神様の永遠性と全能性

3.4. 神様は永遠なるお方です

「永遠」とは「はじまりもおわりもない」という意味ではありません

 「神様の永遠性」とは神様には始まりも終わりもないという意味である、と説明されることがしばしばあります。神様は今までいつも存在したし、これからもずっと存在するだろう、という考え方です。しかし、これはまったく不十分な説明です。その前提には「時間とは今まで常に存在しこれからも常に存在する永遠な何かであろう」という考えかたがあります。そして、神様とはこの無限の時間の中の無限の広がりをもった何者かである、などと説明されるのです。

 しかし、時間はこの世界に属する性質です。科学はこのことを理解するのを助けてくれます。すなわち、「時間とはこの世界の物質の有する特質のひとつであり、三次元空間の世界に結びついている第四次元の広がりである」と推定する科学的根拠があるのです。時間はこの世界の物質に分ちがたく結び付いている特質であり、あらゆる場所で同じように時を刻む絶対的な指標ではないのです。

 キリスト教の信仰によれば、神様が全宇宙を創造なさったのです。そして、その際に時間も創造されたのです。神様は「時の始まりの前に」存在なさいました。聖書は世界の歴史の終わりについて「もう「時」(ギリシア語で「クロノス」)が存在しない」(「ヨハネの黙示録」10章6節)と証言しています。

 時間と空間の世界に束縛されている私たち人間は、神様が時間を超越する存在であることがどういう意味なのか完全には理解できません。神様は空間より上方におられ、そこから地上を見下ろしてすべてを御自分の目で追跡なさるので、この世のあらゆる出来事は一様に神様の傍で起きていることになる、と考えるのは比較的容易でしょう。私たち自身、世界を長さと高さと幅を計測できる三次元空間として経験できるので、「空間より上方におられる神様」というイメージは人間にはある程度まで具体的にも感覚できるものなのかもしれません。しかしそれと同様に、私たちは神様が時間より上方におられるお方であることをも明確に認識しなければなりません。前述のイメージを用いるなら、いわば神様は歴史という長い織りかけの織物を時間世界の上方からご覧になっておられるのです。過去も現在も未来も同じように神様の傍にあります。私たち人間にとっては時間世界の中ではやり直しがきかない一回的な出来事の長大な連鎖に見えることも、神様の御目には同じひとつの大きな出来事であり、神様はその出来事のそれぞれの過程に等しく働きかけることができます。ここで、もうひとつのイメージを用いて不十分ながらも説明を試みましょう。時間の外に存在し全被造物を全能によって包み込んでおられる創造主にとって、世界の歴史の歩みとは、芸術家が思いのままに整理し配置して最終的には計画通りのイメージを形成するために用いる非常に多数のモザイクピースのようなものです。そして、創造主に祈る人は誰であれこのモザイクの構成に関与することになります。彼らは創造主に祈りが聴かれることを知っています。そして、彼らに起こる物事すべてを祈りの答えとみなします。たとえば手紙が届くこと、客の来訪、経済的な援助を受けることなど彼らが祈るよりも前にすでに用意されていた事柄も含めて、神様から彼らへの祈りの答えととらえるのです。

 「神様の永遠性」とは、神様はいかなる瞬間においても御自分の支配力を及ぼすことができることだ、と短くまとめることができるでしょう。

 「神様の全能性」が一般の人々の関心を惹きつける場合があります。たとえば、それは彼らがこの世の悪と苦しみの問題に直面した時などに起こります。しかし、この問題は天地創造と関連して扱ったほうがよいテーマなので、今はとりあえずこれ以上深入りしないことにします。そのかわり、ここでは神様の全能性に関わるもうひとつのことについて語る必要があります。

3.5. 神様の奇跡について

「説明がつかない事柄はあるが奇跡などは存在しない」というのが科学的な視点です

 ふつう「奇跡」という言葉は自然界の法則と矛盾するように見える出来事のことを意味しています。しかし、こうした定義ではキリスト教的にも科学的にも不十分です。もしも科学者が今までの私たち人間の経験に対して挑戦を突きつける不思議な現象に出会うなら、その観察が本当に正しいかどうか確かめようとするでしょう。そして、観察自体は正しいことに気づく場合には「今のところ説明がつかない現象が起きた」という科学的結論を下すことでしょう。科学者はここで「奇跡が起きた」と言っているのではありません。医者は「ある病気がある時に予期しなかった症候を示した」と診断するだけのことです。このように、神様を意識的に否定する人たちにとっては、神様が物事の推移に働きかけたことを科学的に証明できるほど「奇妙な出来事」はひとつも存在しないのです。たとえ科学者の目の前で何もないところから新しい物質が形成されたとしても、科学者は「今まで知られていない自然界の力が存在する」という以外のことを考える必要はないのです。

奇跡とは神様の特別な働きかけが実在することを示す「しるし」(目に見える証拠)です

 人がある出来事を「奇跡」としてとらえるのは、神様が存在することをその人が何らかの理由から知っており、神様はこの世の出来事に働きかけておられることを信じているからです。キリスト信仰者は奇跡という言葉で何かの「しるし」であるような出来事を意味しています。しるしを通じて神様は御自分がまさに今ここで活動する神であることを私たちに語りかけ示されるのです。

 私たちがとりわけ「奇跡」とみなすのは、起きないはずのことが起きてしまったときに神様が御自分の力を示す何らかのやりかたによってその出来事に働きかけたことがはっきりわかる出来事のことです。祈りが説明しがたい不思議な助けによってかなえられたり、治る見込みがないと診断された病気が治ってしまったりすることなどがその例です。しかし、奇跡にはたんに幸運な偶然が重なっただけのように見える出来事も含まれています。多くの人はそれを「とても運がよかった」としか考えません。しかし、キリスト信仰者にとってそれは神様の働きを証するものなのです。広い意味での奇跡には、神様が共におられることや神様の力の経験を私たちに提供してくれる「神様のあらゆる働き」が含まれています。その意味では、花の美しさ、夕暮れ時の山並みの景色、「マタイ受難曲」の魅力的な演奏などもすべて「神様の奇跡」であるということができます。

奇跡は、それが奇跡であることを信じようとしない者を納得させることがありません

 「神様の奇跡」に関しても、神様について語ったのと同じことがあてはまります。すなわち、神様の真の実在に対して無感覚な人たちがいる、ということです。信じる者にとって奇跡は神様の御業です。しかし、信じない者にとってそれは「説明が難しい奇妙な出来事」にすぎません。不信仰な者にとって奇跡のもつ意味について聖書は次のように語っています。「彼らにはモーセと預言者たちがいるではないか。彼らは彼らの言うことを聴けばよかろう。もしも彼らがモーセや預言者たちのことを聴かないのなら、誰かが死者からよみがえったとしても彼らは信じないだろう」(「ルカによる福音書」16章29、31節)。

 キリスト信仰者は奇跡を信じています。そして、いつもあらゆる出来事に働きかける神様が「私たちへの挨拶」として何か特別な出来事(奇跡)を私たちのために時々行うことがありうると思っています。このような神様の働きかけは通常は科学的にも説明が可能な自然法則の範囲内で行われます。しかし、キリスト信仰者は、自然のあらゆる法則の上方におられる神様は自然法則を破ってでも自ら望まれることを遂行できることを知っています(「詩篇」115篇3節)。

 時間と空間に束縛されている私たち人間にとって、私たちには原因と結果の連鎖に見えることがどのようにして同時に神様の独立した御意志をあらわしているのか理解するのは困難です。しかし、神様が時間の上におられることを私たちはすでに述べました。このことからさらに、神様は原因と結果の法則の上方におられることが帰結します。私たちの目には互いに結合し依存し合う連鎖のように見える諸事象は、神様の御前では、いつか完成するはずの芸術作品の一部をなすモザイクピース群なのです。