マタイによる福音書1章 イエス様の誕生
「マタイによる福音書」1章1〜17節 イエス様の系図
「マルコによる福音書」はイエス様の公的な活動の描写から始まっています。これは、最初期の教会がイエス様の個人史よりもイエス様の活動とその意義のほうに関心を寄せていたことを示しています。
マタイとルカ(「ルカによる福音書」3章21〜38節)が福音書に記しているイエス様の系図もイエス様の人となりについて述べたものではなく、イエス様こそが旧約聖書に約束されていた真のメシアでありダビデの子であられることについての説明です。
西欧社会の人々にとってこのような考えかたはまったく異質なものです。彼らは「いつ、どこで、何が」という具体的な事柄に関心があるからです。最初期の教会の執筆者たちとは異なり、彼らは「なぜ、何のために」といったことはあまり考えようとしません。
「マタイによる福音書」の冒頭は、この福音書、ひいては新約聖書全体を旧約聖書と密接に結びつけます。こうすることによって、新約聖書に名前が記されている人物たちが何者であり、彼らについては旧約聖書のどの箇所に語られているか、と聖書の読者は考えるようになります。最初期の教会は「マタイによる福音書」を新約聖書の冒頭に置くことで、旧約聖書と新約聖書の間に緊密な相互関係が存在することを証していると言えます。それゆえ、旧約聖書なしに新約聖書を理解することは不可能なのです。
「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」
(「マタイによる福音書」1章1節、口語訳)
「キリスト」は元々ギリシア語であり、元々ヘブライ語である「メシア」と同様に「油を注がれた者」という意味をもっています。この福音書を通してマタイが書こうとしているのは世界的な偉人についての伝記ではなく救いの歴史です。この「救いの歴史」は、神様がどのようにして罪と死の隷属状態からこの世に生きる人々を解放してくださったのかを記述したものです。
イエス様はダビデの子、すなわち旧約聖書にその到来が約束されていたメシア、イスラエルの王だけでなく、アブラハムの子でもあられます(1章1節)。ここで、ユダヤ民族以外の諸民族もアブラハムの子孫であることを忘れてはなりません。とりわけパウロが「ガラテアの信徒への手紙」3章15〜18節で述べていることに注目してください(なお、パウロは同じ手紙の4章でもアブラハムについて説明しています)。すなわち、アブラハムはひとえに神様の恵みのおかげで救われたのです。最初から神様の目的は、イエス様による贖いの御業(神様が人類のすべての罪を、それを身代わりに引き受けて十字架で死なれたイエス様のゆえに帳消しにしてくださったこと)によって人類を救うことでした。旧約聖書の律法はその救いの御計画の中での一時的なひとつの段階に過ぎなかったのです(「ガラテアの信徒への手紙」3章19節〜4章7節)。
今日の王族にとっても王位継承権における優先順位は重要な問題です(例えば、日本の天皇制における皇位継承権)。ロシア革命後に暗殺された皇帝の正統な後継者であることを自認し、ロシア君主の称号を名乗る権利を自らに要求する人々が時おり現れてきますが、彼らのうちで自分がロシア全土を実際に統治できると本気で考えている者は誰ひとりいないでしょう。
マタイとルカが福音書を書き記した意図は、イエス様こそが、神様が御民に約束なさった真のメシアとしての支配者であることを示すことです。そのために、イエス様の系図はそれがダビデを経由していることを強調しつつ記されています(1章6節)。
この系図には、イエス様の母マリアに加えて、他の4人の女性の名が挙げられています。彼らは皆、特別な人物として描かれています。
1章3節には、義父のユダに自分の正体を明かさずに彼と寝ることで子どもを宿したタマルのことが書かれています。ユダはタマルを売春婦だろうと思ったのです。順々にタマルの夫となっていったユダの息子たちは、彼女に子どもを宿させることができなかったか、あるいは故意に避妊の手段をとりました。そして彼らは次々と死んでいったのです。ユダは最後に一人残った息子を夫としてタマルに与えたくはありませんでした。そのため、彼女は前述のような非常手段に訴えたのです。この出来事の詳細については「創世記」38章に記されています。
1章5節には、ラハブのことが書かれています。彼女はヨシュアが派遣したスパイを救い出したエリコの娼婦のことだと思われます(「ヨシュア記」2章)。彼女はその異民族(非ユダヤ人)の出自と娼婦という職業のゆえにユダヤ人たちから蔑まれていた女性でした。
1章5節には、ルツが出てきます。ルツは人々から好かれる善良な女性でした。しかし、ユダヤ人たちは彼女が憎むべきモアブ民族の一員であったことを問題視しました。ルツの人生については旧約聖書の「ルツ記」に記されています。
1章6節には、ウリヤの妻バテシバのことが書かれています。ダビデはバテシバを呼び寄せて姦淫しました。さらにダビデはその不倫を隠蔽するために戦場でウリヤを故意に敵の手により殺させました。なお、バテシバの夫ウリヤはヒッタイト人(口語訳では「ヘテびと」と書かれています)であったので、同じくバテシバもヒッタイト人であった可能性がありますが、これには確かな証拠がありません。この件(不倫と殺人)に関して神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わし、ダビデ王の犯した罪について厳しく戒められました。この出来事は「サムエル記下」11〜12章に記されています。
おそらくこの系図に記されている男たちの多くも望ましくない生きかたをしていたことでしょう。このリストに挙げられている王たちの多くは「主の目の前に悪を行った」と断罪されているからです(例えば「列王記下」23章37節)。
今まで述べてきたこれら四人の女たち(タマル、ラハブ、ルツ、バテシバ)のケースは、この地上において神様は欠点の多い私たち人間を通して働きかけざるを得ないことを私たちに想起させます。かりに神様が「完璧な人々」を通してのみ働かれるならば、神様は人間世界にまったく働きかけることができなくなってしまうことでしょう。
系図に記されているイエス様の先祖の中には、イサク、ヤコブ、ユダ、ダビデ、ソロモンなど、その名がよく知られている人々もいれば、ここに名前が記されていること以外は何も知られていない人々もいます。彼らが有名であったにせよ、さほど知られていなかったにせよ、彼らは世界史と救済史における最大の出来事、すなわち世の救い主イエス様の誕生に至る諸々の出来事において各々が役割を担うことになりました。今日でも、とりたてて特別な存在には見えないものの、神様から重要な使命を与えられて生きている人々がいるかもしれません。しかも、その重要な使命は彼らが死んだ後になってからようやく明らかになるものだったりします。その一方では、これとはまったく逆のケースも残念ながら起きてしまいます。「ヨハネの黙示録」によれば、世の終わりには神様に激しく敵対する人々も出現してくるのです。
ギリシア語では「アブラハムはイサクを生んだ」というように書かれています。この「生んだ」という表現は1章16節まで続いてから、突然変わります。その変化はマリアの夫ヨセフについての叙述の箇所で起きています。そこには「ヨセフがイエス様を生んだ」という記述はなく、「マリアがイエス様を生んだ」と書かれているのです。
ユダヤ人の考えかたでは、男性を「その母の息子」として名指しするのは非常に奇妙なやりかたと受け取られました。この表現はその男性が父親の実の子であるかどうか疑いが持たれているという意味合いを含んでおり、ほとんど侮辱に等しいものでさえあったからです(「ヨハネによる福音書」8章41節や「ルカによる福音書」3章23節(「人々の考えによれば、ヨセフの子」)も参照してください)。
マリアがヨセフと結婚することで、イエス様はダビデの家系に合法的に結びつけられました。
エッサイ(1章6節)はこの系図の中で重要な位置を占めています。旧約の預言者イザヤはメシアがエッサイの家系から生まれることについて次のように預言しているからです。
「エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。」 (「イザヤ書」11章1〜2節、口語訳)。
諸世代を合計した総数(14代の3倍)は神様の隠された導きに関連しているものかもしれません。ヘブライ語で「ダビデ」の名前を構成する各アルファベットのもつ数値の合計数は14です(4+6+4)。ヘブライ語ではそれぞれの文字には数字が対応しており、子音文字のみで表示されていました。その中のいくつかの子音は母音の役割も果たしていました。現在のヘブライ語旧約聖書にはあるような、子音文字とは別の母音記号は何世紀も後になってから本文に付記されたものです。
さらに、数14は2x7というかたちで「完全性」を表しているという解釈もあります。
系図の諸世代の第一部はこの系図の連鎖の中心人物の一人であるダビデ大王で終わっています。第二部は主にユダ(南王国)とイスラエル(北王国)の時代、第三部は捕囚期以降の時代に対応しています。第二部の期間は約250年、第三部の期間は約600年です。このことからは、この系図が通常の意味では完全なものではありえないことがわかります。系図によれば、第三部の時代の世代交代は平均42年ごとに起きたことになりますが、これは当時として現実的にはありえない長さでした。長子は普通ならば42歳よりもはるかに若い年齢の父親に生まれるものだったからです。
ユダヤ思想における「父」の概念は西洋思想での「父」よりも広い意味を持っていることをここで覚えておいてください。祖父や曽祖父でさえ「父」と呼ばれる場合があり、私たちが「父祖」と呼ぶような人たちをもユダヤ人たちは「父」と呼んでいたのです。マタイは捕囚期以後の人々の中から「選び出した」人物たちの名前を系図に記したもののようです。おそらくマタイはこの第三部の期間にもちょうど14人の名前を入れたかったのでしょう。
残念なことに、聖書特有の言い回しはしばしば私たちの文化の価値基準によって批判されたり、「間違い」と断罪されたりする場合もありました。しかし、私たち「素人」が例えば原子力発電所の原理を「説明」するならば、その分野の専門家は「それは正しい説明とは言い難い」と答えることでしょう。逆に、その専門家が同じことを正しく説明したとしたら、私たちは自分が何も理解していなかったことを認めざるを得ないでしょう。神様は御自身のメッセージを人々に理解してもらうために、当時の用語や文化を用いられたのです。ですから、私たちが聖書に書かれたメッセージを正しく理解するために当時の文化をよりよく知る努力をするべきなのです。もちろん、このような問題はめったに起こりません。このことを問題視するのは、聖書を科学の光に照らして科学の手段で研究しようとする「賢すぎる人たち」だけであると言えるかもしれません。
系図の第三部には13人の名前しかありませんが、エコニアすなわちエホヤキン(「歴代志下」36章9節)も捕囚後の時代に属する王として第三部に含めて計算されているのでしょう。14人目が誰であるかを説明するもう一つのやりかたは、エホヤキム王(「歴代志下」36章5〜8節)が第三部に暗に含まれているとみなすことです。なお、その前任者エホアハズ王(「歴代志下」36章1〜4節)の名前も系図には欠けています。このように、このリストは(私たちの考えかたや文化に基づく視点からすると)完全なものではなく、またそのように意図されたものでもないことがわかります。聖書を編纂する過程のある時点で前述のエホヤキムが「マタイによる福音書」の系図のリストから漏れたのは、それがヘブライ語ではエホヤキン(すなわちエコニア)とほぼ同じ形の単語であるために起きたのであろうことを推測するのは難しくありません。そしてこのことは、「系図のリストは(もちろん)最初はヘブライ語で書かれたものだったが、複写される際に書き間違いが生じた可能性がある」という説を支持します。
なお、ルカの系図はマタイの系図とは大きく異なっています。ルカの系図は実は「マリアの系図」であるという説もあるほどです。しかし、私たちには当時の資料が十分にないため、この問題には明確な答えが与えられないままになっています。
マタイ1章18〜25節 イエス様の誕生
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。」
(「マタイによる福音書」1章18〜19節、口語訳)
婚約(1章18節)は結婚の第一歩でした。婚約が解消された場合、解消した側は解消された側に賠償金を支払うか、婚約解消の正当な理由を提示する義務がありました。当時の婚約は実質的には結婚の約束あるいは契約であり(19節)、花嫁の代価を花嫁の父に支払わなければなりませんでした(「申命記」22章28〜29節)。
結婚を公に認証すること(18節)は婚姻の儀と花婿の家への花嫁の引っ越しという、具体的な結婚生活の開始を意味するものでした。それゆえ、婚約した当人同士はすでに「夫婦」と呼ばれてもおかしくない社会的立場だったことになります。例えば、婚約中に男性が死んだ場合には、彼と婚約していた女性は未亡人とみなされました。
結婚する前にマリアが子を宿したと知ったヨセフは、当然ながらマリアが結婚の誓いを破って姦淫を犯したのではないかと考えましたが、マリアを公に貶めるつもりはなかったため、人目を避けてひそかにこの婚約を解消しようとしました(19節)。
「彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」。」
(「マタイによる福音書」1章20節、口語訳)
「処女懐胎」は私たち人間の理性がすんなりと受け入れられるような出来事ではありません。それゆえ、ヨセフは「主の使」を通して神様から御言葉をいただく必要があったのです(20節)。この世界に古くから続いてきたすべての伝統的なキリスト教会が共有する基本信条である三つの信仰告白(使徒信条、ニケヤ信条、アタナシオス信条)は、そのいずれもがイエス様の処女懐胎を明確に「信条」として述べていることをしっかりと心に刻んでおきましょう。キリスト教会の基本信条に明言されている「処女懐胎」は、人々が受け入れても拒否してもかまわないような 「些事 」などでは決してありません。
神学的にみると「処女懐胎」は、イエス様の誕生が人間にとっては普遍的である順序を経ずして起きた出来事であることを証しており、イエス様が生まれながらの罪(すなわち原罪)に塗れずにこの世に誕生なさったことの明確な「しるし」であるとみなされてきました。ギリシア語原文では、他の人々の誕生について語られるときには「生まれさせる」(ギリシア語の「ゲンナオー」)という動詞の能動態が用いられています。それに対してイエス様の誕生の箇所では、同じ動詞の受動態(アオリスト形)が用いられることによって、「人間によって」ではなく「聖霊様によって 」イエス様がお生まれになったことが強調されています。このことに注目してください。
「「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。」
(「マタイによる福音書」1章21節、口語訳)
「イエス」という名前はギリシア語で、「主は救う」という意味のヘブライ語「ヨシュア」に由来しています。これは「Nomen est omen」(「名前は前兆である」)というラテン語のローマの諺がよくあてはまる例になっているとも言えましょう。
1章21節は、「イエス様は御自分の民をその罪から救われる」という、イエス様に関わる神様の御計画の内容を宣言するものになっています。イエス様が人としてこの世にお生まれになったのは実にこのためだったのです。
「「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。
その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
これは、「神われらと共にいます」という意味である。」
(「マタイによる福音書」1章23節、口語訳)
来るべきメシアをめぐる旧約聖書の預言がイエス様によって成就されたことを強調するのは「マタイによる福音書」に典型的に見られる特徴です(23節)。例えば、前述のイエス様の誕生は「処女懐胎」というイザヤの預言(「イザヤ書」7章14節)の成就でした。
イエス様は地上で生活し活動しておられた時には「インマヌエル」と呼ばれることはなかったようです。それでも「マタイによる福音書」の最後の節を読むと、イエス様がその名にふさわしく生きられたことがわかります。しかも、このことは使徒たちの時代だけではなく世の終わりにいたるまですべての時代に当てはまることなのです。
「ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。」
(「マタイによる福音書」1章24節、口語訳)
上節は実際の結婚の始まりについて述べています。ルカはイエス様の誕生の箇所でマリアに対して「婚約者」という言葉(ギリシア語で動詞「ムネーステウオー」の中動相完了分詞の女性形)を何度も使用しています(「ルカによる福音書」2章5〜6節)。どの時点でヨセフとマリアの結婚が始まったのかはわかりません。ちなみに、イエス様の誕生に関するマタイとルカの記述は互いに相違点はあるものの矛盾はしていないと言えます。おそらくこれは、彼らがそれぞれ異なる原資料から情報を得ていたということによって説明できるでしょう。使徒パウロの宣教旅行の同行者の一人であったと思われるルカは、パウロが投獄されていた(少なくとも)2年間を利用して、生前のイエス様を知っていた人々や、とりわけイエス様の母マリアに、インタビューをする機会があったのかもしれません。また、イエス様の実弟ヤコブが西暦40年代から62年に殉教するまでエルサレムの初代教会の指導者であったことも忘れてはなりません。なお同じ出来事について、マタイの記述はヨセフの視点から、ルカの記述はマリアの視点から書かれていると言われることもあります。
「しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。」
(「マタイによる福音書」1章25節、口語訳)
上節はローマ・カトリック教会の「マリアの永久処女性」の教義と矛盾しています。新約聖書は、イエス様の誕生後、マリアとヨセフは普通の結婚生活を送ったという印象を与えます。従って「マルコによる福音書」6章3節で言及されているイエス様の兄弟はイエス様の実の兄弟であって、ローマ・カトリック神学が説明するような「いとこ」ではないと考えるのが自然です。