マタイによる福音書23章 イエス様の厳しさ
この章には「マタイによる福音書」でのイエス様のもう一つの説教集が収められています。この章の説教集に共通する点は律法学者やファリサイ派とのイエス様の関係性についてです。
ファリサイ派はユダヤ教における「信仰覚醒運動」(リヴァイヴァル運動)を推進する一派でした。彼らは律法を守ることの重要性を強調する保守派でした。この運動は紀元前2世紀に起こりました。イエス様の時代には6千人ほどのグループだったと推定されています。パウロも元々はファリサイ派に属していました。「使徒言行録」22章3節には「そこで彼(パウロのこと)は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。」とあります。
一方、当時の律法学者たちは律法の教師を務める職業集団でした。しかし、彼らには別の職業もありました。例えばパウロは天幕作りで生活のための収入を得ていました(「使徒言行録」18章1〜5節と「コリントの信徒への第一の手紙」4章12節を参照してください)。多くの律法学者たちはファリサイ派でもあったため、この二つのグループは多くの点で共通する特徴を持っていました。
彼らの他にもまだ三つのグループが存在しました。サドカイ派(主に司祭集団)、エッセネ派(荒野の修道院に住む孤立した集団)、そして熱心党(ユダヤの民をローマ帝国の支配から解放するために戦う闘士たちで、今日ならばテロリストとみなされる集団)です。そして、彼らに加えて当然ながら「一般民衆」も存在しました。
ファリサイ派の偽善 23章1〜14節
この箇所には日常的な表現が出てきますが、その元々の意味を忘れたか知らないままで使用している人が今では多いようです。誰かを「偽善者だ」と言いたいときにフィンランドのキリスト教徒の間ではその人を「ファリサイ派だ」というレッテルを貼ることがあります。しかし、「偽善」やいわゆる「ファリサイ主義」は「自己欺瞞」という形をとって現れる場合もあることを忘れてはなりません。そのような「偽善者」は自分自身の生きかたや教えの中には何の欠点も見出さないのです。
この箇所は受難週の火曜日の出来事でした。イエス様はエルサレムで群衆と弟子たちに教えておられました。
「モーセの座」(2節)は私たちが「司教座」や「法廷」と呼ぶのと同様に「職務」のことを意味しています。当時の律法学者の大多数はファリサイ派に属していました。実際の教育現場でも律法の教師は「座り」、弟子たちがその足元に集まりました(「使徒言行録」22章3節を参照してください)。
「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」
(「マタイによる福音書」23章3節、口語訳)
3節は私たち現代のキリスト信仰者にとって重みをもつメッセージです。はたして私たちは自分がイエス様の教えと信仰に従って生きていると言い切れるでしょうか。キリスト信仰者は「第五の福音書」と呼ばれることがよくあります。しかも、大多数の一般人が人生で出会う「福音書」は実はそれだけなのです。「あなたたちの「行動」が大袈裟すぎて、あなたの「言っていること」は全然耳に入らない!」などという批判が聞かれることもあります。例えば、現代の政治家は自分の政治的な公約の不履行に関して批判されます。教会も「キリスト教信仰の教えに実は従っていない」という批判を度々受けています。むしろ、こうした批判は教会がメディアの期待に十分応えていない(すなわち迎合していない)ために生じることがしばしばあります。キリスト教離れが加速している西欧社会では教会自体が聖書の教えを自ら否定するような態度をとりさえすればそれで一般の人々が満足するようになってきているのです。
ここでイエス様はファリサイ派やサドカイ派の教えにも批判を加えたことを覚えておくべきです(16章6〜12節)。ある人が権威ある立場にあるからといって正しい決定を下したり正しく教えたりするとは限りません。残念ながら、教会の歴史を振り返ると教会が道を誤った事例がいくつも見つかります。「教会が受け入れたのならそれは正しいに違いない」というように考えるのは今日では非常に危険です。神様の御言葉である聖書こそを教会のあらゆる教えや議決事項よりも上位に置くべきなのです。
「また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない」。
(「マタイによる福音書」23章4節、口語訳)
律法学者たちは律法を知っており、それを一般の人々にとってことさら重荷にする手管にも通じていました(4節)。しかもその一方では律法の「抜け穴」も知っていました。彼らは自分が望まない場合には律法を守らずに済ませるような「逃げ道」も周到に用意していたのです(16〜22節)。彼らの律法の教えかたにあった重大な欠点の一つはそれが本質的に否定的な性質のものだったことです。彼らは「救われるために何をしなければならないか」ではなく、「救われるために何をしてはいけないか」という点を強調したのです。
キリスト信仰者たちは互いに重荷を負い合うようにと招かれています。このように行動することで私たちは「キリストの律法」を全うするのです(「ローマの信徒への手紙」15章1〜2節、「ガラテアの信徒への手紙」6章2節)。
「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(「マタイによる福音書」23章11〜12節、口語訳)
上節のイエス様の教えとは反対に、律法学者たちは他の人々を「小さく」し、自分たちを「大きく」していました(11〜12節)。
彼らの目的は人々が救いにあずかるのを助けることではなく、逆に人々が救われるのを妨げることでした(4、13、15節)。
とはいえ、その対極的とも言える「ハードルをできるだけ低くする」という現代神学の考えかたのほうが律法学者たちのものよりもましであるとは決して言えないことにも注意を払うべきです。もしも人が神様との交わりに招かれるとするならば、人間が勝手に考案した「心地よい神」にではなく真の活ける神様の御許へと招かれるべきだからです。
律法学者とファリサイ派は人々からの好意を求めていました(5節)。「会堂の上席」に座ること(6節)は人々からの好意を獲得するためのやりかたの一つでした。その席は会衆のほうに向かって据えられていたからです。そこに座る者たちは人々からはっきり見える高位の場所を占めることができました。
モーセの律法では聖句を記した「経札」(5節)の着用が義務付けられていました(「申命記」6章8節)。「経札」を額と(右)手につけることで思考と行動の両方を神様の御意思に沿うようにするべきであることを人々に思い起こさせようとしたのです。普段は祈りの時にだけ聖句の「経札」を着用することになっており、ユダヤ人は今でもそうしています。ところが、偽善者や自らの信心深さを周りに見せたがる者たちはそれを常に身に付けていました。この「経札」には羊皮紙に記されたモーセの律法の四つの箇所が含まれていました。それらのうちで「出エジプト記」13章1〜10節および11〜16節はイスラエルの民のエジプトからの脱出と長子を主のために聖別することについて、「申命記」6章4〜9節はイスラエルの民の信仰告白について、そして「申命記」11章13〜21節は律法の戒律を守るようにという勧告についてそれぞれ記しています。
「衣」には神様の戒めを思い起こさせる四つの「ふさ」(房飾り)が付けられていました(5節)。イエス様の衣にもこの「ふさ」が付いていました(14章36節)。
「先生」(7節)は原語聖書では「ラビ」といい、これは「偉大な」という意味のヘブライ語「ラブ」に由来しています。
「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である」。
(「マタイによる福音書」23章8〜9節、口語訳)
8〜9節について、「イエスは地上での父たちを敬うことも禁じた」という間違った解釈もなされてきました。しかし、イエス様の真意はそれとは異なります。この文脈における「父」とは神様の称号として理解されるべきなのです。そして、自分自身を「父」と称する者は自分のほうを神様よりも高い位置に置いていることになります。
ローマ・カトリック教会とギリシア正教会はどちらもこの点に関して問題のある伝統を採用しています。例えば司祭が「高位の父」と呼ばれることです。これには霊的・信仰的な職務の誤解および誤用に容易につながりかねない危険が伴います。
パウロは自らを「教師」(ギリシア語で「ディダスカロス」)と呼び(「テモテへの第一の手紙」2章7節、「テモテへの第二の手紙」1章11節)、また「教える」という「恵みの賜物」にも言及しています(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節)。聖書を教える「恵みの賜物」を貸与された者たちが教会には必要なのです。ただし、彼らの立場は神様との関係において適切なものでなければなりません。彼らは神様の御言葉と御意思とを忠実に教える者でなければならないのです。
「そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
(「マタイによる福音書」23章11〜12節、口語訳)
神様の御国で最も偉大な者は「仕える人」です(11〜12節)。イエス様はまさに「仕えること」を実践されました。イエス様は御自身を低くして私たちに仕えてくださったのです。
律法学者たちとファリサイ派に向けられた「わざわい」の託宣 23章13〜36節
「〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕」
(「マタイによる福音書」23章14節、口語訳)
「マタイによる福音書」の最古の写本には上の14節は含まれていません。そのため、口語訳では括弧で囲まれています。翻訳によってはこの節が完全に欠落しているものもあります。何世紀にもわたって聖書本文が手書きで写されていた時代には人為的な誤りも起こりました。時には偶然に、時には意図的に、マルコの聖句がマタイの福音書の対応する箇所に移動されたりもしました。写字生たちは新約聖書をほぼ暗記していたため、気づかないうちにこのような誤りが起きる場合もあったのです。
14節は「マルコによる福音書」12章40節に対応しているものです。この点を除くと、マタイのこの章に相当する箇所は他の福音書にはほとんど見当たりません。ですから、この箇所はマルコからマタイに移植されたと考えるのが自然でしょう。しかし、14節の「わざわい」はこの章にある他の七つの「わざわい」とは文体も考えかたも多少異なっています。
14節を度外視すると、この章にはイエス様の「わざわい」の託宣が七つあります。「七」という数字は聖書にとって重要な数として代表的なものであり、このことも14節がマタイの原文には元々含まれていなかったという考えかたを裏付けます。
「わざわい」の託宣には様々な意味があります。「物事がうまくいかなくて残念だ」という不満の表明でもあり、「あなたたちに同情する」という憐れみの表現でもあります。また預言的な警告や、あるいはより強い意味で脅迫や断罪を表すこともありえます。この箇所の文脈では最後の選択肢が該当していると考えられます。イエス様は敵対者たちに警告を与えると同時に、彼らに下される裁きについてもすでに宣言しておられるからです(35節)。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」
(「マタイによる福音書」23章13節、口語訳)
第一の「わざわい」の託宣(13節)
ファリサイ派と律法学者たちの偽りの教えは民衆を惑わしました。この箇所は彼らがイエス様に反対していたことも示唆しています。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」
(「マタイによる福音書」23章15節、口語訳)
第二の「わざわい」の託宣(15節)
この箇所について「あなたたちはその人を自分たちよりも確実に地獄に落ちるような存在にしている」というように翻訳される場合もあります。
「間違った道」があなたを天の御国に導くことはありません。イエス様だけが天の御国への「道」なのです(「ヨハネによる福音書」14章6節)。
上節を口語訳は文字通り「地獄の子」と訳しており、これは「神様の子」の対義語と考えることができます。なお「地獄」のギリシア語は「ゲエンナ」です。
ユダヤ教へ改宗するためには二つの段階を経る必要がありました。まず、異邦人(非ユダヤ人)は「神様を畏れる者」になりました。これはギリシア語で「セボメノス」といい、「使徒言行録」17章4節では「信心深い」と訳されています。その意味は律法で最も重要とされる幾つかの命令に従うということです。それから次に、「改宗者」(ギリシア語で「プロセーリュトス」)、すなわち完全にユダヤ教に改宗した者になります。これは「自分は律法全体に従う決意をした」という宣言でもあります(「使徒言行録」2章11節)。
「盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。」
(「マタイによる福音書」23章16〜22節、口語訳)
第三の「わざわい」の託宣(16〜22節)
人々は自分が立てた誓いから様々なやりかたで逃れようとしました。「神殿」(16節)はたんなる建築物ですが、そこの「黄金」つまり神様に捧げられた供え物を通して誓った人はその誓いに縛られるとされたのです。同様に、「祭壇」(18節)はたんに石を集めて作られた物とみなされましたが、そこでの供え物は神様に捧げられたものだったので、それを通して誓った人はやはり誓いに縛られました。「天」(22節)は通常はただの「大気」と同一視されましたが、イエス様はここで「神の御座とその上にすわっておられるかた」を指しておられます。ここに描かれているユダヤ人たちによる誓いの有効性と無効性をめぐる解釈の仕方は一種の「言葉遊び」のような詭弁にすぎません。しかしその結果、神様の律法が無意味とみなされるようになるという深刻な悪影響を引き起こしたのです。
モーセの律法によれば、祭壇に触れたものはすべて聖なるものとされました(19節)。「出エジプト記」29章37節には「あなたは七日の間、祭壇のために、あがないをして、これを聖別しなければならない。こうして祭壇は、いと聖なる物となり、すべて祭壇に触れる者は聖となるであろう。」とあります。
この箇所の文脈でイエス様は「愚かな」という言葉を用いています(17節)。これは山上の説教(5章22節)で使用を禁じられた言葉のはずです。しかし、ここでそれを語っておられるのは「欠けた器」である人間ではなく神様御自身なのです。
神殿の至聖所は神様の住まいとみなされていました(21節、「列王記上」8章10〜13節、「詩篇」97篇)。
また、この箇所と関連してイエス様の山上の説教での「誓い」についての教えも参照してください(5章33〜37節)。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。」
(「マタイによる福音書」23章23〜24節、口語訳)
第四の「わざわい」の託宣(23〜24節)
ファリサイ派の問題点は「小さなこと」と「大きなこと」の区別がつかなかったことでした。「小さなこと」が大きく取り上げられ、「大きなこと」は忘れ去られてしまったのです。
「十分の一献金」(全収入の十分の一を神様に捧げること)は神様の戒めであり、レビ人たちを経済的に支えるという目的もそこには含まれていました。他の一般の人々のように働いて得た収入で生計を立てることがレビ人たちには許されてはいなかったからです(「レビ記」27章30節(「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である。」)、「申命記」14章22〜27節)。しかし、それはたんなる慣習として自動的に行われるべきものではなく、その意味を正しく理解した上で実行されることが重要でした。
敬虔なユダヤ人は水に入った「ぶよ」(蚊)を誤って飲んで自分を汚してしまわないように飲料水を濾過していました(24節)。しかし、「ぶよ」よりも汚れた動物であるとされていたラクダは見過ごされていたのです(「レビ記」11章4節)。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。」
(「マタイによる福音書」23章25〜26節、口語訳)
第五の「わざわい」の託宣(25〜26節)
これは偽善と外見的な清さに対する警告であり、七つの「わざわい」の託宣のほぼ全部がこの警告と関連しています。その中でも最も重要なのは人の心の奥底にある清さです(15章18〜20節)。
いけにえのための杯と皿はその外側だけが丁寧に清められました。それらの中に入れられる注ぎの供え物が地面に誤って落ちないようにすることばかりに注意が向けられていたのです。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。」
(「マタイによる福音書」23章27〜28節、口語訳)
第六の「わざわい」の託宣(27〜28節)
当時の墓は石灰で白く塗られました(27節)。これは、特に暗闇の中でも墓を見えやすくし、人々がそれを誤って踏みつけて宗教的に汚れを受けることを未然に防ぐための処置でした(「民数記」19章16〜18節)。また、「ルカによる福音書」11章44節の「あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる。」というイエス様の御言葉も参考になります。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」
(「マタイによる福音書」23章29〜33節、口語訳)
第七の「わざわい」の託宣(29〜33節)
「今の私たちが過去の世界に生きていたなら、当時の人々のような過ちは犯さなかったのに」といった「後知恵」は、真に霊的な信仰にとって、いつの時代でも常に「わざわい」となってきました。
32節は預言として捉えるべきです。この発言のほんの数日後に、イエス様の反対者たちは先祖の足跡をたどり、イエス様の命を要求するようになるからです。
「それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。」
(「マタイによる福音書」23章34節、口語訳)
34節はキリスト信仰者たちがユダヤ人たちから受けることになる迫害を預言しています。パウロの宣教旅行において最も激しくパウロに反対したのは、多くの場合、異邦人たちではなくユダヤ人たちでした。
「こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。」
(「マタイによる福音書」23章35〜36節、口語訳)
アベル(35節)は人類史上最初に殺害された人物、いわば「最初の殉教者」です(「創世記」4章8〜16節、また「ヘブライの信徒への手紙」12章24節の「新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。」も参考になります)。その一方で、ここでのザカリヤ(旧約聖書では「ゼカリヤ」)への言及はアベルの場合と比べるとやや謎めいています。とはいえ、このことを説明するのはとても容易です。ユダヤ教の聖典としての旧約聖書では「歴代誌」が順序として最後の書物として載っており、しかもゼカリヤの殉教は「歴代誌下」24章20〜22節に記されているのです(「歴代志下」は36章まであります)。この意味で、ゼカリヤはユダヤ教の聖書における「最後の殉教者」であるとも言えるのです。なお、彼は「歴代誌下」の箇所では「エホヤダの子ゼカリヤ」と呼ばれていますが、通常では、ユダヤ人は「祖父誰々の子」、あるいはさらに「古い先祖誰々の子」と呼ばれる場合が多いです。
「ゼカリヤは死ぬ時、「どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように。」」(「歴代志下」24章22節より)と言い残しましたが、これはイエス様のこの箇所の言葉とよく合致しています。
ここでも「今の時代」(36節)は一般的に「今の世代」や「現代の人々」を意味しており、「ちょうど当時生きていた世代の人々」だけを指しているのではないと考えられます。当然ながら、当時の世代の人々の責任は彼ら以前の多くの世代の人々の責任よりも重大でした。まさに彼らの時代にメシアに関する旧約聖書の約束が成就されたにもかかわらず、彼らはメシアを受け入れなかったからです。
あなたがたは来ることを望まなかった 23章37〜39節
「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」
(「マタイによる福音書」23章37〜38節、口語訳)
石打ち(37節)はユダヤ人の処刑方法でした。
「めんどり」は鷹などの捕食動物からひなの身を守るために、ひなを自分の翼の下に集めます。しかし、ユダヤ人たちは神様の保護を受けることを望みませんでした。それゆえ、彼らは神様の敵であるサタンのなすがままになってしまうのです。
人間の意思決定力には限界があります。これは宗教改革者マルティン・ルターの偉大な発見の一つであり、彼の主要著作の一つの書名「奴隷意志論」(ラテン語名「De servo arbitrio」)にも表れています。人間は自分の力では神様も救いも見出すことはできません。すべては神様と神様の恵みとにかかっているからです。しかしその一方で、人間は神様が提供しておられる救いを受け入れずに拒絶することもできます。誰も天の御国に行くことを強制される必要はないということです。
38節の言葉から約40年後にエルサレム神殿は破壊され、以後今日に至るまで再建されることはありませんでした。
神様が神殿を捨て去られたという事実はユダヤの民に降りかかる呪いのしるしでした(「エゼキエル書」10〜11章を参照してください)。
「わたしは言っておく、
『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』
とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、
わたしに会うことはないであろう」。
(「マタイによる福音書」23章39節、口語訳)
39節は世の終わりの時にキリストがこの世に再臨されることを示唆しています。その時が来ると、すべての人がキリストこそが主であり神様であられることを否応なく認めなければならなくなります。イエス様はこのことについて次の24〜25章でさらに詳しく説明しておられます。