使徒言行録22章30節〜23章 愛の説教が民衆を怒らせる

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロと大祭司  「使徒言行録」22章30節〜23章5節

ローマの千卒長はなぜユダヤ人たちがパウロを殺そうと目論んだのかその理由を明らかにしたいと考えました。前の章でも述べたように、パウロは群衆にアラム語で話しかけたので、千卒長はその話の内容を理解できませんでした。パウロはローマの市民権をもっていたため、パウロを鞭打つわけにもいきませんでした。それで千卒長はパウロの敵対者たちから真相を引き出そうとして、パウロが逮捕された翌日早々ユダヤ人の行政と司法の最高指導者たち(祭司長たちと全議会)を招集したのです。

そもそもローマの千卒長に全議会を招集する権利があったのかどうかについては議論が続けられてきました。史実に基づくかぎり確かなことはわかりません。しかしこの案件に関して言えばユダヤ人たちは千卒長の要請を受け入れました。もっとも彼らが要請に応じたのがそうするほかなかったからなのか、それとも必ずしもそうする必要がなかったのにそうしたのかはわかりません。ユダヤ人たちはパウロがローマの軍隊によって守られているという現況を認識していました。いくら彼らがパウロの息の根を止めたいと思っていても、それが可能になるのはローマ帝国がパウロに死刑判決を下す場合だけでした。それゆえ、今回のケースでもユダヤ人たちはローマ人たちに協力するほかなかったのです。

この会合はパウロの処遇を決定する全議会による正式の会議ではなく、むしろユダヤ人の代表者とローマの代表者との間の臨時協議のようなものであったと思われます。ローマの軍人が全会議の正式な会議に参加を許されるとは考えられないからです。

この集まりでパウロは囚人のようには振る舞わず、自分の言うべきことを臆することなくはっきりと述べています。「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」(23章1節より)というパウロの言葉を聞いて大祭司アナニヤは激怒しました。ユダヤ人の裁判のしきたりを破ってまでしてアナニヤは部下にパウロの口を打つように命じました。これはたんなる処罰ではありませんでした。パウロが嘘をついているとアナニヤが判断したということです。

それに対してパウロはすぐさま反論し、神様がこれからアナニヤを打つであろうと予言し、アナニヤを「白く塗られた壁」と呼びました(23章3節)。これは次の「エゼキエル書」の箇所を念頭に置いての発言であると思われます。

「彼らはわが民を惑わし、平和がないのに『平和』と言い、また民が塀を築く時、これらの預言者たちは水しっくいをもってこれを塗る。」
(「エゼキエル書」13章10節、口語訳)

上掲の箇所で預言者エゼキエルは彼の時代のユダヤ民族の指導者たちが外面は立派だが内面は腐敗していることを痛烈に批判しています。

パウロの予言は実現しました。それからおよそ一ヶ月後には地方総督ペリクス(フェリクスとも書きます)がアナニヤを大祭司の職から解任したからです(アナニヤは48〜59年に大祭司の職にありました)。さらに66年にユダヤ人たちがローマに反旗を翻した時、熱心党(ゼーロータイ)はアナニヤをローマの追従者とみなして殺害しました。

側に立っていた男たちがパウロに「神の大祭司に対して無礼なことを言うのか」(「使徒言行録」23章4節)と言うと、パウロはアナニヤが大祭司であるとは知らなかったと答えました。旧約聖書には大祭司を悪く言うことを禁じる戒めがあります(「出エジプト記」22章28節)。大祭司を悪く言うことは神様を侮蔑することでもあるとみなされたからです。

「アナニヤが大祭司であるとは知らなかった」というパウロの主張について研究者の間では議論が起きました。「大祭司ならこのようなことをするはずがない」という皮肉をパウロの返答の中に見る人もいます。しかし、パウロが本当に誰が大祭司であるかを知らなかった可能性ももちろんあります。パウロはユダヤ地方やエルサレムから約10年間も離れて暮らしていたからです。

古くからの論争が全議会の意見を二分する 「使徒言行録」23章6〜10節

ルカが全議会の会議で起きた一部始終を書き留めていないのは明らかです。ここでもまた彼は最も重要なことのみに絞って叙述しているのです。彼にはこの箇所で是非とも強調したいことがひとつありました。それは、パウロが受けた告発は純粋に宗教的な理由によるものであり、ローマ帝国の支配権を脅かすような政治的な犯罪に関与するものではなかったということです。

当時のユダヤ教社会で実権を握っていたのはサドカイ派でした。ユダヤ教の祭司階級の大多数はサドカイ派が占めていました。彼らは理性に基づいて宗教を理解しようとし、例えば天使や死者からの復活を信じませんでした。

ユダヤ教においてサドカイ派とは別にパリサイ派もまた独自のグループを形成していました。66年に始まったローマに対するユダヤ人の反乱は72年に鎮圧され、エルサレムは崩壊し、サドカイ派などは消滅します。その後は事実上パリサイ派が存続する唯一のユダヤ教のグループとなりました。 

新約聖書に登場するサドカイ派とパリサイ派という二つのグループとキリスト教信仰との関係は例えば次のようにまとめることができるでしょう。

パリサイ派の者がキリスト信仰者になるために必要なことは「イエス様こそが旧約聖書で到来が約束されていたメシア(救世主)である」という新しい結論を受け入れることだけでした。そしてパリサイ派に属する多くの者はキリスト信仰者になりました(「使徒言行録」21章20節)。それとは異なり、サドカイ派の者がキリスト信仰者になることは彼らのユダヤ教解釈を根底から改めることを意味していました。

すでにイエス様が活動しておられた時点でパリサイ派のほうがサドカイ派よりもキリスト教信仰に親和性があることが明らかになっていました。パリサイ派の人々はイエス様としばしば話し合ったり論争したりしました。彼らとイエス様の間には議論を可能にするような何らかの共通の基盤があったからです。それとは異なり、サドカイ派の人々はイエス様にまったく関心を示しませんでした。福音書はサドカイ派とイエス様との間の話し合いについてたった一度だけ言及しています(「マタイによる福音書」22章23〜33節)。

パウロはユダヤ民族の宗教的な指導者たちの考え方を知悉していました。そして、全議会がたとえ外面的には一枚板のように見えても実際には議員たちの間に多くの点で意見の相違があることも知っていました(23章3節の「白く塗られた壁」は彼らの宗教性が表面的な綺麗事であったことを表しています)。

ここでパウロの放った一言が全議会の異なるグループの間に激しい議論を呼び起こすことになります。しかも、その一言は他の何かに置き換えられるようなものではなく、重要な論争の核心を突くものでした。すなわち、イエス様が死者から復活なさったことを信じているがゆえにパウロは今こうして全議会で尋問を受けているということです。

「パウロは、議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であるのを見て、議会の中で声を高めて言った、「兄弟たちよ、わたしはパリサイ人であり、パリサイ人の子である。わたしは、死人の復活の望みをいだいていることで、裁判を受けているのである」。彼がこう言ったところ、パリサイ人とサドカイ人との間に争論が生じ、会衆が相分れた。」
(「使徒言行録」23章6〜7節、口語訳)

パウロのこの発言はふたつの点で重要です。

第一に、イエス様の復活がパウロおよび最初期の教会にとって極めて重要な出来事であったことをこの発言は示しています(「コリントの信徒への第一の手紙」15章19節)。イエス様の復活はキリスト教信仰の核心です。今回の論争もこの教義に関わるものでした。キリストの復活信仰はパウロを結局はパリサイ派のユダヤ人たちからも分離することになります。そうならないためにパウロがこの信仰を捨てるようなことは決してありえませんでした。

第二に、パウロの発言とそれが巻き起こした全議会内の激しい意見の対立はパウロに関わる問題の本質を明るみに出します。パウロの案件はローマに反抗する政治的な騒乱などではなく純粋に宗教的な論争であったということです。ですから、この問題はローマの役人たちにはまったく関係のないはずのものでした。

騒動が大きくなり、ローマの千卒長はパウロをユダヤ人たちの手から守るために兵営に連れて来るようにと兵卒たちに命じました。この段階に至って千卒長はパウロに関わる論争がどのような内容のものであるかについてある程度のイメージをもつことができるようになっていました(「使徒言行録」23章29節)。

キリストの激励 「使徒言行録」23章11節

「その夜、主がパウロに臨んで言われた、「しっかりせよ。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなくてはならない」。」
(「使徒言行録」23章11節、口語訳)

イエス様によるこの励ましのメッセージはこれから起こることについての確かな約束でもありました。パウロはローマに行って救い主について証をすることができるという約束です。パウロの証はローマでも司法の場で行われることになるということもこのメッセージから読み取ることができます(「使徒言行録」25章10節も参照してください)。キリストのこの約束には暗澹たる内容も含まれていました。初期のキリスト教会の伝承が語っているように、最終的にパウロはイエス様について自らの血をもって証しする、言い換えれば、信仰のゆえに殉教することになったからです。

パウロ暗殺計画 「使徒言行録」23章12〜22節

激情に駆られたユダヤ人たちはパウロのことがついに我慢ならなくなりました。速やかにパウロを葬り去るために四十人を超える男たちが集まって密談をもちました。彼らはパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い合いました(14節)。おそらく彼らは群衆に紛れてローマ人や気に入らないユダヤ人のことを暗殺してきたゼーロータイすなわち熱心党に属する者たちであったと思われます。しかしアントニア要塞の中にいるかぎりパウロの身は安全でした。それゆえパウロをそこから外に引っ張り出す口実が必要とされたのです。もしも全議会がパウロの案件を議題として改めて取り上げてくれるようにローマ側に要求するならば、彼らの思惑通りに事が進むものと思われました。

ユダヤ教の律法は陰謀に加担することを禁じています。それにもかかわらず、全議会は彼らの要求を受け入れました。おそらくこのことを正当化するために、パウロは全議会の事情聴取を受ける前に殺されるので全議会は陰謀に加担したことにはならないから大丈夫である、といったこじつけの説明がなされたものと思われます。あるいは「良い目的」を大義名分にしてパウロの暗殺を例外的に承認する根回しがすでに全議会のほうでもできていたのかもしれません。パウロに関する前回の件で面目を失った全議会が今回の計画の実現にかける意気込みは相当なものであったとも考えられます。

ところがこの陰謀はパウロの姉妹の息子の知れるところとなりました。この人物がキリスト信仰者であったのか、それとも熱心党あるいはパリサイ派の一員だったのかについてルカは何も語っていません。もしもこの人物が熱心党だったのならこの陰謀についての情報を入手するのは容易だったことでしょう。また、この人物がパリサイ派であった可能性もパウロの家族がパリサイ派かあるいはそれに近かったことを考えれば十分ありえます(23章6節)。パウロの姉妹の息子がどのグループに所属していたにせよ、彼は自分の親戚を救い出そうとしたことになります。

パウロは監獄では軟禁されていたため、人々と面会することができました。この陰謀を聞いたパウロはそれについて通報するために甥を千卒長のもとに送りました。

結果的に今回も陰謀は失敗しました。しかし陰謀に加担した者たちが自らの誓いのせいで餓死することはなかったと思われます。陰謀が失敗した場合、律法学者たちは彼らを「パウロを殺すまでは飲み食いしない」という誓いを帳消しにすることができたからです。

ローマへの旅のはじまり 「使徒言行録」23章23〜35節

千卒長の名はクラウデオ・ルシヤと言いました。当然ながら彼は、陰謀を巡らすユダヤ人たちにローマ帝国軍が連行した男をみすみす殺害させるような隙を与えはしませんでした。通報を受けた同じ晩の第三時(すなわち21時)にさっそく千卒長はパウロをエルサレムよりも安全な場所であるカイザリヤに護送させました(23節)。

実に思いがけないやりかたでパウロはエルサレムを脱出することになりました。そしてこれが彼にとって最後のエルサレム滞在となったのです。エルサレムに駐屯していた軍隊の約半数の兵士たちがエルサレムから約60キロメートル離れたアンテパトリスまでパウロを護衛しました。翌日、この400人の歩兵団はエルサレムへの帰還の途につき、パウロはアンテパトリスから約40キロメートル離れたカイザリヤへ騎兵団に護送されました。

千卒長クラウデオ・ルシヤは護衛団に自分の手紙を持たせました。この手紙で彼はエルサレムで起きた事件の一部始終について次のように説明しています。

「クラウデオ・ルシヤ、つつしんで総督ペリクス閣下の平安を祈ります。本人のパウロが、ユダヤ人らに捕えられ、まさに殺されようとしていたのを、彼のローマ市民であることを知ったので、わたしは兵卒たちを率いて行って、彼を救い出しました。それから、彼が訴えられた理由を知ろうと思い、彼を議会に連れて行きました。ところが、彼はユダヤ人の律法の問題で訴えられたものであり、なんら死刑または投獄に当る罪のないことがわかりました。しかし、この人に対して陰謀がめぐらされているとの報告がありましたので、わたしは取りあえず、彼を閣下のもとにお送りすることにし、訴える者たちには、閣下の前で、彼に対する申立てをするようにと、命じておきました。」
(「使徒言行録」23章26〜30節、口語訳)

上述の説明には出来事を実際よりも美化している部分があります。千卒長はパウロをローマの市民であると知ったがゆえに救い出した、というように手紙で書いている点です。このようにして彼は、ローマの市民権を有する者をあやうく鞭打ちにしようとしていたという自分に不都合な事実関係を隠蔽しようとしたのです(22章25〜29節)。

無論、千卒長はパウロをカイザリヤに護送する件をユダヤ人たちにはあらかじめ伝えることなく事後通知で済ませました(23章22節を参照のこと)。地方総督ペリクスが千卒長の手紙を受け取って読む頃にユダヤ人たちもパウロの新しい居場所を知ることになるように千卒長は取り計らいました。ユダヤ人たちは千卒長のもとを訪れてパウロの案件について再考を促した時にパウロが今どこにいるのかを知ることになったのです。それはパウロがすでにアンテパトリスに着いていた朝のことでした。

ところでルカは千卒長が書き送った手紙の内容をどうして知ることができたのでしょうか。それには単純な説明を与えることができます。当時、手紙は声に出して読まれるのが普通でした。ですから、パウロがカイザリヤで地方総督ペリクスの前に出頭した時、その場で総督宛の千卒長クラウデオ・ルシヤの手紙も口頭で読まれたのでしょう(23章34節)。

総督ペリクスは千卒長長クラウデオ・ルシヤほど有能なローマの役人ではありませんでした。ペリクスは自分の兄弟パラスがローマ皇帝クラウデオに気に入られていたおかげでユダヤの地方総督になれました。クラウデオ帝はペリクスを52年にこの職に任命しましたが、58年には解任しています(24章27節)。ペリクスは解放奴隷の出身であり、地方総督の仕事を首尾よく遂行することができなかったようです。

遅かれ早かれペリクスはパウロの案件を扱うことになったでしょう。しかしユダヤ人たちによるパウロ暗殺計画があったために、パウロの案件は早急に取り上げられることになったとも言えます。

ペリクスはパウロにどこの出身かとたずねました。ローマの法律によれば、被告の出身地がどこであるかに応じて、どこで裁判をするかが決められたからです。ペリクスはパウロの告発者たちがカイザリヤに着いてから自らこの案件を扱うことにしました。それを待ちながらパウロはヘロデの官邸内で守られることになりました。当時、この建物は地方総督の役所として使われていたのです。