マタイによる福音書14章 イエス様の最大のしるし
洗礼者ヨハネの死 14章1〜12節
ヘロデ家は親族間で婚姻関係を結ぶことで有名であった、とユダヤ人歴史家ヨセフスは証言しています。
ヘロデ大王の死後(西暦4年)、ローマ帝国はヘロデの王国を彼の四人の息子たちにそれぞれ分割しました。 それによって彼らは「領主」という立場になりましたが(1節)、人々は彼らを「王」と呼んでいました(9節)。
ピリポ(二世)(「ルカによる福音書」3章1節)は、ヘルモン山とダマスコに近い最北端の地域を支配領域として割り当てられました。
ヘロデ・アンティパスはヘロデの末の息子であり、この箇所に登場する「ヘロデ」のことです。彼はガリラヤとペレア(ヨルダン川の東の地域)を支配領域としました。彼はある程度は優れた統治者であったらしく、西暦39年まで領域の統治を任されていました。イエス様は聖金曜日にピラトから尋問を受けられた後、このヘロデの面前に連行されていくことになります(「ルカによる福音書」23章1〜12節)。
アケラオ(2章22節)はサマリヤとユダヤの統治を委ねられましたが、早くも西暦6年にはローマがその領域を直接的に支配するようになりました。イエス様の時代、その領域のローマ総督にはポンテオ・ピラトが着任していました。
ピリポ(初代)は領土を与えられず、ローマに滞在していました。ヘロデヤは彼の妻でしたが、夫のローマ滞在中にヘロデ・アンティパスから自分の妻になるようにとの誘いを受けました。ヘロデヤは権力を持っている男性のほうに魅力を感じたようです。しかし、モーセの律法は存命中の兄弟の妻を他者が自分の妻にすることを禁じていました(「レビ記」18章16節および20章21節)。以前、ヘロデ・アンティパスはダマスコのアレタ王の娘と結婚しており(「コリントの信徒への第二の手紙」11章32節)、彼女と離婚することには政治的な影響もありました。
ヘロデヤはヘロデ大王の息子アルケオの娘であったため、相手がピリポであれ、ヘロデ・アンティパスであれ、どちらの場合でも自分の叔父と結婚したことになります。
ヘロデヤの娘(ヨセフスによればサロメという名前でした)の父親はピリポ(初代)でした。彼女は半叔父のピリポ(二代目)と結婚しましたが、後には従兄弟のアリストブルスと結婚することになります。
ヘロデ・アンティパスはヘレニズムの影響をユダヤ教に混入しました。また、彼は洗礼者ヨハネが死からよみがえったという迷信を抱いていました(2節)。
マタイは洗礼者ヨハネの死に関するマルコの記述を短縮しています。ヘロデとヨハネが対話を重ねてきたことやその対話がヘロデに影響を与えていたこと(「マルコによる福音書」6章20節)についてマタイは語っていないため、ヨハネを処刑してほしいというヘロデヤの娘の願いがどうしてヘロデを困惑させたのか(9章)、その理由が読者に明示されないままになっています。
ヨハネがヘロデに言った言葉(4節)は投獄される以前の説教からの引用だった可能性もあります。ヨハネがこのメッセージを直に伝えるために王に近づく機会は投獄される前にはなかったとも思われるからです。
ヘロデはこの一族の典型的な代表者でした。この一族では何かしら問題が起きると流血による解決が図られたのです。しかし、群衆はヨハネを尊敬しており(5節)、ヘロデは群衆から敵意を向けられることを避けようとしました。要するに、ヘロデは神様を畏れるのではなく群衆のほうを恐れたのです。ヨハネを殺すつもりがなかったヘロデはヨハネをヨルダン川の東側にあるマカリオスの要塞に連行させました。ヘロデの誕生日の祝(6節)はそこで催されたものかもしれません。あるいは、処刑される当日に一時的にヨハネは別の場所に移送されていたのかもしれません。
「さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。」
(「マタイによる福音書」14章6〜7節、口語訳)
ローマを訪れたことがあったヘロデは首都ローマ風に盛大な祝賀会を催して自分の権力を誇示したいとも考えていました。誕生日を祝うことは異教の風習であっため、ユダヤ人は認めていませんでした。「誕生日」のギリシア語(ここでは「ゲネシア」の複数形)は「即位記念日」を意味することもあります(6節)。
中近東では公共の場で女性を見ることは禁止されています。皆の注目を浴びるサロメの踊り(6節)が王家の者の振る舞いとしてふさわしくなかったことは明らかです。
ヘロデはサロメに愚かな約束をしました(6節)。彼は自分の権威を公に誇示したかったのです。しかしその結果、彼は自分の約束した内容に縛られることになります(「ヤコブの手紙」3章1〜12節も参照してください)。ヘロデの不用意な発言を、例えば「お姫様と王国の半分とを手に入れました。めでたし、めでたし。」で閉じられる「おとぎ話」と比較してみてください。モーセの律法ではいけにえを捧げることで自分のなした誓いから解かれることができましたが(「レビ記」5章1〜13節)、ヘロデ王は自らへりくだっていけにえを捧げるような真似はやりたくなかったのです。
このようにヨハネは神様の御意思をヘロデに告げる勇気をもっていたがゆえに、自らの命をもってその代償を払わなければならなくなりました(10節)。ヨハネの処刑は違法行為でした。処刑の前に裁判がまったく行われなかったからです。
ユダヤ人の伝承によれば、ヘロデヤはヨハネの首を非常に侮辱的な仕方で扱ったと言われています。
この出来事の後、洗礼者ヨハネの弟子たちの多くはイエス様に従うようになった模様です(「ヨハネによる福音書」3章30節)。しかし、ヨハネが死んでから数十年経ってもなおヨハネの弟子たちがまだ残っていたことが知られています(「使徒言行録」18章24〜28節)。
ヘロデが抱いていたような疾しい良心(2節)は本来なら正しく癒やされ和らげられなければならないものです。しかし残念なことに、ヘロデのような過ちを多くの人も犯してしまいます。自らの罪を悔い改めることこそがただ一つの真の救済策であるはずなのに、それをしようとしないのです。
あなたの罪についてあなたを聖書に基づいて戒めてくれる人はあなたにとってよいことをしています。したがって、そのような人(例えば洗礼者ヨハネ)は憎まれたり迫害されたりするべきではなく、感謝されるべき存在なのです(「マタイによる福音書」18章15〜20節を参照してください)。
大勢の人に食物を与える奇跡 14章13〜21節
食物を与える奇跡の重要性はヨハネも福音書の中でそれについて語っていることからもわかります(「ヨハネによる福音書」6章1〜15節。なお「マルコによる福音書」6章30〜44節、「ルカによる福音書」9章10〜17節も参照してください)。 そして、この食事の奇跡を「主の晩餐」に結びつけているのがヨハネです。イエス様はこの奇跡をなされた後に続いて御自分の肉を食べ御自分の血を飲むことの意味について教えておられます(「ヨハネによる福音書」6章22〜59節)。
「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。」
(「マタイによる福音書」14章13節、口語訳)
「このこと」(13節)とは1〜2節にあること、すなわちヘロデがイエス様に関心を示したことを指しています(「ルカによる福音書」23章8節と比較してください)。私たちはこの時期からイエス様が「寂しい所」(ギリシア語で「エレーモン」といい「寂しい」、「荒野の」、「人がいない」という意味があります)でより多くの時間を過ごすようになられたことに気づかされます。また、この段階ではイエス様のほうから市や村に出向いて行かれるのではなく、逆に群衆のほうからイエス様のおられるところに従ってくるようになっていました。これには、イエス様の活動に支配者(ヘロデ)が関心を持つようになったこと(「ルカによる福音書」13章31〜35節)だけではなく、イエス様が郷里ナザレで人々から受け入れられなかったこと(13章53〜58節)も関係していました。
群衆に居場所を突き止められたため、イエス様はもはや休息ができなくなりました(14節)。
夕方の始まり(15節)は15時から18時までの間を意味していると思われます。23節には、当時、夕方が始まると考えられていた18時を意味する表現が使われているからです。なお、神殿では3時から犠牲が捧げられていました。
イエス様が私たちに訊いておられるのは「私たちが持っていないもの」についてではなく「私たちが持っているもの」についてです。このことを踏まえておくことが重要です。もしもあの少年のもってきた食べ物(「パン五つと魚二ひき」)(17節)と比較してください)が使われないままで残されたのなら、誰にも食べ物がなかったことでしょう。イエス様は「私たちが持っているもの」を祝福し、何倍にも増やすことができるのです。しかし、私たちがそれをイエス様に使っていただくために差し出すことをしなければ、それはいつまでたってもそのままです。ヨハネはそれが「大麦のパン五つと、さかな二ひき」(「ヨハネによる福音書」6章9節)、すなわち貧しい人々の食べ物であったと述べています。
「そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」
(「マタイによる福音書」14章19節、口語訳)
19節からは「主の聖餐」とその設定辞が想起されます。ユダヤ人の食事の祈りは例えば「私たちの主、私たちの神様、地からパンを成長させてくださる世界の王であるあなたに祝福がありますように!」というものです。
「食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。」
(「マタイによる福音書」14章21節、口語訳)
ユダヤ人たちは男性が一つのグループに女性と子どもたちが別のもう一つのグループになるようにして食事をとりました。こうした記述からも、マタイがユダヤ人向けに福音書を執筆したことが窺われます。
この箇所の奇跡についての合理的な「自然な説明」として、ひとりの少年の模範的な行動のおかげで他の人々も持参していた弁当を他の人々にも分け与えるようになったという解釈の仕方があります。
しかし、むしろ私たちは例えば毎年収穫される穀物は常に神様の奇跡であることを覚えておくべきです。干ばつや雨の降り過ぎなどの異常気象によって農作物が丸ごとだいなしになってしまうという場合もあることを考えてみると、作物の収穫が当たり前の出来事ではないことがわかるでしょう。
旧約聖書にもこの箇所と同じような奇跡が記録されています。それらの中で最も重要な事例はもちろん荒野におけるマナの奇跡(「出エジプト記」16章31〜35節)です。また、預言者エリシャの人生においてもそれと同じような奇跡が二度起きています。「列王記下」4章42〜44節で、この預言者が100人の男たちに「大麦のパン二十個と、新穀一袋」の食べ物を与えたとき、「彼らは食べてなお余した」のです。また「列王記下」4章1〜7節では、この預言者の指示に従ってできうるかぎりたくさんの空の容器を用意した未亡人はそれら全部の容器に油を満たしていただきました。また、預言者エリヤはザレパテの未亡人から不思議なやりかたで食物を受け取りました(「列王記上」17章7〜17節)。
水の上を歩くイエス様 14章22〜33節
イエス様が水の上を歩かれた奇跡はマルコ (「マルコによる福音書」6章45〜56節)とヨハネ(「ヨハネによる福音書」6章16〜21節)にも記されていますが、ペテロが水上を歩く(試み)についての記述があるのはマタイだけです。
この奇跡についての「自然な説明」はきわめて不合理で不自然なものです。聖書の奇跡を合理的に解釈しようとする人は理性を過信しています。そのような「合理的な説明」によると、岸辺付近で舟を漕いでいた弟子たちは大気の蜃気楼現象のせいでイエス様が実際には岸辺を歩いていることがわからなかったというのです。しかも、この説明には「聖書的根拠」もあると主張されます。それは、イエス様が舟に乗り込むと舟はすぐに岸に着いたという記述です(「ヨハネによる福音書」6章21節)。しかし、このような「合理的な説明」には次のような多くの問題点があります。
1)この奇跡は夜の嵐の中で起こったので、大気中に蜃気楼が現れるはずがない。
2)弟子たちの中に含まれていた経験豊富な漁師たちは湖での現象を正確に観察することに長けていた。
3)マルコは舟が湖の真ん中にあったと証言している(「マルコによる福音書」6章47節(「舟は海のまん中に出ており」))。
弟子たちはイエス様が舟もなくどのようにして自分たちの後を追って来られるのか想像さえできなかったことでしょう。彼らはただイエス様の命令に従っただけでした(22節)。
「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。」
(「マタイによる福音書」14章22〜24節、口語訳)
イエス様は「自分ひとりで寂しい所へ行かれ」るためにその地域に来られ(13節)、ようやく夜の暗闇の中で御父と二人きりになる機会を得たのです(23節)。福音書には祈っておられるイエス様についての記述が多数あります。イエス様が今回お一人になられた理由のひとつには、群衆がイエス様を自分たちの王に強引に祭り上げようとしていたことがありました。
「人々はイエスのなさったこのしるしを見て、「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」と言った。イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」
(「ヨハネによる福音書」6章14〜15節、口語訳)。
御自分が「王になる道」ではなく他の特別なやりかたでイエス様は神様の御意思にかなう道を探さなければならなかったのです。そして、それは「主の僕の苦難の道」でした。
イエス御自身が弟子たちに湖に行くようにお命じになり、彼らがそれに従って湖に漕ぎ出した後で嵐が襲ってきたことにも注目してください(24節)。イエス様の御意思に従うことは必ずしも楽な人生や問題のない人生を約束するものではありません。厳しい向かい風が吹きつけてくる場合もあるのです!
「夜明けの四時ごろ」は朝の三時から六時までの時間帯を指していました(25節)。
「弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。」
(「マタイによる福音書」14章26〜27節、口語訳)
26節は、イエス様が「御自分のものたち」(弟子たち)のところに予測も理解もできないようなやりかたで来られる場合もあることを私たちに思い出させます。
27節の「わたしである」(ギリシア語で「エゴー・エイミ」)は「わたしはある」とも訳せます。後者は、ユダヤ教における神様の御名の表現の仕方でもあります。ヘブライ語旧約聖書でそれに相当する表現は「出エジプト記」3章14節の「エヘイェー・アシェル・エヘイェー」です。意識的に強調して発音されるとき、それは「わたしは神である」と言うのと同じ意味にもなります(33節)。
「するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。」
(「マタイによる福音書」14章28節、口語訳)
ペテロは自ら率先して行動する性格だったようであり、何度も弟子たちの「代表」としての役割を務めています(28節)。しかし、やはり今回もペテロは思慮深く考えないまま行動に移ってしまいました。イエス様から目をそらし、嵐の吹き荒れる湖の大波を見て風の強さを肌身で感じたとき、ペテロはイエス様の力に対する信頼を失い、波の中に沈み始めたのです(30節)。私たちもこの出来事を心に留めておく必要があります。私たちは今の自分が置かれている状況やできることにではなく、イエス様に目を向け続けなければならないのです。
「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。」
(「マタイによる福音書」14章30節、口語訳)
このように「危機に瀕した際の必死の祈り」は実はとても短いものになります(30節)。
「舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。」」
(「マタイによる福音書」14章33節、口語訳)
この箇所で、弟子たちは初めてイエス様を「神の子」と呼んでいます(33節)。ヨハネがヨルダン川でイエス様に洗礼(バプテスマ)を授けた時に、天からイエス様を「神の子」と呼ぶ声が聞こえました(3章19節)。悪霊どももイエス様が神様の御子であることをすでに以前から認めていました(8章29節)。
病人たちの癒し 14章34〜36節
「ゲネサレの地」(34節)はカペナウム近郊、ゲネサレ湖の西沿岸附近の地域を指します。
ここでも人々はイエス様の御許にやって来ました(35節)。
この箇所でも「全員が癒された」とは言われておらず、「イエスの上着のふさに(中略)さわった者は皆」癒された、と言われていることに注目してください(36節、また14節も参考になります)。人が「イエス様に触れたい」と切望すること自体がすでに「その人はイエス様を信じている」という「しるし」だったのです。イエス様はあたかも「自動機械」のように人々を癒していくようなことはなさらず、常に一人一人と向き合われたのです。
36節は、ある翻訳では「彼らは完全に癒された」と訳されています。このギリシア語の動詞の基本形である「ディアソーゾー」の「ディア」には「貫通すること」、「ソーゾー」には「癒す」、「救う」という意味があります。たしかに福音書には、人が癒されたのか、それとも人が救われたのか、そのどちらであるかについて判断が難しい箇所があります。ともあれ、イエス様が人を癒されるとき、常にその癒しの目的は癒やされた人が救いにあずかるようになることでした。