マタイによる福音書13章 譬によって教えるイエス様
この箇所にはイエス様の話された複数の講話がひとつに集められています。「マタイによる福音書」にはそのような箇所が他にもあり、最も長大で有名なのが山上の説教(5章〜7章)です。
マタイはこの章でイエス様による譬をひとつに集めました。それらの譬は決して同じ状況で同じ時に語られたものではありません。あるいは、たとえ同じ状況で語られたものであったとしても、それらはマタイによって多少なりとも再構成されています。例えば10節〜23節はイエス様が弟子たちのみに語られた教えについてであり、24節以降では、1〜9節においてと同じく、イエス様は再び民衆に対して語りかけておられます。
この章には神様の御国に関する7つの譬が収められており、52節は8番目の譬であると考えられます。これらの譬のうち4つはマタイのみにあり、残りの3つは他の二つの共観福音書であるマルコやルカの福音書の両方あるいはその片方に記述があります。
「譬」はギリシア語で「バラボレー」といい、「パラ」(「近くにいる」)と「バッロー」(「投げる、置く」)という二つの単語の組み合わせからできています。それゆえ、「譬」を文字通りに翻訳すると「並べて配置すること」になります。譬は霊的・信仰的な真実をこの世の出来事に並置するものです。イエス様は当時の人々の日常生活の中から巧みに具体例を引いてきて聴衆に霊的・信仰的な真理を教えられました。これは聖書の解き明かしをする者が今日でも行うべきことです。しかし、そうするためには非常に難しい技能が必要とされます。
共観福音書(=マタイ、マルコ、ルカ)には合計約30個の譬が含まれています。それに対して「ヨハネによる福音書」には実際の譬は一つもありません。
種まき人の譬 13章1〜9節
「その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。」
(「マタイによる福音書」13章1〜2節、口語訳)
教師(ラビ)が座ること(1〜2節)は教師が「これから教え始める」という合図のようなものでした(「山上の説教」の冒頭の5章1節も参照してください)。
大勢の人々が集まってきたのでイエス様は舟に乗り込まれました。舟の上からはイエス様の講話が岸辺の人々によく聞こえ渡りました(2節)。
種まき人の譬の説明は18〜23節にあります。譬の教えの具体的な内容についてはその箇所で説明することにします。
説明を加えたがために明確なことがかえって不明確になってしまう場合もあります。ある教会学校の教師がいました。聖書を深く知っている人でしたが、子どもたちにとっては深すぎて理解しにくいような話をすることがありました。ある時、聖書の箇所を説明した後で、その先生は教会学校の生徒たちに今聞いた内容を理解したかどうか尋ねました。ある生徒は「先生が説明を始めるまでは理解できていました!」と答えたそうです。
かりにここでイエス様御自身による譬についての説明がなかったとしたら、聖書を自由気ままに解釈するような聖書注釈者たちはこの箇所の譬をどのように「説明」したのでしょうか。自由な聖書解釈の行き過ぎた例の一つとして、「ヨハネによる福音書」の成立年代を西暦150年頃に推定した仮説を挙げることができます。「ヨハネによる福音書」の断片を含むごく古い時代のパピルスが発見されたため、この仮説は間違いであったことが判明しました。そのパピルスは西暦120年頃に書かれたものであったからです。
イスラエル人たちは「約束の地」の緑の豊かさに魅了されました(「民数記」13章27節)。100倍の収穫は誇張ともとれます。例えばケニアではトウモロコシの収穫は元の600倍にもなると現地の人から私(パシ・フヤネン)は聞いたことがあります。トウモロコシの収率の高さはたしかに有名ですが、普通の穀物で100倍の収率を得るのは不可能です。
「耳のある者は聞くがよい」。
(「マタイによる福音書」13章9節、口語訳)
9節は、「聞くこと」と「聴くこと」は別のものであることを私たちに思い出させます。これよりもさらに重要なことがあります。「聖書の教え」はあなたがその教えを真理として受け止めてそれに従って自らの人生で実践していきたいと願うときにのみ最も深いかたちで明らかになるということです。このことをぜひ覚えておいてください(「申命記」29章28節(口語訳では29節))。また、次の「ヨハネによる福音書」の箇所でのイエス様の発言も参考になります。
「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教が神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう。」
(「ヨハネによる福音書」7章17節、口語訳)
譬の目的 13章10〜17節
「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。」」 (「マタイによる福音書」13章10〜11節、口語訳)
この箇所では前述の箇所とは異なる状況が描かれており、弟子たちのほうからイエス様の御許へと近寄って来ました(10節)。
弟子たちは譬の説明についてではなく、なぜイエス様がそのような「秘密めいたやりかた」で話されるのか、イエス様に尋ねました(10節)。イエス様の譬を聞いている人たちはその譬のことを理解していない、と彼らはおそらく考えたのでしょう。そしてまた、彼ら自身も譬の意味を正しく理解していなかったのです。
イエス様は人々が譬を正しく理解する機会を与えられたのにその機会を正しく利用しなかったと言っておられます(34節や「マルコによる福音書」4章33〜34節も参照してください)。この後、イエス様は譬でのみ人々に語られました。そして、その御言葉を聞いたのに受け入れなかった人たちの心はむしろ御言葉に対して頑なになってしまいました(12節と比較してください)。これと同じ考えかたは後ほど再び「マタイによる福音書」に出てきます(25章29節)。また、これと同様の「法則」が「知恵」について綴られている「箴言」9章9節も参考になります。
1990年代初頭にフィンランドのある著名な経済人がテレビのインタビューを受けました。将来はどのようになると予想しているかと問われた彼は「金持ちはさらに金持ちになり、貧乏人はさらに貧乏になっていくでしょう」と答えました。
経済システムにおけるこの「法則性」は信仰生活にも当てはまります。土台となるものが何もなければ、その上には何も成長しません。しかし、イエス様を信じる者は誰であれ、神様の恵みに基づいて成長していくことができるのです。
イエス様のこれらの発言は偽りの慰めなどを含まない率直なものでした。それは当時のユダヤの民衆の状況に対する冷徹な評価でもあり、また将来に関する予言でもありました。これは「イスラエルの民は神様から遣わされたメシアを受け入れないであろう。それゆえ、彼らは霊的・信仰的にますます貧しくなっていくであろう」という予言でした。
「こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
悔い改めていやされることがないためである」。」
(「マタイによる福音書」13章14〜15節、口語訳)
14〜15節には「イザヤ書」6章9〜10節からの引用があります。旧約の預言者イザヤのメッセージですら人々の心に響くことはなく、むしろイスラエルの民の心をさらに深く頑なにしたのです。
「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」
(「マタイによる福音書」13章16〜17節、口語訳)
イエス様は旧約聖書の預言の成就です(16〜17節)。
福音書の中で(天国の)「奥義」という言葉が使われているのは11節においてだけであり、ギリシア語原文では「ミュステーリア」(複数形)と言う言葉になっています。これはいずれ明らかになる隠された何かを意味していました。今はそれが何かが明らかになる時なのです(16節)。
種まき人の譬の説明 13章18〜23節
聖書の預言とイエス様の譬は複数の説明と成就を含意していることがよくあります。これと同様のケースは聖書の他の多くの箇所にも見られます。
イエス様がこの世で生きておられた時代にイエス様の譬がどのような意味をもっていたのかについては調べることができます。しかし、イエス様の譬はイエス様の時代よりも後のどの時代においても重要な意味を持ち続けています。
「種をまく人」とはイエス様御自身のことでもありうるし、教会または個人としてのキリスト信仰者でもありえます。もちろん後者の解釈においても、種を蒔いている人、すなわちメッセージを与える人は究極的にはイエス様のことを意味しています。
「福音」とは神様の救いの御業の意味を伝えるメッセージのことです。そして、福音は譬に挙げられているような四種類の受け取り手たちと遭遇します。もっとも、同一人物が人生のさまざまな局面においていくつかの種類の「土壌」になる場合もありますし、彼らの中には四種類すべての「土壌」になった人さえいるでしょう。
イスラエルには耕作できるような土地がごくわずかしかなかったので、ありうるかぎりのすべての土地が耕作の対象とされました。当時の状況を踏まえると、この譬の「種まき人」はとっておきの大切な種を無駄に蒔き散らしたのではないということがわかります。
「だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。」
(「マタイによる福音書」13章19節、口語訳)
野原の中には通れる「道」があり、その周辺の道ばたには御国の言を蒔いていくことができました(19節)(12章1節も参照してください)。
「「石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。」」 (「マタイによる福音書」13章20節、口語訳)
岩の上にはほんの少しだけ土が残っているような場所もありましたが(20節)。しかし、土の下にすぐ岩があることを見抜くのはとても難しいため、根を張るのに十分な土がない場所の「土壌」の実態がわかってくるのには時間がかかります。
「また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。」
(「マタイによる福音書」13章22節、口語訳)
いばら(22節)とあざみについては、すでに旧約聖書の冒頭でアダムとエバの罪への堕落のせいで農耕を妨げるものとして生じるようになったという言及があります(「創世記」3章18節)。現代の(例えば北欧の)福祉国家では福利厚生が充実するとともに神様に敵対するさまざまな力も勢いを増し、神様の祝福よりも速やかに強まってきているかのような印象を受けます。
「また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
(「マタイによる福音書」13章23節、口語訳)
良い土地に蒔かれた御言葉(23節)は今まで述べられてきたケースとは異なる「作物」を実らせました。パウロはキリスト教会を人間の身体になぞらえる比喩によって同じことを説明しています 王(「コリントの信徒への第一の手紙」12章12〜31節)。人間の身体(すなわち教会)の諸部分にはそれぞれさまざまな役割がありますが、それらはすべて必要なものなのです。私たちキリスト信仰者は神様の御国のために他の人々よりも大きな収穫を得ることができる人々のことを実にたやすく妬むようになりがちです。しかし、神様は私たちに各々の置かれた状況において忠実を尽くすことを求めておられるのです。何か他の収穫物ではなく神様から世話するよう自分に委ねられた収穫物を私たちは実らせていかなければなりません。
また23節は、今の時代においても「信仰の実」が結んでいけるよう福音の宣教をよりいっそう前進させていかなければならないという使命を私たちに思い出させます。
小麦と雑草 13章24〜30節
種蒔きの譬を除くと、神様の御国について教えているこの章の他の6つの譬はすべて「天国は…」で始まっています(24節)。
イエス様は今扱う箇所の譬についても説明を与えておられます(36〜43節)。この譬の霊的・信仰的な教えの意味をこれから文脈に沿って見ていくことにしましょう。
なお、この譬は「マタイによる福音書」にのみ記されています。
「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。」」
(「マタイによる福音書」13章24〜25節、口語訳)
24節の「示して」はギリシア語原文では「パラティテーミ」という動詞のアオリスト形になっており、「受け取られるために提供された」という意味になります。これはまさにさきほど扱った「種まき人」の譬の述べていたことでもあります。
ローマ法は他人の畑を荒らすことを禁じていました(25節)。
蒔かれた種から生え出てきた植物たちは、最初のうちは互いに似かよっていました。「毒麦」とは毒を含む小麦によく似た雑草だったと一般的には考えられています(25節)。それが小麦から区別されるようになるのは植物が十分成長してからのことでした。
「神様が教会を建てると、その隣にサタンが礼拝堂を建てる」と言われることがあります(25節)。世界の覇権をめぐって霊的な戦いが世界中で起きています。「良い麦」は念入りに世話を焼く必要があるのに対して、「毒麦」は放っておいてもはびこっていくという事態が残念ながらしばしば見られます。
「「彼は言った、「いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう」。」」
(「マタイによる福音書」13章29〜30節、口語訳)
麦の根が地中で互いに複雑に絡み合っているときに力づくで毒麦だけを引き抜こうとすると、よい麦までだめにしてしまうという危険性があります(29節)。
30節は、世の終わりに「分裂」が起こることを私たちに思い起こさせます。毒麦を焼くことは悪を滅ぼすという意味です。当時、毒麦などの雑草は燃料として使用されていました。世の終わりが来るまでの間、この世は善と悪が共存した状態にあります。
からし種とパン種 13章31〜35節
この箇所の二つの短い譬は同じ内容を述べています。小さな始まりが驚くほど大きな結果を生む場合があるということについてです。預言者ゼカリヤは「小さい事の日」を軽んじないよう警告しています(「ゼカリヤ書」4章10節)。
この譬は「福音の力」について語っています。キリスト教会は十二人の使徒から始まって、今や数十億人の教会にまで成長してきたのです。
「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。」
(「マタイによる福音書」13章31〜32節、口語訳)
からし種は当時の園芸植物の種の中では最も小さい種として知られていました(32節)。
「またほかの譬を彼らに語られた、
「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。」
(「マタイによる福音書」13章33節、口語訳)
パン種(33節)あるいは生地の元になる種は新しい生地を膨らませて発酵させるために保存されていた古い生地の一部のことです。
上節に述べられている生地の量は非常に多く、「三斗の粉」は実に約36リットルもの小麦粉に相当します(33節)。
「イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。」
(「マタイによる福音書」13章34〜35節、口語訳)
イエス様は譬のみを通して群衆に語られたとマタイは述べています(34節)。神様のメッセージを受け入れようとしなかった人々は神様の奥義を理解することもできませんでした(35節)。
35節にある聖句の引用は「アサフの詩篇」と呼ばれる「詩篇」78篇2節からのものです(「わたしは口を開いて、たとえを語り、いにしえからの、なぞを語ろう。」)。アサフは「先見者」(ヘブライ語で「ホーゼー」)でした(「歴代誌下」29章30節)。これは旧約聖書においては「預言者」(ヘブライ語で「ナービー」)の別称でもありました。
毒麦の譬の説明 13章36〜43節
「それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。」
(「マタイによる福音書」13章36節、口語訳)
弟子たちは譬の意味を理解したふりなどはせず、イエス様に解き明かしをお願いしました(36節)。イエス様も御自分の教えが彼らに正しく理解されることを望んでおられました(51節)。
「人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」
(「マタイによる福音書」13章41〜42節、口語訳)
上掲の箇所は明らかに永遠の滅びについて述べています。「すべての人が救われる」と主張する種々の異端の教えはすべて聖書の教えの外部から生じてきたものです。そのような教えは教会の歴史を通じてしばしば現れてきましたが、その度に異端として退けられました。
ここで扱ってきた箇所での出来事は人々が最終的に二つのグループに分割されることを強調しています。第三のグループなるものは存在せず、それぞれのグループの行き着く先も天国と地獄という二つしかありません。
宝物と真珠 13章44〜46節
最後の三つの譬はイエス様が弟子たちだけに語られたものです(36節を参照してください)。これらの譬は「マタイによる福音書」にしか記述がありません。
そのうちの最初の二つは、他のすべてにもまして神様の御国こそが貴重であることを教えています。
以前も指摘しましたが、普通の場合だと聖書の譬には主題が一つしかないことをここでも覚えておきましょう。譬には一つの教えが含まれているということです。
宝と真珠の譬は神様の御国が購入可能なものであることを教えているのではありません。
この箇所で、雇われて畑で働いた人物の行動が道徳的にみて正しくなかったことに注目しましょう。彼は自分が畑で見つけた宝物を主人から隠し、本当の価値を主人には告げずにその畑を購入しました。しかし、ここでの主要なテーマはキリスト信仰者の経済における倫理的な行動原則ではなく、神様の御国のもつ無限の価値なのです。
第一の譬は偶然の発見についてであり、第二の譬は積極的な探求者についてです。神様の御国はそのどちらのやりかたでも見つけることができるのです。
網 13章47〜50節
「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。」
(「マタイによる福音書」13章47〜48節、口語訳)
この箇所について、神様はいわば「諸国民の海」の中で漁をなさっており、狡猾な魚はその網の釣り針を巧みに避けるやりかたを知っている、というように考える人が多いようです。
しかし、世の終わりにはすべての魚を集めるために網が「諸国民の海」に投げ込まれることになるでしょう。人間は誰ひとりその網から逃れることができません。それから、集められた魚たちは二つのグループに選り分けられるのです。
イエス様はここでもまた「永遠の滅び」について語っておられます(50節)。このテーマをイエス様は福音書の中で実に40回以上も繰り返し述べておられます。こそれゆえ、これはキリスト教信仰において重要ではない些細な事柄などではありません。
新旧 13章51〜52節
信仰は知識や理解だけにすべて還元できるものではありません。たしかに、知識や理解も重要ではあります。たんなる感情や「霊」だけでは、教義にかかわる問題を考えるとき、たちまち先に進めなくなるからです。
「そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。」
(「マタイによる福音書」13章52節、口語訳)
聖書の古い契約(旧約)と新しい契約(新約)の間には緊密なつながりがあります。しかし、イエス様や使徒の時代にこのことをはっきりと認識できていたユダヤ人はあまりいませんでした。おそらく52節の成就の最良の例は旧約聖書を知悉しイエス様の福音と結びつける方法を知っていた使徒パウロでしょう。
郷里訪問 13章53〜58節
この箇所はイエス様の幼少期の郷里であるナザレでの出来事です(2章23節)。
郷里の人々はイエス様がそこに住んでいた大工ヨセフの息子であったことを忘れることができませんでした。そのせいで、イエス様の力強い教えや他の場所で行われた奇跡の数々でさえ、その噂について聞かされていたナザレの住民たちをイエス様への信仰に導くことになりませんでした。私たちも「誰が話したのか」ではなく「何について話されたのか」と問うほうがよい場合があります。
この箇所にはヨセフの名前が挙がっていませんが、イエス様の公の活動が始まる以前にすでに死去していたのではないでしょうか(12章46節も参照してください)。
ここでの出来事は会堂でイエス様が教えられた内容について述べている最後の箇所になります。
ローマ・カトリック教会はイエス様の兄弟姉妹についてヨセフがマリアと結婚するよりも前の他の結婚で生まれた子どもたちか、あるいはイエス様の従兄弟たちであるなどと教えています。
パウロはヤコブ(55節)のことを「主の兄弟」(「ガラテアの信徒への手紙」1章19節)と呼んでいます。しかし、この箇所についての最も自然な説明はヨセフとマリアにはイエス様が誕生した後に他の子どもたちが生まれたというものです。
「その姉妹たちもみな」とあるので三人以上の姉妹がいたことになります(56節)。
「こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。」
(「マタイによる福音書」13章57〜58節、口語訳)
マルコはイエス様が郷里ナザレで行われたいくつかの奇跡について記述しています(「マルコによる福音書」6章5節)。人々に信仰を生じさせないような奇跡は、たとえそれが行われたとしても結局は無駄になったことでしょう。そして、おそらくそれがナザレでイエス様が奇跡を起こそうとは思われなかった理由なのでしょう(58節)。