マタイによる福音書27章 私たちのために王は苦しみを受けて死なれた

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

ピラトに引き渡されるイエス様 27章1〜2節

「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。」
(「マタイによる福音書」27章1〜2節、口語訳)

夜に行われた最高議会(サンヘドリン)の会議とそれによる議決(26章65〜66節)は法的には無効なものでした。それゆえ、朝になってから(27章1節)新たに正式な会議が開かれました。今回は神殿敷地内のサンヘドリンの会議場にて開催されたものと思われます。

ヘロデ大王の息子アケラオはユダヤを約十年間統治していました。しかし、彼の無謀なやりかたに辟易したローマ人たちはユダヤを帝国の属州とし、新たな統治者として「総督」(ラテン語で「procurator」(プロクラトル))を任命するようになります。

ポンテオ・ピラトはその第5代総督であり、西暦26年から36年まで在任しました。ユダヤ人歴史家ヨセフスは彼を頑なで残酷な統治者として描写しています。「ルカによる福音書」13章1節には「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。」とあります。それゆえ、ユダヤ人の指導者たちはイエス様を処分する件についてピラトがイエス様に有罪判決を下すようにしむけるのは容易いと考えたのではないでしょうか。

通常、総督は地中海沿岸の行政都市カイザリヤに拠点を置いていました。しかし過越祭の時期には、祭の最中に騒乱が起こる恐れがあったエルサレムの秩序維持を目的として現地へ赴くことになっていました。

民を煽動し皇帝への税金を納めることを禁じ「自分こそ王なるキリストだ」と主張しているという罪状でイエス様はピラトの前で告発を受けたとルカは記しています(「ルカによる福音書」23章2節)。ユダヤ人の指導者たちはイエス様を是が非でも死刑にしなければならないと考えていました。ローマ式の処刑法である十字架刑は彼らにとってまさにうってつけでした。前述したように、そうすればイエス様は神様に呪われた存在とみなされ(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)、もはや誰ひとりイエス様とその教えに従わなくなるだろうと彼らは考えたのです。しかし、当時のローマ人たちは死刑判決を下す権利をユダヤ人たちから剥奪していました。「ヨハネによる福音書」18章31節には「そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。」とあります。後にキリスト信仰者として最初に殉教することになるステパノはユダヤ人の処刑法である石打ちの刑によって殺されました。実はこの処刑もローマに対する違法行為だったのです(「使徒言行録」7章54節〜8章1節)。

ユダの最後 27章3〜10節

ユダの最後について記しているのはマタイとルカだけです(「使徒言行録」1章16〜19節)。マタイとルカの記述の間には互いに矛盾しているように見える点があります。例えば、ルカはユダが「不義の報酬で、ある地所を手に入れた」と述べているのに対して、マタイはユダヤ人の指導者たちが「協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った」(「マタイによる福音書」27章7節より)と記しています。しかしこの相違点は、ユダがその地所を購入するために頭金を支払い、ユダヤ人の指導者たちがユダの死後その地所の購入を法的に完了させたからであるという説明の仕方もできます。

例えば、一見非常に矛盾し錯綜した状況から始まる犯罪映画が多いものです。しかし、警察や探偵が事件について少しずつより多くの情報を得ていく中で事件の真相が徐々に明らかになっていきます。残念ながら、聖書の多くの出来事については、現代の私たちには十分な情報がありませんし、これ以上新しい情報も手に入りません。とはいえ、あまりにも少ない情報に基づいてマタイとルカの二つの短い記述が決定的に矛盾していると断言するのは早計です。

「そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。」
(「マタイによる福音書」27章3〜4節、口語訳)

「マタイによる福音書」で、ユダが後悔の念に駆られた出来事がペテロの悔い改めの出来事(26章69〜75節)のすぐ後に置かれているのは明らかに意図的なものでしょう。これらの二つの「後悔」の結末は互いに全く異なっています。元々、ギリシア語聖書の原文には節や章の区切りがありませんでした。節や章で区切られてしまうと、どうしても私たちは隣り合う二つの出来事の記述の間に実際よりも大きい「境界線」を引いた上で理解しようとしがちです。ユダの最後の出来事はおそらくイエス様の死後に起こったものと思われます。聖金曜日にユダヤ人の指導者たちはイエス様の案件処理のために非常に忙しく、ユダのことを考える余裕などはなかったことでしょう。

3節は、苦境に追い込まれたイエス様が「神的な力」を発揮してくれるものとユダが期待していたらしいことを示唆しています。しかし、イエス様が死刑を宣告されるに至り、ユダは絶望することになります。この出来事はいかに私たちが自らの罪のせいで霊的・信仰的なものの見方を失ってしまうかという警鐘でもあります。

「こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。」
(「マタイによる福音書」27章9〜10節、口語訳)

このユダの出来事の箇所にはもう一つ問題があります。マタイは9〜10節の引用は「エレミヤ書」からのものだと述べています。しかし、内容的に最も近い旧約聖書の箇所はむしろ「ゼカリヤ書」11章12〜13節なのです。そこには「わたしは彼らに向かって、「あなたがたがもし、よいと思うならば、わたしに賃銀を払いなさい。もし、いけなければやめなさい」と言ったので、彼らはわたしの賃銀として、銀三十シケルを量った。主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。」と記されています。ところがこの「ゼカリヤ書」の該当箇所をよく読んでみると、そこには「地所の購入」についての記述が見当たりません。もしかしたら当時の「エレミヤ書」には「地所の購入」について記されていたのに現在ではもう残っていないのかもしれません。あるいは、マタイのこの箇所での説明は上述の「ゼカリヤ書」11章12〜13節に加えて旧約聖書の他の複数の箇所(例えば「エレミヤ書」18章2〜12節および19章1〜13節および32章6〜9節)を組み合わせたものであって、それゆえにマタイの引用は大預言者エレミヤに帰せられたのかもしれません。この問題は私たちには今でも謎のままになっています。

6節で、ユダヤ人の指導者たちはユダに渡した金銭がいわば「殺人のための代金」であったことを認めています。そのため、ユダの返却した金銭を神殿の宝物庫に入れることは不適当であるとされたのです。例えば「申命記」23章18〜19節では、不正によって得た金銭を神様にお仕えするために使用することを禁じています。

ピラトの面前でのイエス様 27章11〜26節

「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。」
(「マタイによる福音書」27章11節、口語訳)

ユダヤ人の指導者たちがイエス様を死刑にするためにはローマ法で死刑に相当する罪状の告発をローマ総督に提出しなければなりませんでした。そのために彼らは「イエスは地上での救世主、すなわち(ローマに対する)反乱の首謀者である」と告発しました。それゆえ、ローマ人の地方総督ピラトはイエス様に「あなたがユダヤ人の王であるか」と尋ねたのです(11節)。

ピラトの質問へのイエス様の返答は二通りに解釈することができます。まず、それはピラトに肯定的に答える「自白」として受け取ることができます。しかしまた、「あなたの主張はあなた自身の解釈に過ぎない」という否定的な答えとして捉えることもできます。

この状況で被告は立っており、裁判官は座っていました。

「しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。」
(「マタイによる福音書」27章12〜14節、口語訳)

ここでイエス様は告発者たちの前で再び沈黙します(12〜14節)。イエス様は以前すでに大祭司の面前でも沈黙し(26章63節)、3度目にはピラトの面前でも沈黙なさいました。「ヨハネによる福音書」19章9節には「もう一度官邸にはいってイエスに言った、「あなたは、もともと、どこからきたのか」。しかし、イエスはなんの答もなさらなかった。」とあります。こうして次の「イザヤ書」の預言が成就しました。

「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
口を開かなかった。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
口を開かなかった。」
(「イザヤ書」53章7節、口語訳)

過越の祭(イスラエルの民がエジプトでの隷属状態から解放されたことを覚えて祝う祭)の時期に囚人を一人解放するというユダヤ教の慣習は福音書にのみ記されており、他の世俗的な歴史書には何も記述がありません。しかし、当時の歴史について私たちが知っている事柄はごくわずかにすぎないことを忘れるべきではありません。

イエス様ではなく、当時捕まっていた者たちの中で最悪の犯罪者だったと思われるバラバのほうをピラトは今回釈放する囚人に選びました。バラバは殺人を犯した反逆者でした。「ルカによる福音書」23章19節には「このバラバは、都で起った暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。」と記されています。「民衆は当然イエスの釈放のほうを望むだろう」とピラトは考えていました。「枝の主日」(イエス様がエルサレム入城を果たされた主日)からまだ一週間も経っておらず、エルサレム全体はイエス様の支持者たちで溢れかえっていたからです(21章10〜11節)。

ところが、民衆はユダヤ人の指導者たちに煽動されてバラバの釈放をピラトに要求してきました。民衆に決定権が与えられたという意味で、この出来事は聖書の中で唯一の「民主的」な裁決であったという見方もできるでしょう。これからわかるように、真実や真理は「国民投票」によって決められるべきものではありません。とりわけ今日、私たちはこのことを心にしっかり留めておく必要があります。民衆によって下された裁判とその判決の招いた凄惨な結末についての事例が人類の歴史にはたくさんあります。

イエス様の受苦の出来事において私自身の受け持つ「役割」はバラバの役割です。イエス様は私が罪と死と悪魔の力とから解放されるために私の身代わりとして死んでくださったのです。なお伝説によると、バラバは後にキリスト教徒になったとも言われています。

いくつかの写本ではバラバの名前は「イエス・バラバ」となっています。バラバは「父の子」という意味があり、当時ではありふれた名前でした。「バラバ」はアラム語で「バル」((誰かの)息子)と「アッバ」((特定の)父)の組み合わせからできています。

ピラトの妻からのメッセージ(19節)についてはマタイだけが記しています。伝承によれば、彼女の名前はクラウディア・プロクラ(Claudia Procula)であり、イエス様の裁判の過程においてイエス様を「弁護」した唯一の人物です。

「ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。」
(「マタイによる福音書」27章22節、口語訳)

22節はピラトがイエス様を釈放しようとした最後の試みについてです。もちろん本来ならば、裁判官は民衆あるいは他の誰かに「被告にどのような判決を下すべきか」などと尋ねるべきではありません。しかし、ピラトはユダヤ人指導者たちの機嫌を取ろうとして、ますます危険な道に足を踏み入れ、彼らの言うままになるという苦しい立場に追い込まれていきました。その意味では、この時のピラトは裁判官として失格です。イエス様が無罪であることを何度も確認したにもかかわらず(「ヨハネによる福音書」18章23節および19章4節)、イエス様に死刑を宣告したからです。そして、彼が歴史に名を残したのはイエス様に死刑判決を下したからにほかなりません。ユダヤ人の指導者たちの最終目的はイエス様が十字架にかけられて死刑に処されることでした(27章1節を参照してください)。

イエス様に死刑を下したこのタイミングで「手を洗う」のはユダヤ人の慣習でした(「申命記」21章6〜8節、「詩篇」26篇6節および73篇13節)。しかし、その行為の意味をその場に居合わせたユダヤ人以外の諸国民も理解していたのはたしかです。

「すると、民衆全体が答えて言った、
「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。」
(「マタイによる福音書」27章25節、口語訳)

民衆はイエス様を殺害することについての責任を自ら負うことに同意しました(25節)。しかし、後にペテロとヨハネがユダヤ人の最高議会(サンヘドリン)の面前に立ったとき、ユダヤ人の指導者たちは自らの責任から逃れようとしました。「使徒言行録」5章28節には「あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。」とあります。

この箇所でのユダヤ人の民衆の叫びはその後の幾多の時代において何度も繰り返してユダヤ人迫害を正当化するために使われてきました。しかし、ここにはもう一つの側面があります。イエス様の血はユダヤ人たちの罪を清めるためにも流されたということです。

「そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」
(「マタイによる福音書」27章26節、口語訳)

鞭打ちは死刑執行に至る過程の一部でした(26節)。多くの者は鞭打ちの段階ですでに命を失いました。それゆえ、鞭打ちの後も意識を保って生き残った者はほとんどいないほどでした。鞭には三本の革紐が付いており、そこには金属片や骨片、陶器の破片などが結びつけられていました。

嘲笑にさらされるイエス様 27章27〜31節

ローマ軍は職業軍人の集団であり、ユダヤ人はそこには含まれていませんでした。ローマ軍はユダヤ人兵士をユダヤの民衆のもとに派遣したくなかったのです。残念ながら、(軍事活動などの)絶え間ない残虐行為を目にする機会が増えるにつれて人の心は次第に麻痺し頑なになっていきます。

「官邸」(27節)はおそらくアントニア城を指しているものと思われます。この場所にローマ人の総督はエルサレム滞在中に居住していました。「全部隊」は600人の兵士から構成される部隊を指しています。イエス様はそのような集団の前に連行されて嘲笑にさらされたのです。

「そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。」 (「マタイによる福音書」27章28〜29節、口語訳)

イエス様は「偽の王」という扱いを受けました(28〜29節)。この「ユダヤ人の王、ばんざい」という挨拶(29節)は皇帝への「アヴェ・カエサル!」(ラテン語で「Ave Caesar!」)という挨拶に似ています。イエス様の十字架への道筋をたどるヴィア・ドロローサ(ラテン語で「Via Dororosa」で「悲しみの道」という意味になります)はアントニア城から始まります。もちろん現代の催し物としてのヴィア・ドロローサではイエス様の時代とはまったく異なるルートを辿っていきます。

嘲笑は次第に暴力へとエスカレートしていきます(30節)。

イエス様は御自分の元の上着に再び着替えさせられましたが(31節)、いばらの冠はイエス様の頭の上に残されたままでした。「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者はイエス様が「死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る」と述べています(「ヘブライの信徒への手紙」2章9節)。しかし、ここではまだイエス様は「栄光とほまれ」ではなく恥辱を受けて続けていました。

十字架につけられるイエス様 27章32〜44節

マタイはユダヤ人を主たる対象読者と想定してこの福音書を書き記しました。ユダヤ人たちにとって十字架刑はおぞましいものであり、その受刑者が神様に呪われた者となり果てたというしるしでした。そのためか、マタイは十字架刑そのものについてはあまり多くを語っていません。

「彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。」
(「マタイによる福音書」27章32〜34節、口語訳)

複数の福音書の間の記述を相互に比較して「矛盾」を見つけようとするのは簡単です。例えば32節は、クレネ人シモンがイエス様の十字架を代わりに最後まで担いだことを示唆しているようにも受け取れます。その一方で「ヨハネによる福音書」19章17節は、イエス様が最後まで御自分で十字架を担がれたとも解釈できます。しかし32節を注意深く読み込むと、「正答」が見つかり矛盾は消えます。要するに、この道のりの最初のうちはイエス様自身が十字架の横木を担いでおられたのです。このシーンをテーマとする絵画美術にしばしば描かれているように十字架全体を担いでおられたのではありません。ある時点でイエス様はもはや耐えられなくなり、ローマ兵たちがクレネ人シモンに残りの道のりの間は十字架の横木をイエス様の代わりに担がせたのです。これと同様の「矛盾」は44節にも指摘されてきました。ルカ(「ルカによる福音書」23章40節)とは異なり、たしかにマタイは二番目の強盗の悔い改めについては言及していません。しかしだからといって、それは起こらなかったという結論も出せないはずです。

クレネは北アフリカ(現在のリビア)の地域にありました。クレネ人はエルサレムに独自の会堂を持っていました。「使徒言行録」6章9節には「いわゆる「リベルテン」の会堂に属する人々」が出てきます。

「ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所」(33節)は岩の形にちなんで名付けられたもののようです。いわゆる「ゴードンのゴルゴタ」は聖墳墓教会周辺と比べて少なくとも雰囲気的には元のゴルゴタにより近いもののようです。やはりそれでも、聖墳墓教会こそが元のゴルゴタがあった場所であろうと推定されています。その場所は町の外にありました。「ヘブライの信徒への手紙」13章12節には「だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。」とあります。

イエス様に「にがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとした」理由(34節)は定かではありませんが、おそらくイエス様の痛覚を鈍くして苦しみを和らげるためだったのでしょう。

「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、そこにすわってイエスの番をしていた。そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。」
(「マタイによる福音書」27章35〜37節、口語訳)

四人の「兵卒たち」(「ヨハネによる福音書」19章23節)はイエス様の衣を分け合いました(35節)。これは処刑人の特権でした。死刑執行が完了するまでの待機時間は思いのほか長引くことがあったため、番兵たちには座って待つことが許されていました(36節)。くじ引き(35節)は「詩篇」22篇19節(口語訳では18節)ですでに預言されていた出来事です。

ピラトはイエス様の有罪判決の罪状をヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書き記したとヨハネは伝えています(「ヨハネによる福音書」19章20節)。この石板は死刑囚の目の前か、あるいは本人の首にかけて運ばれました。有罪判決の罪状のラテン語形はINRIです。これはIesus Nazarenus, Rex Iudaeorumというラテン語の略称で「ナザレ人イエス、ユダヤ人の王」という意味になります。この有罪判決の罪状はローマへの反逆罪という政治的な意味合いを帯びています。

イエス様の頭上の石板は十字架が短剣の形をしていたことを示しています。イエス様がかかる十字架の形としては他にX字型やT字型の十字架になってもおかしくはありませんでした。

「同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。」
(「マタイによる福音書」27章38節、口語訳)

「ふたりの強盗」(38節)は旧約聖書の預言の成就の一つです。メシアは罪人たちと共に数えられることになっていたからです。「イザヤ書」53章12節には「とがある者と共に数えられた」とあります。

ユダヤ人の指導者たちも「そこを通りかかった者たち」も一緒にイエス様を「嘲弄」しました(40〜41節)。ユダヤ人の最高議会(サンヘドリン)の三つのグループ(祭司長たち、律法学者たち、長老たち)がそろってその場に居合わせていました(41節)。処刑場が人々の繁く行き交う道路沿いにあったのは明らかでしょう。ローマ人たちはローマへの反乱を企てる者たちの惨めな末路をできるだけ効果的に民衆に印象付けようとしたからです。

「「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。」
(「マタイによる福音書」27章42〜43節、口語訳)

イエス様に対する最初の告発について群衆は「イエスは自分が神であるかのようなふりをして神を冒涜した」と嘲笑しました。ここにも福音書の「大いなる矛盾」の一つが見られます。群衆はイエス様を神様に対する冒涜罪で告発することによって、実際には神様御自身を嘲笑っていたことになるからです。

「十字架からおりて」くることによって、イエス様はこの状況から身を守ることもできました(42節)。しかし、もしもイエス様がそうなさっていたら、誰一人(現代の私たちも含めて)救われることはできなくなったのです。

43節は「詩篇」22篇9節(口語訳では8節)に言及しています(「「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。」)。

44節は誰がイエス様を嘲笑したのかについて次のように記しています。「一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった」のです。

イエス様の死 27章45〜56節

「さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。」
(「マタイによる福音書」27章45節、口語訳)

真昼に3時間も暗かった(45節)のは日食が原因ではあり得ません。過越祭は常に満月の時に行われるからです(満月の時には太陽・地球・月がこの順で一直線に並び、日食の時には太陽・月・地球がこの順で一直線に並びます)。さらに、日食がそれほど長い時間続くはずもありません。「砂漠から砂塵が舞い上がり空を覆ったために昼間なのに暗くなった」という「自然な説明づけ」も一応は可能かもしれません。しかし、この現象は明らかに神様からの「しるし」だったのです。旧約の預言者アモスは「その日」(メシアの日、審判の日)に太陽が正午に沈む不思議な現象が起こることについて次のように述べています。

「主なる神は言われる、
「その日には、
わたしは真昼に太陽を沈ませ、
白昼に地を暗くし、
あなたがたの祭を嘆きに変らせ、
あなたがたの歌をことごとく悲しみの歌に変らせ、
すべての人に荒布を腰にまとわせ、
すべての人に髪をそり落させ、
その日を、ひとり子を失った喪中のようにし、
その終りを、苦い日のようにする」。」
(「アモス書」8章9〜10節、口語訳)。

「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」
(「マタイによる福音書」27章46節、口語訳)

イエス様の叫び声をマタイはヘブライ語で(46節)マルコはアラム語でそれぞれ書き留めています(「マルコによる福音書」15章34節(「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」)。アラム語でイエス様は叫ばれたと考えられています。この言葉は「詩篇」22篇2節からの引用です。ユダヤ教の考えかたによれば、ある「詩篇」の冒頭の言葉はその「詩篇」全体を含意していました。したがって、ここでの「詩篇」22篇2節からの引用には「詩篇」22篇の終結部の勝利の喜びに満ちた輝かしい視点も含まれていることになります(「詩篇」22篇20〜26節)。

イエス様のこの言葉は神様が罪に対してどれほど厳格な処分を下されるかを示しています。罪とはたんなる意見の相違などではなく、神様と分離されてしまう原因になる重大なものです。その深刻さは罪なき神様の御子にさえ適用されるほどでした。

罪なきイエス様は罪深い私たちの身代わりとして「のろい」となられました(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた」のです(「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節より)。裁きはイエス様の上に臨みました。「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされた」のです(「イザヤ書」53章5節より)。17世紀のフランスの哲学者ブレーズ・パスカルは「無限の神が有限の瞬間に苦しむことは、有限の人間が無限の時間に苦しむことに等しい!」と述べています。

「するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。」
(「マタイによる福音書」27章48〜49節、口語訳)

「酢いぶどう酒」(48節)は発酵のしすぎで一部が酢に変わってしまったぶどう酒のことです。傍観者の中にはイエス様にささやかな善行を施すことさえ妨げようとする者たちがいました(49節)。

「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。」
(「マタイによる福音書」27章50〜53節、口語訳)

イエス様の最期の言葉(50節)について、ルカは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(「ルカによる福音書」23章46節)、ヨハネは「すべてが終った」(「ヨハネによる福音書」19章30節)とそれぞれ記しています。

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」こと(51節、「出エジプト」26章33節も参照してください)は至聖所が開かれたことを示す「しるし」でした(「ヘブライの信徒への手紙」10章1〜22節)。至聖所は神様の住まいであり、神様御自身の御許に至る通路に相当しました。ここで重要なのは幕が裂けた方向です。「上から」すなわち天から下界(この世)に向かって裂けたのです。これは神様がその隔ての壁を引き裂かれたことを表しています。旧約の時代には大祭司のみが年に一度、大贖罪の日にかぎって至聖所に入るのを許されていました。「レビ記」16章2節には「主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。」とあります。イエス様の時代には至聖所の内部は空でした。紀元前586年にバビロニヤの軍隊が神殿の聖具を戦利品として略奪していったため、本来ならそこに置かれてあるべき聖具が失われてしまったからです。その幕の大きさは高さ18メートル、幅9メートル、厚さ5センチメートルでした。ユダヤの伝承によると、その時、神殿では戸口の敷居に亀裂が入るなど奇妙な現象が起きたとされています。

死者たちの復活について語っているのはマタイだけです(52節)。これは彼にとって重要なしるしでした。この点でも旧約の預言が成就したことになるからです。「イザヤ書」26章19節には「あなたの死者は生き、彼らのなきがらは起きる。ちりに伏す者よ、さめて喜びうたえ。あなたの露は光の露であって、それを亡霊の国の上に降らされるからである。」とあります。また「ダニエル書」12章2節も参考になります。「マタイによる福音書」が元々の対象とした読者層は異邦人たちではなく、旧約聖書に預言されたこれらの出来事についてよく知っているユダヤ人たちでした。

54節の「まことに、この人は神の子であった」というローマの百卒長の証言はイエス様の生涯の最後の瞬間を目撃した者の言葉として福音書に記録保存されることになりました。

ヨハネはイエス様の母マリアとヨハネ自身も十字架の下にいたと記しています(「ヨハネによる福音書」19章26節(「その母と愛弟子」))。マルコはゼベダイの子たちの母をサロメと呼んでいます(「マルコによる福音書」15章40節)。ここで、マタイの「その中には」(27章56節)という言葉に注目してください。聖書に名前で言及されている人々だけがそこにいたのではなかったのです。

イエス様の埋葬 27章57〜66節

「夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。」
(「マタイによる福音書」27章57〜60節、口語訳)

夕方になり、日没とともに安息日が午後6時頃に始まりました。死者の埋葬はそれまでに済ませなければならなりませんでした(57節)。ローマ人は死刑囚を正式に埋葬はせず、ゴミ捨て場か、よくても集団墓地に投げ込みました。これは死んだ犯罪者に対する追加の罰でした。一方、ユダヤ人には死刑囚を日没前に埋葬しなければならないという律法がありました。「申命記」21章22〜23節には「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」とあります。

この時点でアリマタヤのヨセフはひそかにイエス様の弟子となっていました(「ヨハネによる福音書」19章38節)。彼は以前すでに最高議会(サンヘドリン)の面前でイエス様を弁護したことがあります(「ルカによる福音書」23章50〜51節)。今、神様はこのヨセフに一つの使命をお与えになりました。神様はその墓をイエス様のこの地上での最後の安息の場所となさり、こうして「イザヤ書」53章9〜12節の預言を成就なさったのです。

「彼は暴虐を行わず、
その口には偽りがなかったけれども、
その墓は悪しき者と共に設けられ、
その塚は悪をなす者と共にあった。
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって、
多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。」
(「イザヤ書」53章12節、口語訳)

アリマタヤはエルサレムの北西約30キロメートルのところにありました。

ピラトがイエス様の遺体をヨセフに渡すという判断をしたのは(58節)、彼の感じていた良心の呵責と、ヨセフがユダヤ社会で高い地位の人物であったことに関係があると思われます。そして、イエス様が埋葬された墓はイエス様が復活された証拠の一つとなりました。

ヨセフはイエス様の遺体を「岩を掘って造った彼の新しい墓に納め」ました(60節)。この墓は当時ごく最近に作られた墓であったということになります。

中近東には墓を掘ることができるような土地はほとんどありません。しかし、岩盤は石灰岩からできているため、岩を掘る採石作業自体は比較的容易です。それゆえ、そこには墓として用いられる洞窟が作られてきたのです。

墓は穴に丸い石を転がして封印されました(60節)。

イエス様に遺体が墓に納められるのを目撃した二人の女性(61節(「マグダラのマリヤとほかのマリヤ」))は過越祭の早朝(「週の初めの日の明け方」)にもイエス様の墓を見にきてイエス様が復活されたことの証人となりました(28章1節)。そのうちの一人の名前はギリシア語原文では「マリアム」と表記されています。これはヘブライ語ではモーセの妹である「ミリアム」と同じ名前にあたります(「出エジプト記」15章20〜21節)。

埋葬に立ち会った人々は7日間(宗教的な意味で)汚れた者とみなされ、過越祭にも参加できませんでした。アリマタヤのヨセフと同じようにユダヤ人の高位の役職にあったニコデモもアリマタヤのヨセフと共にイエス様の埋葬の場にいたとヨハネは記しています(「ヨハネによる福音書」19章39節)。

「あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。」
(「マタイによる福音書」27章62〜64節、口語訳)

62節は「日時」について奇妙で複雑な書きかたをしていますが。要するに、それは安息日すなわち土曜日に起きたのです。

「祭司長、パリサイ人たち」などのユダヤ人の指導者たちが言及している以前起きた最初の騒動(64節)というのは「イエスがメシアのふりをして民衆をだました」という言いがかりのことです。

63節からもわかるように、イエス様の反対者たちは実のところイエス様の弟子たちよりもイエス様の復活の預言のことをよく覚えていました。

「ピラトは彼らに言った、
「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。」
(「マタイによる福音書」27章65〜66節、口語訳)

墓の番人たち(65節)も墓の封印(66節)と同様に意図せずにイエス様の復活についての証人や証拠となりました。なお、番人たちについては28章11〜15節にも言及されています。

イエス様の墓はゴルゴタの近くにありました。「ヨハネによる福音書」19章41節には「イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。」をあります。聖墳墓教会の跡地がこの墓の元々あった場所であろうと考えられています。西暦132年、ユダヤ人たちはローマ帝国に対して最後の反乱を起こしました。その反乱が鎮圧された後(西暦135年)、ローマ帝国は故意にこの同じ場所に異教の神殿を建てました。彼らはキリスト教徒たちをユダヤ教のひとつの分派にすぎないものとみなしていたため、こうすることでイエス様の墓のあった場所でキリスト教徒たちが信仰集会を開くことを阻止しようと目論んだのです。西暦4世紀にキリスト教がローマ帝国で公認されると、この異教の神殿は撤去され、その下からは福音書の記述と一致する場所が発見されました。しかし1009年、エジプトのカリフはこの場所を破壊して岩を砕いてしまいました。