マタイによる福音書24章 将来何が起こるのか?

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

24〜25章は「マタイによる福音書」におけるイエス様の教えの最後の部分になっています。24章でイエス様は終末においてキリストの再臨の前に何が起こるのかについて教えておられます。

神殿の破壊 24章1〜2節

エルサレムには三つの神殿がありました。

最初の神殿はソロモン王が紀元前十世紀に建てさせた神殿ですが、紀元前586年にエルサレムがバビロニヤに征服された時に破壊されました。

紀元前538年にユダヤの民がバビロン捕囚から故郷への帰還を許されると、神殿の再建設も始まりました。しかし、エルサレム周辺に居住していた諸国民の反対や妨害工作を受けて建築工事は長期間の中断を余儀なくされます。そのため、「ゼルバベルの神殿」と呼ばれることになる神殿は紀元前515年になってようやく完成しました。このゼルバベルの神殿は破壊こそされませんでしたが、紀元前20年にヘロデ大王はもっと大きな神殿を新たに建てるように命じました。ユダヤの民は(ヘロデの神殿を除く)上記の「二つの神殿」しか認めようとはしません。ヘロデは自らの権力の象徴かつ記念碑として巨大な建造物群を建てようとしたからです。

建設工事によって神殿の丘の部分が拡張されました。現在も残る「嘆きの壁」は神殿の一部ではなく、この丘の拡張部分に属しています。「嘆きの壁」という名称は、ユダヤ人が体を動かしながら祈ることから、それを見た観光客が「彼らは泣き叫んでいる」と誤解したことから付けられました。

神殿の建設にはとても長い時間を要しました。イエス様の時代にはまだ完成しておらず、西暦60年にようやく出来上がり献堂されました。神殿は東西460メートル、南北280メートルという巨大な建造物でした。

「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。」
(「マタイによる福音書」24章1〜2節、口語訳)

この段階でイエス様は最終的に神殿を立ち去られ(1節)、この後は「オリブ山」(3節)、およびある家の二階の部屋で弟子たちに教えを説かれることになります。

2節にあるイエス様の預言は西暦70年に成就しました。西暦70年にローマ軍がエルサレムを占領した際に火災が発生し、神殿も焼け落ちました。神殿に黄金があったことが判明すると(もちろんそれは火事のせいで溶けていましたが)、人々は瓦礫の石の中から黄金を探し始めました。そのような騒ぎの後では、文字通り、石の上に石が一つも残っていないような状態になりました。西暦4世紀にローマ皇帝ユリアヌスがエルサレムに新しい神殿を建てようとした際、神殿跡地の石はすべて運び去られ、もはや何もあとには残されませんでした。預言者ミカも神殿が破壊されることを次のように預言していました。

「ヤコブの家のかしらたち、
イスラエルの家のつかさたちよ、
すなわち公義を憎み、
すべての正しい事を曲げる者よ、これを聞け。
あなたがたは血をもってシオンを建て、
不義をもってエルサレムを建てた。
そのかしらたちは、まいないをとってさばき、
その祭司たちは価をとって教え、
その預言者たちは金をとって占う。
しかもなお彼らは主に寄り頼んで、
「主はわれわれの中におられるではないか、
だから災はわれわれに臨むことがない」と言う。
それゆえ、シオンはあなたがたのゆえに
田畑となって耕され、
エルサレムは石塚となり、
宮の山は木のおい茂る高い所となる。」
(「ミカ書」3章9〜12節)。

イエス様がゴルゴタですべての人間のすべての罪を身代わりに担って贖うための犠牲として御自身を捧げてくださったおかげで、神殿での犠牲はもう二度と必要ではなくなりました。次の「ヘブライの信徒への手紙」の引用箇所を参照してください。

「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」9章25〜28節、口語訳)。

イエス様の犠牲を先取りする「予型」として動物犠牲を捧げるために建てられた旧約時代のエルサレム神殿がイエス様の十字架の犠牲の御業の成就した後で徹底的に破壊され破棄されることになったのは実に当然の成り行きでした。

終末の到来を告げる最初の「しるし」 24章3〜14節

いつの時代でも人間は「未来を知ること」に深い関心を寄せてきました。今日でもいろいろな占いや占い師が人気を得ています。人々は様々な前兆からこれから起こるであろうことも知りたがっています。

イエス様の講話を見てみると、そこには人々の願いとは全く逆の特徴があります。人々が「すべてがどんどん良くなってきている」と考えているとき、逆にイエス様は「すべてがどんどん悪くなってきている」と言われます。「ヨハネの黙示録」には「数学的なモデル」が記されています。それによると、全体のうちのまず4分の1が破壊され、次に3分の1が破壊され、最後にすべてが破壊されることになります。

一般の人々の期待を完全に裏切るようなイエス様の講話の内容はキリスト教信仰にとっても常に難しい問題を投げかけてくるものでした。例えばキリスト教の基本的な教義の一つである「原罪論」(人間は皆、生まれながらに罪深いという教義)は人々にとって喜ばしい教えなどではありません。そして、全人類の原罪性の結果として起こる「物事がより悪い状態に落ち込んでいく」という劣化の過程も人間の思考にとって好ましいものではありません。

「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。」
(「マタイによる福音書」24章3節、口語訳)

オリブ山(3節)からはエルサレム神殿とその丘とを一望することができました。預言者エゼキエルがソロモンの神殿から「主の栄光」が去っていくのを見たとき、その「主の栄光」はオリブ山の上に立ちどまりました(「エゼキエル書」11章23節(「主の栄光が町の中からのぼって、町の東にある山の上に立ちどまった。」))。一方、預言者ゼカリヤは、主が再臨なさる時に主の足がオリブ山に立ち、山が「非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け」ると預言しました(「ゼカリヤ書」14章4節)。

24章に何度も出てくるギリシア語の「パルーシア」はキリストの再臨を意味する言葉として用いられています(3、27、37、39節)。この言葉にはごく一般的な意味もあり、領主が領地へ赴く時や、ローマ皇帝が部下や臣民のもとを来訪する時に用いられました。いつの日かキリストは御自分の民のもとへやって来られます。残念ですが、神様によって創造され贖われた者たちのうちの全員が「神様の御民」となることを望んでいるわけではありません。

イエス様はこれらの教えを民衆全員にではなく弟子たちに対して語られました(3節)。

「そこでイエスは答えて言われた、
「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。」」
(「マタイによる福音書」24章4〜5節、口語訳)

イエス様の最初の警告は「惑わす者によって異端に陥ることにならないように」というものであることに注目してください(4節)。「終末の教え」と結びつくかたちで様々な異端が教会の歴史を通じて出現してきました。例えばエホバの証人はこれまですでに十数回も「終末の到来の時期」を変更してはそれを喧伝してきました。

偽キリスト(5節)や偽預言者(11節)が出現し、イエス様の御名への真の信仰のゆえの迫害と苦難(9節)が起こります。

平和な時代はやって来ず、「戦争と戦争のうわさ」が聞こえてきます(6節)。それらに加えて、飢饉や地震といった他の災害も起こります(7節)。しかも、これらは「産みの苦しみの初め」、ほんの始まりに過ぎないのです(8節)。

世の終わりの時が迫るにつれて、神様の敵であるサタンも策謀をいっそう加速させ、神様の御民であるキリスト信仰者たちに様々な手口で敵対し迫害するようになります(9節)。ある意味でこれは極めて当然のことです。サタンの活動期間も終わりに近づいているからです。

イエス様の終末に関する講話で最も心が痛くなるのは、世の終わりには人々の信仰が冷え込み、背教する人々さえ出てくるという預言(12節)でしょう。「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(「ルカによる福音書」18章8節より)とイエス様は言われました。世の終わりの時にも教会自体は地上に存在してはいるでしょう。しかし、そこには「救いに至る活きた信仰」が残っているのでしょうか。だからこそ、イエス様の終末に関する講話は霊的・信仰的に目を覚まし続けて患難を「最後まで耐え忍ぶ」ことの大切さを強調しているのです(13節)。また、6節の「あわててはいけない」という勧告にも注目してください。

世の終わりには不法がはびこります(12節)。これは、神様が元々設定なさった「善と悪の区別」を故意に破棄してこの世を混乱させようとする現代の反キリスト教的な思潮を指しているとも言えるでしょう。

「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。」
(「マタイによる福音書」24章14節、口語訳)

終末のくる前に福音は世界のすべての諸国民に宣べ伝えられることになります(14節)。今、私たちはすでにこの状態に近づいています。福音の御言葉がまだ届けられていないのはもはや世界のごく一部の地域だけになっているからです。

大いなる患難の時 24章15〜28節

「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。」
(「マタイによる福音書」24章15〜16節、口語訳)

終末の最終段階は宗教上の忌まわしいもの(15節の「荒らす憎むべき者」)が神殿に設置されることから始まります。これは「ダニエル書」ですでに預言されていた出来事です(「ダニエル書」9章26〜27節および11章31節(「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。」)および12章11節)。

紀元前168年にシリアの王アンティオコス4世エピファネスはエルサレムの神殿の祭壇で豚を犠牲に捧げ、ギリシアの神々に捧げられた像を神殿に立てました。これが「マカバイ戦争」の契機となり、紀元前63年にローマがこの地域を征服するまでの間、イスラエルは最後の独立の時代を迎えました。なお「マカバイ戦争」とはパレスチナのユダヤ人たちがセレウコス朝シリヤの領土支配に対して起こした戦争(前166年~前142年に)であり、ユダヤ教国家ハスモン朝(ハスモン王国)が成立してユダヤの民が自治権を獲得する結果となりました。

キリスト信仰者には「迫害と苦難から逃れる権利」があります(16節)。西暦66年にケルティウス・ガルスがエルサレムを包囲した際に、エルサレムのキリスト教徒たちはまさにこの権利を行使して退避しました。なお、この時のガルスの軍はエルサレムの城壁を打ち破る寸前まで行きながらも撤退することになります。西暦68年にウェスパシアヌスが行った二度目のエルサレム包囲戦でもやはりユダヤ人の抵抗を押さえ込むことはできませんでした。西暦70年にティトゥスによる三度目のエルサレム包囲の後でようやくユダヤの反乱は鎮圧されました。キリスト教徒たちはエルサレムから北東約100キロメートル(現在のヨルダン川付近)にあったデカポリス地方のペラに逃れました。このようにして彼らはエルサレム陥落の恐るべき惨状に巻き込まれるのを免れることができたのです。

エルサレムからの脱出は迅速かつ決然と遂行されなければなりませんでした(16〜18節)。忘れ物を探している暇などはありません。患難の時に最も苦しみを受けるのはいつの時代も妊婦や幼い子たちのいる母親たちです。彼女たちは自分だけでなく子どもたちの世話もしなければならないからです。

「あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。」
(「マタイによる福音書」24章20節、口語訳)

ユダヤ教では安息日には2000キュビト(約1キロメートルに相当する)の距離しか移動することが許されていませんでした。しかし、20節の意味はそれとは異なるものかもしれません。キリスト教徒はユダヤ教の安息日規定には拘束されなくなっていたからです。しかし、近隣諸国がイスラエルに対して起こした戦争の例からもわかるように、ユダヤ教の祭の期間中、民衆は呑気に構え無防備な状態になっていました。

「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章21〜22節、口語訳)

この「大きな患難」は歴史上あったような数々の戦いのうちの一つなどではなく、まさに「最後の戦い」のことです(21節)。

「その期間が縮められ」るというところに神様の憐れみの深さが示されています。神様は人々が救われることを心から望んでおられるのです(22節)。

「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。」
(「マタイによる福音書」24章23〜26節、口語訳)

この箇所にも偽りの宗教的な指導者たちに対する警告が記されています(23〜24、26節)。この「大きな患難」の時代に唯一信頼できるのは「神様の御言葉」だけです(25節の「見よ、あなたがたに前もって言っておく。」)。「しるしと奇跡」はそれらを行う者が神様から権威を与えられていることを確実に保証するものではありません。サタンは神様と同じような奇跡を行うことで神様を模倣しようとします。このことはモーセの時代にもありました。エジプトの賢​​者たちはある程度までならモーセと同じ奇跡を行うことができたのです。そして、これは世の終わりの時にも当てはまる現象です。神様の御民を欺くために「サタンも光の天使に擬装する」のです(「コリントの信徒への第二の手紙」11章14節)。

キリストの再臨は秘密裏に実現されるものではありません。例えばエホバの証人は世の終わりが1914年に起こると昔は予言していましたが、そうならなかったため、「世の終わりは実はその時に秘密裏に始まった」という様々な再解釈を後から付加するようになりました。しかし聖書によれば、キリストの再臨はすべての人に見られ理解されるような形で起きることになっています。

「死体のあるところには、はげたかが集まるものである。」
(「マタイによる福音書」24章28節、口語訳)

28節は「ヨブ記」39章30節の「そのひなもまた血を吸う。おおよそ殺された者のある所には、これもそこにいる。」を念頭に置いた発言であると思われます。これは「時が満ちれば、裁きが来る」という意味であり、偽教師たちの「正体」についての預言であるとも解釈できます。彼らは実際にはすでに死んでいるのです。それゆえ、彼らは永遠の糧によって養われることがなく、その場しのぎのこの世的な援助しか得ることができないのです。

人の子の再臨 24章29〜44節

「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章29節、口語訳)

創造主は被造物を破壊することもできます(29節)。イエス様の時代の人々には万物を完全に破壊することは不可能に思えたに違いありません。しかし、今日の天文学者たちは太陽系全体が破壊される可能性があることを指摘しています。

天の御国では太陽はもはや必要ではなくなります。天の御国での光が「義の太陽」となるからです(「マラキ書」3章20節(口語訳では4章2節))。「ヨハネの黙示録」21章23節には「都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。」とあります。

「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」
(「マタイによる福音書」24章30節、口語訳)

30節の「しるし」とは何でしょうか。その答えとして例えば「十字架」が提案されていますが、「旗」や「幕」である可能性もあります(「イザヤ書」11章12節および40章22節を参照してください)。私たちは今の段階では「しるし」が何であるかわからないことを正直に認めるほかありません。しかし、それが出現する時には誰しもがそれに気づくことでしょう。それはこの世における時と世界の終焉です。

その時が来るとイエス様を信じなかった人々は嘆くことになります(30節)。イエス様の教えが真実であることに気づくのが遅すぎたからです。

「また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章31節、口語訳)

31節と同様に「ヨハネの黙示録」は神様の「ラッパ」について語っており(「ヨハネの黙示録」8章1節〜9章21節)、使徒パウロもキリストの再臨の際の大きなラッパの響きに言及しています。「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章16節には「神のラッパの鳴り響くうちに」とあります。その時、神様は「四方から」、すなわち全世界から「御自分のもの」である人々をすべて集められるのです。

「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。」
(「マタイによる福音書」24章32節、口語訳)

「いちじくの木」はイスラエルの象徴でした(32節)。いちじくの木はまず実を結び、それから葉を落とします。34節は特にイスラエル自身を指しています。イエス様がこの箇所で語りかけられたイスラエルの人々のうち、その一部の人々はまだ生きていたであろう西暦70年にエルサレム神殿が破壊し尽くされて「終末の時」が始まることになります。この箇所の出来事から約40年後のことでした。

「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。」
(「マタイによる福音書」24章35節、口語訳)

神様の御言葉だけが滅びることなく永遠に存続していきます(35節)。

「世の終わり」がいつ来るか、その「正確な時」を知っている者は真の預言者ではありえません。それを知っているのは神様の専権事項であり、御子でさえも知らないからです(36節)。ここには神様の「三位一体性」にかかわるキリスト教信仰の一つの奥義があります。「三位一体」(ラテン語でtrinitas)とは、御父、御子、御霊が唯一の神様の三つの位格(ラテン語でpersona)を構成しているという神様の本質(ギリシア語で「ヒュポスタシス」)についてのキリスト教の教義のことです。神様の御子イエス様は父なる神様とは明確に区別されるお方です。しかし、御父、御子、御霊という「三つの位格」が「三位一体」をなす神様は「一」なる存在なのです。

アンシ・シモヨキというフィンランド人神学者は「あらゆる「しるし」が与えられているにもかかわらず、終末は人々にとって実に驚くべきものとして到来する」と述べたことがあります。「終わりはもうすぐ来る」と思い始める人々はいても「まさに今がその時だ」とは誰も気が付かないということです。「もちろん終わりは近づいてきてはいるが、まだすぐには来ない」という考えを吹き込むことで、サタンは多くの人々を惑わしています。このような考えかたの危険さに私たちはもっと自覚的であるべきでしょう。

世の終わる正確な日時を私たちは知りませんが、それでも世がいつか終わることは神様によってすでに定められている事柄です。イエス様の再臨が起こるのかは分かりませんが、必ず再臨なさることは知っています。その時には自分がそれを軽視して生きてきたことを誰も正当化できません。すべての人にすでに告げられてきたことだからです(43節)。「主の日は盗人が夜くるように来る」(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章2節より)とあるように、御子は夜の盗人のようにやって来られます。しかし、それについて予告もせずに全く予期しないようなやりかたで来られることはありません。

例えばノアは何年もかけて箱舟を準備しました。人々はそれを見ても来るべき洪水への備えを始めようとはしませんでした。残念ながら、世の終わりの時にも同じことが起こります。滅びと終わりの到来を予告する様々な「しるし」がすでに与えられてきているにもかかわらず、人々はそれらを十分真剣には受け止めようとしないのです。

「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章40〜41節、口語訳)

救われる者たちと滅びる者たちとの間に外見上の明瞭な違いはありません(40〜41節)。

「だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」
(「マタイによる福音書」24章44節、口語訳)

私たちは世の終わりの正確な日時を知らないので、常に「目を覚まして」いなければなりません(44節)。だからといって「眠ってはいけない」ということではもちろんありません。これは「イエス様を信頼すること」という意味なのです。私たちに信仰を賜ることによって、イエス様は私たちの中で始められた「良いわざ」を「キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さる」のです(「フィリピの信徒への手紙」1章6節)。

良い僕と悪い僕 24章45〜51節

この箇所は「目を覚ましている」ことの実践の仕方について具体的に教えてくれます。

「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」
(「マタイによる福音書」24章45〜47節、口語訳)

教会の牧師はラテン語では「pastor(パーストル)」といい「羊飼い」という意味です。彼は自分に司牧を委ねられているキリスト信仰者の群れの霊的・信仰的な面倒を見なければなりません(45節)。牧師は信仰者の群れのためにいるのであり、信仰者の群れが牧師のためにいるのではありません。

47節は、天の御国がたんに安息の場であるだけでなく様々な務めを果たしていく場でもあることを私たちに思い出させてくれます(「コリントの信徒への第一の手紙」6章2〜3節を参照してください)。

「もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」
(「マタイによる福音書」24章48〜51節、口語訳)

偽りの僕は自分の立場を悪用して私利私欲ばかり追求します(49節)。そのような僕は主人から厳しい裁きを受けることになります(51節)。「厳罰に処し」はギリシア語では「ディコトメオー」という動詞の未来形であり、「真っ二つに切り分つ」という意味です(51節)。

51節の終わりの部分は偽りの僕や偽善者たちが死後に受ける「罰」について述べています。このように「永遠の命」とは別に「永遠の滅び」も確かに存在するのです。