧社会での三権分立による統治機関の仕組みがあります。すなわち、国会が法律を制定し、政府と公務員がその施行に責任を負い、司法はそれらから独立した統治機関として法律違反者を罰するというシステムです。しかし、司法が権力者に迎合するようになると、正義はいとも容易に歪められるようになります。

今ここで扱っている箇所で、イエス様は司法の職制そのものに反対なさっているのではなく、キリスト信仰者同士がお互いを裁かないよう勧告しておられるのです。この点を正しく理解するのは重要です。1節から5節を注意深く読むと、イエス様がこの世で下されているさまざまな裁きについて具体的に述べておられることがわかります。

「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」。
(「マタイによる福音書」7章1〜2節、口語訳)

1〜2 節は、人間が神様の立場に自らを置いて他の人々を裁こうとする「越権行為」に対する厳しい警告であるととらえることができます。

最良かつ最適な裁きは人が自分に裁きを下す場合になされます。このような裁きはその人が「自分は間違ったことをした」と自覚していることを示しているからです。これは、ダビデ王がバテシバと姦淫を犯し、その夫ウリヤを故意に戦場で死に追いやった後に起きたことです。その時、神様は預言者ナタンをダビデのところに遣わしました。そしてナタンはある町の金持ちと貧乏人の二人に起きた事件についてダビデに語りました。その事件を聞いて激怒したダビデ王が悪を行った側の男を断罪したとき、預言者ナタンは「あなたがその人です。」と宣言したのです(「サムエル記下」12章1〜14節、特に5節)。

人は他人の欠点を探しているときには自分の欠点が見えなくなることがよくあります。心理学ではいわゆる「投影」と呼ばれる現象が取り上げられます。例えば、人が他人の中に自分の欠点を見て(投影して)いるにもかかわらず、「自分はそのような欠点を持たない完璧で無垢な存在である」と錯覚してしまうのです。このような投影を続けていくうちにその人は病的になってしまう可能性があります。そのような人は「悪いのは常に他の人々であり、決して自分ではない」と信じ込んでしまい、自分の欠点や間違いを頭の中から消し去るために実に奇妙な説明を捏造するようになるのです。

2節からは、正直な商人は買うときも売るときも同じ度量衡を使用したことが思い浮かびます。販売時に小さいサイズのはかりを使用し、購入時に大きいサイズのはかりを使用するのは詐欺です。しかし、それと似たような種々の詐欺を行う危険や誘惑は私たちのことも脅かしています。私たちは自分や他の人々の間違いや罪の重さを測るときに、いともたやすく異なる複数の基準や根拠付けを使い分けるものです。私たちは自分の罪は矮小化するくせに他の人々の罪は誇張する傾向があります。しかし、神様は人をかたより見ることがありません(「ローマの信徒への手紙」2章11節)。神様の御前ではすべての人が同じ立場に置かれており、すべての人が同じ尺度で量られるのです。

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」。
(「マタイによる福音書」7章3節、口語訳)

3節のたとえは意図的に過度の誇張が施されています。人の目の中に「梁」は存在しません。しかし、独善的な人間は神様の御前においてさえ自分の計り知れない罪の負債に気づいていないくせに、他の人々の欠点や罪には過度に敏感になっていることがありえます(18章21〜35節の、憐れみの心に欠けた僕(しもべ)についてのイエス様のたとえを参照してください)。

「自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」。
(「マタイによる福音書」7章4〜5節、口語訳)

イエス様は、他の人を裁くためにはまず自分の罪を見つめることが前提となる、と言っておられます(4〜5節)。しかし、自分の罪をしっかり見つめることができた人はもはや他の人を裁くことを望まなくなるものです。自分が神様からの憐れみを経験したおかげで隣り人のことも憐れむように変えられるからです。

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」。
(「マタイによる福音書」7章6節、口語訳)

6節は、あまりにも軽々しく人を信用するような無防備な態度を取らないよう、警告しています。しかしこれは、全く逆の行き過ぎた厳格さよりもこの態度のほうがいくらかはましな選択肢である、という意味ではありません。初期のキリスト教会はイエス様のこの御言葉に基づき、主の聖餐について洗礼を受けていない人には与えずにキリスト教徒の間でのみいただくやりかたを採用しました。外からは「秘密主義」に見えるこの行為が「キリスト教徒たちは人間の肉と血を食べている!」といった虚偽の告発につながりました。実は、これらの告発はイエス様の正しさの証拠にもなっています。イエス様への信仰をもたない人はこの信仰の最も深い奥義を正しく会得することができません。それは理性では理解できず、信仰の目でのみ見ることができるものだからです。

ユダヤ人たちにとって豚と犬は不浄な動物とされました(当時の犬は今のような愛玩動物ではなく野良犬でした)。イエス様の言われる6節の「聖なるもの」が何を意味しているものか、今まで多くの考察がなされてきました。それは具体的な何かであるのか(例えば犠牲の肉など)、あるいは信仰一般のことを指しているのか、といった考察です。

ユダヤ人は異邦人を「犬」と呼ぶ場合がありました(15章26〜27節、「フィリピの信徒への手紙」3章2節、「ヨハネの黙示録」22章15節などと比較してください)。

「イエス様はこの箇所で福音を故意に拒否する人々のことを指しておられる」という説明も提案されています。このような人々は宣べ伝えられた福音を受け入れることが全く不可能になってしまい、彼らの主人であるサタンにいずれ引き渡されることになるのかもしれません(10章14節も参照してください)。

もう一つ考えられる説明は、「聖霊様からの働きかけがないかぎり、信仰の真理が人間に開示されることはないことを、イエス様はここで意味しておられる」というものです。生まれながらの人間は福音と恵みの意味を決して正しく受け入れることができません。人間にとって自然な宗教性とは律法的な宗教性(何らかのルールに従う具体的な行為を通して自分を救おうとする宗教性)なのです。

豚は真珠に価値を見出しません。それと同様に、非キリスト教徒は恵みを「罪の赦し」ではなく「罪の許し」(罪を犯してもよいという許可)として受け止めます。「罪が私たちを滅ぼすことは決してない」と彼らは思い込んでいるからです(「ローマの信徒への手紙」6章1節も参照してください)。

黄金律 7章7〜14節

「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。
(「マタイによる福音書」7章12節、口語訳)

12節には、ここの見出しでもある「黄金律」が記されています。「自分にしてほしくないことを隣人にしてはいけない」という否定の形でこれと同様の考えかたが多くの宗教でも広く知られています(例えばユダヤ教、ヒンズー教、仏教、儒教、そして古典古代の異教の宗教など)。ここでイエス様はそれを初めて肯定的な形で提示されたのです。

黄金律は、何が正しくて何が間違っているかを判断する、反駁しようのない単純な「尺度」を提供します。人は自分が何を望んでいるのかを常に知っているものだからです。

「現代流」の翻訳の中にはギリシア語原文の「小さな単語」のほぼ全部をたんなる句読点(コンマとピリオド)とみなして訳出しなかったものもあります。12節の「だから、」も翻訳されないことがあります。しかし、私(パシ・フヤネン)個人はこの聖句の「だから、」は重要な表現であると考えています。イエス様は「神様があなたがたに良い賜物しか与えないとわかったのなら、あなたがたも同じようにしなさい。」と言われたいのです。しかし、人はたとえ頭ではそうすべきだとわかっていても良い贈り物を与えない場合がよくあります。

「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」。
(「マタイによる福音書」7章7〜8節、口語訳)

7節と8節にある受動態の動詞は実質的には「神様があける、神様が与える」という意味になっています。ユダヤ人は神聖なる神様の御名を声に出して発音することを避けたため、神様の諸活動について語るときには受動態が使われたのです。聖書におけるこの種の受動態は「神的受動態」と呼ばれることがあります。

イエス様は、私たちが求めたものが与えられる、とは言っておられません(8節)。神様はたしかに私たちの祈りを聴いてくださっています。しかし、神様からのお答えは私たち自身が期待していたものとは異なるものかもしれません。たとえ私たちが求めたとしても、神様は「悪い贈り物」をお与えにはならないのです。「神様は祈りを聴いてくださる」という約束はメシアの時代の到来を告げる「しるし」の一つでした。「イザヤ書」65章24節には「彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、 彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。」とあります。

「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」。
(「マタイによる福音書」7章9〜11節、口語訳)

ここで再びイエス様は神様を「父」に例えておられます(9〜11節)。天の御父には「キリスト信仰者」という子どもたちがいます。私たちキリスト信仰者は「神様の子ども」なのです。私たちの天の御父は地上の最良の父親よりもはるかに優れたお方です。この箇所は「子どもの信仰」についてのイエス様の教えと重要なつながりがあることに注目してください。子どもの信仰の主な特徴は親への強い信頼です。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」。
(「マタイによる福音書」7章13〜14節、口語訳)

イエス様はここで、人間が入る「門」は二つある、と言っておられます(13〜14節)。イエス様は「すべての人が救われる」とは決して教えませんでした。神様はすべての人を救いへと招いておられます。「テモテへの第一の手紙」2章4節には「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」とあります。救われることは原則的にはすべての人にとって可能なことなのです。しかし、依然として大部分の人々は神の御意思とは異なるもうひとつの「門」の中に入っていきます。残念なことに、今日では「すべての人々が救われる」という虚偽を教えるような教会も出てきました。私たちキリスト信仰者はそのような教えが聖書やイエス様の教えでは断じてないことをはっきり認識していなければなりません。

イエス様は私たちがそれを通して天の御国に入れていただける「道」(「ヨハネによる福音書」14章6節)であり、「門」(「ヨハネによる福音書」10章9節(「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」))なのです。

天の御国の多くの「住居」が空のままになるのは実に不幸な悲劇です(「ヨハネによる福音書」14章2〜3節)。しかし、神様は人自身の意志に反してまでその人を救いたいとは思われないのです。自分が救われるのを拒否することは人間にとって選択が可能な態度のひとつです。キリスト教徒ではない古代ギリシアの哲学者も「徳」に興味を示す人間がほとんどいないという嘆かわしい現実を指摘しています。

偽預言者たち 7章15〜23節

真理と異端は「直線上の対極にあるようなもの」とみなされることがよくあります。しかし、教会の歴史は最も危険な異端が真理の教義に非常に似ているものであることを明らかにしています。例えば「コリントの信徒への第二の手紙」11章13〜15節には「こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。」とあります。些細な変更でさえ、救いの教義を異端に変えてしまう場合があるのです。それは、汚れた水が1リットル混ざるだけで給水塔全体の水が飲めないものになってしまうのと似ています(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節も参照してください)。

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである」。
(「マタイによる福音書」7章15節、口語訳)

偽預言者たちは金でメッキされているような偽善者です。彼らの外見は内面とは異なっています(15節)。パウロはエフェソの教会に対し、自分がその地を去った後に教会の内部から偽教師たちが現れてくるだろう、と予め警告しました(「使徒言行録」20章29節(「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。」))。「ガラテアの信徒への手紙」と「コリントの信徒への第二の手紙」からは、パウロが偽教師たちに対してどのような戦いをしていたのかを窺い知ることができます。また、使徒ペテロもパウロと同じような経験をしています(「ペテロの第二の手紙」2章1〜3節)。

イエス様は、終末に熟練した偽預言者たちが夥しく出現してくるであろう、と予言なさいました(24章11〜14、22〜24節)。

「あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである」。
(「マタイによる福音書」7章16〜20節、口語訳)

イエス様は、真の預言者と偽預言者を区別するために「常識」でも理解できるような試験方法を教えてくださいました。木はその実からそれがどのような木なのかがわかります(16〜20節)。どの木も自分の種類にふさわしい果実を実らせるからです。それと同様に、預言者は自分の行動を通して自分の最も奥にある本当の性質を曝け出すことになるのです。ただし、それがすぐに表面化するとは限りません(22節を参照してください)。しかし、時間が経つにつれてそれは確実に明らかになっていきます。

例えば、偽造されたお金を探すことを考えてみましょう。その道の専門家たちであっても、考えられうるすべての偽造のお金のことを知っているわけではありません。しかし、彼らにとっては真性のお金がどのようなものかを正しく知ってさえいればそれで十分なのです。その知識に基づいて他のすべてのお金は偽物であると結論づけられるからです。真の教義と偽の教義についてもそれと同じことが言えます。考えられうるすべての異端を知っておこう、などという気を起こすべきではありません。最も重要なことは「真の教義を正しく知ること」なのです。ルターの強調する四つの「のみ」(ラテン語で「sola」)はキリスト教信仰の教義の正しさを検討する際にとても役立つ指標です。人は「信仰のみ」により、「キリストのみ」のゆえに、「恵みのみ」によって救われるということ、そしてこの教義の基盤は「聖書のみ」であるということです。この二つの基準によってあらゆる教えについて「キリスト教信仰を正しく教えているかどうか」を正しく判断することができるようになります。

ルターは当時のキリスト教徒たちが神様の御意思をほとんど知らなかったことに気づき、一般のキリスト教徒のための教則本として小教理問答を、教会の教師(牧師など)のための教則本として大教理問答を書き記し、信仰の主要な教義事項を一つにまとめて簡潔に説明しました。

異端は次の三つの特徴のいずれかを持っていることが非常に多いことが異端の歴史からわかっています。

1)イエス様による贖いの御業を退けるか過小評価して、聖書や神様が要求していないような何らかの行為を人々に要求する 。それによって、天国への道を実際よりも狭めてしまう。

2)イエス様による贖いの御業を退けるか過小評価して、聖書や神様が許可を与えていないようなことについても自由で勝手な態度をとることを人間に許可してしまう。それによって、天国への道を実際よりも広げてしまう。

3)宗教的指導者(たち)に対する絶対的服従を人々に要求してくる。それによって、天国への道に入るための「新しい門」を捏造してしまう。

私の友人がある異端に嵌ったことがあります。この友人は長い間、自分が入ったそのグループの教えには何か問題があると感じていました。しかし、教えのどこが間違っているのか、いくら考えても分かりませんでした。しまいに、「このグループの指導者が常に正しいと考える場合、どうなるのか?」という思考実験を行いました。すると、あたかもパズルのピースがすべて所定の位置にはまるようにして、このグループが指導者への絶対的な服従を要求している、ということに気づいたのです。その服従の度合いは神様への従順さえ凌駕するものでした。しかし、例えば「使徒言行録」4章19節には、「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。」とあります。

現代の世界においてキリスト教会はとりわけ霊を識別する賜物を必要としています(「コリントの信徒への第一の手紙」12章10節)。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」。
(「マタイによる福音書」7章21節、口語訳)

21節は、キリスト教信仰が「哲学」などではないことを私たちに思い出させます。キリスト教信仰とは「キリストに従って生きること」です(26節、また「ルカによる福音書」6章46節も参照してください)。信仰は理性や知識に限定されるものではありません。信仰は私たちの心の中にいのちを吹き込んでくれるものでなければならないのです。しかし、信仰が私たちの心にしっかり根付くまでの過程はとても難しく辛いものとなる場合もあります。

21節でイエス様が初めて「天にいますわが父」という名称を用いたことに注目してください。私たちキリスト信仰者はイエス様の弟や妹なのであり、天の御父の子どもなのです。とはいえ、イエス様なしには神様を知ることもできません。もしもイエス様が私たちの兄でないならば、神様も私たちの父ではありえません。

「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう」。
(「マタイによる福音書」7章22節、口語訳)

22節は「奇跡への信仰」に陥らないよう、厳しく警告しています。たとえ奇跡的な出来事が起きたとしても、すぐさまそれが神様によってなされた行為であることの「あかし」とはなりません。神様の敵であるサタンも奇跡を起こすことができるからです。私たちは常に、自分たちがどのようなことを教えられどこに導かれているのか、を問う必要があります。奇跡だけではそれが神様の働きかけによるものであることの証拠としては不十分なのです(24章24節。「テサロニケの信徒への第二の手紙」2章9節)。

22節の「その日」とはキリストの再臨と最後の審判の日を指しています。キリストの再臨については新約聖書で何度も語られていますが、今日しばしば間違って主張されているような「イエス様の教えの中では些細な外伝的位置付けのもの」などではありません。

二つの基礎 7章24〜27節

中近東では雨が降ることは通常は稀であり、むしろ乾燥しすぎることが問題になります。そのため、雨が降ることは例外的な出来事と受け止められたりもします。それでも時には激しく雨が降りますし、冬には雪が降ることさえあります。

イエス様の譬に出てくる自分の家を建てた愚かな人は地図では破線で示されているような枯渇した川床の底に家を建てたのだろう、といった推測に基づく説明も提示されています。通常だと川はその大部分が干上がっていますが、雨が降ると氾濫してしまいます。川底は砂なのでそこに家を建てるのは容易ではあります。

イスラエルの土壌は非常に岩が多いのですが、それも当然で、大部分が山地だからです。そして、岩の上には堅い基盤をもつ家を建てることができます。しかし、それは砂の上に建物を建てる場合よりも多くの労力を要します。

愚かな建築家もイエス様の言葉を知っており、しようと思えばそれに従って生きることもできたことに注目してください。しかし、その人は神様と神様の御意思に背を向けてしまったのです。

16章13〜20節で、ペテロはイエス様がメシアであると信仰告白しています。イエス様はその信仰告白に基づいて、その岩の上に御自分の教会を建てる、と宣言されました。しかし、キリスト信仰者にとって口頭での信仰告白だけでは十分ではありません。その信仰告白を基礎としてキリストと共にキリストの御心に従う信仰生活をこの世で続けていかなければならないのです(前述の22節とも比較してください。また「ヤコブの手紙」1章22〜25節および2章14〜20節、「ヨハネの第一の手紙」1章6節および2章4節も参照してください。)

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」。
(「マタイによる福音書」7章24節、口語訳)

神様が私たちに求めておられる行為(24節)とは「イエス様への信仰」にほかなりません。例えば「ヨハネによる福音書」6章29節には「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである。」とあります。

ここでも人々を二つのグループに区分する決定的な基準となっているのがイエス様とその教えに対する彼ら一人一人の態度であることに注意してください。

モーセの律法は律法に従順な者に伴う祝福の約束と、律法に不従順な者に伴う呪いの警告をもって閉じられています(「申命記」28章1〜68節)。イエス様の山上の説教もそれとほぼ同じようにして閉じられています。神様の御意思に従うのか、それとも拒否するのかに応じて、すでにこの世において各人の位置付けが決まります。とりわけこの世での人生が終わった後での私たちの永遠の世界での位置付け(居場所)が決まってしまうのです。

山上の説教の影響 7章28〜29節

イエス様の時代の律法教師たちにとっては「自分は新しいことを何一つ言わなかった」ということが自慢の種にもなりました。彼らが教えた内容は彼ら以前の律法学者たちからの受け売りにすぎないものでした。しかし、イエス様の教えにはこれまで人が聞いたこともない真に新しい内容がたくさん含まれていたのです。

福音書には「しかし、わたしはあなたがたに言う。(・・・)」というイエス様の言いかたがしばしば登場します(例えば5章34節)。イエス様は御自分を律法よりも上位に置いて律法を廃棄なさろうとしたのではなく、律法に新しい内容を与えようとなさったのです。その内容は律法が元来内包していたものでしたが、その多くが律法の教師たちの際限なき無益な説明の山の中に埋もれてしまっていたのです。

ファリサイ派の人々は613個の禁止事項と戒めをもっていましたが、その中には365個に及ぶ禁止事項が含まれていました。要するに、一年間を通して毎日、何らかの禁止事項が設定されていたのです。それに対して、イエス様は新しい戒めや禁止事項のリストではなく天の父なる神様との新しい関係性を教えてくださいました。

おそらくはイエス様が山上の説教で語られた内容のほんの一部分だけがマタイによって書かれた形で私たちのために保存されたのでしょう(「ヨハネによる福音書」20章30〜31節および21章25節も参照してください)。山上の説教について書かれたここまでの3章分を読むには数十分で足りるでしょう。しかし、イエス様が長い時間(おそらくは丸一日)を費やしてこれらの内容を人々に教えられたのは明らかです(14章15節も参照してください)。