洗礼と聖餐式

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

牧師が人の頭の上に水をかけて、
「父と子と聖霊の御名によってあなたに洗礼を授けます」、
と言います。
どうして人に洗礼を施すのでしょうか。

それは、イエス様が洗礼を授けるように命じておられるからです。
「洗礼を通して人々を自分の弟子とするように」、
とイエス様はおっしゃっています。

人は洗礼を通してイエス様が成し遂げられたことを自分にもいただけるようになります。
イエス様は私たちに神様の子どもとなる権利と罪の赦しと救いを賜り、私たちが永遠の命の世界に入れるように用意を整えてくださいました。

「洗礼を受ける時、私たちはキリストを着ることになる」、
と聖書は言っています。
イエス様が私たちのために成就された救いの御業が、洗礼を通して、私たちを確実に守ってくれる「防護服」となります。

「水を人に振りかけるだけの儀式がこれほど偉大なことを本当に実現するのだろうか」、
と聖書を読みながらあなたが考えたとしても、なんの不思議もありません。

神様は、人が洗礼を受ける時に働きかけてくださると約束なさいました。
この約束の内容は、神様が洗礼を受けた人をご自分の子どもとし、その人の罪を赦し、その人を救う、というものです。

イエス様は、十字架の死と死者の中からの復活とによって、救いの御業を成し遂げられました。
神様はこの救いの御業を人が自分にもいただくための手段として洗礼を選ばれた、ということです。
ですから、神様がわざわざ洗礼を選ばれたのはその善き御心に基づく深い理由があってのことである、と考えて間違いありません。

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
(マタイによる福音書28章19〜20節)

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フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

私はずいぶん昔に洗礼を受けました。
今の私にとって、洗礼はどのような意味があるのでしょうか。
それとも、意味があるのでしょうか。

少なくとも私にとって、洗礼は非常に大切なことを思い起こさせてくれます。
幼少の頃、私は洗礼を受けました。
その時の私は、洗礼を受けるために、自分で何かを行ったり、能力を発揮したり、無理して頑張ったり、何かを達成したり、自分を変えたりする必要がありませんでした。
少しどころか、まったく必要なかったのです。

あるがままの自分で、特別なことは何も行わず、何もできず、自分をよりよく変えることもないままで、私は神様に受け入れていただきました。
どうしてかというと、イエス様が私のために十字架で死んでくださり、私の罪を帳消しにして、聖なる神様との関係を完全に修復してくださったからです。
私が洗礼を受けた時にそうだったのですから、今でもそれは同じです。
このことを、洗礼は私に思い起こさせてくれるのです。

洗礼の意味を、毎朝自分に思い起こさせてみたらどうでしょうか。
ありのままの自分で、私は神様の家族の一員とされて、天の御国への旅を続けています。
ありのままの自分で、私はイエス様に自らを委ねて守っていただいています。
このことを思うとき、私は気分が楽になり、神様に感謝する心が生まれます。
そして、キリスト信仰者として生活を送る中で、たとえわずかではあっても神様の御心を実現していく力もいただきます。

「私たちが救われるのは恵みによるものである」、と聖書は教えています。

恵みによる救いとは、自分のよい行いには一切関係なく神様の家族の一員に加えられ、ありのままの自分として永遠の命の世界に入れていただける、ということです。 まさにイエス様の救いの御業が、この素晴らしい救いを可能にしたのです。 洗礼を受けてイエス様を信じている人は誰であれ、この恵みによる救いにあずかります。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。 それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」
(エフェソの信徒への手紙2章8節)

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖書によれば、救われるためには洗礼と信仰が必要です。

神様が聖書で言われていることを軽んじるべきではありません。
それは洗礼についてもあてはまります。
さもないと、神様の救いの活動から外れ出てしまう危険があるからです。
ですから、もしも自分も自分の子も洗礼をまだ受けていない場合には、子どもたちに洗礼を受けさせ、自分もまた洗礼を受けなければなりません。

たしかに聖書は、洗礼を受けないまま救われた人々のケースについても、記しています。聖金曜日に、イエス様はご自分と共に十字架にかけられた犯罪人の一人に対して、
「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」
(ルカによる福音書23章43節)、と言われました。
「パラダイス」とは、天の御国のことです。
この犯罪人がそれまで洗礼を受けていなかったのはほぼ確実です。

このように神様は、私たち人間に用いるよう命じられた「恵みの手段」を介さずに、救いの活動を遂行なさることもできます。
つまり、神様は恵みの手段の一つである洗礼を用いずに人を救うことができます。
しかし、 こうした例外的なやりかたは神様ご自身の活動にのみ許されることです。
神ならぬ人間が「洗礼を授けよ」という主の命令を無視してよいことにはなりません。
キリスト信仰者として私たちは、新約聖書の教えに従うよう義務づけられています。
その教えとは、洗礼において人はキリスト信仰者となり神様の子どもの列に加えられる、というものです。

洗礼を受けないままで死んでしまう子どもたちもいます。
このような場合については、自分であれこれ悩まずに、憐れみ深く公正な神様の御手にすべてを委ねましょう。

「(福音を)信じてバプテスマを受ける者は救われる。 しかし、不信仰の者は罪に定められる。」
聖書の(マルコによる福音書16章16節)

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

信仰の問題を真面目に考えてはいるがまだ洗礼は受けていない、そんなあなたに私は次のメッセージを送ります。

洗礼を受けるべきかどうか、今あなたは迷っているかもしれませんね。
そう、洗礼は受けるべきです。
ルター派の教会の牧師に連絡を取り、洗礼を受けたいという希望を伝えてください。
まもなく洗礼準備会に通うことができるようになるでしょう。
牧師の指導のもとにキリスト教の主要な信仰の内容を一通り学んだら、あなたは洗礼を受ける準備ができたことになります。

あなた自身は洗礼を受けたいのに、何かの事情ですぐには洗礼を受けることができない場合もあるかもしれません。
たとえば、未成年のあなたは洗礼を受けるのをご両親に反対されているかもしれません。
洗礼を受けていなくても、イエス様を信じてよいのです。
成人して自分のことを自分で決めることができるようになったら、できるだけ早く洗礼を受けてください。

何かの事情でまだ洗礼を受けていない自分の子どもに洗礼を受けさせるべきかどうか迷っている、そんなあなたに私はこう言いたいです。

そう、子どもにも洗礼を授けるべきです。
ですから、この場合にも、ルター派の教会の牧師に連絡を取って、子どもの受洗について相談しましょう。

「すると、ペテロが答えた、 「悔い改めなさい。
そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。
そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」」。 聖書の(使徒言行録2章38〜39節)

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

洗礼は二度受ける必要はないし、二度受けるべきでもない、と聖書は教えています。
洗礼は生涯で一度だけ受ければよく、その洗礼はいつまでも有効です。
私たち人間が洗礼を受けた後で神様を捨てた場合でも、一度受けた洗礼が常に有効であることは変わりません。
私たちは自分の不信仰を悔い改めて、天の父なる神様の御許に戻ることができます。
神様のほうでも私たちがそのように悔い改めるのを待ち続けておられます。
ですから、主の御許に戻る時、改めて洗礼を受け直す必要はありません。

しかし、再び洗礼を受けたいと思う人や、それを実行してしまった人もいます。
また、再洗礼を勧めて授ける人もいます。
きっと再洗礼を授ける人の多くは、
「人が幼い頃に受けた洗礼は正しい洗礼ではなかった」、
と考えているのでしょう。
しかし、この主張は深刻な内容を含んでいます。
「幼児洗礼を受けた人は、実は洗礼を受けておらず、キリスト信仰者でもない」、
と言っていることになるからです。
「受洗者が意味を理解しないままで洗礼を受けるなら、その洗礼は正しくない」、
などと言う人もいます。
しかし、洗礼は神様の御業です。
当然ながら、神様の御業は、人間の理解度に応じてその正当性が左右されるようなものではありません。
約二千年前、神様の御子が私たちのために死んでくださった時には、私たちはまだこの世に生まれておらず、それゆえ、十字架の意味も理解してはいませんでした。
しかし、私たちが理解していなかったからといって、私たちの身代わりにイエス様が十字架で死なれた御業がそれで無意味になるわけではありません。

洗礼を再び受けた人は正しくない行いをしたことになります。
まちがった行いについては、神様に告白して罪の赦しを願うことができます。
神様は罪を悔いる人に対して、その罪を赦してくださいます。
なぜなら、イエス様がすべての人のすべての罪を帳消しにしてくださったからです。

「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。」
聖書の(エフェソの信徒への手紙4章5節)

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

キリスト信仰者は聖餐式に参加します。
聖餐式はイエス様の命令によってもたれる聖なる会食の場です。
聖餐式が行われる時にはかならず、牧師が聖餐式の設定辞を唱えます。
この設定辞は、エルサレムでイエス様が死ぬ前日の出来事についての聖書の箇所から構成されています。
イエス様はこの設定辞をもって弟子たちと共に聖餐式の時を過ごされました。
そして、後でもこの最初の回と同じ設定辞に基づいて弟子たち(キリスト信仰者)が共に主の聖餐にあずかる機会をよく設けるように、とお命じになりました。

「聖餐式で食するパンはイエス様の体であり、飲むぶどう酒はイエス様の血における新しい契約である」、と聖餐式の設定辞は告げています。
また、マタイによる福音書で、「聖餐式のぶどう酒は私の血である」、とイエス様は教えておられます。
聖餐式が施行されるところにはイエス様の体と血がある、つまり、イエス様ご自身がそこにおられる、ということです。
イエス様は聖餐式の時に特別な形で存在しておられるのです。

聖餐式で、私たちはイエス様に出会い、イエス様は私たちに出会われます。

「イエス様の御許に近づくためにどこに行くべきだろうか」、と思い悩む時には、聖餐式に参加してください。
イエス様は聖餐式に実際におられ、聖餐を受ける者の信仰を整え強めてくださいます。
これは聖餐式がもたらす偉大な奇跡です。

聖餐式に参加しても、「私は今イエス様と出会っている」という実感がいつも湧くわけではないし、むしろそのようなことはあまりないかもしれません。
ここで注意すべきなのは、私たちの感情や感覚がイエス様をどこかに連れて来るわけではないしイエス様がどこかに来るのを妨げるわけでもない、ということです。
私たちがどう感じているかとは無関係に、イエス様は「自分がそこにいる」と約束した場所におられるます。
そして、イエス様は、ご自分が聖餐式の場に共にいることを約束なさいました。
私たちはイエス様ご自身の言葉に基づいて、聖餐式のパンはイエス様の体であり、聖餐式のぶどう酒はイエス様の血である、と断言できます。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、
「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」
聖書の(マタイによる福音書26章26〜28節)

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マルティン・ルターの「小教理問答書」 聖餐の礼典について
「信仰のABC」 聖餐

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖餐式で私たちはイエス様と出会います。
聖餐式の場で、イエス様は多くのやりかたで私たちの世話をしてくださいます。

救い主イエス様には特別な一つの職務があります。
それは、「罪を赦す」という職務です。
まさにこの職務をイエス様は聖餐式で実行されます。
十字架の死によって成就された救いを、イエス様は聖餐式を通じて人々に分けてくださいます。
イエス様の死によってすべての人のすべての罪は帳消しにされ、それぞれの人が必要としている完全な罪の赦しが与えられます。

宗教改革者マルティン ルターは聖書をよく知っていました。
「聖餐式はどのように有益か」、という質問に対して、彼は聖書の教えを次のように要約しました。
「この聖餐の聖礼典で、私たちには罪の赦しと命と救いが与えられます。
なぜなら、罪の赦しがあるところには、命と救いもそこにあるからです」
(小教理問答書)。

聖餐式について聖書が約束していることを信頼して聖餐式に参加し、イエス様の体と血をいただく人は、罪の赦しを受けられます。
洗礼を受けている者に、イエス様が聖餐式を通して、罪の赦しをくださることを、聖書は約束しているからです。(マタイによる福音書26章28節、ヨハネによる福音書6章54節)

これではあまりにも単純で簡単すぎる、と感じる人もいるかもしれません。
しかし、神様の恵みは単純なのです。
本来単純なことを私たち人間のほうで勝手に難しいものにしていることはよくあります。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。」
聖書の(ヨハネによる福音書6章54節)

フィンランド語原版執筆者: 
ヤリ・ランキネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

聖餐式は、洗礼を受けているキリスト信仰者のために用意された礼拝の中での食事です。
たとえば、フィンランドのルター派の教会では、子どもの時に洗礼を受けた人の場合、中学生の終わり頃にキリスト教の教えを系統立てて学ぶ堅信キャンプに参加し、堅信式の礼拝で教会の伝統的な信仰(使徒信条やニケヤ信条)を告白します。
そして、キリスト信仰者として一人前となります。
そのあとは、聖餐式に一人で参加できるようになります。

信徒教育に関してどうして教会はこうした手続きをとるのでしょうか。
その理由は、聖餐式に参加する人に、聖餐式の意味を正しく理解してこの聖なる食事を他の飲食から区別する大切さをあらかじめ教えておくためです。
洗礼を受けた子どもたちは、聖餐式について家庭で正しく教えられている場合には、自分の両親や教保(受洗者の信仰的成長を支えるために選ばれる先輩のキリスト信仰者)と一緒に聖餐式に参加して、イエス様の体と血をいただくことができます。
それ以外の人々、たとえば、洗礼を受けていても聖餐式の意味をまだ知らない子どもや洗礼を受けていない人は、聖餐式で牧師から神様からの祝福を受けることができます。

聖餐式に参加するのは「敷居が高く」感じられる場合もあります。
「敷居」とは、人の心の中にある妨げのことです。
「私は聖餐式に参加する資格がないのではないか」、
「私はもっと自分を高めなければならないのではないか」、
「私はもっと強い信仰をもつべきではないのか」、
などと逡巡する場合があります。

しかし、このように考え始めたらもうおしまいです。
聖餐式は、私たちのもつ美点を誇示する場所などではありません。
聖餐式は、信仰生活が順調な人々の集うサロンなどではありません。

まったく逆です。

聖餐式は、罪の赦しを必要としている人のために設定されています。
聖餐式では、罪深い者の友なる救い主が、信仰生活で失敗を重ねてきた人を憐れんでくださるのです。
聖餐式は、罪の赦しを必要としているすべての人のために備えられています。

その一方で、聖餐式は、イエス様を必要としていない人のためのものではありません。

「キリストの体を食べ血を飲むことで、逆に自分に裁きを招く場合も起こりうる」、と聖書は警告しています。
当時この警告を受けたのは、御子の体と血をいただくことを意識しないで不用意に聖餐式に参加した人々でした。
当時、聖餐式のパンとぶどう酒を他の飲食物と区別しないで、ただ飲み食いし酔ってしまった人々がいたのです。
「キリストの体であることを意識せずに主の聖餐にあずかる者は、キリストの体と血を食することで、逆に裁きを受けることになる」、とパウロは書いています。

この警告は、「善人でない者や信仰が強くない者は聖餐式に参加してはいけない」、というように理解される場合がありますが、上に述べたようにそういう意味ではありません。

「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
聖書の(コリントの信徒への第一の手紙11章26節)