使徒言行録12章 キリスト信仰者にふさわしい逃げかた

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

新たな迫害 「使徒言行録」12章1〜4節

「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。」
(「使徒言行録」12章1〜4節)

この「ヘロデ王」とはユリウス・アグリッパ1世のことです。なお後ほど25章13節〜26章32節に出てくる「アグリッパ王」とはアグリッパ2世のことです。アグリッパ1世はヘロデ大王の孫であり、イエス様の誕生する数年前に生まれています。猜疑心に駆られたヘロデ大王は息子アリストブロスを処刑し、その息子アグリッパ(1世)を皇帝の宮殿で教育を受けさせるためにローマに送り出しました。これは当時のローマ帝国の支配下にある諸国の領主たちの間で通例となっていたやりかたでした。

ローマでアグリッパは後に皇帝となるカリグラの知己を得ます。ローマ留学中に多額の負債を抱えたアグリッパは債務者を逃れてパレスティナに戻りました。

カリグラがローマ皇帝に即位した西暦37年に、かつてのヘロデ大王の領土の一部を統治していたフィリポが死去します。それに伴いアグリッパはフィリポの管理下にあった領地も手中に収め、さらには王の称号さえも得ます。西暦40年に彼の兄弟であるアンティパスが罷免されると、その管理下にあった領地ガリラヤもアグリッパの支配するところとなります。

西暦41年にカリグラが暗殺された後、皇帝に即位したのはクラウデオ(「クラウディウス」とも表記されます)でした。クラウデオはそれまでローマ帝国の直轄領であったサマリヤとユダヤをアグリッパの支配に委ねます。こうしてアグリッパは祖父ヘロデ大王がかつて領有していた地域全体の支配権を掌握しました。

ヘロデ大王はエドム人(新約聖書での「イドマヤ人」)であったと言われています。アグリッパの祖母はユダヤ人マリアンネでした。彼女はヘロデ大王に寵愛された妻でしたが、後にはヘロデ大王によって処刑されてしまいます。このように家系で見るとアグリッパにはユダヤ人の血が入っています。

アグリッパはユダヤ人たちに対してはユダヤ人であろうとしました。それと同時に彼はヘレニストたちに対してはヘレニストでもあろうとし、サーカスの見せ物などを開催しました。

ユダヤ人たちの機嫌を取るためにアグリッパは全国規模のキリスト信仰者に対する迫害をはじめて公に行います。この迫害についてルカは「使徒言行録」12章で述べています。ステパノの石打ちによる処刑からはすでに10年以上が経過していました。以前キリスト信仰者たちに対して概ね寛容な態度をとっていた民衆は(2章47節、3章9節、5章16、26節)、月日が経つうちにキリスト信仰者の群れを次第に激しく憎悪するように変わっていきました。

民衆は福音を拒否したために心がかたくなになり、神様への反抗的な態度がよりいっそう顕著になっていったのです。ユダヤ人が以前よりも厳しく異邦人から距離を置こうとする意思を露わにしていたことも事態をさらに深刻化させたことでしょう。ユダヤ人とは対照的にキリスト信仰者は異邦人も教会に受け入れていたからです。

ヨハネの兄弟ヤコブが使徒たちの中で最初に殉教することになりました。このことは彼が最初期のエルサレム教会において重要な立場にあったことを示しています。それは福音書に記されている多くの出来事でもペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人がイエス様の弟子たちのグループの中核をなしていたことからも伺うことができます(「ルカによる福音書」9章28節)。後代のキリスト教会の伝承によれば、ヨハネを除く使徒たちは全員殉教者となったとされています。

ルカはヤコブの殉教については言葉少なに述べています。それはルカがすでにステパノの石打ち刑による殉教について詳述していたためでもあるでしょう。ルカは他の箇所でもこれと同じようなやりかたをしています。最初の出来事については詳述し、後で起きた類似の出来事についてはあまり重点をおかずにあっさりと言及するにとどめるのです。ルカがこのような書きかたをしたのは書物の長さを短くしようとしたためでもあるでしょう。それでも「使徒言行録」は新約聖書に収められた書物群の中で最長のものとなっています。当時、書物は非常に高価なものであったため、書きたい内容をできるかぎり短縮する必要がありました。

獄から解放されたペテロ 「使徒言行録」12章5〜17節

アグリッパはエルサレム教会の指導者ヤコブを殺害したことがユダヤ人たちの意にかなったのをみてとると、今度はもう一人の指導者ペテロを投獄しました。アグリッパはパリサイ派の人々の好意を得ようと躍起になっていたと思われます。西暦70年に起きたエルサレム陥落の後のユダヤ社会ではパリサイ派がユダヤ人を指導するグループとなっていたからです。それまでも権力闘争の勝者側との関係を巧みに築いてきたアグリッパはユダヤ教のどの派を優遇すれば自分に政治的な利益があるかを基準にして判断を下したのです。

ルカはアグリッパによるペテロの処置についてあまり詳しく述べていません。ペテロは一週間ほど牢獄に入れられていました(12章4節および6節)。過越の祭の最後の大いなる日まで彼をそこで待機させるためでした。その日にペテロは民衆の前に引き出されて裁きを受け、それによってアグリッパは望んでいた通りに民衆の好意を獲得できるはずだったのです。過越の祭の時期には宗教的に熱心なユダヤ人たちが(当時その存在が知られていた)世界各地からエルサレムに集まってきました。

ペテロは厳しい監視下に置かれました。念入りにもペテロには通常よりも多い兵卒(四人一組)が付けられました。当時の時刻の考えかたでは、夜は18時から21時まで、21時から24時まで、0時から3時まで、3時から6時までというように夜警時と呼ばれる4つの部分に分けられていました。夜警時ごとに獄吏の交代があったので、一晩で合計4かける4すなわち16名もの兵卒が動員されたことになります(4節)。

ペテロの余命はもはや風前の灯のように思われました。かつてイエス様が受けたのと同じ裁きを彼が受けることになっても不思議ではなかったからです。どうやらユダヤ人たちは他ならぬペテロを「キリスト教徒」という敵集団の首謀者とみなしていたようです。そして宗教的な熱狂に駆られたユダヤ人たちがペテロにどのような裁きを下すことになるのかを予想するのはそれほど難しいことではありません。

しかし神様の御計画によれば、ペテロが殉教するべき時はまだ来ていませんでした。主の使が実に不思議な方法でペテロを牢獄から解放したのです。その直前に獄中でペテロが眠り込んでいたことは、彼がすべてを神様にお委ねしていたことのあらわれであるともとれます。彼は自分がこれからどうなるのか、もはや心配していなかったのでしょう。

祈りを聴いてくださる神様

自由になったペテロはキリスト信仰者の集会所になっていると彼が知っていた家へと向かいました。

12節に出てくる「マルコと呼ばれているヨハネ」が「マルコによる福音書」を書き記した人物であると推定されています。彼については「使徒言行録」12章25節、13章5、13節、15章37節、「コロサイの信徒への手紙」4章10節、「フィレモンへの手紙」24節にも言及があり、彼が有名なキリスト信仰者であったことが窺えます。まさにそれゆえに、この家が彼の母親のものであったことがことさら明記されているのでしょう。この家に集まったキリスト信仰者たちはペテロを救ってくださるようにと神様に願い求めました(12章5節)。ところが神様が彼らの祈りに答えてペテロを救い出してくださると、一転して彼らはそれが本当に起きたことであるとは俄かには信じることができなかったのです(12章15節)。

私たちにも同じような傾向があるのではないでしょうか。私たちの祈りに神様が答えてくださることを信じもせずに祈ってはいませんか。祈ることが私たちにとってたんなる正しい習慣になってはいませんか。しかし、時として神様からの祈りの答えが私たち人間には実現不可能と思えるような期待を遥かに超えてしまうことも起こりうるのです。

キリスト信仰者として逃げること

ようやく家の中に入れたペテロは自分に起きた不思議な出来事についてその場に集まっていた人々に説明しました。それから彼はエルサレム教会を指導する任務をイエス様の弟ヤコブに委ねました。そして捜索と追跡が始まる前にペテロ自身はエルサレムからすみやかに退去したのです。

最初期の教会のキリスト信仰者は逃げることで窮地を逃れるというやりかたをとっていました。とはいえ、いったん捕まってしまったのなら、もはやふたたび逃亡しようとはせず、自分の置かれた状況を粛々と受け入れたのです。

この箇所に書かれているもうひとつ重要なことは、これを機に最初期のエルサレム教会の指導者がペテロからイエス様の弟ヤコブに交代したことです(12章17節)。これについては最初期から教会が受け継いできた伝承も証しています。「義人ヤコブ」とも呼ばれたこのヤコブはエルサレム教会の指導者としてとてもふさわしい人物でした。ユダヤ教に対して彼はペテロよりも保守的であり、ペテロほどユダヤ人を苛立たせるような教えや行動はしなかったからです。ヤコブはあまりにも熱心に祈る人であったため、彼の膝はラクダの膝のようになっていたとも伝えられています。ユダヤ教の基準で考えても申し分のない信仰生活を送っていた思われる彼でさえ西暦60年代に殉教しています。

どこにペテロは逃げたのか?

エルサレムを退去したペテロがどこに逃げたのかという問題に研究者たちは関心を寄せました。

ローマ・カトリック教会はペテロがローマ教会を設立し最初のビショップ(教会長)となり初代のローマ法王でもあったとみなしています。彼らによれば、ペテロの逃亡先はローマだったとされます。しかしこの仮説に対しては反論があります。数年後に(西暦48年頃)使徒会議がエルサレムで開催された時に(「使徒言行録」15章)ペテロはふたたびエルサレムにいました。もちろんペテロがローマに行ってそれから西暦44年にアグリッパが死んだ後パレスティナに戻ったと考えることは可能です。とはいえ当時の世界ではエルサレムとローマを往復する旅はかなりの長距離でした。

これよりも真実に近いと思われる仮説は、ペテロがアグリッパの支配の及ばないどこか外の地域に出ていったというものです。そしてそれはシリヤだったのではないかという推論がよくなされています。ただし正確な場所を特定することはできません。新約聖書がこのことに関連して言及していることはひとつだけです。それはペテロがユダヤ人に対する海外伝道の責任者になったということです(「ガラテアの信徒への手紙」2章7節)。

この箇所は「使徒言行録」がペテロに関わりのある出来事について述べている最後の部分です。後の使徒会議でもペテロの名が出てきますが(15章7〜11節)、そこでの主要な話題はユダヤ人がキリスト教信仰に改宗するためになされたペテロによる伝道ではなく、異邦人伝道のほうでした。そしてこの伝道を遂行するために神様はペテロとは別の人物すなわちパウロを責任者として選ばれたのです(9章15節)。

窮地に陥った兵卒たち 「使徒言行録」12章18〜19節

朝が来てペテロを警備していたはずの兵卒たちはペテロが消え失せたという事態に直面します。当時、兵卒は自分が監視していた囚人について自らの死をもって責任を負わなければならないという規定がありました(16章27〜28節でフィリピの獄吏が自殺しようとしたのもそのためです)。この規定は当時のローマ帝国軍だけではなく、時代的にも広がりを持ち、他の国々の軍隊にも存在したものです。旧約聖書にもその例が見られます(「列王記上」20章35〜43節)。

囚人が見つからなかったため、機嫌を損ねたアグリッパは囚人を監視していた兵卒たちを死刑に処するように命じました。また彼はエルサレムを去ってカイザリヤに移りました。それとともにキリスト信仰者たちに対する迫害も止んだものと思われます。

アグリッパの死 「使徒言行録」12章20〜25節

アグリッパはフェニキアに対して貿易戦争を仕掛けました。フェニキアの経済はパレスティナから調達する食料品に依存していました(「列王記上」5章9節、「エゼキエル書」27章17節)。そのため、フェニキアのツロとシドンの人々はアグリッパと和平を結ぶほかありませんでした。彼らは王の侍従官ブラストに取り入り和解のために働きかけてくれるよう依頼したことが功を奏し、和平が成立しました(12章20節)。

ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、この和平についてカイザリヤで祝会がもたれたとき、銀づくめの服に身を包み込んだアグリッパに対して民衆は「これまで我々はあなたを人間であると思っていたが、これからはあなたがこの世の生物を超えた存在であることを認めよう」と叫んだとのことです。王を神とみなすやりかたは当時の東方の国々ではめずらしくありませんでした。例えばローマ帝国の皇帝も神として扱われました。しかしユダヤ人にとってもキリスト信仰者にとってもこれは神様を侮辱するおぞましい慣習でした。

ヨセフスの記述に従えば、この祝会の途中でアグリッパは激しい腹部の病気に罹り自宅へと運ばれ五日後に息を引き取りました。死因は盲腸が突発的に破裂したことによる腹膜炎であったとも推定されています。腫瘍や炎症を起こした傷口に虫が湧く(12章23節)という描写はその時の惨状を如実に物語っています。

この世で権力をもっているのは誰か?

12章のはじめの部分では、キリスト教会は滅亡の瀬戸際に立たされているかのように見えました。しかしこの章の終わりには、キリスト信仰者に対する迫害の終焉と福音の拡大について語られています。最初期のエルサレム教会の成長期はすでに過ぎ去りましたが、他の地域では福音がさらなる勝利の前進を続けていたということでしょう。

重要な点は当時も今も変わりません。誰が一番強くて他の者たちを足蹴にしているようにみえるかということではなく、神様はいったい誰の側に立っておられるのかということです。

この章の出来事は西暦42年から44年までの間に起こったものと思われます。41年になってようやくユダヤとサマリヤを手中に収めたアグリッパは44年に死去したことがわかっているからです。

41年の後すぐにかおそらく42年にヤコブの殺害が起きたと推定する研究者もいれば、アグリッパの死の少し前の44年頃にこれらすべての事件は起きたという見解をとる研究者もいます。

ルカはこの章の終わりで次の章の出来事へのつながりを意識しており、ふたたびパウロとバルナバ、およびバルナバのいとこで「マルコと呼ばれていたヨハネ」(「コロサイの信徒への手紙」4章10節)を舞台へと引き上げます。このヨハネについてはすでにこの12章で言及されています。