なぜイエス様は十字架で死んだのでしょうか。

フィンランド語原版執筆者: 
シルッカリーサ・フフティネン(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

イエス様は教えと行いによって、ご自分が「天の御国から来た神様の御子」であることを示されました。
それに対して、ユダヤの宗教的指導者たちは、「自分を神の子だと言うこのイエスは神を侮辱している。したがって、旧約聖書のモーセの律法に基づき、彼は死刑に処せられるべきである」、と主張しました。
ところが、当時のユダヤ社会はローマ帝国の支配下にあったため、死刑の判決を下し実行する権利を有するのはローマ人だけでした。

当時のユダヤ地方の政治的支配者だったローマの総督ポンテオ・ピラトは、ユダヤ人の間の宗教的な論争自体には関心がありませんでした。
彼にとって大事なのは治安の問題でした。
当時のユダヤには、メシア(救世主)を自称するユダヤ人教師たちが何人も現れました。
彼らは弟子たちを扇動してローマ皇帝に対する反乱を企てました。
そのような反乱グループの首領の一人とみなされて、イエス様はピラトの前で訴えられたのです。
福音書によれば、ピラトはイエス様をどう裁いたものか確信が持てず、ためらいました。
しかし、最後にはユダヤ人たちのおどしと圧力に負けて、イエス様に死刑の判決を下してしまいました。

イエス様の十字架への極度に苦しい道のりを福音書で読む人は、「イエス様のように無垢な善い方がどうしてこれほどまでに酷い死に方をしなければならなかったのか」、という 疑問をもつのではないでしょうか。
どうして神様はご自分の御子を救うために何もなさらなかったのでしょうか。
「イエスは有罪だ」と主張する偽証者に対して、どうしてイエス様は弁明されなかったのでしょうか。

これらの疑問に対する一番よい答えは、旧約聖書のイザヤ書53章にあります。
このイザヤ書がイエス様の十字架刑の500年以上も前に書かれたものであるのは、実に不思議なことです。
この箇所や他の多くの聖書の箇所に基づいて、「イエス様が十字架で死なれたことは神様の救いのご計画によるものであった」、とキリスト信仰者は信じています。
人間は自分自身の罪深さのゆえに「永遠の死」という罰を受けるのが当然の存在でした。
しかし神様は、人間の罪の罰を肩代わりさせるためにご自分の御子を人としてこの世に遣わし、十字架で死ぬように計らいました。
御子の贖いの御業に基づいて、神様はすべての人間のすべての罪を帳消しにし、永遠の死の裁きを受けるはずだった人間をその裁きから救い出してくださったのです。

   詳しく見る、信仰のABC、イエス様の死

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、
おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を、
彼の上におかれた。」
(聖書のイザヤ書53章5〜6)

愛するイエス様、私は、「あなたの苦しみを理解できる」、などとは言えません。 しかし、私は、「あなたが私の罪をも帳消しにしてくださった」、と信じています。