エステル記2〜3章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

秘密のプロジェクト

「エステル記」2〜3章

新しい王妃探し 「エステル記」2章1〜4節

2章の出来事が1章における王の酒宴からどれほど時間が経過してからのことなのか、はっきりしません。おそらくさほど長い間隔は空いていなかったものと思われます。2章16節から分かるように、エステルが王妃になったのはワシテが王妃の位から追われてからわずか4年後のことでした。これはペルシア王のギリシア遠征が失敗に終わったことによって説明できるでしょう。すなわち、新しい王妃の選出はクセルクセス王がペルシア戦争から帰還したのちに行われたということです。2章12節によれば、各王妃候補者の美容の入念な手入れにはなんと12ヶ月を要しました。

2章1節からは、ワシテに対する怒りが収まり、ワシテを王妃の位から追い払ったことをやや悔やんでいるような王の失意が伝わってきます。とはいえ、今さらワシテを王妃に復位させることは考えられませんでした。そのようなことをしたら、王の権威の失墜を自ら認めることになるからです。それゆえ、ワシテの代わりに新しい王妃を選ぶ必要が生じました。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスがペルシアの王室について伝える情報が正しいものだとするならば、元王妃ワシテは後で王妃の位に返り咲きました。しかし、ヘロドトスが一体どの人物を指しているのか、明瞭ではありません。

2章2〜3節にあるように王妃候補者の選定基準となったのは「美しい若い処女」であることです。ヘブライ語の「べトゥラー」という言葉は「処女」という意味の他にも一般的に「結婚できる年齢の若い女性」をも表します。王の後宮に入るためにはもちろん処女であることが前提条件でした。

次にあげる「列王記上」の冒頭にも、王の身の回りの世話をする美しくて若い処女を選出する出来事が記されています。

「ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。」 (「列王記上」1章1〜4節、口語訳)

「美人コンテスト」は大昔からあったわけです。おそらく娘たちはこの競争にさほど喜んで参加しなかったのではないでしょうか。というのは、後に語られるようにペルシア王妃の地位は常にある種の危険が伴うものだったからです(「エステル記」4章11節)。

ペルシア帝国には127の州がありました(「エステル記」1章1節)。ですから、王妃候補者として多数の民族からそれぞれの代表者が選ばれたものと思われます。

主人公たちの紹介 「エステル記」2章5〜7節

ユダ国のエホヤキン王はバビロン捕囚によってすでに紀元前597年にはバビロンに強制移住させられています(「列王記下」24章8〜17節、「歴代誌下」36章9〜10節)。彼と一緒にバビロンに移住を余儀なくされたのはユダ王国の上流階層のみでした。彼らは約1万人いました。このことからわかるようにモルデカイの一族はイスラエルの最上流の階層に属していました。2章5節にある「キシ」とはイスラエルの初代の王サウルの父キシ(「サムエル記上」9章1節)と同一人物ではないかという説も提案されています。同じく「シメイ」もまたサウルの親族として聖書に登場します。このシメイはダヴィデが息子アブサロムの謀反のためにエルサレムから都落ちした時にダヴィデを執拗に呪い続けた人物です(「サムエル記下」16章5〜14節)。

古代ユダヤ人歴史家ヨセフスはエステルがサウル王の末裔であったと述べています。ユダヤ教徒による旧約聖書の翻訳及び解説書であるタルグームは、2章5節に登場する「シメイ」がダヴィデを呪ったシメイとまさに同じ人物であると主張しています。

しかし、言語的に解釈した場合に適切であると思われる説明は、キシがモルデカイの曽祖父でありシメイが祖父であった、というものです。ただし、ヘブライ的な考え方によれば、例えば「父」や「息子」という言葉は現代におけるほど明確に意味が限定されるものではありませんでした。

「モルデカイ」という名前はペルシア語の名前であるマルドゥカ(「マルドゥクの男」)すなわち、ペルシアの宗教の偶像に基づいて名付けられた男性の名前に似ています。「エステル」という名前は「星」という意味のペルシア語か、あるいは「イシュタル」という名のペルシアの女神に由来するという見方があります。また、ユダヤの民は必要に応じてユダヤ以外の民族の名前をも流用していたことが知られています。「創世記」41章45節におけるヨセフのエジプト名「ザフナテ・パネア」、「ダニエル書」1章6〜7節に登場するダニエルとその友人たちに与えられたバビロニア語の名前などがその例です。さらに、エステルにはユダヤ人としての名前「ハダッサ」もありました。これは「ギンバイカ」や「ミルトス」という意味の言葉です。それに対して、モルデカイにはユダヤ人の名前は記されていません。

ギンバイカ(あるいはミルトス)という花は約1メートルの高さまで大きくなり香りを放つ植物です。その実からは果実酒が作られ、葉からは良い香りの脂が取れました。この植物は仮庵の祭りで仮庵(天幕)を建てるために用いられています。

「モルデカイ」という名はバビロン捕囚からユダヤの地に帰還したユダヤ人たちの名簿にも出てきます(「エズラ記」2章2節、「ネヘミヤ記」7章7節)。しかし、このモルデカイは「エステル記」のモルデカイとはおそらく別の人物です。ということは「モルデカイ」は当時のユダヤ人の名前として珍しくはなかったことになります。バビロン捕囚からユダヤの地に帰還したユダヤ人の総数はわずか4万人を少し上回る程度でした(「エズラ記」2章64〜67節)。ユダヤ民族のうちの大多数は祖国に帰還することなくバビロンに住み続けたのです。そして彼らの一部はさらにペルシアの東部地域へと移動して行きました。

2章6節の終わりの部分は解釈が難しい箇所です。モルデカイ本人がユダ国のエコニヤ王と共にバビロンに強制移住させられた時期に生きていたとするならば、彼は「エステル記」の記述する出来事のあった頃には少なくとも120歳にはなっていたはずです。しかし、これほど高齢の人物がペルシアの首相として任命されたとはやや考えにくい面があります。またその場合にはモルデカイのおじの娘であったエステルもそれほど若くはなかったと考えるのが自然でしょう。ですから、おそらくこの箇所は「モルデカイの一族が皆揃ってバビロン捕囚の際に強制移住させられた」と理解するべきでしょう。すでに述べたように、ヘブライ語の世界では人とその一族とに対して同一の表現が用いられることが可能だからです。また、ペルシア帝国の時代と国情について詳述している「エステル記」を書物として著した人物が約100年もの時間的なずれをうっかり書き間違えたとは考えられないからです。

「彼(モルデカイ)はそのおじの娘ハダッサすなわちエステルを養い育てた。彼女には父も母もなかったからである。このおとめは美しく、かわいらしかったが、その父母の死後、モルデカイは彼女を引きとって自分の娘としたのである。」
(「エステル記」2章7節、口語訳)

エステルは孤児でした。彼女の父はアビハイルといい、モルデカイのおじでした(2章15節)。

一年間かけた美容施術 「エステル記」2章8〜11節

「エステルもまた王宮に携え行かれ、婦人をつかさどるヘガイの管理のもとにおかれた。」(2章8節より)とあるように、エステルは自ら進んで王妃候補者の一人となったのではありません。王の命令には反対することができなかったからです。「王宮に携え行かれ」という表現に受動態を表すヘブライ語動詞の形(ニファル態)が用いられていることからもそれがわかります。旧約聖書で女性が王の命令に有無なく従うほかなかった悲劇としては、バテシバの例をあげることができます(「サムエル記下」11章4節)。もしもエステルが王妃に選ばれなかった場合には、彼女は王の側室の一人になるところでした。古代ギリシア人歴史家プルタルコスによれば、ペルシア王アルタクセルクセスには360人の側室がいました。また旧約聖書によれば、イスラエル王ソロモンには700人の王妃と300人の側室がいました(「列王記上」11章3節)。

2章9節及び12節は当時の宮廷における過度の贅沢と華美について語っています。しかし、これは決して例外的な事例ではありません。現代世界にも王をいただく国々が依然として存在します。これらの国々が王宮を運営する際に必要とする多大な費用は近年に到るまで一般庶民にとって喜びの種であるどころか、むしろ重い負担となってきたことを、私たちは忘れるべきではありません。

エステルが「ヘガイの心にかなって、そのいつくしみを得た」(2章9節)直接的な要因はエステルの性格の良さや容姿の美しさだったのかもしれませんが、そこにもまた神様による導きを見ることができるでしょう。別格の待遇を受けたおかげもあり、エステルが王妃として選ばれる可能性は大いに高まりました。おそらくヘガイはエステルこそが王の目に適う新しい王妃その人であると判断したからこそ、お妃選びの最初の段階からエステルに特別な配慮を払ったのでしょう。

エステルは自分がユダヤ人であることを公言しませんでした(2章10節)。当時のペルシア帝国内にはユダヤ人への不信感を募らせる人々が大勢いたからです。またこの一般的な不信感がなければ、ハマンのユダヤ人絶滅計画はそもそも成立しなかったはずです。

モルデカイは王の城内で何らかの職務に就いていたようです。「エステル記」2章19節と3章4節からもそれが伺われます。そのおかげもあって、モルデカイはエステルの様子について王宮から情報を得ることができました(2章11節)。

エステルが王妃となる 「エステル記」2章12〜18節

2章14節は王の側室たちの人生にまつわる残酷な側面を明らかにします。彼らはもはや普通の生活を送ることができませんでした。いつ来るかもわからない王からの召しを待ち続ける生活を後宮で一生続けていかなければならなかったのです。何年間も王からお呼びがかからない側室たちもいたでしょうし、また最初の召しの後にはもう二度と召しを受けない側室たちさえいたかもしれません。

王妃候補者が王のもとに初めて呼ばれたときに携えていく品物はその女性の性格を映し出します。もしも彼女が高価な品物を持って行くならば、それは彼女の貪欲さの表れです。趣味の悪さも候補者にとってマイナス条件になる場合があったでしょう。幸いなことに、王宮の管理者ヘガイの助言に素直に従う賢明さをエステルは持ち合わせていました(2章15節)。

クセルクセス王の治世の第7年目にエステルは王のもとに召されました。私たちの暦で言えばそれは紀元前479年12月と478年1月の間の時期に当たります。すでに王の治世の第3年目にワシテは王妃の座を追われていました。ということは、その時から4年の歳月が流れたことになります(「エステル記」1章3節)。新しい王妃の選出がこれほど遅れた原因としては、クセルクセス王率いるペルシア軍の敗北に終わったギリシア諸都市との戦争がその間にあったことが考えられます。

「テベテの月」(2章16節)は私たちの暦では3月に当たります。スサの地域では冬期は雨季でした。

王が諸州に対して実施した「免税」(2章18節)と訳されている言葉はヘブライ語では「休養、(経済的な)ゆとり、休暇の許可」などを意味します。しかし、具体的にどのような軽減がなされたのかはわかりません。この「ハナハー」という言葉は旧約聖書に一度しか登場しない稀な単語であるため意味の確定は困難ですが、従軍義務や奴隷の労働あるいは仕事一般に対する特別休暇などを指している可能性があります。

モルデカイが王の命を救う 「エステル記」2章19〜23節

「二度目に処女たちが集められたとき、モルデカイは王の門にすわっていた。」 (「エステル記」2章19節、口語訳)

2章19節によれば、王妃候補の全国規模の募集は二度にわたって実施されたように見えます。しかし、どうして二度も王妃候補者が集められたのか不思議です。なぜなら、一度目の募集の際に新王妃はすでに選出されたからです。王が新しい側室たちをさらに所望したと説明することもできますが、あまり説得力はなさそうです。

「全国から選り抜きの処女たちを二度にわたって公募したため、それとの関連でモルデカイも王宮での仕事に就くことができた。しかもその際、エステルはモルデカイを自分の傍におけるように王妃として口添えした」という説明も考えられます。しかし「エステル記」ではエステルが自らのユダヤ人の素性を明かさなかったことが強調されています(2章20節)。それに、親戚を優遇して身の回りに置くような人選はエステル自身もユダヤ人であることが周りに知れわたってしまう危険を伴うものであったはずです。

ですから、王妃候補の募集はやはり一度だけであったと考えるのが自然でしょう。モルデカイがエステルの身を案じて毎日のように彼女の住まいの近くを歩き回っていたことも、エステルのユダヤ人の素性が誰かにばれはしないかという彼の心配と無関係ではないでしょう(2章11節)。

2章19節の「二度目に」というヘブライ語の言葉「シェニート」には「第二に、次に」という意味もあります。その場合にはこの節は「第二に、処女たちが集められたとき」とも訳せることになります。同様の用例を以下に挙げます。

「ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。かつまた(「シェニート」)わたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。」
(「サムエル記下」16章18〜19節、口語訳)

モルデカイが座っていた「王の門」(2章19節)は王宮関係者が集まって特に司法上の問題を協議した場でもありました。聖書の例としては「サムエル記下」19章8〜10節や「列王記上」22章10節などがあります。当時の都市の門はれっきとした建物であり、城壁に付けられた単なる二つの扉などではありませんでした。このことは七十人訳ギリシア語旧約聖書の訳からもわかります。

エステルは王妃という高い位に昇ったのちにも養父の教えを忘れることがありませんでした(2章20節)。

中近東では「怒り」は政治的な反逆に結びつく言葉です(2章21節)。ビグタンとテレシのふたりによる王の暗殺計画は単なる個人的な恨みに基づくものではなく、政治的な動機が背景にあった可能性もあります。一例としてワシテのための復讐がその目的であったとも考えられるでしょう。

この時は難を逃れたものの、後にクセルクセス王は暗殺されてしまうことになります。

王の私室を警備する立場の者が王を暗殺するのはいたって容易でした。「王のへやの戸を守る者」(2章21節)の仕事はもちろん王の部屋の戸だけではなく王自身を守ることでした。彼らは王の周辺警護の担当者だったのです。

王の暗殺を企んだ者たちは木にかけられて処刑されました(2章23節)。当時のペルシアにおける最も一般的な処刑法は釘付けの刑でした。例えば「エズラ書」6章11節にはそれが出てきます。

未遂に終わったこのクーデター計画は王の「日誌の書」に書き記されました(2章23節)。ところが、暗殺計画を阻止した功労者であるモルデカイには何の褒賞も与えられませんでした。これは全く例外的なことでした。例えば「創世記」40章の出来事をここで思い起こしましょう。エジプト王の給仕役と料理役とが主君エジプト王に罪を犯して投獄されました。ヨセフは彼らの見た夢を解き明かし、その通りのことが実現しました。

「すなわちパロは給仕役の長を給仕役の職に返したので、彼はパロの手に杯をささげた。しかしパロは料理役の長を木に掛けた。ヨセフが彼らに解き明かしたとおりである。ところが、給仕役の長はヨセフを思い出さず、忘れてしまった。」
(「創世記」40章21〜23節、口語訳)

このようにヨセフもまたその功績に対して何の褒賞も受けませんでした。「エステル記」の話の流れに関して言えば、悪者ハマンもモルデカイの顕著な功績については何も知らなかったようです。これは重要なポイントです。もしも彼がそれを知っていたのならば、あえてユダヤ人を滅ぼそうとはしなかったかもしれないからです。

2章22節からも、また後の6章3節からも、暗殺計画を未然に阻止したのがモルデカイであったことを王は知っていたことがわかります。


第4の主人公 「エステル記」3章1〜6節

「エステル記」の描写する事件において最後に登場する主要人物がハマンという悪者です。この時点で前章の出来事からは4年が経過しています(3章7節および2章16〜17節を参照してください)。ということは、この段階では紀元前474年の4月あるいは5月頃になっています。

ハマンはペルシアの宰相、すなわちペルシア王に次ぐ権力者になりました。ハマンはアガグの子孫であると「エステル記」には記されています。旧約聖書にはアマレク人の王アガグという人物が出てきます。イスラエルの初代の王サウルは主の助けによってアガグとの戦いに勝利しました。にもかかわらず、主の命令に反してアガグから命を奪うことまではしませんでした。それでサウルに代わって預言者サムエルがアガグの息の根を止めることになりました(「サムエル記上」15章)。古代ユダヤ人歴史家ヨセフスはアガグ人についてではなくアマレク人について言及しています。ハマンがアマレク人であった場合には「エステル記」における対立関係は、イスラエル王サウルの子孫(モルデカイとエステル)とアマレク王アガグの子孫(ハマン)の間の対立という様相を帯びてきます。「ハマン」はペルシア人の名前ですが、その意味は明らかではありません。たとえ名前の意味がわかったとしても、ハマンがどの民族出身かを特定するのには役に立ちません。例えば、エステルやモルデカイはペルシア名でしたが、彼ら自身はユダヤ人でした。

アマレク人とイスラエル人との間の敵対関係には旧来からのいきさつがあります。イスラエルの民が荒野をさまよっていた時に「約束の地」に住む諸民族のうちで最初にイスラエルに攻撃を仕掛け、ヨシュアの指揮するイスラエルの返り討ちにあったのがアマレク人だったのです。

「ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った。モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。」
(「出エジプト記」17章8〜13節、口語訳)

この戦いは悪の諸力に対する神様の民の戦いでもありました。そういうこともあってユダヤ人はアマレク人を悪の力の象徴とさえみなしていました。彼らは代々にわたってアマレク人と戦い続けこれを絶滅させるようにとの命令を主から受けていました。例えば「出エジプト記」17章14〜16節や「民数記」24章7節にそれへの言及があります。以下には「申命記」の該当箇所を挙げておきます。

「あなたがエジプトから出てきた時、道でアマレクびとがあなたにしたことを記憶しなければならない。すなわち彼らは道であなたに出会い、あなたがうみ疲れている時、うしろについてきていたすべての弱っている者を攻め撃った。このように彼らは神を恐れなかった。それで、あなたの神、主が嗣業として賜わる地で、あなたの神、主があなたの周囲のすべての敵を征服して、あなたに安息を与えられる時、あなたはアマレクの名を天の下から消し去らなければならない。この事を忘れてはならない。」
(「申命記」25章17〜19節、口語訳)

アマレク人とイスラエル人の間の戦いについては、例えば「サムエル記上」14章47〜48節や「歴代誌上」4章42〜43節を参照してください。

ハマンが高い地位に抜擢された理由は定かではありません。この人事は、モルデカイが並外れた手柄を立てたにもかかわらず王から何の褒賞も受けなかったことと鮮やかな対照をなしています(「エステル記」2章19〜23節)。

人類の歴史に対しては神様からの善い働きかけが常にありました。しかし他方では、悪の首領サタンの方でもその悪意の実現のために諸国を操ろうとしていることを私たちは忘れてはなりません。

なぜモルデカイはハマンに跪かず敬礼もしなかったのでしょうか(3章2節)。モルデカイがユダヤ人であったことがその理由として記されています(3章4節)。しかし、このことは次のような疑問を生みます。

ダヴィデ王でさえサウル王に対して地に跪いて敬いの姿勢を取りました(「サムエル記上」24章8〜9節)。旧約聖書の他の箇所においても、王や地位の高い人々の前で跪くことはモーセの第一戒を破ることとはみなされていません。例えば、以下に記す「創世記」44章14節の他にも「創世記」23章7節、33章3節、「サムエル記下」14章4節、18章28節、「列王記上」1章16節などを挙げることができます。

「ユダと兄弟たちとは、ヨセフの家にはいったが、ヨセフがなおそこにいたので、彼らはその前で地にひれ伏した。」
(「創世記」44章14節、口語訳)

もちろん「エステル記」の描写する時代のユダヤ人の考え方自体が以前とは変化していた可能性もなくはありません。

モルデカイのここでの振る舞いには二つの説明が考えられます。第一の説明は、地にひれ伏して敬意を表する行為が神的存在に対する尊崇に通じるものだった、という説明です。この場合には、地にひれ伏す行為自体がモーセの第一戒を破ることになります(「出エジプト記」20章4節)。「エステル記」とほぼ同じ時期の出来事を描写する「ダニエル書」にはモルデカイの場合と似たケースが出てきます(「ダニエル書」3章)。しかしその箇所でも、ネブカデネザル王の作った一つの金の像が偶像とみなされていたのか、それとも単なる普通の像と理解されていたのかについてははっきり記されていません。ローマ帝国の時代のユダヤ人にはローマ皇帝を神として敬わなくてもよいとする特権があったことが知られています。しかし、これは「エステル記」の時代から約500年後のことであり、しかもこの慣習はローマ皇帝を地上の皇帝としてではなく神的存在として拝するものでした。

第二の説明は、モルデカイはアマレク人の前にひれ伏したくなかった、という説明です。この場合には、ユダヤ人とアマレク人の間の古くからの憎悪がこの出来事の背景にあったことになります。モルデカイがクセルクセス王の前でひれ伏したかどうかについて「エステル記」が明記していたのなら、ハマンに対するモルデカイの態度の理由についても知ることができたかもしれません。ただの推測になりますが、モルデカイはハマンが自分のことを神のように偉大な人物であるかのように錯覚していたことを知っていたために、彼に対して敬礼しなかったのではないでしょうか。「エステル記」はハマンを矮小な人物として描いています。ハマンは自らの偉大さをことさら強調するために小賢しい手段を色々と講じる必要がありました。それとは対照的に、当然ながら王自身には、神に対するのと同じ尊敬を自分に対して特別なやり方で表すように周囲に要求する必要などありませんでした。それゆえに、王とモルデカイの間には拝跪をめぐる問題が生じなかったのではないでしょうか。

最終的な決定 「エステル記」3章7〜15節

「アハシュエロス王の第十二年の正月すなわちニサンの月に、ハマンの前で、十二月すなわちアダルの月まで、一日一日のため、一月一月のために、プルすなわちくじを投げさせた。」
(「エステル記」3章7節、口語訳)

ハマンは占星術師や魔術師たち(これらを兼業する者もいました)の力に頼ることで、ユダヤ人を絶滅させるために最も好都合な結果を得る日時を割り出そうとしました。

「くじ引き」が行われた場にはハマンの友人たちもいたものと思われます(「エステル記」5章10、14節、6章12〜13節)。「プル」(3章7節)はアッカド語です。プリム祭の名前はこの単語の複数形に由来しています。

バビロニア人は星辰の研究で名高い民族でした。3章7節に出てくる「ニサンの月」と「アダルの月」という月名はバビロニア語です。このことは、バビロニアの暦がユダヤの暦にも一部採用されていたことを示しています。

「そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。」
(「エステル記」3章8節、口語訳)

この8節のハマンのユダヤ人讒訴には事実誤認もあれば意図的な歪曲も含まれていました。ユダヤの民に対するこのような虚言は旧約聖書では他の書にも見られます。一例として「エズラ記」4章11〜16節の悪意に満ちた誇張を挙げることができるでしょう。ユダヤ人たちはペルシア帝国の権能や法律に反抗的な態度をとっていたわけではありません。もちろん彼らには独自の法律と慣習がありました。しかし、これはペルシア帝国の領土内に住んでいた諸民族一般にも言えることであり、ユダヤ民族だけが特別待遇を受けていたのではありません。さらに、ペルシアは領土内の様々な民族に対して寛容な政策をとったことで有名です。このことをよく表している例としてペルシア王キュロス(口語訳では「クロス」)の勅令をあげることができます。この勅令は領土内の様々な民族が帝国の管理下に置かれた捕囚の状態から自分たちの故郷の地へと帰還することを許可するものでした(「エズラ記」1章1〜4節)。

ユダヤ民族はペルシア帝国の全ての州に居住していたわけではないということも、ハマンのユダヤ人弾劾が不当な事実誤認に基づくものであったことを示しています。しかし、ハマンの誇張した発言によって、ユダヤ人迫害の危機は帝国全域に及ぶことになりました。

「銀一万タラント」(3章9節)は35万〜40万キログラムの量の銀に相当します。古代ギリシア人歴史家ヘロドトスによれば、ペルシア王ダレイオス(口語訳では「ダリヨス」)の治世における帝国の歳入は14560タラントでした。ただし、ヘロドトスが挙げたこの金額は帝国各州の主要都市部における税収の総額のことであったと思われます。ともあれ、これはとてつもなく巨大な金額でした。「エステル記」4章7節によれば、これらの税金は最終的には「王の金庫」に収められることになっていたようです。おそらくハマンにはユダヤ人から財産を略奪することによって私腹を肥やす意図もあったのでしょう。これと同様に、はるか後のナチス・ドイツにおいても、ユダヤ人から巻き上げられた財産はナチス党に没収されることになりました。

残念ながら、一部の例外的な国を除けば、今日でも賄賂は依然として多くの国における日常茶飯事の出来事になっています。

「エステル記」のクセルクセス王(口語訳では「アハシュエロス王」)は優柔不断な支配者として描かれています(3章8、10〜11節)。王はハマンが具体的にどの民族を指しているのかさえ問い質そうとはしません。このことに関しては「エステル記」7章1〜5節も参考になります。スサの人々はあわて惑いましたが、王はハマンと座して酒を飲んでいました(3章15節)。

王は自らの指輪を外してハマンに与えました(3章10節)。これは王権の行使をハマンに委託したことを象徴しています。次の箇所はそれについて具体的に述べています。

「そこで正月の十三日に王の書記官が召し集められ、王の総督、各州の知事および諸民のつかさたちにハマンが命じたことをことごとく書きしるした。すなわち各州に送るものにはその文字を用い、諸民に送るものにはその言語を用い、おのおのアハシュエロス王の名をもってそれを書き、王の指輪をもってそれに印を押した。」
(「エステル記」3章12節、口語訳)

王の銀についての発言(3章11節)は、王がハマンの提案を全面的に受け入れたことを意味していると解釈するべきでしょう。このことに関しては「エステル記」4章7節も参考になります。

「そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。」
(「エステル記」3章13節、口語訳)

「ユダヤ人を絶滅せよ」との勅令は第一の月(ニサンの月)の13日に書き記されました(3章12節)。これは私たちの暦では紀元前474年4月17日に当たります。迫害が実行に移される日は12の月(アダルの月)の13日と定められました(3章13節)。これは紀元前473年3月7日に相当します。すなわち、勅令の発布からその発動までにはおよそ11ヶ月の猶予期間が生じました。どうしてこれほど長い猶予期間が設定されたのでしょうか。単なる推測の域を出るものではありませんが、その猶予期間中に大部分のユダヤ人はペルシア帝国の外に逃亡することができない状態だったのではないでしょうか。歴史を振り返ってみると、ユダヤ民族はヨーロッパの多数の国において国外追放処分を受けたことがあります。しかもその際、彼らの財産は略奪没収されてしまったのです。おそらくこの長い猶予期間中にペルシア帝国の諸民族がユダヤ民族に対して徐々に敵意を持つように仕向けることが意図されていたのではないでしょうか。ユダヤ人たちは破滅の時が確実に迫りつつあることを事前に告知され、しかもそれに対して自分では何もできない無力な状態に置かれたのです。

ユダヤ人の財産を略奪する勅許はペルシア帝国の諸民族に対してユダヤ民族を迫害する悪意を煽り立てました。歴史を省みても、人間の持つ貪欲さは世界各地で幾多の悪行を何度となく引き起こしてきました。

ハマンが書かせた勅令状の内容は旧約聖書外典の「エステル記補遺」2章に記されています。外典は「神様の御言葉」である聖書と決して同列に置ける書物ではありませんが、有益な参考文献ではあります。

ところで、ニサンの月の14日は主の過越に当たっていることに注目しましょう。過越の日に神様はイスラエルの民をエジプトの隷属状態から解放してくださいました(「出エジプト記」12章18節)。アダルの月の13日の「破滅の日」とニサンの月の14日の「解放の日」、はたしてどちらの日が競り勝つことになるのでしょうか。13日はバビロニア人とペルシア人にとって不幸な日付とされていました。ユダヤ人を滅ぼす命令を実行に移す日としてハマンがまさしく13日を選んだのはこれと関連していると思われます。

古代ギリシア人歴史家ヘロドトスによれば、酒を飲んでいない正常な頭の状態で決定された事柄は酒に酔った状態で再度吟味され、それとは逆に、酩酊した頭で決定した事柄は酔いが覚めた時に再考されなければならない、という奇妙な慣習がペルシアにはありました。ユダヤ人迫害の勅令が発布された際に王とハマンが酒を飲んでいたこと(3章15節)もこの慣習と関わりがあるかもしれません。また王がワシテの処遇について自ら下した命令を時間をおいて冷静になってから再考したのも(「エステル記」2章1節)この慣習に基づくものであったという見方もできるでしょう。

ハマンは王との酒宴において自らの栄誉に酔いしれたことでしょう。ところが皮肉なことに、来るべき自らの破滅の瞬間にも彼は酒宴の中にいることになるのです(「エステル記」7章1〜10節)。

ハマンが計画を成功させた場合には、ユダヤ民族はその大部分が滅び去ったことでしょう。当時のユダヤ人の大半がペルシア帝国内に居住していたと推定されるからです。そして、迫害を逃れたユダヤ人たちや、もともとペルシア帝国の外に住んでいたごく少数のユダヤ人たちも、遅かれ早かれ周辺民族の中に溶け込んでしまい、民族としては消滅してしまったことでしょう。こうして見ると、ハマンのユダヤ人絶滅計画には、救い主がユダヤ人としてお生まれになる神様の御計画を妨げようとする明確な目的があったことになります。このことからもハマンは実はサタンの分身だったとも言えます。


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