使徒言行録24章 「また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

三つの告発 「使徒言行録」24章1〜9節

パウロがきっかけとなって起きた事件を暴力に訴えて終わらせようとしたユダヤ人たちの陰謀はパウロの姉妹の息子の機転のおかげで実行されずに済みました。

大祭司アナニヤはカイザリヤに出向いて総督ペリクスの面前でパウロを告発せざるを得なくなりました。彼は長老数名とテルトロという弁護人を一緒に連れて行きました。

テルトロは総督ペリクスをほめちぎることから自分の論告を始めました。ペリクスは元々が解放奴隷の出身であり、兄弟パラスのおかげでユダヤ総督の地位を手に入れた人物だったので、周囲からはあまり好意的には見られていませんでした。また彼は恣意的に私益をむさぼる人物でもありました(24章26節)。彼の兄弟はローマ皇帝クラウデオに気に入られて財務長官の地位に収まっていました。

テルトロはパウロに対して三つの論告を行います。

1)第一の論告
パウロは疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している(5節)。

「疫病」という言葉は周囲に伝染する危険を含意しています。パウロはローマの権力に反対するように扇動して民衆に悪い影響を与えており、ローマ帝国にとって危険な政治犯である、という告発です。

2)第二の論告
パウロはナザレ人らの異端のかしらである(5節)。

ユダヤ教内部には多くの宗派が並立していました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などがその例です。これらの宗派はすべてローマ帝国の庇護下にありました。ところが今、テルトロはパウロやキリスト信仰者たちに「異端」のレッテルを貼り、ユダヤ教の外側に追いやろうと試みたのです。そうすることで、パウロたちはユダヤ教徒が享受しているローマ帝国の保護の対象ではなくなるからです。

3)第三の論告
パウロはエルサレム神殿を汚そうとしていた(6節)。

論告がもはや「神殿を汚した」とは言わないかわりに「神殿を汚そうとしていた」と言っていることに注目しましょう。テルトロがパウロのどのような行為について具体的に告発しているのかははっきりしません。実際にはパウロは異邦人であるギリシア人を神殿に連れ込んだりはしませんでした。ここでテルトロは「パウロは実際にそうしようとしていた」と主張したのかもしれないし、あるいは「パウロは神殿に敵対するような発言をした」という批判だったのかもしれません。

三つの論告の中では特にこの第三の告発は重要です。なぜなら、神殿を汚す者(それがたとえローマの市民であったとしても)を殺してもよいという特別許可をユダヤ人は得ていたからです。

上記の論告においてテルトロはパウロを逮捕する前に起きた騒乱状態や、パウロを逮捕した際の千卒長クラウデオ・ルシヤの役割については述べるのを「忘れた」ようです。これらのことについて論告で陳述するのはテルトロたちにとって好ましいことではありませんでした。さもないと、パウロの周囲で騒ぎを起こしたのがパウロ自身ではなくユダヤ人たちであったことがばれてしまうからです。

ところで、聖書の翻訳では「使徒言行録」24章6節から8節にかけて括弧に入れられている箇所があります。口語訳では〔そして、律法にしたがって、さばこうとしていたところ、千卒長ルシヤが干渉して、彼を無理にわたしたちの手から引き離してしまい、彼を訴えた人たちには、閣下のところに来るようにと命じました。〕と書いてある箇所のことです。これが括弧でくくられているのはこの箇所がギリシア語写本のうちで最も信頼できる写本群には含まれていないからです。この箇所の内容は起きた出来事についての適切な説明ではありますが、テルトロがこのように陳述したとは考えられません。もしそうすれば、総督ペリクスはこの問題がユダヤ教という宗教に深く根ざすものであることに気が付いてしまうだろうからです。実際、パウロのほうでは総督の関心を宗教的な問題に向けるために自己の弁論を展開することになります(24章21節)。

それで、テルトロはパウロがユダヤ教の律法を破ったことではなくローマの法律を破ったことを論告で強調しました。ペリクスが宗教的な争いのゆえにパウロを厳罰に処すとは考えられなかったため、それとは別の政治的な犯罪すなわち民衆をローマに反抗するように扇動したとパウロを告発したのです。

誰が騒ぎを起こしたのか? 「使徒言行録」24章10〜13節

自分に向けられた告発に対して弁明する許可を得たパウロはそれぞれの論告に対して順を追って答弁していきます。

まずパウロは自分がエルサレムで騒ぎを起こすのを扇動していないことを示します。彼がエルサレムに滞在していた期間はわずか12日間だけでした。パウロが人々を周囲に集めたり反乱するよう扇動したりしたことをユダヤ人たちは明証することができません。そしてパウロは誰かと言い争ったり意見の相違を大袈裟に強調したりもしませんでした。

パウロ自身が述べているように、彼を犯罪者として裁くためには告発だけでは不十分であり、確たる証拠を提示する必要があります。これは今日でも通用する裁判での原則です。裁判で明証しなければならないのは被告が「無罪であること」ではなく「有罪であること」なのです。

誰がユダヤ人か? 「使徒言行録」24章14〜16節

パウロと彼の敵対者たちとの間には信仰に関して共通点が三つあることをパウロは指摘します。

1)旧約聖書が神様の啓示であることを双方とも信じている。
2)イスラエルの歴史を通じて働きかけてこられた神様を双方とも信じている。
3)死者の中から復活するという希望を双方ともに抱いている。

こうしてみると、ユダヤ人たちはパウロや他のキリスト信仰者たちをユダヤ教の外に締め出すことはできないはずなのです。それどころか、キリスト教こそは旧約聖書の啓示している真理を正しく受け継いでいる唯一の宗教なのです。

汚されなかった神殿 「使徒言行録」24章17〜19節

弁論の最後でパウロは神殿で自分がきちんときよめを行っていたと述べ、ユダヤ教の律法やローマ帝国の法律に違反するような何かを彼が神殿で行なったと明証することは誰にもできないと指摘しました。

本来ならば、騒ぎを起こした張本人であるアジヤからきた数人のユダヤ人たち自身が告発者として、なぜパウロを逮捕し裁くことを望んだのかその本当の理由を総督の臨席するこの裁判の場で公に述べるべきであるとパウロは主張します。

宗教的な論争 「使徒言行録」24章20〜21節

「ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。」
(「使徒言行録」24章21節、口語訳)

パウロが巻き込まれた問題は宗教的な論争であって、ローマ帝国の裁判の席で取り扱うべきものではまったくないことを指摘してパウロは弁論を終えました。

ルカが「使徒言行録」でパウロの側に立ってこの裁判を叙述したとみることはもちろんできます。それでもパウロの敵対者たちが「この争いは最初から終わりまで宗教的なものであった」というパウロの弁論にまともに反論できなかったのは明らかです。パウロを反乱の扇動者として告発するのはこじつけにすぎないこともはっきりしました。パウロの伝道旅行中に起きた騒乱について詳しく調べてみれば、エルサレムでの騒ぎとまったく同じように他の場所で起きた騒乱においても実際にはユダヤ人たちがそれらを引き起こしてきたことがばれてしまったことでしょう。

パウロはイエス様と同じような目にあったとも言えます。ユダヤ人たちはパウロのこともイエス様のことも虚偽の告発に基づいて死刑にしようとしたからです。イエス様の場合、当時のユダヤ総督ピラトがイエス様に死刑の判決を下したのは、イエス様とユダヤ人たちとの間に宗教的な見解の衝突があったからではありません。イエス様が死刑の判決を受けることになったのは「ローマへの反乱を企てる者を擁護した」と周囲から批判されるのをピラトが避けようとしたからです。イエス様の死刑判決の罪状書きには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とありました(「ヨハネによる福音書」19章19節、この文のラテン語での略語INRIが十字架像に記されていることがよくあります)。この罪状文はイエス様がローマ帝国に対する反逆者として裁かれたことを示しています。今のパウロの場合にもユダヤ人たちはイエス様に行ったのと同じことを企てたのです。様々な厄介事を引き起こしてきたパウロを速やかに断罪して始末できれば今後ユダヤ人たちの謀略によって総督が煩わされることもなくなるので総督にとっても好都合です、といったことを進言して彼らはペリクスを説得しようとしたのではないでしょうか。

ゲームの規則 「使徒言行録」24章22〜27節

ユダヤ人たちの策謀は部分的に成功しただけでした。ペリクスはパウロに裁きを下しませんでしたが、かといって彼を釈放しようともしませんでした。パウロはこれまでよりも緩い軟禁状態に置かれることになったのです。

ローマ帝国におけるユダヤ人の人口比率は約一割程度であったため、ペリクスがユダヤ人たちによる陰謀に対して過敏になったのも当然でした。しかもユダヤ人たちはローマ皇帝近辺の多くの重要な役職も占めていたのです。ペリクスはユダヤ人たちと不和になった場合に総督の地位を失うことになることも大いにありえることでした。

ルカはペリクスがパウロを裁く決断を下さなかったもう一つの理由を挙げています。パウロが諸教会から献金を集めていたこと(24章17節)を覚えていたペリクスはパウロから金をせしめようとしたのです。ペリクスはパウロの携えていた献金の一部を着服できると考えていたのか、それとも、パウロを支援する諸教会がパウロを釈放するために新たに献金を集めることに期待していたのかはわかりません。ともあれペリクスはパウロを釈放するために誰かが釈放金を支払う用意があると踏んでいたのです。しかしこのようなやりかたはローマの法律に反するものであり、パウロのほうでもペリクスの下心に従うつもりは毛頭ありませんでした。

パウロの案件に関してペリクスはユダヤ人たちの好意を得ました。しかしそれから2年後(59年)、首都ローマのユダヤ人たちがペリクスのユダヤ統治のやりかたを告発したため、ペリクスはローマに召喚されます。初めの頃こそ自分の兄弟のもつ権力のおかげで難を逃れたかにみえたペリクスでしたが、まもなくすると兄弟そろって皇帝の不興を買うことになってしまいます。

ユダヤ人たちを懐柔するためにペリクスはパウロをあえて軟禁状態のまま放置しました。ペリクスの妻ドルシラはユダヤ人であり、ヘロデ・アグリッパ1世の娘でした(このヘロデについては「使徒言行録」12章1〜2節に記述があります)。ヘロデ大王は彼女の曽祖父にあたります。おそらく妻を通してペリクスはこの道(キリスト教信仰)について相当の知識を得ていたのでしょう(24章22節)。

「また、よい機会を得たら」

ペリクスとパウロの間で交わされた対話では歴史がふたたび繰り返されたとみることもできます。かつてヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネの説教に喜んで聞き入りつつも、その厳しいメッセージに従う勇気を持つことはできませんでした(「マルコによる福音書」6章17〜20節)。それと同じように、ペリクスはパウロの福音に耳を傾けはしましたが、そのメッセージに従って生き方を改めようとはしませんでした。

人間は神様にさえ命令できると思い込んでいるふしがあります。例えば「また、よい機会を得たら、神様、あなたのところに来ることにします」というように心の中で思っているのです。しかし人間には未来を決定することができません。明日のことさえ人間は知らないのです。ましてそれよりの先の未来がどうなるかなど人間にわかるわけがありません。

今日でも多くの人は「信仰に関わる問題はたしかに大切なことだけれども、それと真剣に向き合うのはもっと後になってからでも間に合うのだから、まずは人生を楽しむことにし、存分に人生経験を積んでからこの問題に立ち戻ることにしよう」というように考えているのではないでしょうか。しかしそれは魂の敵(すなわち悪魔)の思う壺です。

神様は私たちすべての人間を御許へと招いておられます。この招きを拒絶する者は神様御自身のことも拒絶していることになります。イエス様の十字架の死による贖いの御業のおかげで神様と人間との間には神様の側からみるとすでに完全な和解が成立しています。そのため、態度の悪い者に対しても神様は怒ったり背を向けたりはなさいません。しかし、私たちは悪魔の支配下に置かれているかぎり日々悪魔にいっそう強く縛られてしまうことになる一方で、神様に対してはより反抗的な態度を示すことが多くなっていきます。私たちが罪を犯すのを避けようと努めるのは、そうすることで天の御国に入れるようになるためではありません。地獄に落ちるのを避けるためなのです。悪魔の支配下にある間に私たちが行うすべての罪、すべての瞬間は私たちを地獄のほうへと引きずっていくのです。

すべての人は一人一人が神様にとって尊い存在です。実に父なる神様がイエス様を十字架の死に渡すほどまでにかけがいのない存在なのです。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章16節、口語訳)。

「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」
(「ローマの信徒への手紙」8章32〜34節、口語訳)

しかしそれと同時に、神様が罪を憎んでおられること、しかもその憎しみは私たちの罪を帳消しにするために御子イエス様が十字架で死ななければならなかったほどまでに徹底的なものであることを決して忘れるべきではありません。天の御国に入れるのは自らの罪を帳消しにしていただいた者、すなわちイエス様を救い主として信頼する者だけなのです。

「わたしたちは人間のあかしを受けいれるが、しかし、神のあかしはさらにまさっている。神のあかしというのは、すなわち、御子について立てられたあかしである。神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」
(「ヨハネの第一の手紙」5章9〜12節、口語訳)

イエス様に対して興味を持つだけでは十分ではありません。イエス様は神様の御子であるかどうか、また世の救い主であるかどうか、ということについて私たちは自分自身の立場をはっきりさせる必要があります。

「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」
(「ローマの信徒への手紙」10章11〜13節、口語訳)