使徒言行録18章 二つの統治権

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

コリントに到着したパウロ 「使徒言行録」18章1〜4節

ヨーロッパにおけるパウロの福音伝道は人間的な尺度で計るとあまり成果のない出だしだったようにもみえます。彼は行く先々でキリストの福音を人々に説教しましたが、その結果ピリピでは投獄され、テサロニケとベレヤでは町からの逃亡を余儀なくされました。アテネでは妨害を受けずに宣教できたものの、教養深いアテネ人たちは福音のメッセージを受け入れようとはしませんでした(16〜17章)。

このような今までの流れをみてみると、コリントに到着したパウロがあまり大きな期待をもっていなかったのは少しも不思議ではありません。パウロはコリントの信徒たちに対して次のように書いています。

「兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜5節、口語訳)

ところが予想外にも、コリントでのパウロの伝道は好調な滑り出しを見せたのです(18章8節)。コリントに彼は第二次宣教旅行の時に一年半ほどはじめて滞在し(18章11節)、第三次宣教旅行の時には三ヶ月間ほど二度目の滞在をしました(20章3節)。コリントとエフェソはパウロの福音伝道活動における中心的な活動拠点となりました。

輝かしい過去をもつ都市コリントは紀元前146年にローマ人によって制圧され、文字通りに地図から抹消されました。生き延びた住民は奴隷として売買されました。コリントはギリシア諸都市によるローマへの反乱を主導したため、ローマはコリントを徹底的に破壊することで他の反逆者たちへのみせしめにしたのです。泉を持つ山の上にあったにもかかわらず、コリントはローマの攻撃に対してなすすべもありませんでした。それからおよそ100年後、ユリウス・カイサルはコリントをローマの軍事植民市として再建します。紀元前27年には、アテネではなくコリントがアカイア属州の首都とされます。パウロの時代のコリントにはおよそ25万人の住民がいたと推定されています。

地理的にみるとコリントは理想的とも言える場所にありました。狭い地峡(イストモス地峡)をはさんでコリントは一方ではイオニア海とレカイオン港に接し、他方ではエーゲ海とケンクレアイ港に接していました(「ローマの信徒への手紙」16章1節も参考のこと)。当時は沖に出ることを避けて湾岸の近辺を航海することが普通でした。コリントは交通の要所を占める都市だったと言えます。地中海の二つの重要な海を結ぶ港湾を有していたからです。コリントのおかげで船はペロポネソス半島をわざわざ迂回しなくてすみました。小さい船は狭い地峡を超えて牽引してもう一方の港に運ばれ、大きな船の場合には積荷だけが陸揚げされて運搬され、もう片方の港で待機していた別の船に積み込まれました。ローマ皇帝クラウデオは地峡を越える運河の建設を計画し、ネロ帝の時代には建築事業が実際に始まりましたが、まもなく中断されてしまいます。時代的にずっと後になってから紆余曲折の末ようやく1893年にこのコリントス運河は完成しています。

悪徳の巣窟

ローマ帝国各地から船乗りたちが集まってきたコリントには東方の宗教の信奉者も多数住んでいました。都市近郊のアクロコリントス山にあるアフロディテ神殿はつとに有名でした。この神殿には千人もの女性祭司がおり娼婦としても活動していたとされます。

このことからもわかるように、コリントは風紀の乱れた市民生活で悪名高い都市でした。「コリント人のように生きる」という言い回しは性的に乱れた生活態度を表す代名詞にさえなっています。

当時のキリスト教会にとっても、周囲の一般の人々の生活習慣から完全に距離をとることは決して容易ではありませんでした。コリントの信徒たちの抱えていた問題のためにパウロは合わせて4通もの手紙を書き送ることになります。これらの手紙のうちでは「コリントの信徒への第一の手紙」にあたる二通目と「コリントの信徒への第二の手紙」にあたる四通目が聖書を通して残されています。

興味を惹く細部

この18章でルカはパウロの海外宣教旅行の時期を特定するのに役立つ二つの出来事について記しています。一つ目は2節に述べられているローマからユダヤ人たちが追放されたという事件であり、二つ目は12節に出てくる「ガリオがアカヤの総督であった時」という記述です。ここでは一つ目の出来事を取り上げることにし、二つ目については後ほど取り上げることにします。

「そこで、アクラというポント生れのユダヤ人と、その妻プリスキラとに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるようにと、命令したため、彼らは近ごろイタリヤから出てきたのである。」
(「使徒言行録」18章2節、口語訳)

ローマ人歴史家スエトニウスは、ユダヤ人がローマから追放された理由として、彼らがクレストスに導かれて騒乱を起こしたことを挙げています。しかしスエトニウスは少し誤解していたようです。それは民衆の間に意見の対立を巻き起こした人物は「クレストス」(「役に立つ」という意味のギリシア語に由来する、当時の奴隷にはよく見られた名前)ではなく「キリスト」であったという点においてです。ローマのキリスト教徒歴史家オロシウスによればユダヤ人がローマから追放されたのは西暦49年のことでした。

とはいえ、おそらくユダヤ人のうちの全員がローマから追放されたのではなかったでしょう。当時のローマ帝国の全住民のうちでユダヤ人は約10パーセントを占めており、とりわけ首都近辺には多数のユダヤ人が住んでいたからです。騒乱を巻き起こした指導者たちだけが追放の対象になったのではないかとも推定されています。もしもそうであったならば、追放されたアキラとプリスキラ夫婦はローマのキリスト教会で指導的な立場にあったということになります。

このユダヤ人追放は長くは続きませんでした。遅くともそれはローマ皇帝がクラウデオからネロに変わった西暦54年には終わっています。

今まで述べてきた情報に基づいて、パウロのコリント来訪は西暦50年の夏頃であったとほぼ確定することができます。上掲の18章2節に「彼らは近ごろイタリヤから出てきた」という記述があることにも注目しましょう。また「ガリオがアカヤの総督であった時」(12節)という証言もこの推定が正しいことを裏付けています。

三人の天幕職人たち

アクラ(「鷲」を意味するラテン語)とプリスキラ(「プリスカ」という名前の愛称)はパウロと同じく天幕造りの職人でした。彼らは平日6日間一緒に仕事に打ち込み、安息日にはユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で福音を宣べ伝えました。今日でも「天幕造りの福音宣教者」と呼ばれる伝道者たちがいます。自分の職業によって生活資金を稼ぎ余暇を利用して伝道に打ち込んでいる人々のことです。

当時、天幕はヤギの皮で編まれた布やなめし革から造られました。どちらの素材からパウロたち三人が天幕を造っていたのかについては研究者の間でも意見が分かれています。

ラビ(ユダヤ教の教師)の見習いであるユダヤ人はいわゆる世俗の職業ももっていなければなりませんでした。それゆえ、パウロが自分の職業で生計を立てていたのは意外なことではありません。それにもかかわらずコリントの教会の信徒の中には、このようなパウロの伝道のやりかたは彼が本当の使徒ではない証拠であると考える者たちもいました(「コリントの信徒への第二の手紙」11章7〜15節)。

教会の成長 「使徒言行録」18章5〜11節

「シラスとテモテが、マケドニヤから下ってきてからは、パウロは御言を伝えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちに力強くあかしした。」
(「使徒言行録」18章5節、口語訳)

「テサロニケの信徒への第一の手紙」3章1〜3節によれば、アテネに来たテモテをパウロはふたたびテサロニケに派遣しました。そこからテモテはシラスと共にパウロのもとに帰ってきたのです。彼らはピリピの教会からの献金(「フィリピの信徒への手紙」4章15節)や、おそらくマケドニヤの他の諸教会からの献金(「コリントの信徒への第二の手紙」11章8〜9節)も携えていたと思われます。これらの経済的援助に頼りつつ、パウロは副業に時間を割かずに福音伝道に専心することができました。これはパウロの海外宣教活動では例外的なことでした。

パウロの福音伝道は成果をあげましたが反対にもあいました。パウロはユダヤ教の会堂長クリスポに自ら洗礼を授けたと報告しています(「コリントの信徒への第一の手紙」1章14節)。洗礼を施行したのは普通の場合にはパウロではなく彼の同僚たちでした。

イエス様は福音伝道の旅にこれから出発しようとしている弟子たちに次のような奨励をお与えになりました。

「どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。」
(「マタイによる福音書」10章11〜14節、口語訳)

パウロは会堂で福音が受け入れられなかった時、このイエス様の奨励を実行しました。福音をののしり続ける者たちに対して自分の上着を振りはらったのです。これは福音に反対するユダヤ人たちに対する警告でもありました。それ以後パウロは「テテオ・ユストという神を敬う人の家」で伝道集会を続けることになります(「使徒言行録」18章6〜7節)。

足のちりを払い落とすという所作は袂を分つという意味でもありました。「もう私はあなたたちとは何の関わり合いもない」というメッセージがそこには含まれていました。さらにそれは「神様も最後の裁きの時にあなたがたを捨てることになる」という警告でもありました。

失敗に終わったユダヤ人たちの策略 「使徒言行録」18章12〜17節

「ところが、ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた、」
(「使徒言行録」18章12節、口語訳)

デルフォイから発見された碑文にはガリオが西暦52年にアカヤ属州の総督であったと記されています。これにより、ガリオがアカヤの総督であったのは51年の春から52年の春までの間か、あるいは52年の春から53年の春までの間であったことがわかります。総督は一年単位で任命されたからです。ちなみにガリオはストア哲学者セネカの兄でした。

おそらく51年の春か秋にユダヤ人たちはまたしてもパウロをローマの役人による法廷で有罪にしようと企みます。しかしガリオはこの問題が純粋に宗教的な争いであることを見抜き、そのような論争に関わり合おうとはしませんでした。

ルター派の教会では二つの統治権に関する教義があります。神様はこの世の権力者に社会の統治を委ね、教会にはそれとは異なる信仰の世界の統治を委ねたという教義です。これら二つの領域は互いに独立しています。社会が教会を支配下において命令を下してはいけないし、教会が社会を支配下において命令してもいけません。社会は法律によって統制するべきであり、教会は福音によって監督するべきなのです。

教会史のいつの時代であってもこの役割分担は絶え間なる危機に晒されてきたと言えます。国家が教会内の事柄に介入しようとした時代もあれば、それとは逆に、(とりわけ中世のヨーロッパにおいて)教会が国家にかかわる事柄を決定しようとした時期もあります。

キリスト信仰者として私たちは社会にかかわる事柄について責任を担うべきです。しかし私たちはその責任を社会の一員として行うのであって教会として行うのではありません。

「そこで、みんなの者は、会堂司ソステネを引き捕え、法廷の前で打ちたたいた。ガリオはそれに対して、そ知らぬ顔をしていた。」
(「使徒言行録」18章17節、口語訳)

ユダヤ人たちの目論見が外れると今度は民衆が騒ぎを起こしました。おそらくソステネは前任者クリスポがキリスト教に入信した後でユダヤ教の会堂の新たな責任者として選ばれて当地のユダヤ人たちの指導者となった人物です。ところが今や民衆は一転してソステネに暴力を振るい痛めつけたのです。このことからは当時ユダヤ人が民衆から憎まれ疎んじられる風潮があったことがわかります。ふとしたきっかけでユダヤ人への怒りはたやすく暴力沙汰に発展したのです。

なお「コリントの信徒への第一の手紙」1章1節に挙げられている「兄弟ソステネ」はこの会堂司ソステネとは別の人物であったと思われます。

エルサレムとシリヤへの訪問 「使徒言行録」18章18〜23節

この短い箇所でルカはパウロが東方地域を訪問してから西方地域に帰ったその旅のルートを記していますが、もうすこし詳しい情報が欲しいところです。「パウロは、かねてから、ある誓願を立てていたので、ケンクレヤで頭をそった。」(18節)とありますが、パウロはどうして誓願を立てたのでしょうか。それはどのような誓願だったのでしょうか。またエルサレムやアンテオケに滞在した時にパウロはどのようなことについて話し合ったのでしょうか。

次の旧約聖書の「民数記」6章に書かれているような「ナジルびとたる誓願」をパウロは立てていたのではないかと推測する研究者も多くいます。

「主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『男または女が、特に誓いを立て、ナジルびととなる誓願をして、身を主に聖別する時は、ぶどう酒と濃い酒を断ち、ぶどう酒の酢となったもの、濃い酒の酢となったものを飲まず、また、ぶどうの汁を飲まず、また生でも干したものでも、ぶどうを食べてはならない。ナジルびとである間は、すべて、ぶどうの木からできるものは、種も皮も食べてはならない。また、ナジルびとたる誓願を立てている間は、すべて、かみそりを頭に当ててはならない。身を主に聖別した日数の満ちるまで、彼は聖なるものであるから、髪の毛をのばしておかなければならない。」
(「民数記」6章1〜5節、口語訳)

とはいえ、もちろん確実なことは何も言えません。ルカはこのことについて十分詳細には述べていないからです。

パウロが旅に出たのは51年の春と52年の春のうちのどちらだったのでしょうか。ガリオのアカヤの総督就任が51年の春だったとすれば前者であった可能性があります。その場合には、ユダヤ人たちはこの着任してまもない新総督を都合よく利用しようとしたことになります。一方では後者であった可能性ももちろんあります。その根拠としては、ギリシア語新約聖書の写本のうちで最初期のものである21節の写本の一部には、パウロがエルサレムで行われる祭(これは過越の祭であったと思われます)に間に合わなければならないために急いでいたことを説明する文が付け加えられていたことが挙げられています。

22節のギリシア語原版には「エルサレム」という言葉はなく、たんに「上に行った」ことだけが述べられています。口語訳聖書にもある「エルサレムに上り」という表現は文意をはっきりさせるための翻訳上の工夫です。

18節と19節の間に矛盾があると主張することも、そうしたい場合には一応可能ではあります。18節には「シリヤへ向け出帆した」とあり、19節には「エペソに着くと」と書いてあるからです。しかしここには何の矛盾もありません。なぜなら、パウロはエペソを通ってシリヤへと船で旅したと考えられるからです。

この箇所の説明からもわかるように、聖書は決して論理学の教科書のようなものとして読むべき本ではなく、内容をきちんと追いながら理解するべき本なのです。どのような本についても「矛盾点」を指摘するのは、わざわざそうしたい人にとってはいともたやすいことです。

アポロ 「使徒言行録」18章24〜28節

ルカはここまでパウロの伝道を描写してきました。しかしこの短い箇所で私たちはアフリカ出身のあるキリスト信仰者の伝道活動について知ることができます。なお「使徒言行録」に登場した最初のアフリカ出身のキリスト信仰者はエチオピヤの宦官です(8章26〜40節)。

北アフリカにはすでに早い段階から大きなキリスト教会が複数存在していました。しかし「使徒言行録」に登場するアフリカ出身のキリスト信仰者は二人だけです。ルカはキリストの福音がエルサレムからヨーロッパ(とりわけローマ)に広がっていく過程に焦点を絞って「使徒言行録」を叙述しています。ルカがアフリカなど他の地域への福音の広がりについてはあまり記していないのはそのためです。

アポロは当時ローマ帝国第二の大都市であったエジプトのアレキサンデリヤ出身でした(アレクサンドリアとも書きます)。当時そこにはユダヤ人移民が大勢住んでおり、ユダヤ人哲学者フィロンもその一人でした。彼はユダヤ教をギリシア語の人々にも理解しやすくするために旧約聖書の寓喩的(あるいは比喩的)な解釈を提示しました。

アポロがフィロンの聖書解釈や教えについて知っていたのかどうかははっきりしません。しかしアポロが洗礼者ヨハネの弟子たちと知り合いだったのは確実です(18章25節)。キリスト教会の古くからの伝承によれば、洗礼者ヨハネの弟子の集団はヨハネの死後何十年間も活動していたとされます。

アポロは旧約聖書に精通していましたが、イエス様のこの世での人生やペンテコステの後に起きた出来事については知りませんでした。それゆえ、アクラとプリスキラはアポロを招き入れてさらに詳しく神の道を解き聞かせました(18章25〜26節)。アクラとプリスキラがアポロにしたのと同じように、物事の理解をより深めるための建設的な批判を行うことは今日でも必要になる場合がよくあります。ところが残念なことに、私たちは他人の知識の欠如を指摘する否定的な批判にばかり終始し、物事を改善しようと努力しないことがしばしばあります。

アクラとプリスキラから正しい教えを受けたアポロはアカヤに渡る決意をしました。具体的に言えば彼はコリントに行こうとしたのです(19章1節)。コリントでアポロはパウロの伝道の仕事を受け継ぐことになります。パウロはコリントの信徒たちに次のように書いています。

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」3章6節、口語訳)

アポロについてはこれ以外のことはわかりません。宗教改革者マルティン・ルターはアポロが「ヘブライの信徒への手紙」を書いたのではないかと推定しています。これはたしかにありえますが、確実なことは何も言えません。