マタイによる福音書18章 天国で最も偉大なのは誰か
四番目の講話集
この章には「教会生活」についてのイエス様の指示が記されています。例えば「キリスト教徒同士の交流」というのをこの章のタイトルにすることもできるでしょう。
一番偉大なのは誰か 18章1〜6節
「そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。」
(「マタイによる福音書」18章1節、口語訳)
「教会では誰が偉いのか」という質問はおそらく前の二つの章で述べられている出来事から出てきたものでしょう。はたして栄光の山でイエス様と共にいることを許された三人の弟子たちは他の弟子たちよりも優秀で偉大だったということになるのでしょうか。他の弟子たちは病気の子どもを治すことができませんでした。それは彼らがこの三人よりも劣った小さな存在だったからでしょうか。
この世の人生においてはすべてが「秤」にかけられます。大切なのは「適切な秤」を用いることです。霊的・信仰的な偉大さを測る正しい基準は何なのでしょうか。
「すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」」
(「マタイによる福音書」18章2〜4節、口語訳)
イエス様は幼な子を呼び寄せました(2節)。「幼な子」のギリシア語(「パイディオン」)は一般的に「子ども」のことを意味します。なお「ルカによる福音書」18章15節では、特にだっこされるような小さな乳幼児を指す言葉(ギリシア語で「ブレフォス」の複数形)が使われています。幼児洗礼を否定し成人洗礼のみを「正しい洗礼」として認めて施行する宗派では「十分成長した子どもだけがイエス様にふさわしい者として受け入れられる」といった教えがなされる場合があります。しかし、聖書はそのようには教えていないことに注目してください。
「幼な子」が成人にとって模範になるのはどのようなところでしょうか。それは無邪気さや無垢さではありません。子どもは幼い頃でも怒って悪さをする場合があることを誰もが知っています。幼な子の模範的なところは「受け入れる素直さ」です。幼な子は父親から良い贈り物しか期待していません。また、幼子は受け取った贈り物に対してどのような返礼をすべきかといったことも考えません。
子どもは一人だけでは安全に生きられない弱い立場にいるで、他の人々による世話を必要としています。同じように、キリスト信仰者も神様による世話を必要とし続けるのです。
イエス様の教えがいかに革新的なものであったか、現代人が正しく理解するのは困難です。古典古代では子どもは価値も権利もない存在とみなされ、奴隷として売られる場合もありました。
ルターは「偉大になることではなく小さくなることを考えなさい。あなたが小さくなれば自ずと偉大さも伴ってくる。」と教えていますが、まさにその通りでしょう。
「しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。」
(「マタイによる福音書」18章6節、口語訳)
「ひきうす」(6節)はロバが回す大きな石臼を指しています。手で回す小さな石臼には別の言葉が使われました。
シリア人、ギリシア人、エジプト人は処刑方法として溺死を用いましたが、ユダヤ人はこのやりかたは用いませんでした。
救いの代償 18章7〜11節
「この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。」
(「マタイによる福音書」18章7節、口語訳)
「誘惑」は文字通り「罠に誘い込むこと」を意味しています。ギリシア語では「スカンダロン」といい、罠の餌が取り付けられた棒のことを指しており、それに触れると罠が作動する仕掛けになっていたのです。
「この世」(7節)が誘惑の力に支配されているのは神様の敵であるサタンがこの世に影響を及ぼしているからです。サタンは全人類を滅びに陥れようとしてきました。
8〜9節のイエス様の実に厳しい御言葉は医学的視点からみるとよりよく納得できるでしょう。患者の命を救うために医師が患者の足や腕を切断しなければならないこともあります。他の方法では炎症の広がるのを止められない場合、炎症が体全体に広がって患者を死に至らせるのを防ぐためにはそれしかないからです。ここでイエス様も同じことを教えておられます。罪の汚染の拡大は、他に何も手立てがない場合には、強引な手段によってでも阻止しなければなりません。
片目や片手でも罪を犯すには十分であることを覚えておく必要があります。身体を切り刻むことは結局のところ何の助けにもなりません。私たち人間は罪に対して毅然とした態度をとるべきであるとイエス様は教えておられるのです。すなわち、人は罪と軽々しく戯れるべきではなく、救いの中に入るためには必要ならば高い代償さえも払わなければならないということです。 罪と妥協することはできません。あなたは自分の罪に対して極端なまでに厳しい考えかたをしなければならないのです!自分が救われるために自分自身で払うことができる代償は、たとえそれがどれほど高いものであろうともやはり不十分なものです。ここでも、神様が罪人たちを救うために御自分の独り子の命を犠牲になさったことを私たちは心に刻んでおかなければなりません!
「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。」
(「マタイによる福音書」18章10節、口語訳)
誘惑は「軽蔑」や「軽視」から始まります(10節)。
10節は「守護天使」について教えています(「詩篇」34篇8節(口語訳では7節)および91篇11〜12節、「使徒言行録」12章15節、「ヘブライの信徒への手紙」1章14節(「使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。」)、「ダニエル書」10章13、20節も参照してください(「天使の長のひとりであるミカエルがきて、わたしを助けた」)。
「〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕」
(「マタイによる福音書」18章11節、口語訳)
最良の最古の写本には上の11節が欠落しています。これは「ルカによる福音書」19章10節と同じく、誰か写本作成者が記憶に基づいてたまたまこの箇所に書き加えたものと思われます。ただし、その内容自体はこの箇所の主題によく当てはまっています。
さまよえる羊の譬 18章12〜14節
ここでもイエス様は状況に応じて態度を変えないことの重要性を教えておられます。「たとえ一匹の羊が迷子になってもまだ九十九匹残っている」と考えるような羊飼いはいったいどのような状況になったら迷子の羊たちを捜し始めるのでしょうか。残り九十匹になってからでしょうか。それとも残りが五十匹になってからなのでしょうか。羊飼いはどこに限界を設けるのでしょうか。ここに今日の西欧のキリスト教思潮の大きな弱点があります。この思潮は神様の御意思を緩めて解釈し、前に進めるだけ進んでぶつかる新たな限界がどのあたりなのか、いつも探っています。しかしこのようなことをいつまでも続けていると、ついには「限界」そのものが消滅してしまうのです!
「もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」
(「マタイによる福音書」18章13節、口語訳)
13節の「もし」は「いつ」とも訳せることに注目してください。あるキリスト教徒が神様からあまりにも遠く離れてしまった結果、再び神様の御許に戻れなくなり、もう見つからなくなるということは実際に起こりえます。神様は誰のことも強制的に救うことはなさらないため、人は神様から救いが提供されている「領域」の外へと迷い出てしまうことがありうるのです。
すべての人は神様にとって価値ある存在です。自分のもとに帰還した「放蕩息子」を喜んだ父親のように、イエス様は救われたすべての人(14節)を喜ばれます。
キリスト教の宣教活動には次の二つの側面があります。
1)福音をまだ聞いたことがない新しい人たちに福音を伝道すること
2)すでにキリスト信仰者である人たちに福音について教えること
どちらも同じくらい大切な働きです。 教会に来る人々の信仰的な面倒を見ることを継続的に行おうとしない教会にわざわざ新しい人たちを招くことには意味がありません。しかしその一方で、すでに「キリストのもの」とされたキリスト信仰者たちだけの内輪の集まりで自己満足してしまうのもあってはならないことです。この世にまだ救われていない人が一人でもいるかぎり、私たちは出て行って彼らを新たにキリスト信仰者の群れの中へ招いていかなければなりません。
ルカにもこの譬はマタイよりも広がりを持ったかたちで含まれています(「ルカによる福音書」15章3〜7節)。神様を羊飼いとみなす考えかたは旧約聖書と新約聖書の両方に共通してみられる一般的な見方です。その中で最も有名な箇所は、もちろん次の「詩篇」23篇です。
「ダビデの歌
主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」
(「詩篇」23篇、口語訳)
「世の終わり」の時における最大の危険は「惑わし」にほかならないとイエス様は教えておられます(24章4〜14節)。サタンは実に様々な手管を駆使してキリスト信仰者を惑わそうとしてきます。しかし、私たちは様々な惑わしを恐れるあまり「神様の子ども」としての自由と喜びを失うべきではありません。むしろこのことは、目を覚まして用心深くあるようにと私たちに注意を喚起しているのです。
罪を犯しているキリスト信仰者を教会が罰するべき場合とは 18章15〜20節
引き続きこの箇所でも、キリスト信仰者の教会生活と私生活との「境界」をどのように設定するべきかという問題が扱われています。使徒ヤコブが書いているように、私たちはみな多くの点でつまずくものです(「ヤコブの手紙」3章2節(「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」))。この地上には完全無欠な教会は今まで存在したことがなかったし、これからも存在することはありません。しかしこれは、神様の真の活ける教会やキリスト信仰者個人がどのような罪であっても容認してもよいという意味ではありません(「コリントの信徒への第一の手紙」5章6〜13節を参照してください)。
この箇所でイエス様はこの問題に関わる「ある状況」に対して指示を与えておられます。
他のキリスト信仰者が罪を行っているのを見たキリスト信仰者は、まず罪を犯しているその人と一対一でその問題について話し合うべきです(15節)。その際には、性急に裁きを下すのではなく、話し合ったり助言を与えたりすることが大切になります。罪を犯しているそのキリスト信仰者は霊的・信仰的な目が曇ってしまって、自分の陥っている状況を正しく認識できなくなっていると思われるからです。
一対一の話し合いで状況が改善しない場合には、さらに一人か二人の証人を立てなければなりません(16節、「申命記」19章15節)。これは罪に堕落した者たちを守るためでもあります。今まさに問題となっている状況について人々の認識が一致しない場合、「告発者」の側に非がある可能性も考えられるからです。もしかしたらこの「告発者」は霊的・信仰的に傲慢になってしまっているのかもしれないし、あるいは他の何らかの理由から偽りの根拠に基づいて信仰の兄弟姉妹を裁こうとしているのかもしれません。正しく裁きを下すのは人間であるキリスト信仰者ではなく、神様の御言葉なのです。そして、罪を裁く目的は罪に堕落している者を教会の活ける交わりの中に戻してあげることにあります(「コリントの信徒への第二の手紙」2章6〜8節も参照してください)。
「もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。」
(「マタイによる福音書」18章17節、口語訳)
先に述べた二番目のやりかたも問題の解決に至らない場合には、その問題を教会の集まりに委ねる必要があります(17節)。もしも罪に堕落している者に心の変化と悔い改めがそれでもやはり起きないならば、その人は教会から分離されなければなりません。「その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい」というイエス様の指示はこういうケースを意味しています。ユダヤ人は異邦人や取税人とは一切関わりを持ちたがりませんでした。取税人はユダヤ教を捨てたユダヤ人である場合が多く、異邦人は活ける神様にお仕えしたことがまったくない人々であったからです。
残念なことに、現代では物事が全く異なる方向へと進展する場合が多いようです。まずもって問題となるのは「噂話」です。人々は罪を犯したキリスト信仰者と直接その問題について話し合う勇気はもたないくせに、他のキリスト信仰者たちにそれについて告げ口をするのです。もしかしたら悪い噂を立てることで罪を犯した者を傷つけてやりたいという思いさえそこには混じっているのかもしれません。
「伝言ゲーム」では人々が輪を作り、輪の中の最初の人が二番目の人に何かを言い、二番目の人が三番目の人に同じことを言い、三番目の人が四番目の人にさらにそれを伝える、というゲームを続けていきます。そうやってメッセージが最終的に送り主のもとに戻ってくると、元々のメッセージがかなり変わってしまっているということがしばしば見られます。時には、元のメッセージとは正反対の内容になっている場合さえあります。ですから、重要な案件についてはそれと直接関わりのある当事者本人と話し合うべきなのであり、間接的にかあるいは関わりのまったくない人々の意見は「証言」として扱わないことが大切になります。
当事者同士の話し合いでは「被告」側にも自らを弁護する機会が与えられます。それに対して、噂話は裁判なしで断行される「公開処刑」にようなものです。
イエス様の助言は例えば現代のフィンランドの国民教会の抱える問題にも関係があります。フィンランドの教会法には教会員から会員資格を剥奪して追放する規定がありません。本人の希望により教会員を辞めることはできますが、教会の側から追放することはできないようになっているのです。したがって、上述の三番目のやりかたを実施することは現代では不可能になっています。もし誰かがそのようなことをしようとすれば、教会の地方審判所が最初の裁定を下す間もなく新聞やテレビやインターネット上の各種メディアが教会から罪を犯している者を追い出そうとした者や組織を非難することでしょう。
しかし、最初の二つのやりかたは今でも実行可能です。それらを行使できる権利があることを忘れないようにしましょう。現代のフィンランドの国民教会が教会員たちを霊的・信仰的に面倒を見て正しく教えることができない場合、せめて私たちキリスト信仰者ひとりひとりは信仰の兄弟姉妹の霊的なケアを怠るべきではありません。それを禁じる法律はないのですから。
このような三つの段階を踏む目的は何なのかを常に意識しておかなければなりません!その目的は堕落した者や罪を犯した者を一方的に非難し弾劾することではなく、むしろ彼らを救いに導く活ける信仰に連れ戻すことです。この点で、この問題に関わる人々には霊的・信仰的な成熟が求められることになります。次の「ガラテアの信徒への手紙」の箇所を参照してください。
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」
(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)。
次の「マタイによる福音書」19〜20節で、イエス様は御自分の民に大いなる約束をなさっています。
「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
(「マタイによる福音書」18章19〜20節、口語訳)
私たちが「イエス様の御名において祈る事柄」を与えてくださるとイエス様御自身が約束しておられることは(20節)残念ながら忘れられている場合が多いようです。私たちが神様の御意思に適うものを私たちが願い求めることができるように、聖霊様が私たちの祈りも願いも導いてくださるように祈ることが必要です。
20節は、イエス様が復活なさった後、天に昇られる前に与えてくださった「最後の約束」に関連しています。それは「イエス・キリストは世の終わりまでいつも私たちと共におられる」という約束です(28章20節)。
19節の「心を合わせる」のギリシア語原文での動詞の原形は「シュンフォーネオー」であり、「完全に調和している」状態を表しています(この語に由来する「シンフォニー」という音楽用語は音楽的な調和やハーモニーを意味します)。祈りが神様の御意思と調和しているとき、その祈りには神様からのお答えが与えられるのです。
冷酷な召使い 18章21〜35節
この箇所も説明しすぎると面白味が薄れてしまうイエス様の譬のひとつです。
「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。」
(「マタイによる福音書」18章21〜22節、口語訳)
ペテロの質問はありふれたものでした。ラビたちは「赦しを求めない相手を赦す必要はない」と教えていました。また、「赦しを求めるのも三回で十分だ」とも考えていました。この意味でペテロは当時の要求基準に照らしても「より信心深い」ユダヤ人だったとも言えます。ルカの次の箇所によれば、イエス様は私たちが一日に七回でも赦すべきであると言っておられます。
「もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。
(「ルカによる福音書」17章4節、口語訳)。
ユダヤ人にとって「7」は完全性を表す数字でした。
初期の教会ではキリスト教徒の間でさえも新たな罪への堕落が次々と起こりました。上記(15〜18節)では「頑なさ」について述べました。ここでは「悔いること」、そして最後に「頑なになること」について考えてみましょう。
赦した回数を数える人は相手を本当に心から赦しているとは言えません。「赦し」とは計算できるものではないからです。22節に与えられた数字は「77」と「70x7」の両方です(おそらくは「77」のほうが正解なのでしょう。この数字は「創世記」4 章24 節に由来していると思われるからです)。たとえどちらの数字で考えたにしても結論は同じになります。赦しは無制限、無限なものであり、数えることができないものです。赦しは回数の問題ではなく性質の問題だからです。「赦されたこと」についてはもはや再び掘り起こして改めて思い出すということがなくなります。それは完全かつ決定的に赦されたことであるからです。
この箇所に登場する当時における金銭の価値を適切に計算し評価するのは実際的には不可能です。今とは時代と文化が大きく異なっているからです。
「一万タラントの負債」(24節)は6千万日分の日給に相当し、年間の労働日数が300日だとすると負債額は20万年分の年給に相当します。ですから、この負債の貸し手には相当な忍耐が求められたはずです。かりに今日の平均年収が400万円だとして計算すると、それに相当する負債額は8000億円にも及びます。これはまったく返済不可能な額の借金です!比較してみると、当時ガリラヤとペレアがローマ帝国に支払った税金は 200タラントであり、ユダヤ、サマリヤ、イドマヤが支払った税金は600タラントでした。
神様に対する私たちの負債はそれほどまでに甚大なのです。
この譬で二番目に登場する僕の負債は100デナリ(28節)です。これは当時の労働者の約4か月分の賃金に相当する額でした。それゆえ、この負債を支払うことは十分可能でした。この僕は一番目の僕とほぼ同じ言葉を遣いながら負債の支払いのために時間的な猶予を求めました(26節と29節)。その負債は一番目の僕の負債のたった6万分の一にすぎませんでした。しかし、一番目の僕には二番目の僕に共感し同情するという心が欠けていました。他の人の置かれた状態がほんの少し前の自分自身の立場と同じだったにもかかわらず、彼は他の人の立場に我が身を置いて考えることができなかったのです。
一番目の債務者の内面には変化がなかったことがこれで判明しました。彼は自分が受けた大いなる赦しの恵みの意味を理解していなかったのです。「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」(「ヨハネの第一の手紙」4章19節)とヨハネは述べています。神様が私たちを赦してくださったように私たちも赦すようにと「主の祈り」は教えています(6章12節)。ヤコブは「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」と教えています(「ヤコブの手紙」2章13節)。イエス様は山上の説教で「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」と教えられました(5章7節)。人は自分が蒔いたものをいずれ自分で刈り取ることになるのです。
この譬は私たちが律法と福音のどちらか一方を選択しなければならないことを教えています。自分のためには福音を選び、他の人々のためには律法を選ぶというようなことはできません。どちらか一方が私たちの人生全体を支配するからです。これは「両方」ではなく「どちらか一方」を選択しなければならない状況なのです(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節を参照してください)。
「そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。」
(「マタイによる福音書」18章34節、口語訳)
34節で使われているギリシア語(「バサニステース」の複数形)は「拷問者たち」もしくは「死刑執行人たち」という意味です。イエス様は「滅び」について語るとき、「泣き叫んだり、歯がみをしたりする」という表現をよく用いられます(8章12節、13章42、50節、22章13節、24章51節、25章30節)。
ユダヤ人を奴隷として売ることは律法で禁じられていました。しかし、実際にはしばしば行われていたのです(「出エジプト記」21章2節、「レビ記」25章39〜40節、「列王記下」4章1節、「ネヘミヤ記」5章5節、「イザヤ書」50章1節を参照してください)。しかも主人が異邦人(非ユダヤ人)であった場合には、ユダヤ教の律法はその主人がユダヤ人を奴隷として売ることを阻止できませんでした。