マタイによる福音書2章 東の国の博士たちやエジプトへの脱出

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

「マタイによる福音書」2章1〜12節 東の国の博士たち

「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 」
(「マタイによる福音書」2章1〜2節、口語訳)

東の国の博士たち(ギリシア語で「マゴス」の複数形)がベツレヘムを来訪しました。しかし、それがイエス様の誕生からどのくらい時が経ってからのことなのかはわかりません。いずれにせよ、彼らの旅はその事前準備も含めると数ヶ月は要するものだったでしょう(7節と16節を参照してください)。ある場所から別の場所へと素早く移動できる手段がある現在の旅行のスピード感に比べれば、当時の旅での移動ははるかに時間のかかるゆっくりしたものでした。

「ヘロデ王」(1節)は、紀元前37年から4年までの間、パレスチナ全土を支配していたヘロデ大王のことです。イエス様は紀元前7年にお生まれになった可能性が高いという試算があります。西暦元年から7年ずれているこの 「矛盾 」の原因は、西暦500年代に修道士ディオニュシウス・エクシクスがキリストの生誕年を間違えて計算したことに起因しています。とはいえ、当時の知識と研究の量や質を考慮すると、彼の計算は実によくできていたとさえ言えます。例えば、教会の記録や公文書の助けを借りずに、何百年も前に生まれた親戚の誰がいつ生まれたかを自分で計算してみてください。

「ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。」
(「マタイによる福音書」2章3節、口語訳)

ヘロデは非常に疑り深い支配者でした。常にクーデターにおびえていた彼は、最愛の妻マリアムネと三人の息子をも含む多くの親族を殺害しています。

ヘロデが後世の人々に記憶されているのは、主として彼の大規模な建築プロジェクトのためであり、そのいくつかは現代にも残っています。中でも最大のプロジェクトは、エルサレムの神殿の改修と大規模な拡張でした。ヘロデが紀元前19年に着手したこの建築事業が最終的に完成したのはそれから実に約70年後のことでした(「ヨハネによる福音書」2章20節を参照してください)。とはいえ、ヘロデにとってこの神殿は他の建物群の中の一つに過ぎないものでした。ヘロデは宗教的にも国籍的にもユダヤ人ではなく、イドメア人(聖書の表記では「エドム人」)であったからです。

東からきた博士たち(当時の占星術師や天文学者たち)は東方(おそらくメソポタミア)で何を見たのでしょうか。この問題は何世紀にもわたって学者たちを悩ませてきました。最も一般的な説明としては、土星と木星が重なって見えた、すなわち二つの惑星の軌道が交差して見えた、というものがあります。 この現象は紀元前7年に何度か起きています。これによって、博士たちがエルサレムからベツレヘムへの旅を続けている間に星が再び現れたことが説明できます。しかもその時期はイエス様が誕生した歴史の記録とよく一致しています。当時のメソポタミアの学者たちが、木星は世界の支配者、土星はパレスチナ、魚座は世界の終わりを意味すると考えていたことが知られており、この星の特別な現象は、どうしてまさにこの時期に博士たちが旅をしたのか、に十分な説明を与えるものと考えられます。

また、東方の博士たちが見たものは彗星や超新星であったという可能性も指摘されています。イエス様の誕生を記念して神様が御自身の星を空に灯した、ということなのかもしれません。

ユダヤ人たちはアッシリア(口語訳では「アッスリヤ」、紀元前721年)とバビロニア(口語訳では「カルデヤ」や「バビロン」、紀元前586年)による捕囚によって連れ去られた後、メソポタミアの地に滞留しました。ペルシア(口語訳では「ペルシャ」)のキュロス王(口語訳では「クロス王」)の勅令(紀元前539年)の後で先祖の地に戻ったユダヤ人たちは実のところごく少数にとどまりました。このことを踏まえると、メソポタミアの学者たちはユダヤ人たちのメシア待望について知る機会があったと考えられます。

博士たちが旅に出る動機がいったい何であったのかにマタイはあまり興味を示していません。彼がこの出来事を述べているのは、イエス様の誕生直後に神様が異邦人たちもイエス様の御許にお招きになったことを明記するためでした。博士たちについてのエピソードは教会暦では顕現主日の礼拝での福音書の箇所になっています。例えば、フィンランドのルーテル教会では顕現主日は1月6日であり、海外宣教の祝日になっています。

このガイドブックで使用している口語訳ではあまり問題になりませんが、聖書の現代語訳の中には次のような問題点をかかえている場合があります。ギリシア語原文では同じ単語がいくつかの箇所で用いられていても、翻訳ではそれぞれの箇所で異なる訳語が選択されることがあるのです。これは翻訳先の現代語にとってより自然な表現を探すためになされることです。 しかしそのせいで、翻訳された聖書では同じギリシア語の単語による特定の表現をそれが登場する異なる箇所同士で比較することが難しくなってしまいます。このような比較をするためには、その前提として原語聖書のギリシア語とヘブライ語について相応の知識を持っている必要があるからです。

「そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。」
(「マタイによる福音書」2章4節、口語訳)

ヘロデはユダヤ人たちが救世主の到来を待望していることをもちろん知っていました。彼は自分の権力を脅かす可能性のあるものすべてに不安を抱いていたからです。それゆえ、博士たちがエルサレムに到着すると彼はユダヤの宗教指導者たちに相談したのです(4節)。ユダヤの宗教指導者たちにとってメシアの出生地を特定するのは簡単な問題でした。すでに彼らより700年以上も前に「ミカ書」5章の冒頭でこのことに関する預言がなされていたからです。マタイによる引用(6節)は七十人訳旧約聖書(セプトゥアギンタ)という当時使用されていたギリシア語訳の表現に近いものです。

「イエス様の時代のユダヤ人たちはメシアをとりたてて熱狂的に待ち望んではいなかった」と現代の私たちキリスト信仰者は考えがちですが、それはまったく違います。皆から尊敬されていた律法の教師ガマリエルがユダヤ人最高議会(サンヘドリン)で行った演説によれば、当時のユダヤ人の中には様々なタイプの「メシアたち」が出現しており、彼らに熱心に追従する人々も大勢いました
(「使徒言行録」5章36〜37節)。

4節のギリシア語原文ではもちろん「キリスト」と書かれています。口語訳では問題がありませんが、これをあえて小文字の単語に変えることで、キリストについて当時複数現れた「メシアたち」の一人という印象を与えようとする翻訳もあります(例えば1992年のフィンランド語版)。このような訳出の仕方には、ヘロデのいう「キリスト」はユダヤ人たちの待望していた救い主のことでありキリスト教徒のいう「キリスト」ではないことを強調する意図があったようです。しかし元々のテキストを勝手に改変して意訳するのは常に問題のあるやりかたです。それによって読者を困惑させる可能性があるからです。ヘロデがアラム語を話していたかどうかはわかりません。おそらく彼は上節の状況でもギリシア語を使ったものと推察されます。

「彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、
『ユダの地、ベツレヘムよ、
おまえはユダの君たちの中で、
決して最も小さいものではない。
おまえの中からひとりの君が出て、
わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。」
(「マタイによる福音書」2章5〜6節、口語訳)

上掲の5節では「ユダヤ」、6節では「ユダ」とあります。これは二つの 「グループ」が互いに異なる表記を使用していることに起因しています。「ユダ」は旧約聖書ではユダ族とベニヤミン族そしてレビ人の大部分が住んでいたイスラエル民族の南の居住地域の名称となっています。一方、その地域のローマ帝国の属州としての名称は「ユダヤ」でした。

ユダヤの宗教指導者たち以上にヘロデが最も関心を寄せていたのが誕生したメシアであったというのはとても重要な点です。ユダヤの宗教指導者たちは、わざわざ自らベツレヘムに赴いてメシア誕生の次第を確認するという面倒な手続きを取ろうとはしませんでした。使徒ヤコブの言う通り、信仰は単なる知識ではなく、常に行動(行い)につながるものでなければなりません(「ヤコブの手紙」2章14〜26節)。ただ真実を述べるだけでは十分ではなく、真実についての知識が私たち自身を変えなければならないのです(「申命記」29章28節(口語訳では29節)と比較してください)。イエス様は後に律法の教師たちに対して、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(「ヨハネによる福音書」5章39〜40節、口語訳)と言われました。これは、(旧約)聖書はまさしくイエス様について証言しているにもかかわらず、律法の教師たちはその証言を受け入れて信じようとはしない、という意味です。

「彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。」
(「マタイによる福音書」2章9節、口語訳)

ベツレヘムはエルサレムの南方約8キロメートルのところにありました。エルサレムからベツレヘムに向かう旅の途中で、博士たちは再び星を見ました(9節)。「王は都の王宮で生まれるに違いない」と彼らは最初考えました。人間の理性が彼らの判断を誤らせたとも言えるでしょう。たしかに神様は私たち人間に信仰に関わる事柄についても適切な使用が可能であるような理性をくださいました。しかし、時には理性が私たちを迷わせる場合もあるという危険を忘れるべきではありません。信仰は「理性に反するもの」というよりも「理性を超えるもの」なのです。信仰は私たちの理性とは異なる階層で活動するものだからです。

どうしてナザレのイエス様はダビデの町ベツレヘムでお生まれになったのでしょうか。それについてマタイは述べていませんが、ルカはクリスマスの福音の中でその理由を語っています。すなわち、ローマ皇帝アウグストが実施した徴税政策(「全世界の人口調査をせよとの勅令」)のために皆が自分の属する家系の故郷に行かなければならなかったのです(「ルカによる福音書」2章1〜5節)。

「そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。」 (「マタイによる福音書」2章11節、口語訳)

博士たちの来訪の頃にはイエス様の誕生からすでに数ヶ月が経過しており、聖家族はもはや馬小屋ではなく「家」に住んでいたことがわかります(11節)。

この箇所でも、マタイはヨセフにではなくマリヤに焦点を当てていることに注目してください(11節)。イエス様は処女マリアからお生まれになりました。理性に束縛されている科学はそのような可能性の存在そのものを完全に否定しようと躍起になります。しかし、それが本当に起きた出来事であることを聖書本文の詳細が示しています。

贈り物の数に基づいて「博士たちは三人いた」と推定されています(11節)。それらの贈り物は「王」に関連するものばかりでした。没薬(ギリシア語で「スミュルナ」)は良い香りのする樹脂です。乳香(ギリシア語で「リバノス」)は礼拝以外の目的にも使用された香です。没薬と乳香はアラビアで採れたので、博士たちは南アラビアからやって来たとする説もありますが、これらはもちろん当時の中東全域で使用されていました。

後代の伝承によれば博士たちの名前は次のように記されています。
老人のカスパー
中年のメルキオール
若者のバルタザール

後代には、長い冒険の末にようやく聖金曜日にイエス様の十字架の下にやってきた「第四の博士」についての伝説も生まれました。

「そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。」
(「マタイによる福音書」2章12節、口語訳)

神様はここで再び博士たちの旅路に干渉なさり、ヘロデのところに戻らないよう彼らにお命じになりました。そして彼らはそれに従ったのです(12節)。

「マタイによる福音書」2章13〜15節 エジプトへの脱出

この章には、神様が夢を通してヨセフ一家をどのように導いてくださったかが4回も述べられており(12、15、19、22節)、また旧約聖書の預言が成就したことについても同じく4回書かれています(6、15、18、23節)。神様は異なる時代に異なるやりかたで人々に語りかけてこられました。私たちにとって最も重要な導きの源になるのは聖書です。ルター派のキリスト教会の出発点は、すべて聖書と矛盾するものは神様からの啓示ではあり得ないため、拒絶されなければならないということです。

エジプトはイスラエルにとって古くからの敵国であり、イスラエルの「反体制派」の逃亡先となってきました(「エレミヤ書」26章21節)。

預言者ホセア(「ホセア書」11章1節)は、モーセの時代に神様がイスラエルの民すなわち「わが子」をエジプトから呼び出した、と述べています。そしてマタイは、イスラエルの歴史が来るべきメシアの生涯の伏線(あるいは予型)となっていることを何度も述べています。

この箇所は、神様がこの世での悪の策動をある程度までは許しておられる一方で、悪の力には限界をも設定なさっていることを私たちに思い起こさせます。宗教改革者マルティン・ルターはサタンを適切にも「神様の鎖につながれた犬」と呼んでいます。サタンの策動には限界が設けられており、それを超えることはできないようになっているからです。例えば、ヘロデはベツレヘムの男児たちを故なく殺害したにもかかわらず、この世に生まれたメシアを殺すことはできませんでした。

神様の救いの計画を阻止して無化する最も簡単なやりかたは、イエス様を「その時が来る前に」殺すか、あるいは神様の御心から離れさせることである、とサタンは最初から考えていました(4章1〜11節)。

13〜14節(20節も参照のこと)が「ヨセフの息子と妻」ではなく「幼子とその母」について述べていることに注目してください。この表現もイエス様の「処女懐胎」を示唆しています。

ヘロデは紀元前4年に死去しました。聖家族がどのくらいの間エジプトに滞留したのか正確にはわかりませんが、マタイの記述からはヘロデの死後すぐに帰還したような印象を受けます(22節も参照のこと)。おそらく彼らは3年間ほどエジプトに滞在したのでしょう。

古いユダヤ教の資料によれば、イエス様はエジプトで学んだ魔術によって奇跡を行ったという批判を受けたとされています。聖家族のエジプト滞在については福音書ではマタイだけが明記しています。しかし、イエス様が幼い頃にエジプトを訪れたことは一般によく知られていたようです。

「マタイによる福音書」2章16〜18節 ベツレヘムの嬰児殺し

「さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。」 (「マタイによる福音書」2章16節、口語訳)

嬰児殺しの規模は非常に誇張されて書かれています。ベツレヘムは小さな町であり、そのあたりの周辺に住んでいた2歳未満の男の子はそれほど多くはなかったはずだからです。しかし言うまでもなく、その行為は残虐極まりないものでした。

この出来事の記述はヘロデとその権力行使のやりかたについて世俗的な歴史書から得られるイメージとよく一致しています。ヘロデは自分がユダヤ人たちから嫌悪されている支配者であることを自覚していたので、自分が死んだ日にはユダヤの民が泣くほかないように仕向けるためにユダヤ人の指導者たちを殺すように命じていたのです。

「こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
「叫び泣く大いなる悲しみの声が
ラマで聞えた。
ラケルはその子らのためになげいた。
子らがもはやいないので、
慰められることさえ願わなかった」。」
(「マタイによる福音書」2章17〜18節、口語訳)

ラマはエルサレムから北に8キロメートルほど離れたところにあり、エルサレムから見てベツレヘムとは反対側にありました。

ラケルはユダヤ人の祖先にあたる父ヤコブのお気に入りの妻であり、彼にヨセフ(「創世記」30章22〜24節)とベニヤミン(「創世記」35章16〜20節)を産みましたが、後者の出産の際に息を引き取り、ベツレヘムに葬られました(「創世記」35章19節の「エフラタ、すなわちベツレヘムの道」)。上記の預言を残したエレミヤの時代にはラケルの死からすでに何百年も経過していたことは注目に値します。とはいえ、エレミヤの時代についても、またベツレヘムでの嬰児殺しの時代についても、ラケルがユダヤの民の先祖にあたる母としてその行く末を嘆いていたことを上掲の箇所は述べています。

この預言(18節)はエレミヤによるもの(「エレミヤ書」31章15節)で、元の文脈ではユダヤの民が故郷の地を遠く離れて強制的に捕囚されることについての預言でした。次に引用するその直後の預言(「エレミヤ書」31章16〜17節)は、そのような悲惨な状況の中でもなお神様がよりよい将来への希望を与えてくださるという内容になっています。それはとりわけイエス様の誕生を意味していました。

「主はこう仰せられる、
「あなたは泣く声をとどめ、
目から涙をながすことをやめよ。
あなたのわざに報いがある。
彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。
あなたの将来には希望があり、
あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると
主は言われる。」
(「エレミヤ書」31章16〜17節、口語訳)

教会暦でベツレヘムの嬰児虐殺を悼んで覚える日はクリスマスの4日目、すなわち12月28日の「無垢な子どもたちの日」です。この日は「無辜嬰児殉教の日」あるいは「幼子殉教者の記念日」とも呼ばれます。例えば、現代のフィンランドでは多くの人々はこの日の聖書的な起源を忘れており、困難な生活を強いられている今日の子どもたちのことを覚える日であると勘違いしています。このことは、伝統的に国民の大部分がキリスト教徒であったフィンランドでもキリスト教信仰が弱まってきていることを如実に物語っています。

「マタイによる福音書」2章19〜23節 エジプトからの帰還

文字通り世界中からリアルタイムでニュースが届くインターネット情報化社会の現代に比べると、イエス様が誕生された当時の世界での情報の伝達速度は当然ながらはるかに遅いものでした。

「さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」。」
(「マタイによる福音書」2章19〜20節、口語訳)

ここで再び神様はヨセフに御使を遣わされました。聖家族が自分の国に帰る時がきたのです(20節)。

ヘロデ大王の死後、ローマ帝国は彼の王国を4つに分割しました。ユダヤの統治者(特定の民族の統治者(英語では「ethnarch」といい、王とは異なる存在です)には父ヘロデの暴力的側面を受け継いだ息子アルケラオス(口語訳では「アケラオ」)が任命されました。彼は紀元前4年から紀元後6年まで統治しましたが、その暴力的なやりかたを理由に解任され、それ以後はローマ帝国がユダヤを直接支配するべくローマ人の総督を任命するようになります。

ユダヤ教に熱心な(南部のユダ地方の)ユダヤ人たちはガリラヤを辺鄙な地域とみなし、その住民たちのことも見下していました。ガリラヤにあったナザレは当時小さな村であり、旧約聖書には出てきません。しかし「メシアはナザレ人である」という点で旧約聖書の預言も実はここで成就していたのです。おそらくこの背景にはエッサイの切り株から生え出る芽に関する次の「イザヤ書」11章の預言があると思われます。

「エッサイの株から一つの芽が出、
その根から一つの若枝が生えて実を結び、
その上に主の霊がとどまる。
これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、
主を知る知識と主を恐れる霊である。」
(「イザヤ書」11章1〜2節、口語訳)

預言での「芽」はヘブライ語では「ネーツェル」といい、「ナザレ」という言葉とほぼ同じ語根を持つ三つの子音(N-Z-R)から構成されています。ルカはマリアの家がナザレにあったと伝えています(「ルカによる福音書」1章26節(「ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた」))。これは、ヨセフとマリアがなぜナザレを故郷に選んだのか、について原語的な視点からの説明を与えます。

「ナザレ人」は侮蔑的な表現でした(「ヨハネによる福音書」1章45〜46節の「ナザレから、なんのよいものが出ようか」というナタナエルの発言も参考になります)。しかしイエス様のおかげにより、ナザレは世界史にその名を残すことになりました。よく知られているように「INRI」はイエス様の十字架上に掲げられた罪状書きのラテン語「IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM」(「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という意味)の頭字語を略記したものですが、この略語の中のNの文字は、まさに「ナザレ」に由来するものです。「マタイによる福音書」21章11節には、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」という群衆の発言が記されています。

ガリラヤとペレアはヘロデのもう一人の息子であるヘロデ・アンティパスによって統治されました。彼は父親よりは幾分ましな為政者であったらしく、西暦39年まで統治を委ねられていました。彼は洗礼者ヨハネを殺害させています(「マタイによる福音書」14章1〜12節)。また聖金曜日にピラトはイエス様を審問にかけるために彼の面前に移送しています(「ルカによる福音書」23章6〜12節)。

新約聖書の執筆者たちはイエス様の幼少期についてあまり書き記していません。イエス様のこの世での生涯のごく初期についての記述を除くと、12歳のイエス様がエルサレムの神殿を訪れたことをルカが伝えているだけです(「ルカによる福音書」2章41〜52節)。

信仰熱心な人が想像力を働かせすぎると、聖書には書かれていない事柄をあたかも「事実」であるかのように錯覚してしまうことが時おり見受けられます。「ヤコブによる原福音書」のようないわゆる外典福音書がそのような例になります。しかし、そのような文書の文体やそこに書かれている出来事は聖書の福音書の文体や記述内容とは大きく異なっています。それゆえ、そのような文書は事実に基づかない「伝説」として理解されるべき類のものということになります。