エステル記8〜10章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

ユダヤの民の勝利

「エステル記」8〜10章

逆転した立場 「エステル記」8章1〜2節

古代ギリシア人歴史家ヘロドトスおよび古代ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、ペルシア帝国では国賊の財産や家屋は没収されて王の所有するものとされました。ハマンの財産や家屋もまた王の所有するものとなり、王はそれをエステルに贈りました(8章1節)。王宮に住まうエステルはハマンの家を自分で管理することができなかったので、養父であるモルデカイにそれを委ねることにしました(8章2節)。

エステルとモルデカイの親族関係を知った王はモルデカイに特別な地位を授けました(8章1〜2節)。そして、モルデカイは「王の前に」出ることが許されました(4章11節と比較してください)。これはモルデカイが王宮内に迎え入れられたことを意味します。エステルにとってモルデカイは彼女の従兄弟でもあり養父でもありました(2章7節)。ここではとりわけ後者の役割が重要でした。

王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、今度はモルデカイに与えました(8章2節)。これは権力の移譲を象徴する行為です。以前に王はユダヤ人を滅ぼすために自分の指輪を外してハマンに渡したことがあります(3章10節)。ところが今やユダヤ人モルデカイがこの指輪を与えられることになりました。これは残された最大の難問を解決するための鍵となりました。この時点ではユダヤ人絶滅令は依然として有効なままだったのです。

新しい法令 「エステル記」8章3〜14節

ペルシア王が一旦承認した法令はもはや撤回できませんでした(8章8節)。「ダニエル書」6章8、12、15節もそれと同じことを証言しています。それゆえ、この法令のもとでユダヤ人を救うために残された唯一の方法は、迫害者から我が身を守る権利をユダヤ民族に許可する法令を新たに発布することでした。ここで注目すべき点は、ユダヤ人に許されていたのは自己防衛だけであって敵に対する攻撃ではなかったということです。

「その中で、王はすべての町にいるユダヤ人に、彼らが相集まって自分たちの生命を保護し、自分たちを襲おうとする諸国、諸州のすべての武装した民を、その妻子もろともに滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取ることを許した。」
(「エステル記」8章11節、口語訳)

「しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった」(9章10、15、16節)とあるように、ユダヤ人は迫害者の「貨財を奪い取る」許可を得ていたにもかかわらず、そうはしませんでした。モルデカイによる上記の新しい法令の書式は形だけ見ると、以下に引用するハマンによる法令の書式とよく似ています。

「そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。」
(3章13節、口語訳)

エステルは女性らしい態度と哀願によって王に訴えます(8章3〜6節)。しかし、ペルシア帝国ではたとえ王でさえも自ら下した法令を取り消すことは不可能だったのです(8章8節)。

「どうしてわたしは、わたしの民に臨もうとする災を、だまって見ていることができましょうか。どうしてわたしの同族の滅びるのを、だまって見ていることができましょうか。」
(8章6節、口語訳)

エステルの心情を吐露した上の発言には本来の意味での「共感」、他の人の状態に我が身を置き換えて考える彼女の暖かい態度が遺憾なく発揮されています。

「その時王の書記官が召し集められた。それは三月すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてインドからエチオピヤまでの百二十七州にいる総督、諸州の知事および大臣たちに、モルデカイがユダヤ人について命じたとおりに書き送った。すなわち各州にはその文字を用い、各民族にはその言語を用いて書き送り、ユダヤ人に送るものにはその文字と言語とを用いた。」
(「エステル記」8章9節、口語訳)

この時点で、ハマンが制定させた法令の発布から二ヶ月と十日が経過していました(3章13節も参照してください)。西暦に従って計算すれば、これは紀元前474年6月25日に当たります。ユダヤ人を絶滅させる予定日時はそれから約八ヶ月後の紀元前473年3月7日でした(8章12節)。

ハマンの書かせた法令は依然として有効なままでした。モルデカイはそれとは内容的に正反対の法令を書かせました。それは敵に対して自己防衛する権利をユダヤの民に許可する法令でした。このように、あることを命じる法令とそれとは逆の内容を命じる法令との間に生じる緊張関係は、キリスト教信仰における「律法と福音」の関係にも見られるものです。罪深い者に死刑を要求する「律法」は今もなお変わることなく同じ効力を保ち続けています。しかしその一方では、イエス様が罪深い者たちの全ての罪の罰を身代わりに引き受けてその罪を完全に帳消しにしてくださったという贖いの御業の「福音」により、生まれながらに罪深い者である私たち人間が死の裁きを免れて救われる可能性が与えられたのです。

「この書いた物の写しを詔として各州に伝え、すべての民に公示して、ユダヤ人に、その日のために備えして、その敵にあだをかえさせようとした。」
(「エステル記」8章13節、口語訳)

新しい法令はペルシアで当時使用されていた全ての言語に翻訳されて各州に伝達されました。ペルシア帝国領内のユダヤ人たちが広大なペルシア全土に分散して居住していたことがこの節から分かります。

ユダヤ人たちの集会 「エステル記」8章15〜17節

「モルデカイは青と白の朝服を着、大きな金の冠をいただき、紫色の細布の上着をまとって王の前から出て行った。スサの町中、声をあげて喜んだ。」
(8章15節、口語訳)

モルデカイの新しい正装は、ユダヤ人滅亡の危機がようやく去りつつあることについて彼自身および全ユダヤ人が共有した非常に大きな喜びをよくあらわしています。

上掲の節にはモルデカイが「大きな金の冠」をいただいたとありますが、ここで「冠」と訳されている単語はヘブライ語では「アタラー」といい、「王冠」や「花冠」という意味です。1章11節や2章17節にも王妃の着ける「冠」が出てきますが、その箇所では別の単語(「ケテル」)が用いられています。それゆえ、モルデカイの着けた冠は王族の冠とは異なる種類のものであり、宰相の正装としての被り物であったと考えられます。

同じく上掲の節からわかるように、スサの町で大きな喜びに包まれたのはユダヤ人ばかりではありませんでした。ユダヤ人迫害令が発布されて、当事者であるユダヤ人はもちろん非常に困惑しましたが、スサの人々もまた同様に戸惑いを覚えたからです(3章15節)。

「いずれの州でも、いずれの町でも、すべて王の命令と詔の伝達された所では、ユダヤ人は喜び楽しみ、酒宴を開いてこの日を祝日とした。そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。これはユダヤ人を恐れる心が彼らのうちに起ったからである。」
(「エステル記」8章17節、口語訳)

「ユダヤ人になりたい」という気持ちを多くのペルシア国民に抱かせたのは、ユダヤ民族の報復への恐怖心に加えて、経済的な利益を得るためでもあったかもしれません。しかし彼らの中には、それまでの一連の出来事における「活ける神様の働きかけ」を目の当たりにして、ユダヤ民族が信仰する神様の側につく「方向転換」を純粋に願い求める心からユダヤ人になろうとした人々も少なからず含まれていたことでしょう。

これと似たような現象は近年のロシアでも見られました。ドイツ人やフィンランド人、さらにはユダヤ人も以前のロシアではむしろ疎まれる存在でしたが、すっかり状況が変わり、彼らはロシア人から好意的に見られるようになりました。ただしこの変化の背景には、ロシアを離れてもっと住みやすい外国に移住したいという人々の期待が見え隠れしています。

「ユダヤ人には光と喜びと楽しみと誉があった。」
(「エステル記」8章16節、口語訳)

ここで「光」と訳されている単語は「オーラー」で、光を意味する「オール」とほぼ同型です。「エステル記」の主要なテーマの一つであるプリム祭は光の祝祭です。ここでキリスト信仰者はイエス様こそがこの暗闇の「世の光」であることを思い起こすことができるでしょう。

「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。」
(「ヨハネによる福音書」8章12節、口語訳)

「主はわたしの光、わたしの救だ、
わたしはだれを恐れよう。
主はわたしの命のとりでだ。
わたしはだれをおじ恐れよう。」
(「詩篇」27篇1節、口語訳)

「いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。」
(「詩篇」36篇10節、口語訳(節番号はヘブライ語版のもの))

他にも「ヨハネによる福音書」1章4、9、14節、「ヨブ記」22章28節、「詩篇」97篇11節なども参照してください。


決着の日 「エステル記」9章1〜19節

「ユダヤ人滅亡の日」となるはずの日が、神様が緊急事態に参入なさることによって人間の思いに基づく計画とは正反対の日、「ユダヤ人の勝利の日」に変わりました(9章1節)。実はこれと同様のことをキリストは私たちにもしてくださいました。キリストのあがないの御業のゆえに「最後の裁きの日」は私たちにとっては「滅びの日」ではなく、それとは逆に「永遠の命に入る日」に変更されたのです。

「エステル記」のこの箇所には、ユダヤ人が敵対者たちを滅ぼすために激しく活動する様子が描かれています。ところが、現代の私たちはこのことに嫌悪感を抱くのではないでしょうか。実際にはモルデカイの制定した法令が許す範囲以上の報復を敵に対して行なったユダヤ人たちもいたことでしょう。「報復」と言えば醜く聞こえますが、とりあえずは次の二つのことを改めて確認しておくべきでしょう。まず、ユダヤ人迫害者ハマンが事件の全ての発端であったことです。ハマンが強引に推し進めたユダヤ人滅亡計画の結果がこのような悲惨な事態を招いた、ということです。次に、私たちキリスト信仰者はキリスト教の倫理観に従ってこの残酷な報復劇を理解しようとする傾向がある、ということです。しかし、当時の道徳観は現代のものとはかけ離れた部分がありました。当時の人間たちが置かれていた状況は極めて冷酷でした。敵対する二者のうちで生き延びることができたのはただ片方のみだったのです。他の選択肢はありませんでした。

ところで「エステル記」には「しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。」という表現が三度出てきます(9章10、15、16節)。ユダヤ人たちはそうしても構わないという許可をもらっていたにもかかわらず(8章11節)、あえてそうしなかったのです。これは、彼らの戦いが攻撃ではなくて自己防衛に主眼を置いたものであったことを物語っています。もう一つの理由として考えられるのは、この事件よりも約500年前にイスラエルの最初の王となったサウルがアガグ王率いるアマレク人との戦いで得たぶんどり物に手をかけることで神様に対して取り返しのつかないほど重大な罪を犯してしまったという事例をユダヤ人たちは心に留めていたという可能性です(「サムエル記上」15章17〜20節)。「アガグびとハンメダタの子ハマン」(3章1節)とあるように、ハマンはアガグの末裔であってもおかしくはありません。その場合には、この箇所においてイスラエルとアマレクの間の熾烈な戦いが再現されたという見方もできるわけです。

首都スサにおける虐殺(9章6、11、12節)は広く都市全体で起きたのでしょうか、それとも王宮内のみでの出来事だったのでしょうか。9章12節からは、それが都市全域にわたる大規模な虐殺事件であった有様が伝わってきます。殺された人々はペルシア帝国の諸々の州にいたことを王自身が告げているからです。それに加えて、ハマンの子らが父親の死後にも王宮内に残っていたとはやや考えにくいからです。

「さてあなたの求めることは何か。必ず聞かれる。更にあなたの願いは何か。必ず聞きとどけられる」(9章12節より)と王はエステルに確約します。「エステルが願うなら何でも叶えてあげよう」という趣旨の王の約束はこれで四度目にあります(5章3、6節、7章2節)。王妃エステルはユダヤ人が首都スサにおいて敵との戦いをもう一日続けることができるように願い出ました。それにより首都決戦は翌日も続行され、300人の敵対者が殺されました(9章15節)。

ハマンの息子たちの死体は木に掛けられました。これは彼らが「呪われた者」となったことを明示しています。

「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」
(「申命記」21章22〜23節、口語訳)

「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。」
(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、口語訳)

それに加えて、十字架刑には死者を侮辱する意味も含まれていました。ハマンの10人の子たちの名前は7〜9節に記されています。

「王の諸州にいる他のユダヤ人もまた集まって、自分たちの生命を保護し、その敵に勝って平安を得、自分たちを憎む者七万五千人を殺した。しかし、そのぶんどり物には手をかけなかった。これはアダルの月の十三日であって、その十四日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。しかしスサにいるユダヤ人は十三日と十四日に集まり、十五日に休んで、その日を酒宴と喜びの日とした。それゆえ村々のユダヤ人すなわち城壁のない町々に住む者はアダルの月の十四日を喜びの日、酒宴の日、祝日とし、互に食べ物を贈る日とした。」
(「エステル記」9章16〜19節、口語訳)

地方ではすでにアダルの月の14日には平和が訪れていたので、祝祭が行われました。それに対して、首都スサの祝祭は次の15日に延期されました。今日でもユダヤ人はプリム祭を地方ではアダルの月の14日に祝い、エルサレムではその月の15日に祝います。私たちの暦でいえばそれは2〜3月の時期に相当します。

「モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。すなわちこの両日にユダヤ人がその敵に勝って平安を得、またこの月は彼らのために憂いから喜びに変り、悲しみから祝日に変ったので、これらを酒宴と喜びの日として、互に食べ物を贈り、貧しい者に施しをする日とせよとさとした。」
(「エステル記」9章20〜22節、口語訳)

プリム祭に人々が互いに食べ物を贈り合う習慣は「エステル記」の出来事とほぼ同じ時期の出来事を描いている「ネヘミヤ記」にも出てきます。なお「エステル記」2章9節も参考になります。

「エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民は起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民は皆その手をあげて、「アァメン、アァメン」と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。(・・・)総督であるネヘミヤと、祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって「この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない」と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。そして彼らに言った、「あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。レビびともまたすべての民を静めて、「泣くことをやめなさい。この日は聖なる日です。憂えてはならない」と言った。すべての民は去って食い飲みし、また分け与えて、大いに喜んだ。これは彼らが読み聞かされた言葉を悟ったからである。 (「ネヘミヤ記」8章5、6節、9〜12節、口語訳)

総括 「エステル記」9章20〜32節

この箇所は「エステル記」全体の出来事を振り返っています。総括と言ってもよいでしょう。一部の出来事については今までの1〜8章に描かれているものとはやや異なる説明もできるような書き方になってはいますが、それはこの箇所での叙述が簡潔なためです。

実際の祝われ方を見るかぎり、プリム祭はいたって世俗的な祝祭であると言えます。この祭に関してあるラビ文献はプリム祭の参加者に対して、「モルデカイに祝福を!」と言われているのか、それとも「ハマンに呪いを!」と言われているのか、その区別がつかなくなるくらいになるまでお酒をたくさん飲むように助言しています。このような世俗性のゆえにラビ(ユダヤ教の教師)のうちの一部の者は「エステル記」を旧約聖書に含まれる一冊の書すなわち「カノン」(聖典)として認めることに反対しました。

プリム祭の前には断食があります(9章31節)。この断食はアダル月の13日、すなわち、元々はユダヤ人が絶滅するはずであった日に行われます。「エステル記」に出てくるユダヤの民の断食(4章3節)と王妃エステルの断食(4章16節)がプリム祭の前に行われる断食の模範とされたのはもちろんのことです。

「モルデカイはこれらのことを書きしるしてアハシュエロス王の諸州にいるすべてのユダヤ人に、近い者にも遠い者にも書を送り、アダルの月の十四日と十五日とを年々祝うことを命じた。」
(「エステル記」9章20〜21節、口語訳)

おそらくこのモルデカイの覚書が「エステル記」が書として記される際の基本資料になったのだと思われます。旧約聖書続編の「マカバイ記2」はプリム祭のことを「モルデカイの日」と呼んでいます(15章36節)。しかもその箇所ではその日がちょうどアダル月の14日に当たっています。

「エステル記」9章24節でハマンは「すべてのユダヤ人の敵」と呼ばれています。その前の箇所では彼はたんに「ユダヤ人の敵」と呼ばれていました(3章10節、8章1節、9章10節)。


モルデカイの偉大さ 「エステル記」10章1〜3節

1節は当時知られていた世界全体のことを表しているとも言えます。「みつぎ」とは賦役をも含めた税一般のことを意味しているものと思われます。

「ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり、ユダヤ人の中にあって大いなる者となり、その多くの兄弟に喜ばれた。彼はその民の幸福を求め、すべての国民に平和を述べたからである。」
(10章3節、口語訳)

モルデカイは全ユダヤ人の幸福な生活およびペルシア帝国内に住む全ての国民の平和を守ることを念頭に置いて行政を司りました。政治家ならば誰であれこのようにするべきところです。しかし、多くの政治家には自分の属する派閥の私益を追求する傾向が頻繁に見られるようです。モルデカイはペルシア帝国の宰相すなわち「アハシュエロス王に次ぐ者」となりました。なお「王に次ぐ人」という表現は旧約聖書の「歴代誌下」28章7節でも用いられています。

ある意味では、後世のユダヤ人の歴史は「エステル記」と似た出来事の繰り返しでした。歴史を通じてユダヤ民族は幾度も「滅亡の危機」に曝されてきました。しかし、神様はこの民を今に至るまで守り続けてくださったのです。それとは対照的に、旧約聖書に登場する他の多くの民族は現在では跡形も無くなっています。アンモン人、ペリシテ人、モアブ人、アッシリア人などがその例です。時代の推移とともに彼らは周辺諸民族の中に溶解し消えてしまいました。

以上で「エステル記」ガイドブックの説明を終わります。


序論、1章 
2〜3章
4〜5章 
6〜7章