偶然か創造か?人生の意味は何でしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
リーサ・ロシ(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

生きる意味を見いだす。
これは、人間なら誰しも必要だと感じていることでしょう。
たとえば、何かよいことをしたり、自分にとって大切な人がいたり、仕事をしたり、人生を愉しんだり、知恵を探求したりすることのなかに、生き甲斐を見つけようとする人は多いのではないでしょうか。

実は、「本来人間は神様と一緒に生活するために造られた存在である」、という視点から人生を考察する時にはじめて、真の生きる意味が見出されるのです。

天地の造り主なる神様は私たち人間のことも創造なさいました。
私たちが造り主なる神様との関係を無視することは本来あるべき状態ではありません。
神様を無視し続ける限り、私たちの生活には何か大切なものが欠けたままになっています。
人生で最も大切な目標は、本来私たちが造られた場所で生活するようになることです。
その場所とは、神様のお住まい、「天の御国」のことです。
その場所には、私たちを神様から引き離そうとする罪や悪がまったく存在しません。

私たちが生きて行くためには、イエス様を正しく知ることがなによりも大切です。
イエス様こそが唯一の真の命だからです。
イエス様への信仰を通して、私たちは「その場所」へ、天の父なる神様のお住まいである永遠の命の御国へと入れていただけます。

このように、私たちの人生の最終的な目的は、私たちの造り主なる神様と天の御国で一緒に永遠に生活することです。
とはいえ、この世で過ごす私たちの人生も無意味な時間ではありません。
私たちはこの世にいる間、神様に愛され、神様を愛し、神様の愛を周りの人々に広げていくことができるからです。

「目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
聖書の(フィリピの信徒への手紙3章14節)

神様、どうしたらよいか私がわからなくなった時には、歩むべき道をお示しください。
フィンランド語原版執筆者: 
リーサ・ロシ(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

あなたが今この文章を読むのに使っているコンピューターやスマートフォンなどのことをしばらく考えてみてください。
そしてここに、「この機械は偶然の産物だ。しかるべき部品の集合がたまたま互いに正しく組み合わされてできたものにすぎない」、と言い張る人がいたとしましょう。
あなたはその人の言うことを信用しますか。
むしろ、誰かがこの機械をある特定の目的のために緻密に設計して製作したことにすぐに気づくのではありませんか。

今度は、私たちが住んでいる世界や、生物一般について考えてみてください。
それらは、スマートフォンなど現代技術が生み出したどの機械よりも、はるかに繊細で精確な組織体だと言えるでしょう。
人間の身体も驚異的な精巧さで構成されています。
このようなものが偶然の産物であるはずがありません。

たしかにこの世界は、混沌に満ち破壊や消滅も引き起こす大宇宙として人間の目には映るかもしれません。
しかし、それら万象の背後には、万物を造られた創造主がおられるのです。
人間にとって、この創造主は理解しがたい不思議な存在かもしれません。
実はこの方は、すべての人間を愛しておられる天の父なる神様でもあります。
そして、ご自分についてキリストを通して人間に告げ知らせてくださったのです。

私たちを取り巻く世界や私たち自身が現にこうして存在しているのは、造り主なる神様がそう望まれた結果なのです。
神様は、被造物が本来の目的に沿って活動するように働きかけてくださいます。
神様と一緒に生活するために創造された人間の本来の生き方を、ここで思い出しましょう。

何事も偶然などではありません。
森羅万象に関して神様の細心の配慮が隅々にまで行き届いているからです。
すべての人間の生命もまた偶然の産物ではありません。
あなたが今こうして存在しているのは、神様があなたについてそう望まれたからなのです。
あなたの生命は、神様の周到なご計画と偉大な愛が生み出した立派な作品です。

「はじめに神は天と地とを創造された。
(中略)神はまた言われた、
「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
(中略)神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。」
(聖書の創世記1章1、26〜27、31節)

神様、あなたの賜物を見ることができるように、私の目を開いてください。 あなたに感謝できるように、私の口を開いてください。 あなたを賛美できるように、私の心を開いてください。
フィンランド語原版執筆者: 
リーサ・ロシ(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

大部分の人間は、なんらかの神的な存在、人間の力を遥かに超えた高度な力をもつ存在が実在することを信じています。
「この世界が生まれる起源となった何者かがいる」、と。
「善悪に関する普遍的な感覚を人間存在に付与した何者かがいる」、と。
「大いなる力によって歴史の成り行きを左右してきた何者かがいる」、と。

無神論者でさえも、彼らなりに世界の成り立ちや人間が存在する理由を説明する基本原理をもっています。
彼らはこの原理を至高の権威と見なし、それに全幅の信頼を寄せます。
いわば、この原理が彼らの「神」なのです。

神的な存在について漠然とした予感や意見や確信をもつだけでは、「神様とは誰であり、どのような方か」、「どのようにして神様を知ることができるのか」、といったことについては何もわからないままです。
神様について人間が知っておくべき必要十分な知識は、神様の御言葉である聖書を通して、神様ご自身が教えてくださいます。

神様は大いなる方であり、隠された方です。
私たちは、罪という致命的欠陥をもつ人間の理性に頼ろうとするかぎり、いつまでたっても神様を正しく知るようにはなりません。
私たちは、神様がご自分について知らせてくださった聖書の啓示に信頼するべきなのです。

神様は世界を創造なさり、今もそれを支配しておられます。
それだけではありません。
神様はイエス様を通して人となり、この人間世界の只中に来てくださいました。
そして、私たちを罪から救い出してくださったのです。
この方をおいて、他にはどのような神的存在も存在しません。

   詳しく見る、信仰のABC、第1章 信仰とは何でしょうか?

「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、
「わたしはアルパであり、オメガである」。」
( 聖書のヨハネの黙示録1章8節)

神様、あなたは私の願望や恐怖が反映したたんなる想像の産物などではなく、たしかに客観的に実在しておられる方です。 ですから、どうか私のことに耳を傾けて、私にお答えください。
フィンランド語原版執筆者: 
リーサ・ロシ(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

この世界や自分の身の回りで起こる不幸な出来事やひどい苦しみを目にするとき、
「神様は本当に全能なのだろうか。私たちを愛しているのだろうか」、
といった疑問が私たちの心の中に忍び込んできます。
そのような場合にも、私たちは神様の御言葉に基づいて物事を判断するべきです。
御言葉は人間の理性よりもはるかに信頼できるものだからです。

聖書によれば、神様は全世界を支配する主の中の主、王の中の王です。
神様はすべてを見ておられ、すべてをご存知です。
神様の許可なしには何事も起きることがありません。

最初の人間たち(アダムとエバ)が神様に対して不従順の罪を犯し、その結果として、サタン(悪魔)がこの世界で力を振るうようになりました。
とはいえ、神様の許される範囲を超えて悪魔の力が働くことはありません。
サタンの敗北はすでに確定しています。
神様の圧倒的な力を前にしては、サタンといえども無力だからです。
イエス様は、十字架の死と死者の中からの復活とによって、あらゆる悪の力にすでに勝利しておられます。

神様のなさる御業の本当の意味や目的が人間には理解できない場合がたしかに多いです。
それでも、神様はすべての出来事を力強い御手によって支配しておられる、と私たちは信頼してよいのです。
全能なる神様は、物事の全体を完全に見通しておいでです。
そして、私たちにとって何が本当に最善なことであるか、ご存知です。
御言葉によって世界を創造なさった神様にとって、この世界の成り行きの隅々にまで注意を行き届かせることは、もちろん可能です。
聖書によれば、全世界が全能なる神様の偉大さを目にする時がいつか必ず来ます。

   詳しく見る>>「信仰のABC」 神の永遠性と全能性

「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。
主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。」
(聖書のイザヤ書40章28節)

主よ、あなたは全能です。 この揺るがぬ事実の中に、私が自らの安全と希望の礎を見いだせるように、お計らいください。
フィンランド語原版執筆者: 
ヴィッレ・アウヴィネン(フィンランド神学協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

正しく言えば、人間は神様を見つけることができません。 神様のほうで人間を探して見つけてくださるのです。

神様は、人間には近づくことが許されない「いと高き場所」に住んでおられます。 わざわざ神様ご自身が、そこから私たちを探すために私たちの近くに来られるのです。

神様は、「恵みの手段」を通じて私たちのところに来てくださいます。
恵みの手段とは、神様の御言葉、洗礼聖餐懺悔(ざんげ)のことです。
それゆえ、私たちは神様を恵みの手段を通じて探すべきなのです。

もしもあなたがすでに洗礼を受けており、洗礼の本当の意味を改めて学び直したい場合には、キリスト教の基本をまとめた「小教理問答書」の説明を参考にしてください。
もしもあなたがまだ洗礼を受けていない場合にも、この説明の学びから始めてください。

また、聖書を読むこともお勧めします。
新約聖書の福音書から読み始めてください。
そして、礼拝に参加できるルター派のキリスト教会を探してください。
礼拝では、他の礼拝参加者と一緒に、自分の罪を告白し、罪の赦しの宣言を受け、聖書についての教えを聴くことができます。
聖餐式では、最も身近に神様と接することができます。
聖餐式では、神様の御子がパンとぶどう酒を通して私たち人間と出会われるからです。
聖餐のパンはキリストの身体であり、聖餐のぶどう酒はキリストの血です。

「わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする 。」
(聖書のエゼキエル書34章16節より)

神様、私はあなたを見つけたいのです。 私があなたを探すのを助けてください。