使徒言行録4章 隅の親石

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

反対が起きる 「使徒言行録」4章1〜4節

ペテロとヨハネがまだ話している時にエルサレム神殿で指導的立場にある人々(「祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たち」)がやってきて彼らを捕らえました(4章1〜3節)。この事件以後、福音の宣教が敵対者による暴力的手段によって中断されたりされかけたりすることが数えきれないほど何度も繰り返し起きるようになります。

「宮守がしら」(4章1節)は大祭司の側近であり、ユダヤ教の指導者たちの中では二番目に高い地位にありました。ユダヤ人歴史家ヨセフスは宮守がしらが新しい大祭司として選出されるケースがしばしばあったと伝えています。使徒たちの逮捕は、その福音伝道に対する神殿の指導者たちによる反対表明だったのです。

「サドカイ人たち」(4章1節)は当時の合理的な宗教観の支持者でした。彼らは死者の復活も天使の存在も信じていませんでした(23章8節および「マタイによる福音書」22章23〜32節)。使徒たちの説教には彼らの神経を逆撫する点がふたつありました。一つ目は死者が復活するという考え方であり、もう一つは使徒たちがイエス様自身に起った死者からの復活を宣伝して回っているということでした(4章2節)。サドカイ人たちから見れば、イエス様の事件は十字架上の刑死によってすでに決着した過去の案件のはずでした。

使徒たちの行った奇跡は第九時すなわち今の時刻で言うと午後三時(3章1節)に起きたので、使徒たちが捕らえられたのはおそらく夜になる少し前であったと思われます(当時の「夜」は午後六時に始まりました)。その日にはユダヤ教の指導者たちによって構成される最高議会(サンヘドリン)は開かれなかったため、使徒たちは翌日に開かれる最高議会に引き出されるまで投獄されることになりました。

先ほどみたように、ルカはキリスト信仰者の総数が五千人であったと述べています。当時エルサレムには約三万人が住んでいたと推定されることから、キリスト信仰者はエルサレムの総人口の約六分の一を占めていたことになります。それゆえ、ユダヤ教の宗教的指導者たちはキリスト教会の拡大を食い止めるために緊急の対策を講じる必要に迫られていたのです。

使徒たちは誰のために活動していたのか? 「使徒言行録」4章5〜12節

ユダヤ人の最高議会は宗教的事柄やユダヤ社会に関わる案件に最終的な判断を下す意思決定機関でした。ただし死刑の裁定を下す権利はローマ人が掌握していました(「ヨハネによる福音書」18章31節)。

ユダヤ教の大祭司は最高議会の議長も兼任していました。今回の事件の時の大祭司は(ヨセフ)カヤパで、西暦18〜36年の間に大祭司の任にありました。最高議会は1人の議長と69人の議員から構成されていました。

「明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。」
(「使徒言行録」4章5〜6節、口語訳)

この箇所からは最高議会が三つのグループから構成されていたことがわかります。

1)「役人」とは高位聖職者のことです。彼らはサドカイ派の人々でした。
2)「長老」とは一族の長のことです。彼らは祭司ではなく平信徒でしたが、一般的にはサドカイ派に近い考え方をしていました。
3)「律法学者」とは神学の専門家のことです。一般的に彼らはパリサイ派による信仰覚醒運動に参加していました。

公の大祭司はカヤパでしたが、ユダヤ人の事実上の指導者は前任の大祭司だったアンナスでした。上の箇所でルカは彼の名前も挙げています。アンナスは西暦6〜15年の間に大祭司の職にあり、その後ローマ人によって罷免されました。ユダヤ人は自分たちの宗教的な指導者を選出するのにローマ人が介入することを快く思わず、アンナスは解任された後でも事実上ユダヤ人の長としての権力を掌握し続けたのです。

ユダヤ人の四つの一族の中から大祭司が選ばれていたことが知られています。例えばアンナスの五人の息子が大祭司の職に就いています(エレアザル(16〜17年)、ヨナタン(36〜37年)、テオフィロス(37〜41年)、マティアス(43年)、(小)アンナス(62年))。さらに前述のカヤパはアンナスの義理の息子でした。このようにアンナスの一族は6〜41年の間、ユダヤ教の中枢で強い権力を振るい続けたのです。

最高議会はイエス様と使徒たちとの間の関係について「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」と使徒たちに問いただします(4章7節)。なお、これは使徒たちと暗黒の力との関係について問いていると考える研究者もいます。次の「マタイによる福音書」の引用箇所からもわかるように、イエス様も同じような嫌疑をかけられたことがありました。

「そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。」
(「マタイによる福音書」12章22〜24節、口語訳)

イエス様は、弟子たちが御自分を信じていることを人々に証したために裁判にかけられることになる場合について、彼らに次のような心構えと慰めをあらかじめ与えてくださいました。

「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。」
(「ルカによる福音書」12章11〜12節、口語訳)

「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
(「ヨハネによる福音書」14章26節、口語訳)

これらの箇所でイエス様が約束なさった通り、ペテロは聖霊様を「助け主」としていただきました。ペテロは聖霊様に満たされたおかげで、最高議会の議員たちの面前でもキリストの復活について臆することなく次のように宣べ伝えることができたのです。

「その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。」
(「使徒言行録」4章8〜12節、口語訳)

イエス様が十字架の上で殺された後、弟子たちはユダヤ人をおそれて自分たちのいる場所の戸をみな閉めていました(「ヨハネによる福音書」20章19節)。しかし今や、彼らはユダヤ人権力者を前にしても勇敢にイエス・キリストの復活の福音を宣べ伝える者へと変えられたのです。この変化はイースターとペンテコステの間の時期に彼らの人生をすっかり変えてしまうような何かが起きたことをはっきりと証しています。その何かとは、彼らが復活されたイエス様に出会ったということでした。イエス様が死に対して最終的な勝利を収めたため「イエス様のもの」となっている人々はユダヤ人の最高議会の前でさえ恐怖を感じる必要がなくなったのです。

ペテロの返答

ペテロは彼自身も含めイエス様の弟子たちがイエス様の御意志に従って伝道活動をしていると返答し、神様がお選びになったイエス様をローマ人の手で殺すように最高議会が仕向けたことを厳しく批判します(4章10〜11節)。ペテロは「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。」という「詩篇」118篇22節を引用しましたが、イエス様も敵対者たちの頑なさを叱責する際にこの聖句を用いられました(「ルカによる福音書」20章17節)。

「わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、」(4章9節)とペテロが言っているように、上述の非難に加えて使徒たちは自らのした善い行いについても最高議会から責められるという奇妙な事態になりました。

4章9節の「癒し」と4章12節の「救い」はギリシア語では元々同じ動詞(「ソーゾー」)です。イエス様は癒すだけではなく救ってもくださるのです。しかも「私こそが救世主だ」とわめきちらす者たちとは異なり、イエス様こそが唯一の真の救い主なのです。このことはペテロの今回の説教の最後にはっきり述べられています。

「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。」
(「使徒言行録」4章12節、口語訳))

また、イエス様も御自身について同じように言っておられます。

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

いっさいだれにも語ってはいけない! 「使徒言行録」4章13〜22節

最高議会はペテロとヨハネに議会からの退場を命じた後で協議を続けました(4章15節)。当時の最高議会は依然としてサドカイ派が多数派を占めていたと思われます。しかしパリサイ派も大勢いたため、彼らの意見にも耳を傾けねばならず、そもそも死者の復活があるのかないのかという根本的な問題を最高議会で徹底的に論じ合うことはできませんでした。なお、後に「使徒言行録」23章6〜9節でパウロは死者の復活を信じないサドカイ派とそれを信じるパリサイ派の間の教義的な相違を巧みに利用して弁論を展開することになります。

最高議会は奇跡が起きたこと自体は否定できませんでした。民衆がそのことに強い関心を寄せていたからです。もしも使徒たちが最高議会によって断罪されるならば事態はいっそう深刻化したことでしょう。それを避けるために最高議会はあえて穏便な処置をとり、今回の騒動を収めようとしました。これ以上問題が悪化してエルサレム以外の地域にも飛び火していかないようにするために、最高議会は使徒たちに「今後はイエスの名によって、いっさいだれにも語ってはいけない」と脅しつけ厳重に注意しました(4章17節)。

その時の使徒たちの返答はあまりにも有名です。

「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。」
(「使徒言行録」4章19〜20節、口語訳)

この問題の核心は、人間に従うよりも神様に従うほうを優先する、ということではなく、神様に従うのか、それとも人間に従うのか、という二者択一にあります。

使徒たちは自分たちにはイエス様について沈黙するいわれが何もないことをよく知っていました。すでに起きた奇跡を否定することはできなかったからです。イエス様が死者の中から復活され、使徒たちを通してこの奇跡を起こさせたのです。そうである以上、使徒たちがイエス様について黙らなければならない理由は何もありませんでした。

最高議会が下した今回の裁定は尋問した側からすれば不満が残るものでした。使徒たちは無罪判決を受けたのも同然だからです。

ペテロとヨハネは「無学な、ただの人たち」でした(4章13節)。ここでいう「無学」とは、そもそも字を書くことができないことや、話すのが下手なこと、あるいは、たんに祭司階級には属さない平信徒であることを意味しているともとれます。こうして使徒たちと癒された「四十歳あまりの人」(4章22節)は最高議会の議場から勝利者として退場しました。

現代でも福音の宣教を黙らせようとして脅かしたり、人が福音を聴くことを妨げようとしたりする様々な動きが見られます。たとえ福音を宣べ伝えることが自由にできる国に住んでいる場合であっても、はたして人々は福音に耳を傾けているのでしょうか。

神様は誰の味方なのか? 「使徒言行録」4章23〜31節

解放された使徒たちはキリスト信仰者の集まっているところに行きました。おそらくその集いは囚われた使徒たちを祈りに覚えるためのものだったと思われます。

ペテロとヨハネから今までの経緯を聞いた彼らはかつてユダ王国のヒゼキヤ王が行ったのと同じようにすべてを神様の御前に携えていきました。攻め上ってきた大国アッシリアに降伏を要求されたヒゼキヤ王は主に向かって次のように祈りました。

「ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、主に祈って言った、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ、地のすべての国のうちで、ただあなただけが神でいらせられます。あなたは天と地を造られました。主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いて見てください。セナケリブが生ける神をそしるために書き送った言葉を聞いてください。主よ、まことにアッスリヤの王たちは、もろもろの民とその国々を滅ぼし、またその神々を火に投げ入れました。それらは神ではなく、人の手の造ったもので、木や石だから滅ぼされたのです。今われわれの神、主よ、どうぞ、われわれを彼の手から救い出してください。そうすれば地の国々は皆あなただけが主でいらせられることを知るようになるでしょう」。」
(「イザヤ書」37章14〜20節、口語訳。なお「列王記下」19章14〜19節にも同様の箇所があります)。

また、ペテロとヨハネの信仰の友人たちは神様に向かって次の祈りを捧げました。

「一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、
『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、
もろもろの民は、むなしいことを図り、
地上の王たちは、立ちかまえ、
支配者たちは、党を組んで、
主とそのキリストとに逆らったのか』。
まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。」
(「使徒言行録」4章24〜30節、口語訳)

この祈りには旧約聖書からの引用が多く見られます。その例として「詩篇」146篇6節や2篇1〜2節を挙げることができるでしょう。このことは旧約聖書が最初期のキリスト信仰者たちにとっていかに大切なものであったのかを如実に語っています。

彼らは神様が危険や困難を取り去ってくださるようにとは祈りませんでした。たとえ危険や困難があったとしても勇気を持って福音を宣べ伝える力をいただけることを彼らは祈り願ったのです。

「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。」
(「使徒言行録」4章31節、口語訳)

神様は彼らに二通りのやりかたでお答えになりました。地震が起き、そして一同は聖霊様に満たされたのです。聖書で主が臨在する出来事にはしばしば地震が伴います。「出エジプト記」19章18節や「イザヤ書」6章4節がその例です。これは主なる神様がキリスト信仰者たちと共におられることの証でもあります。言い方を変えるなら、神様はユダヤ教とその指導者たちのことをお捨てになり、その代わりにキリスト信仰者たちを御自分の民に加えてくださったのです。

息子か、それとも僕(しもべ)か?

4章30節には「僕イエス」という表現が出てきます(3章13節にもあります)。すでに説明したとおり、この「僕」はギリシア語で「パイス」といい「息子」とも訳せる言葉です。旧約聖書の「イザヤ書」53章に登場する「苦難の僕」はイエス様を表す尊称であり、おそらく「使徒言行録」のこの箇所では「僕イエス」と訳すのが適切であると思われます。「御子イエス」という表現が一般的になるのはもう少し後になってからのことです。このこともまた、ルカの文書がキリスト教の最初期のものであり、それゆえに信頼のおけるものであることを証拠立てています。

キリスト教的社会主義? 「使徒言行録」4章32〜37節

「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。地所や家屋を持っている人たちは、それを売り、売った物の代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。そしてそれぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた。クプロ生れのレビ人で、使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフは、自分の所有する畑を売り、その代金をもってきて、使徒たちの足もとに置いた。」
(「使徒言行録」4章32〜37節、口語訳)

最初期のキリスト信仰者たちは最初の社会主義者でもあったのではないかという主張が上掲の箇所に基づいてしばしばなされてきました。

たしかに最初期のキリスト信仰者たちは各々の持ち物を共有してはいましたが、個人的な所有そのものが禁じられていたわけではありません。これは後に出てくる5章4節からわかります。キリスト信仰者は各々が誰にも強制されずに自由に持ち物を共有するために提供したのです。

これはキリストがキリスト信仰者たちにとって非常に重要な存在になったため、彼らの所有財産は信仰の友たちの必要を満たすために用いられるようになったという意味でもあります。

自らの財産を信仰者の群れのために寄付した人々の中には「使徒たちにバルナバ(「慰めの子」との意)と呼ばれていたヨセフ」もいました。これは彼を他のヨセフたちから区別するための呼称でもありました。後にバルナバとパウロは異邦人伝道で協力し合う同僚となります(11章22〜26節)。