マタイによる福音書11章 不信仰がもたらす目に見える結果

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

不信仰がもたらす目に見える結果 「マタイによる福音書」11章

11章と12章においてマタイは「イエス様は何者なのか」また「イエス様に正しく従うことが何を意味するのか」を明らかにしていきます。そして「イエス様とその活動について何をどのような順序で伝えていくのが適切なのか」を慎重に考慮し手元にあった資料を類別して使用しています。

洗礼者ヨハネの質問 「マタイによる福音書」11章1〜6節

弟子たちはこの時点で伝道の旅に出ていたのか(10章1節)、それともすでに旅から戻ってきてイエス様と一緒にいたのか、判断するのは困難です。マタイは弟子たちの帰還についてはまったく語っていないからです。

この箇所での洗礼者ヨハネの質問については概ね次の二つの解釈が提示されてきました。

1)牢獄で疑いにとらわれたヨハネは、イエス様が本当にメシアなのかどうか、イエス様に問い正したかった。
2)ヨハネ自身はイエス様がメシアであることを信じていたが、自分の弟子たちをイエス様に従う者にしたいと考えて彼らをイエス様の御許に派遣した。

どちらの解釈をとることも可能でしょう。どれほど強い信仰でも困難な状況下では揺らぐことがありえます。ヨハネは、自分が預言した「(聖霊と)火のバプテスマ」をイエス様が開始しなかったのはどうしてなのか、イエス様にお尋ねしたかったのかもしれません。これは大いにありえることです(3章11〜12節)。また、もしイエス様がいつか御自分の民を解放するお方であるのなら、獄中に横たわる従兄弟(ヨハネ)を解放するようになぜイエス様は取り計らわなかったのか、という疑問もヨハネにはあったのかもしれません。

その一方で、洗礼者ヨハネの弟子たちの中には彼の死後も変わることなく元の師に忠実であり続けた人々もいたことがわかっています。洗礼者ヨハネは自分の時代がすでに終わっていることを認識していました(3章11節)。今や彼の弟子たちがイエス様に従っていくべき時が来たのです。

牢獄の過酷な環境の中ではヨハネのような者ですら「やはり自分の考えは間違いだったのではないか」と疑い始めていたのではないかと私個人(パシ・フヤネン)は考えます。メシア(救世主)に対して洗礼者ヨハネ自身が抱いていた期待や基準をイエス様は満たしていなかったようにヨハネには見えただろうからです。

神様の活動に対してさまざまな条件を人間の側で勝手に設定してしまう危険は私たち自身にもあります。しかし、神様は御自身が適切と思われるやりかたで働きかけられるのです。多くの場合、それは私たちが期待することや良いと考えていることとはまったく異なるやりかたで行われます(「イザヤ書」55章8〜11節も参照してください)。

マタイは「弟子たち」と述べていますが(2節)、ルカはより詳しく、ヨハネが二人の弟子をイエス様の御許に遣わしたと述べています(「ルカによる福音書」7章18節(「弟子の中からふたりの者」))。

「イエスに言わせた、
「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。」
(「マタイによる福音書」11章3節、口語訳)

このヨハネの質問は旧約の時代に待望されていたメシアへの言及にほかなりません。

イエス様はヨハネの弟子たちに御自分の活動について具体的に説明することでお答えになりました。「今、何が起こっているかをよく見なさい」ということです(5節)。メシアをめぐる旧約聖書の預言が今や現実になりつつあるのです(例えば「イザヤ書」29章18〜19節および35章5〜6節および61章1〜2節を参照してください)。イエス様は旧約聖書を記した人々がそれまで語り継いできた「約束されたお方」なのです。

メシアの時代の6つの不思議なしるし(5節)のすべてはイエス様の公の活動においてすでに実現しました。

「わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
(「マタイによる福音書」11章6節、口語訳)

洗礼者ヨハネとその弟子たちは神様が遣わされたメシアを正しくメシアと認識できずに躓いてしまう危険にさらされていました。

私たちの行動は、私たち自身の話している内容を補強するか、あるいは逆に、その根拠を無効にしてしまうか、そのどちらかであるということを上の6節は思い出させます。しかしここで、イエス様の終始一貫した言動でさえ必ずしも人々がイエス様を信じるようにはしなかった、ということは覚えておいたほうがよいでしょう。

なお、この箇所は十分吟味しないと気付かないような興味深い情報を含んでいます。

「イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。」
(「マタイによる福音書」11章1節、口語訳)

上節のごく短い記述はイエス様の宣教活動の広範さを示唆しています。しかし、福音書記者たちはこのことについてあまり多くをはっきり述べていません(「ヨハネによる福音書」21章25節も参照してください)。

前述したように、マタイはすべての出来事を時系列的な順序に従っては述べておらず、手元にあった資料の内容を類別して適宜活用しています。彼は洗礼者ヨハネの投獄については以前の箇所にも言及しました(4章12節)。しかし、洗礼者ヨハネが投獄された理由や処刑については後になってから詳しく語っています(14章1〜12節)。このように時系列的な順序だけが出来事の記述のやりかたではないのです。例えば現代の映画でも話の途中で過去や未来に飛躍するシーンが頻繁に登場する場合があります。

洗礼者ヨハネとは何者か? 「マタイによる福音書」11章6〜19節

「荒野」(7節)は全く人がいない「空虚な場所」のことです。そこには取り立てて見るべきものは何もありませんでした(8節)。

イエス様は洗礼者ヨハネが何者かについての答えとして人々に三つの選択肢をお与えになりました。

1)政治的な風向きに靡く者(7 節の「風に揺らぐ葦」)。このような人物はいつでも「風が吹く」方角を向いていました。しかしそれとは逆に、ヨハネは時の権力者ヘロデ王を批判したために投獄されていたのです。

2)整った身なりをした影響力のある人物(8節の「柔らかい着物をまとった人」)。しかしそれとは逆に、ヨハネは非常に質素な身なりをしていました(3章4節)。

3)「預言者」(9節)。これこそがヨハネの本当の姿でした。彼は神様から遣わされた使者であり、それまで地上に生きてきた人々の中で最も偉大な人物でした。それは彼の使命がメシアの到来を準備することだったからです(11節)。旧約聖書の最後尾を飾る「マラキ書」3章1節には、「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」とあります。

「『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、 あなたの前に、道を整えさせるであろう』 と書いてあるのは、この人のことである。」」 (「マタイによる福音書」11章10節、口語訳)

実際に、当時の支配者たちには来るべき王の到着に備えてあらかじめ物事を整える「先駆者」(10節)がいました(「創世記」41章43節のヨセフ、「エステル記」6章9〜11節)。

「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」
(「マタイによる福音書」11章11節、口語訳)

11節でイエス様は古い契約(旧約)と新しい契約(新約)の間の本質的な相違を強調しておられます。このことを正しく理解することは重要です。旧約の世界の最も優れた者であっても、新約の世界の最も弱い者にさえ遠く及ばないのです(9章14〜17節)。

11節がイエス様の処女降誕についてもそれとなく言及していることに気づかされます。言うまでもなくイエス様は洗礼者ヨハネよりも偉大なお方でした。

「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」
(「マタイによる福音書」11章12節、口語訳)

12節は翻訳が難しく、今までさまざまな翻訳が試みられてきました。以下にいくつかの論点を挙げます。

1)聖書の直訳的な翻訳は正当性があるやりかたですが、そのような訳ではこの箇所の理解が困難になります。

2)この節の終わりの部分を「敵対者は神様の御国の到来を阻止したい」と訳したらよいのではないか、という提案もなされました。そうするとこの箇所はたしかにわかりやすくはなりますが、このような翻訳がギリシア語原文と比べて最も自然なものとは言えません。

3)この節の終わりの部分を「熱心に求め、それを目指す」というように訳したい、という提案もなされました。この場合でも、たしかにこの箇所の理解は明瞭にはなりますが、やはりこのような翻訳はギリシア語原文に対する最も自然な置き換えにはなっていません。

上節のイエス様の言葉が洗礼者ヨハネの逮捕に関連していることは明らかです。イエス様が言われたいのは、この世には神様の御計画を変えようとする勢力(例えばファリサイ派)やこの計画自体の実現を阻止したい勢力がある、ということです。洗礼者ヨハネの口を封じるために投獄したヘロデ王もこれらの勢力の中に含まれていました。

実際、ヨハネは「マラキ書」で預言された第二のエリヤでした(「マラキ書」3章23〜24節を「マタイによる福音書」17章9〜13節と比較してみてください)。

「今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
『わたしたちが笛を吹いたのに、
あなたたちは踊ってくれなかった。
弔いの歌を歌ったのに、
胸を打ってくれなかった』
と言うのに似ている。」 (「マタイによる福音書」11章16〜17節、口語訳)

イエス様は御自身の時代のユダヤ人たちがあたかも幼い子どもたちのようだった、と言っておられるのです。結婚式の演奏(笛の演奏、17節)をしようと提案されても彼らは嫌がりましたし、葬式の演奏をするようにと提案されても(弔いの歌、17節)、やはり彼らは断りました。

いつだって人間は自分が神様の御意思に従わないでいられるように実にもっともらしい理由を見つけてきます。そしてその「理由」なるものは厳しすぎたり、寛大すぎたりします。人間は独自の救いの道を捏造することにかけては非常な熱心さを示すものなのです。

「なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
(「マタイによる福音書」11章18〜19節、口語訳)

洗礼者ヨハネは「悪霊に取り憑かれた」と非難されました(18節)。それと理由自体は異なるものの、イエス様もヨハネと同じ扱いを受けることになります(12章22〜32節)。

18節にある飲食をめぐる悪癖についてイエス様は擁護なさっているのではありません。そのような悪癖をもつ罪深い者たちに対しても愛を示してくださったのです。

上の箇所での「知恵」(19節)は「神様の救いの御計画」のことも意味しています。ここで洗礼者ヨハネとイエス様の救いの計画がそれぞれ異なっており異なるかたちで具体化したことにも注目してください。

悔い改めるか、頑なになるか 「マタイによる福音書」11章20〜24節

福音書がイエス様の公の伝道活動のうちのほんの一部しか伝えていないことがこの箇所からも窺われます。例えば、私たちはコラジンとベツサイダで起きた奇跡については何も知ることができません(21節)。それらの奇跡はマタイが8章と9章で叙述している時期に起きたもののようです。

たとえイエス様がその到来を期待して洗礼者ヨハネが預言した「(聖霊と)火のバプテスマを施す者」ではなかったとしても、イエス様の講話の聴衆たちが悔い改めることをイエス様は期待なさっていたのです。この箇所はそれを示唆しています。福音はそれを聴いて悔い改めない人を頑なにしてしまうという特質を持っています。これはイエス様による数々の奇跡を目撃しイエス様の講話を聞いていた多くの人々の上にも起きたことです。奇跡は自動的に信仰を生み出すものではありません。これは今日でも変わりません。

コラジンについてはその正確な位置さえわかっていません。ベツサイダはヨルダン川がゲネサレ湖に流れ込む場所にありましたが、現在はそこには遺跡すら残っていません。

ユダヤ人たちがローマ帝国に対して反乱を起こした際にカペナウム(23節)は西暦70年頃に破壊されました。この反乱は西暦66年に始まりました。その時期のローマ側が混乱した状態だったため帝国の逆襲は最初うまくいかず、反乱が実際に鎮圧されたのはそれからようやく数年後たってからのことでした。

今日ではカペナウムは聖地巡礼の場所にすぎなくなっています。都市自体はもう存在していません。しかし、イエス様が公の宣教活動をなさっていた時代にはイエス様の故郷のような役割を果たしていました。

イエス様がそこで伝道活動をなさった町や都市は神様御自身(イエス様)から直接に明確な福音のメッセージを伝えられたことになります。それゆえ、それらは大きな責任をも担うことになりました。「伝道の書」の言葉を借りれば「知識を増す者は憂いを増すからである。」 (「伝道の書」1章18節)ということです。

ツロとシドンはイスラエルの北方の地中海沿岸のフェニキアの都市であり、偶像神「バール」崇拝の中心地でもありました。旧約聖書には彼らとその邪悪さについていくつかの預言が記されています(「イザヤ書」23章、「エゼキエル書」26〜28章)。それらの都市は罪の巣窟そのものとさえみなされていました。

カペナウムがイエス様から叱責された旧約聖書的な背景には、「イザヤ書」14章でのバビロニア王に対する嘲笑の歌がありました。例えば、「しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。」(「イザヤ書」14章15節)とあります。この箇所でイエス様は、カペナウムの今の住民たちもそれと同じ道をたどることになるだろう、と言っておられるのです。彼らには天の御国に入って行く機会が与えられていたはずですが、イエス様とイエス様を通してもたらされた救いを自分に受け入れることを拒んだがために彼らは滅びてしまうことになるのです。

コラジンについてはこの箇所の21節と「ルカによる福音書」の並行箇所(「ルカによる福音書」10章13節)にのみ言及があります。

ベツサイダ(「漁の家」という意味)はペテロ、アンデレ、ピリポの故郷でした(「ヨハネによる福音書」1章44〜45節)。

旧約聖書での「ソドム」は神様への反抗、頑なさ、そして悪を象徴する都市でした(「創世記」18〜19章)。

「荒布をまとい灰をかぶって、」(21節)という態度は悔い改めを表すしるしでした。

イエス様の中で休息すること 「マタイによる福音書」11章25〜30節

「そのときイエスは声をあげて言われた、
「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」
(「マタイによる福音書」11章25節、口語訳)

ここで「幼な子」と訳されているギリシア語は「子どもの」とか「子どもらしい」という意味をもつ「ネーピオス」の複数形です。ですから、「子どもらしい」というのは幼稚であるとか理解力がないという意味ではありません。たしかに知性も神様からの賜物の一つであり、神様は私たちがそれを適切に活用することを望んでおられます。残念なことに、知性や理性は神様に敵対するための手段として誤用されることがよくあります。しかしそのせいで知性の適切な使用までが完全に否定されてしまうべきではありません。

聖書的な意味での「子どもらしさ」とは信仰に結びついた謙虚さのことであると言えるかもしれません。子どもには「受け入れる心」があり、両親からは良い贈り物がもらえるものと信じて期待しています。キリスト信仰者は子どもの心と大人の頭を持つべきである、とイギリスのキリスト教徒作家C. S. ルイスは言ったことがあります。

「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」
(「マタイによる福音書」11章27節、口語訳)

御子イエス様と御父との関係は独特なものです(27節)。人が救われるのはイエス様を通してのみであり、イエス様の助けによるものである、ということをこの聖句は明らかにしています(「ヨハネによる福音書」14章6節も参照してください)。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
(「マタイによる福音書」11章28節、口語訳)

律法の重荷のせいで人々は疲れ果てていました(28節、また23章4節も参照してください)。形骸化した宗教性から活ける信仰へ、また重荷から解放されて御自分の中の休息へ入ってくるようにとイエス様は今も人々に呼びかけておられます。

「くびき」(28、30節)とはさらなる重荷のことではなく、重荷を背負いやすくするための手段です。重荷そのものは残っていますが、イエス様のくびきのおかげでその持ち運びがしやすくなるのです。

それとは対照的に、罪のくびきは人を滅びへと引き寄せてしまいます。

「わたしのとがは、つかねられて、
一つのくびきとせられ、
主のみ手により固く締められて、
わたしの首におかれ、
わたしの力を衰えさせられた。
主はわたしを、立ちむかい得ざる者の手に渡された。」
(「哀歌」1章14節、口語訳)。