神の聖さと愛

3.2. 神様は聖なるお方です

「聖」という言葉は神様にのみふさわしいものです

 神様のみが聖なるお方です(「ヨハネの黙示録」15章4節)。それゆえ、「聖」という言葉がもつ意味を説明するために比較例としてとりあげたり研究したりできるような対象はこの地上には一切存在しません。この世で何か(律法、神殿、キリスト信仰者、教会など)が聖であると言われる場合には、その聖性は神様御自身に由来しているので、それだけを分離して客観的に研究したり描写したりすることはできないのです。「聖」という言葉は「神様を神様とするもの」すなわち「神様を他のすべてのものから分かつもの」を意味しています。こういうわけで、神様の聖性の意味を説明したり描写したりすることを可能にするような言葉やイメージを見つけるのは困難なのです。人は神様と個人的に出会った後にようやく「神様は聖である」という意味をおぼろげながら知ることができるようになります。

 「聖」という言葉が「罪のない」という言葉で置き換えられることがあります。しかし、こうした考えかたの背景には「善であり正しいと人間がみなしているすべてのことを集約した完全な存在が神様である」といった道徳観が暗黙に前提されている場合があります。実は、この視点に立った場合でも、神様はどのような存在でなければならないかを明確に断言することができません。人間の理解する真や善の基準によって神様の真性や善性が決まってくるのではなくて、逆に、神様から学ぶことを通して、何が善くて何が正しいか、私たち人間は知るようになるからなのです。何事でも自己流の見方に固執する人々にとっては驚愕するほかないようなやりかたで、神様の本質が示されることがしばしばあります。彼らには神聖なる神様がそのように驚嘆すべきやりかたで実際に活動できることがわからないのです。人間の勝手に作り上げた神のイメージと神様御自身の働きかけのありかたが矛盾していることもよくあります。人間による神のイメージは人間自身の抱いている理想や希望を投影したものに過ぎないものだからです。

 もしも神様の本質を学びたいなら、聖書の啓示をよく知らなければなりません。そして、私たちが聖書で出会う神様がどのようなお方であるか、明確にさせなければなりません。しかし、言葉や事象はその描き出している真実を個人的にも経験しないうちは、空疎で理解不能なものに留まることが多いものです。神様について語る場合にも、このことに自覚的であるべきです。聖書の啓示が神様について教えている内容を簡潔に叙述する際にも私たちはこのことを覚えておきたいと思います。

神様の栄光について

 神様が聖書で描かれるときには「栄光」や「光輝」などと訳される言葉が常に繰り返されています。これらはもともと同じ単語であり、ギリシア語では「ドクサ」、ラテン語では「グロリア」といいます。この言葉は神様の聖性の場合と同じく、容易に説明できない独特な内容をもっています。「栄光」とは神様の本質の放つ光です。それは神様の周囲の一切のものを幸福と賛美で満たします。栄光は人間の目には耐えられない光、セラフィムも顔を覆い隠すほど眩い光としてイメージすることができるでしょう(「イザヤ書」6章2節)。栄光はその輝きによって、この世のすべてが汚れにまみれている現実を容赦なく露呈させてしまいます。この「光輝」に人は恐れをなして身を隠したくなる場合もあります。それは私たちの目を眩ませて一切を貫通するような非常に強い光です。しかし一方で、それは私たちを至福で満たす、絶えざる賛美の合唱へといざなう光でもあります。

 この地上で私たちは、この世と天国の間の「神殿の幕」(「マタイによる福音書」27章51節)が瞬間的に脇にのけられるごく稀な状況においてのみ、この栄光の反映の一端を霞んだ目でかろうじてとらえることができます。この「主の栄光」はイエス様がこの世に降誕された夜に羊飼いたちを包みました(「ルカによる福音書」2章9節)。「栄光の山」で弟子たちは驚愕と感激に包まれてそれを目撃しました(「マタイによる福音書」17章1節以降)。キリストを信仰の目で仰ぎ見るとき、同じ栄光が今もなおキリストの御顔に輝いているのです。

 私たちが神様の栄光と光輝の本質を推し量るのは「人間が愛し求めるのにふさわしい、すべてにまして最も高きお方」として神様を理解する試みであるともいえます。人がこのような理解をもつとき、「神様をそのような存在として受け入れることで何か利益があるのか」という自己中心的な思いは退きます。人間はたとえすべてを失ったとしても、神様が神として存在なさっていることは真の幸福と豊かさなのです。神様の実在はあらゆる状況において、私たち人間の存在に深い意味付けを与えます。 「たとえ全世界が荒れ果てても神様は神様です。たとえ人間すべてが死に絶えても神様は神様です」(ノルウェーの教会の賛美歌の一節)。

神様は測り知れないお方です

 神様は測り知れないお方です。天は地よりも高いところにあります。それとは比べものにならないほど神様の道は私たち人間の歩む道よりも高いところにあります(「イザヤ書」55章9節)。遠く離れたところから神様について思索しようとするかぎり、この測り知れなさは私たちを苦しくします。神様は謎に包まれた存在として立ち現れ、その不可解さのゆえに人は驚愕と不安を覚えるのです。

 ところが、人が神様の近くにいる場合には、神様の測り知れなさはもはやたんなる不可解さではなくなります。神様は何が私たち人間にとって最善かご存知であり、その実現を望まれていることを私たちは理解します。ですから、私たちは神様がすべてを知っておられることに信頼を置いて、答えが得られないような疑問は放置してよいことになります。これは、人間には理解できない不可解なことを無理に解きほぐそうとはせずに神様の御心に委ねる、ということだけではなく、ある種の安全性も考慮した姿勢なのです。測り知れないお方である神様は万事において真心から配慮してくださっていること、神様は万事を善き御心に基づく計画の中に包み込んでおられること、また、私たちには荷が重すぎることを身代わりに負担してくださっていることを私たちは知っています。「主はすべての道において義しく、すべての御業において恵み深いのです」(「詩篇」145篇17節)。神様の栄光と同じく、神様の本質の測り知れない深さもまた私たちを魅了し感動させます。

 神様との出会いというキリスト教的な経験には、まさしくこの神様の測り知れなさのゆえに人が神様を賛美するようになるという特質があります。

 人間的な忍耐力の限界を超えるかと思われるほどの数々の辛い試練の末にようやく神様御自身との出会いを果たした時、ヨブは自分が抱えていた疑問に対してはいかなる理論的な解答も得ませんでした。それにもかかわらず、彼は自らの期待をはるかに上回る経験をしたのです。究めがたいことにも意味や目的を付与される神様の偉大さと栄光とをヨブは直に体験したのです。「私はあなたのことを耳で聞いておりましたが、今は私の目であなたを見ております。それゆえ私は(自分の言葉を)否定し、塵と灰の中で悔います」(「ヨブ記」42章5~6節)。

 それと同じことがパウロについてもあてはまります。選ばれた民でありながらも道を踏み外したイスラエルに対して神様はどのような御計画があるのか、という難問を考え抜いた末に、パウロはまさしくこの神様の道の究めがたさのゆえに神様への賛美の心で満たされていくのです(「ローマの信徒への手紙」11章33節以降)。

 イエス様御自身についても私たちは同じような例を見出すことができます。天と地の造り主なる神様が真理を知恵のある者や賢い者から隠して幼子たちに啓示なさったことについて、イエス様は御父様を賛美しておられます(「マタイによる福音書」11章25節)。

神様の熱情について

 さらに、神様は「熱情の神」でもあります。私たちは神様のことを「焼き尽くす火」として経験する場合があります(「ヘブライの信徒への手紙」12章29節)。神様の熱情は汚れたものや自己中心的なもの一切を滅ぼします。しかし、私たち人間が恐れを抱くのが当然であるこの熱情は、それが創造的な善いものであることがすぐさま看取できる特徴を多く備えています。神様の熱情は神様の愛と結びついています。旧約聖書に登場する「熱情」を意味する言葉は「嫉妬」をあらわすためにも用いられます(「出エジプト記」34章14節)。神様の愛はその愛の対象を「御自分のものとする」という特質があります。ですから、神様の愛は神様がその愛の対象から拒否されることやその愛の対象を他のものと共有することを望みません。これが神様の嫉妬なのです。これと同じ考えかたは新約聖書にも見出されます。「それともあなたたちは「この方(神様)は私たちのうちに住まわせてくださった御霊を妬むほどに愛しておられる」と聖書が意味もなく言っていると思うのですか」(「ヤコブの手紙」4章5節)。神様の命と幸いとにあずからせることを目的として、神様は私たち人間を造ってくださいました。また、神様は私たちが神様と神様に反対する諸力とを同時に愛することを望んでおられません。もしもこの方が私たちの父なる神様であるのなら、この方のみが神様でなければならないのです。「私はあなたの主なる神です。あなたには私の顔前で他の神々があってはなりません」(「出エジプト記」20章2節以降)。

 これまで私たちは「神様の聖さ」を描き出そうとしてきました。そして、その過程で私たちは神様の本質のもうひとつの面に幾度も出会いました。その面とは「神様の愛」です。

3.3. 神様は愛です

神様の愛は人間の愛とは似ていません

 「聖」という言葉とは異なり「愛」という言葉は私たちにとって馴染み深い表現です。それゆえに、神様の愛がどういうものか自分は当然知っている、と思い込んでいる人がしばしば見受けられます。しかし実際には、彼らの神様のイメージが「聖書の神様」とはかけ離れたものである場合がよくあります。人間的な愛は、自分の思惑通りに事が運んだり、他の人に幸福を望んだり、他の人々と一緒にいることを願ったりする、といったかたちをとります。それらを実現するためなら、私たち人間は自分の要求や希望について、必要とあれば、本来の自分や、自分に合った生き方についてさえも妥協するものです。

 このような人間的な愛と神様の愛との間には共通した特徴があります。神様も私たちに幸福を望んでおられ「私たちと共にいたい」と願っておられます。しかし、両者が似ているのはここまでです。神様は常に神様のままなのであり、私たち人間と一緒にいるために神様の本質を捨てて他の何かに変身することはありません。また、私たち人間の抱いている希望や計画が、私たちに永遠の命を与えるために神様が定めた目的と矛盾している場合には、神様がその実現を後押しすることで私たちに「神様の善さ」を示すことはありえません。神様は御自身のもつ命と幸福を私たちが周囲の人々にも分かち合えるようにするために、私たちをお造りになったのです。ここで、どうすれば私たちはこの御心の通りに生きることができるのか、という問題がでてきます。というのは、すべての人間のうちには神様に反抗する心があり、また大がかりな反乱へと人々を駆り立てようとする悪の諸力も常に策動しているからです。神様は人間の理解を超えた愛を私たちに絶えず注いでくださっています。このことは、神様が前述の問題を解決するために御子イエス・キリストを私たちの救い主として遣わして、人間には不可能なことを可能にしてくださったところにはっきりと表れています。

 これは人間がふつう神様から期待する内容とはまったく異なっています。「神様はおおらかな方にちがいない。たとえ私たちが神様のことに関心を持たなくても、結局は私たちを赦して私たちが永遠に不幸な者とならないように守ってくださるであろう」などと勝手に決め込んでいる人が多いものです。私たちは何か不幸を経験した人が怒りながら神様を責めたてるのを耳にすることがあります。そういう人たちは彼らを不幸から守る保険として神様を利用してきただけで、本心では神様を無視した生活をしてきた場合がしばしばあります。そして、いったん不幸に遭遇すると「自分の被ったこの不幸は神の愛とどう調和するのか?」などという疑問を発するのです。

神様が御子を私たちに賜ったところに神様の愛が啓示されています

   しかし神様の愛は、ふつうの人間的な経験に基づくかぎりは明瞭に理解できるものではありません。神様が愛であることを語る新約聖書の次の箇所では「神様はそのひとり子を世につかわされました。それは、彼によって私たちが活きるようになるためです。ここに私たちに対する神様の愛があらわれています」(「ヨハネの第一の手紙」4章8節以降)と言われています。すなわち、神様の愛は「啓示」としてあらわれているのです。啓示であるがゆえに、神様が知らせてくださらないならば、このことについて私たちは何も知ることができないのです。神様の愛について私たちは、神様は私たちにそのひとり子を与えてくださったという知識を聖書から得ることができます。「私たちが神様を愛したのではなく、神様御自身が私たちを愛してくださって、私たちの罪のための贖いとしてその御子をお遣わしになりました」(「ヨハネの第一の手紙」4章10節)。

 神様はすべてを御自分で遂行なさいました。そして、最愛の御子をも十字架の死から救い出しはなさいませんでした。それはどうしてでしょうか。もしもそうしなければ永遠に救われないままになってしまったはずの「子どもたち」(私たちのこと)を救い出すためでした。このことから私たちは神様の愛の本質を知ることができます。神様の愛とは、神様は真心から人々を愛してくださっているということです。私たちが神様を受け入れない場合に、神様は平静ではおられません。おとなしく身を引くこともありません。成り行きに任せることもありません。また、私たちが誤った選択をした結果生じた不幸を私たちが自分で抱えて苦しみ続けるように放っておくこともありません。「エフライムよ、どうして私はあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ、私はどうしてあなたを見捨てることができようか。どうして私はアドマのように引き渡すことができようか。どうして私はあなたをツェボイムのようにすることができようか。私の心は私のうちに湧き返り、同時に私は憐れみで胸が熱くなっている」(「ホセア書」11章8節)。

 しかしその一方では、傲慢で自己中心な人間を神様がそのまま御自分の御許へと受け入れることもありえません。神様の愛がそうさせないのです。神様の愛はその愛を拒絶したりそれと戦ったりする者皆に対しては「燃え上がる火」として立ち現れます。神様の愛の本質には、愛が愛以外の何かに変わることはできないことも含まれています。

 神様の愛は「自らを犠牲にして人間に届けられる愛」また「永遠の命を失った人々の悲惨な状態を我が事のように受け止めてくれる愛」として到来しました。この愛は神様から離れてしまった人々のもとにまで下降してきて、彼らの苦しみと不幸な境遇を共に担ってくれます。この愛はへりくだり、地面に足蹴にされ、さげすまれ、愚弄される危険にも甘んじます。強い忍耐をもって、この愛は神様と人間とを分け隔てている深い溝の上に橋を架けることができたのです。

 神様の愛の目的は私たちを再び「神様のもの」として勝ち取ることです。それは決して私たちが自らの希望をすべて叶えることではないし、自らの行動のせいで招いた不幸な結果から私たちが守られるということでもありません。たしかに神様はこうしたことを行ってくださる場合もときにはあります。たとえば、絶望した私たちが神様への愛をまったく失ってしまっている場合などにはそうしたこともありえます。もしも神様が人間の願いをすべて叶えてしまうなら、その人はすべてに成功して高収入の仕事と家族の幸福を手に入れることでしょう。しかしそうすると、人間はそれらこの世的な幸福に心をすっかり奪われて神様を忘れ去ってしまうことでしょう。人がまだ救われる希望があるかぎり、神様の愛は私たちに神様への愛と信頼をもたらそうと努めて止むことがありません。それゆえ、神様は独特の仕方で事を運ばれるのです。神様はそのための手段として逆境や病気や個人的な悲しみなどさまざまなことを用いられます。人間の自己中心的な視点からすると、それらは人間的な意味での愛とはまるで正反対のものに映ることでしょう。

 

「聖さ」と「愛」は同じ内容の異なる側面を表しています

 神様の聖さと神様の愛とは神様の二つの異なる特質ではありません。実はそれらは同じ本質の別の側面なのです。愛は聖さでもあり、聖さは愛でもあります。それゆえに、人は神様の愛を避けるべき恐ろしい「燃え上がる火」として経験することがあるのです。神様の愛が人々を探し回っているとき、彼らのほうでは怖くなって逃げ出してしまう場合もあります。それでも、逃避行を続ける中で彼らが奇妙な望郷の念(すなわち永遠の命の世界(天の御国)への郷愁)を覚えることはあるでしょうし、「自分は所有するべき尊い何かを失ってしまっている」と感じることもあるでしょう。

 神様に関して言い表すことのできる他の多くの事柄も、実のところ、神様は聖さであり愛であるという主旋律の変奏に過ぎないことがあります。それでは次に、神様の他の二つの本質を取り上げてじっくり考えることにしましょう。それらはやっかいな問題を引き起こす場合がよくあるからです。