使徒言行録21章1〜36節 良好な関係は保たれるか?

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

前章の終わりでパウロはエペソのキリスト信仰者たちに別れを告げました。その描写はパウロの地中海東部における福音伝道が終わろうとしているという印象を与えるものでした。

しかしパウロにはまだエルサレム訪問という計画が残っていました。しかもそれは大変な危険と困難を伴うものでした。

エルサレムの教会のキリスト信仰者たちはユダヤ教の律法を敬っていました。そのような彼らのもとに、律法からの自由を宣べ伝えるパウロは異邦人キリスト信仰者たちの諸教会がエルサレムの貧しい信徒たちのために集めた援助献金を携えて行ったのです。それゆえ、エルサレムの信徒たちがパウロとその献金に対してどのような態度をとるのか、まったく予想がつきませんでした。

さらにそれに加えて、パウロはユダヤ人たちの反応にも注意を払わなければなりませんでした。パウロがキリスト信仰者になってからすでに20年以上の歳月が経過していたとはいえ、かつてパウロがキリスト信仰者を激しく迫害したことをユダヤ人たちが忘れるはずはなかったからです。

自由の身での最後の旅 「使徒言行録」21章1〜14節

パウロの自由の身での最後の旅はコスやロドスといった今日では観光地として人気のある地域を通っていくものでした。当時の航海には二つのやりかたがあったことがルカの旅行記からよくわかります。最初の頃パウロとその一行は沿岸に沿って運航する船に乗りました。この船は1日かけて港から港へと移動しました。

しかしパタラ以降はそれまでよりも大きな船で旅が続けられることになりました。この時には船は沿岸から遠く離れた沖に出たために大陸が見えなくなりました。この種類の船に乗ることでパウロとその一行はクプロ(すなわちキプロス)の南側を通って直接シリヤへと航海を続けることができたのです(21章3節)。

方位を正確に知るための器具は当時まだ発明されておらず、星や太陽の位置から船の現在地点や進行方向を大まかに推測することができるだけでした。外海に出た船の多数は大きくて小回りがきかない貨物船でした。これからもわかるように、当時の航海は現代の快適な観光旅行などとは程遠い非常に危険な冒険だったのです。

今回のパウロの海路の旅はとくに困難もなく進みました。パウロとその一行は短期間のうちにツロに入港し、そこで船は積荷を陸上げしました。今までの積荷が船から下ろされて新しい積荷が船に積み込まれる一週間ほどの期間にパウロはずっとその場で待機していたのか、それともトレマイ(すなわちプトレマイス)に向けて別の船で出発したのかははっきりしません(21章7節)。ちなみに後の十字軍の時代にトレマイはアッコと呼ばれることになります。

ツロでパウロはその町のキリスト信仰者たちに出会っています。ツロにキリスト教会が生まれたのは、ステパノの殉教がきっかけでキリスト信仰者の一部がエルサレムから他の地方へと散り散りになっていったことと関係していると思われます(11章19節)。それと同じようにしてトレマイやカイザリヤにも教会が生まれたのでしょう。これらの教会の大部分の会員はヘレニスト・ユダヤ人キリスト信仰者(すなわちギリシア語を母国語とするユダヤ人キリスト信仰者)であったと思われます。

ヘレニスト・ユダヤ人キリスト信仰者のグループにはカイザリヤ在住の福音伝道者ピリポも入っていました(ただしこのピリポは使徒ピリポとは別の人物です)。ピリポはステパノの同僚であり、ディアコニアの職に任命された最初の7人のうちの一人でした。「使徒言行録」8章でルカはピリポの伝道活動がちょうどこの箇所に登場する地域で行われていたと述べています。ルカの記述によれば、ピリポはまさしくカイザリヤに残ることになります(8章40節)。パウロとその一行は何日間もピリポのもとに客人として滞在しました(21章8節)。

「幾日か滞在している間に、アガボという預言者がユダヤから下ってきた。そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。」
(「使徒言行録」21章10〜11節、口語訳)

その時エルサレムからカイザリヤにやってきた預言者アガボという人物は、世界中に大きなききんがクラウデオ帝の時代に起きるであろう、と約20年も以前に予言したことがあります(11章28節)。パウロがエルサレムで困難な状況に直面することをアガボが予言したのはこれで三度目です(前の二回は20章23節と21章4節です)。アガボはパウロの長い布の帯を用いてパウロが捕縛されることを具体的な仕草で表現し、聖霊様の御名によって予言しました。「聖霊がこうお告げになっている」という言い回しは旧約聖書の「主はこう言われる」という定型文に対応するものです(例えば「アモス書」1章3節)。しかし、どうして聖霊様はパウロにこれから起きることをあらかじめ示されたのでしょうか。

「わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。」
(「使徒言行録」21章12〜13節、口語訳)

パウロはアガボの予言を聞いても元々の計画を変更するつもりはまったくありませんでした。はたしてパウロのとった行動はまちがいだったのでしょうか。いいえ、そうではありません。きっとパウロにはイエス様のエルサレムへの道行に従っていく心の準備ができていたのだろうと思います。イエス様の場合もパウロの場合もエルサレムへの道を歩ませたのは神様の御心に基づく必然性でした。これからエルサレムでパウロに起きることについて三度も予言されたのはどうしてだったのか十分な説明をすることはできません。その深い意味は私たちから隠されているからです。とはいえ、それらの予言はパウロが滞在した諸教会のキリスト信仰者たちを勇気づけるものだったでしょう。なぜならば、エルサレムでこれからパウロに起きようとしている出来事をすでに神様はあらかじめ知っておられたことになるからです。

「こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。」
(「使徒言行録」21章14節、口語訳)

パウロに翻意を促したもののうまくいかなかったので、パウロの周囲の人々(「わたしたち」)はパウロを神様の御手にゆだねました。また、彼らはきっと使徒パウロのために熱心に祈ったことでしょう。

ところでパウロについての予言をしたのはアガボでした。それなのにルカはどうしてピリポの四人の娘たちに預言の賜物があったと述べているのでしょうか。それはそのことが特にルカの印象に残ったからだったとしか言えません。すべてのことに関して深い神学的な考察やその他の理由を探究することはできないし、またそうするべきでもありません。

ユダヤ人にはユダヤ人のように 「使徒言行録」21章15〜26節

「数日後、わたしたちは旅装を整えてエルサレムへ上って行った。カイザリヤの弟子たちも数人、わたしたちと同行して、古くからの弟子であるクプロ人マナソンの家に案内してくれた。わたしたちはその家に泊まることになっていたのである。」
(「使徒言行録」21章15〜16節、口語訳)

カイザリヤからエルサレムまでは約100キロメートルの距離があり、約800メートルの標高差のある上り坂になっていました。二日を要する旅の途中、彼らは古くからの弟子であるマナソンの家に宿泊しました。

当時のエルサレムの教会はかなり困難な状況の中にありました。ユダヤ人による国粋主義が激しさを増してきたためにキリスト信仰者はより慎重な言動をとらなければならなくなっていたのです。愛国心に反する誤解を招く行動はことさら避けなければなりませんでした。それから約10年後の西暦66年にはユダヤ人国粋主義者たちが反乱を起こしますが、ローマ帝国の軍隊によって鎮圧されます。とはいえ最終的に反乱分子が一掃されるのはようやく72年になってからです。

はたしてエルサレムの教会はパウロ自身のことや彼の携えてきた贈り物を受け入れてくれるのでしょうか。パウロ自身もこのことを気にかけていました(「ローマの信徒への手紙」15章31節)。

パウロがエルサレムに着いた時にはすべてうまくいくようにみえました。到着した翌日にパウロはイエス様の実の弟ヤコブ(エルサレムの教会の指導者)や長老たちと面会することができました(21章18節)。その頃(50年代後半)にはすでに使徒たちはエルサレムを離れて散り散りとなり様々な地方で福音を宣べ伝えていました。

「パウロは彼らにあいさつをした後、神が自分の働きをとおして、異邦人の間になさった事どもを一々説明した。一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんな律法に熱心な人たちである。ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。」
(「使徒言行録」21章19〜21節、口語訳)

エルサレム教会ではパウロの異邦人伝道を皆で共に喜び、神様をほめたたえました。しかしその一方で、教会の指導者ヤコブはエルサレムのキリスト信仰者のうちの全員がパウロのエルサレム到着を彼らと同じように歓迎しているのではないということもパウロたちに伝えなければなりませんでした。パウロについて事実と異なる悪い噂が流れていたために一部の人々はパウロに対して反感を抱いていたのです。その噂によれば、パウロはユダヤ人たちにモーセの律法を捨てるように勧めたというのです。それゆえ、この虚偽の噂を断ち切った後でならパウロはエルサレムのキリスト信仰者全員と面会することができるだろうということになりました。ヤコブはパウロに次のような提案をしました。

「ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。」
(「使徒言行録」21章23〜24節、口語訳)

律法(「民数記」6章1〜21節)の定めるナジル人となる誓願を立てている四人のきよめと頭を剃る費用をパウロが彼らのために支払うならばパウロが律法を重んじる真面目なユダヤ人であることが皆にわかる、というのがヤコブの趣旨でした。ナジル人となる誓願を立てた者は決められた期間はぶどう酒を飲まず、髪を剃らず、死体によって自分が汚れることを避けなければなりません。定められた期間が過ぎると、誓願を立てた者は主に次のような供え物をささげ、また髪を剃ることになっていました。

「そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。」
(「民数記」6章14〜15節、口語訳)

もしもパウロがこの誓願のための必要経費を誓願者の代わりに支払うならば、ユダヤ人キリスト信仰者や一般のユダヤ人がモーセの律法規定に従おうとするのをパウロが妨げようとはしていないことを皆もわかってくれることでしょう。一つの行いが千の言葉よりも説得力をもつ場合があります。そういうわけでパウロはヤコブの提案に従うことにしました。パウロはユダヤ人にはユダヤ人、ギリシア人にはギリシア人であろうとしたのです。

「そこでパウロは、その次の日に四人の者を連れて、彼らと共にきよめを受けてから宮にはいった。そしてきよめの期間が終って、ひとりびとりのために供え物をささげる時を報告しておいた。」
(「使徒言行録」21章26節、口語訳)

パウロは神殿に入るために自分自身もきよめを受けなければなりませんでした。彼は汚れた異邦人の地域からやってきたからです。ヤコブは異邦人キリスト信仰者とユダヤ人キリスト信仰者との間の関係を良好に保とうとしました。パウロもまたそれとまったく同じことを望んでいました。彼がいかなる危険も顧みることなくエルサレムにやってきてヤコブの提案に従って行動したことにもその気持ちはよくあらわれています。

献金のゆくえ

ところで異邦人キリスト諸教会からパウロたちが集めたエルサレム教会の貧しい信徒たちのための支援献金はどうなったのでしょうか。エルサレムのキリスト信仰者たちはそれを受け取ったのでしょうか、それとも受け取らなかったのでしょうか。

ルカはこのことについて何も語っていないため、すべては推測の域を出ません。ルカは献金が拒否されたという好ましくない結果について沈黙した、と考える人々もいます。しかしより真実に近いと思われるのは、献金は受け取ってもらえたが何らかの理由からルカはそれについて「使徒言行録」で述べなかったという解釈でしょう。

神殿で起きた騒ぎ 「使徒言行録」21章27〜36節

パウロはきよめを受けるためにきよめの期間の第三日と第七日に神殿に通いました。その二回目の時に小アジアから来ていたユダヤ人たちがパウロを神殿で見かけ「パウロは律法を軽視し異邦人を神殿に連れ込んだ」と非難して騒ぎ立てました。

「パウロは律法を軽んじた」と非難するだけでは十分な効果がなかったと思われますが、「パウロは神殿を汚した」という指摘はきわめて重大なものであったため、その真偽を確かめることもなく群衆はパウロに襲いかかりました。

「彼らは、前にエペソ人トロピモが、パウロと一緒に町を歩いていたのを見かけて、その人をパウロが宮の内に連れ込んだのだと思ったのである。」
(「使徒言行録」21章29節、口語訳)

上掲の節に出てくるエペソ人トロピモのことを、小アジアから来たパウロの敵対者たちは彼らと同じ小アジア出身のキリスト信仰者として以前から知っていたものと思われます(20章4節)。もしもパウロが本当にこのトロピモを神殿に連れ込んだのだとしたら、その罪はきわめて重大でした。異邦人はいわゆる「異邦人の庭」に入ることは許されていましたが、その庭は神殿の神聖な領域の外側にありました。この庭およびそれとつながっている「婦人の庭」は神殿の外庭になっています。異邦人の庭と神殿の内庭との間には12の門があり、それらの傍らには「これより中に入る異邦人は死刑に処す」という旨の警告の札が掲げられていました。実際にこのような札が発掘調査で見つかっています。神殿の神聖な領域に異邦人が入ると神殿全体を汚すことになるため、神殿全体をあらためてきよめる必要が出てきます。

「そこで、市全体が騒ぎ出し、民衆が駆け集まってきて、パウロを捕え、宮の外に引きずり出した。そして、すぐそのあとに宮の門が閉ざされた。」
(「使徒言行録」21章30節、口語訳)

パウロは神殿の外側に引き摺り出されました。神殿内では誰のことも殺してはならなかったからです。パウロが出た後に神殿の門は閉じられ、パウロはいつ殺されてもおかしくない状態に置かれました。

その時パウロに救いの手を差し伸べたのは意外な人物でした。神殿の外の北西部にはアントニアの城塞があり、これはかつてヘロデ大王がエルサレムで反乱が起きた場合の避難所として用意した建築物でした。パウロの時代にはこの城塞はローマの軍隊が使用していました。

「彼らがパウロを殺そうとしていた時に、エルサレム全体が混乱状態に陥っているとの情報が、守備隊の千卒長にとどいた。そこで、彼はさっそく、兵卒や百卒長たちを率いて、その場に駆けつけた。人々は千卒長や兵卒たちを見て、パウロを打ちたたくのをやめた。」
(「使徒言行録」21章31〜32節、口語訳)

この城塞の守備隊の千卒長(すなわち千人の部下を持つ隊長)がエルサレム市内で騒乱が起きたことを聞きつけ、兵卒たちを現場に派遣したのです。

このようにローマの軍隊が間に入ってくれたおかげでパウロはあやうく難を逃れました。ローマ人たちはパウロを二重の鎖で捕縛しました。これは具体的にはパウロが彼の両脇に立つ兵卒にそれぞれ鎖でつながれたということだったのでしょう。

守備隊の千卒長は群衆に「パウロは何者か、また何をしたのか」と尋ねても一致した答えが返ってこなかったため、とりあえずパウロをアントニアの城塞に連れていくことにしました(21章34節)。群衆はパウロの死を要求していたからです。

パウロは大変緊迫した状況の中に置かれました。次の箇所ではパウロがこれからどうなったのかがわかります。