エステル記の序論、1章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

神様のいない書物?

「エステル記」を読むために

ペルシアの王妃 エステル

「エステル」という名前は聖書では「エステル記」以外の書には登場しません。また「エステル記」からの引用も聖書の他の諸書には見当たりません。

「エステル記」には次のような二つの特徴があります。
1)「雅歌」と同様に「エステル記」には神様への直接的な言及がありません。このため「雅歌」と「エステル記」を旧約聖書の正典にする際には反対も起こりました。
2)「ルツ記」と同様に「エステル記」には女性の名前が冠されています。

「エステル記」が書かれた動機については次の三つの事柄が考えられます。
1)ユダヤ人のプリム祭の起源を説明すること
2)反ユダヤ主義について警鐘すること
3)世の権力者が神様に反抗する場合にも神様は御自分の民を養い守られると教えること

「エステル記」は旧約聖書の五つの「祭の巻物」の一つです。
これらの巻物は次のものになります。
1)ペンテコステ(七週の祭り)に読まれる「ルツ記」
2)プリム祭(アダル月の13〜15日)に読まれる「エステル記」
3)仮庵の祭りに読まれる「コヘレトの言葉」
4)過越の祭りに読まれる「雅歌」
5)神殿崩壊日に読まれる「哀歌」

「エステル記」の内容

エステルはユダヤ人女性でした。後に彼女は、紀元前486年から465年までペルシア帝国の王位にあったクセルクセス王の王妃となります。旧約聖書では「アハシュエロス王」と呼ばれているこの王は、紀元前404年から359年にかけてペルシアの王であったアルタクセルクセス二世ムネモンのことではないか、という仮説もありますが、大多数の研究者はクセルクセス王説を支持しています。「エステル」という名前はペルシア語で「星」を意味します。エステルのヘブライ語名「ハダッサ」(「エステル記」2章7節)は「ミルトス(銀梅花)」という意味です。後にエステルはペルシア王の特別の寵愛を受ける正妻となります(「エステル記」2章17節)。

「エステル記」に描かれる出来事はペルシアの首都スサ(現在のシューシュ)で起こりました。スサはかつてエラムの首都でしたが、ペルシアによって征服されたのです。「ダニエル書」と同様に「エステル記」は主がイスラエルの民に賜った「約束の地」の外部で起きた事件を描写しています。なお「エステル記」の出来事と同じ時期に「約束の地」で何が起きていたかは「エズラ記」を通して知ることができます。時系列的に見れば「エステル記」の出来事は「エズラ記」の6章と7章の間に起きたことになります。

「エステル記」でユダヤの民を激しく憎悪する敵対者として描かれるハマンはペルシア帝国の宰相に相当する地位にありました。ユダヤの民が独自の慣習や律法を固守し続けることに、ハマンは強い不快感を抱いていました(「エステル記」3章8〜9節)。彼が激怒したのは、モルデカイが彼に対して(神様に対して示すような)最敬礼を行わなかったことが主な原因でした(「エステル記」3章2節)。それで彼はユダヤ人絶滅計画を立案しました。大虐殺を実行する日時はくじによって決められました(「エステル記」3章7節)。くじはアッカド語で「プール(ム)」と言います。くじの結果、その日はアダル月の13日と決定されました。アダル月はユダヤの暦で一年を締めくくる最後の月に当たります。ですから、ユダヤの民には絶滅するまでに約一年間の猶予が与えられたことになります。このように決められた理由は、くじを引くことでこの計画を遂行するために最善であるはずの日を割り出したからに他なりません。要するに、このくじ引きは迷信に基づくものだったのです。

ハマンはアガグの子孫でした(「エステル記」3章1節)。おそらくこの「アガグ」は、イスラエルのサウル王の同時代人であったアマレクの王アガグのことです。アガグは、サウルが神様によるアガグ殺害命令を無視したために一旦は命拾いをしたものの、それを知って激怒した預言者サムエルによって結局は殺されることになります(「サムエル記上」15章8〜33節)。

ハマンのユダヤ人絶滅計画はユダヤ人モルデカイの聞き及ぶところとなりました。モルデカイはエステルの従兄弟にあたり養父でもありました(「エステル記」2章7節)。モルデカイはエステルに自分の民を守るべく王の面前で懇願するように指示しました。「まさにこの時のためにこそ神様はあなたに王妃という高い地位を与えたのではないか。しかし、もしもあなたが助力を拒むようなら、神様は他の何らかの方法によって御自分の民を助けてくださる」とモルデカイはエステルを諭しました(「エステル記」4章13〜14節)。

エステルはユダヤの民が彼女のために祈ってくれるように懇願しました。そして、ユダヤの民に憐れみを賜るよう、ペルシア王に直訴する決死の覚悟を決めました(「エステル記」4章15〜16節)。

そして実際にエステルはこの件に関して王に直接訴え出ることに成功しました。その結果、ハマンは本来モルデカイを処刑するために立てさせた絞首台の木で皮肉にも自分が処刑されることになりました(「エステル記」7章)。その後、ユダヤ人は周囲の敵に対して自己防衛する権限を与えられました。そして、このユダヤの民の復讐を記念して覚えるためにプリム祭が祝われる慣習が始まったのです。

モルデカイは今までハマンに与えられていた帝国の宰相としての地位を受け継ぎました(「エステル記」8章2節)。彼が譲り受けた王の指輪は彼の職務上の地位を表しています。

「エステル記」の書かれた時代と著者について

初期のユダヤ教の口承伝承によれば「エステル記」の著者はモルデカイその人であったとされています。しかし、私たちは著者問題については何も確実なことが言えません。

「エステル記」は、35人のペルシアの人名やペルシアの王室ついてなど、ペルシア帝国の時代(紀元前539年から333年まで)に関する多くの詳細な情報を含んでいます。このために「エステル記」はそこに描かれている出来事が起こってからまだ間もない頃に書き記されたのではないかという見解も提示されています。他方では「エステル記」は紀元前100年代に入ってからようやく書としてまとめられたのであろうという見解もあります。

宗教史学派(Religionsgeschichtliche Schule)の代表的な研究者たちは、聖書に出てくるほとんどすべての事柄について、イスラエルの周囲にいた諸民族のそれぞれの宗教からの影響や引用によるものである、と最初から決めつけて解釈を展開します。例えば「エステル記」についてはペルシアの神話を原型とする架空の物語であるとみなされます。それによれば、ペルシアの神イシュタルはエステルに相当し、マルドゥクはモルデカイに当たります。エステルとモルデカイがそうであるように、このイシュタルとマルドゥクは互いに従兄弟の間柄でもあります。さらに、ハマンやワシテに相当するペルシアの神々も次のように想定されます。ハマンすなわちフンマンはエラムの主神であり、エラムの女神マシュティがワシテに当たるというのです。当然ながら現在ではこのような珍妙な説は宗教史学派の完全な勇み足であったとされています。

「エステル記」の教え

「エステル記」の書かれた三つの動機についてはすでに触れました。プリム祭の発端については「エステル記」の内容から分かるようになっています。

反ユダヤ主義に対する警鐘はハマンの結末にそれが特によく表れています。ユダヤ人に対して仕掛けた戦争がその張本人であるハマンを破滅させることになったということです。

ハマンはユダヤ人と戦っているつもりが、実は活ける神様に戦いを挑んでいることに途中で気がつく羽目になりました。事態の推移を表面的に眺めれば、神様が負けそうになって退却せざるを得ないかのような局面も確かにありました。「エステル記」全体を通して神様の御名は一度も明示されていません。しかし実際には、神様は全状況を完全に掌握し続けておられる主なのです。

「エステル記」の三番目の教えは神様による養育と守りです。神様は御自分の民を決してお忘れにはなりません。ユダヤの民が絶滅の危機に瀕している緊急事態においてもそれは変わりません。人間の目にはそうとは見えない場合であっても、神様は一切の事柄を隅々に至るまで周到に準備なさっておられます(例えば「エステル記」4章14節を参照してください)。善なる御心を実現なさるために、神様はある夜、ペルシア王に眠りをお与えになりませんでした(「エステル記」6章1節)。神様があたかも御自分の民を忘れてしまわれたかのように見え、また怒り狂うハマンの悪巧みにユダヤ人の命運が完全に掌握されたように見えた時でさえも、神様は人間の目からは隠された方法で御心の実現を推進なさったのです。

ハマンによるユダヤ人絶滅計画は結果的にユダヤの民の勝利に変わりました(「エステル記」9章)。

自らの命を賭して自分の民を破滅から救おうとした点で、エステルは「キリストの予型」とも呼べる存在です(「エステル記」4章16節)。エステルの地位や振る舞いは「創世記」に描写されているファラオの宮廷でのヨセフの行動に多くの点で重なります(「創世記」40〜50章)。

「エステル記」で神様の御名が一度も挙げられていないのはどうしてでしょうか。その理由の一つとしては、神様の御名をみだりに唱えることを禁じるモーセの律法(第二戒)を遵守しようとするユダヤの民の意思があったのかもしれません。御名そのものがこの書に記されていない以上、御名をみだりに唱えるという危険もこの書にはないはずだからです。

「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」
(「出エジプト記」20章7節、口語訳)

時代が下って、おそらく紀元前100年代に書かれたギリシア語版の「エステル記」には大幅な加筆がなされました。ラテン語で70を意味するこの「セプトゥアギンタ」と呼ばれる「70人訳」ギリシア語旧約聖書の「エステル記」はヘブライ語版と比べて107節も増えています。例えばローマ・カトリック教会の各国語による聖書訳の「エステル記」はこれらの加筆も含めて訳出されています。カトリック教会の正典とも位置付けられるラテン語版聖書ヴルガタにもこれらの加筆部分は含まれているので、それは当然とも言えます。それに対して、宗教改革者マルティン・ルターは「エステル記」のギリシア語版およびラテン語版の加筆箇所を正典としての聖書の一部としては認めませんでした。一般的に見ても、現代の多くのプロテスタント教会の聖書訳にはこれらの加筆は入っていません。正規の旧約聖書には含まれない「旧約聖書外典」という諸書にはそれらの加筆をまとめた「エステル記補遺」という書が収められています。全部で六つの加筆がなされ、それらの箇所では神様の御名が明示されています。

「エステル記」に短い版と長い版がある理由については次のような説明も提案されています。プリム祭はほとんど「カーニヴァル」の様相を呈する世俗的な祝祭であり、しかもこの祭では「エステル記」が最初から終わりまで通して朗読されるため、「エステル記」からは神様について語る箇所が削除された、というのです。しかし、この説明は多くの支持を受けるには至っていません。


「エステル記」1章

王宮の祝宴 「エステル記」1章1〜11節

「アハスエロス王」すなわちクセルクセス王は父ダレイオス王(「ダニエル記」6章)の後を継いで紀元前496年にペルシア王となりました。彼の名前は「エズラ書」4章6節にも登場します。彼は帝国の領土拡張を目論み、ギリシア諸都市と交戦しました。後に「ペルシア戦争」と呼ばれる大戦です。ところが、ペルシア軍はテルモピュライの戦いで予想外の苦戦を強いられ、サラミスの海戦では歴史的な大敗北を喫し、さらにプラタイアの戦いでも敗れました(紀元前480〜479年)。あえてギリシア征服を試みなかったとしても、当時のペルシア帝国の領土はインドからスーダンにまでまたがる極めて広大なものでした(「エステル記」1章1節)。なおヌビアは当時エチオピアに属していましたが、現在はスーダンの領土になっています。

ペルシア帝国は127の州に分けられていました(1章1節)。ユダはそのうちの一つの州でした(「エズラ記」2章1節、「ネヘミヤ記」1章3節、7章6節、11章3節)。「ダニエル書」によれば、ダレイオス王(口語訳では「ダリヨス王」)の治世にサトラップの管区である州が120ありました(「ダニエル書」6章1節)。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、サトラップの州が20あったと記しています。おそらく地域的な行政区分は時代によって異なっていたことでしょう。また「エステル記」もサトラップについて言及しています(「エステル記」3章12節、8章9節、9章3節)。サトラップはヘブライ語では「アハシュダルペニーム」と言い、口語訳では「総督」と訳されています。

ヘロドトスによれば、ペルシアはギリシアと戦うための準備に4年を費やしました。実は「エステル記」1章3〜4節に描かれている酒宴はこの戦争準備の一環として行われた「王の謁見」であったのかもしれません。このような酒宴が半年もの間「大臣および侍臣たちのために」継続されたとは考えにくいです。「ペルシャとメデアの将軍および貴族ならびに諸州の大臣たちがその前にいた。」(「エステル記」1章3節)とあるように、帝国内外の要職を担う様々なグループがペルシア王に謁見する度ごとに新たな酒宴が設けられたのだと思われます。

スサはエラムの古い首都でした。そしてペルシアには四つの首都がありました。それらは、スサ、エクバタナ(「エズラ記」6章2節)、バビロン、ペルセポリスです。スサには王の冬の宮殿がありました。ネヘミヤもスサでペルシア王に仕えました(「ネヘミヤ記」1章1節)。このスサでダニエルは一つの幻を見ました(「ダニエル書」8章2節)。スサの廃墟は1851年に発見され、その後の考古学的な発掘によって「エステル記」の記述に合致するような建造物がかつて存在したことがわかりました。

「エステル記」1章3節にある「その治世の第三年」は西暦では紀元前483年に当たります。

スサの都の全住民に対して七日間の酒宴が設けられました(「エステル記」1章5節)。食事のための金銀の長椅子(「エステル記」1章6節)は金銀の飾りのついた長椅子のことでしょう。長椅子に寝そべりながら食事をする慣習は時とともにイスラエルにも広がっていきました。新約聖書の次の箇所からもそれがわかります。

「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。」
(「ヨハネによる福音書」21章20節、口語訳)

「その飲むことは法にかない、だれもしいられることはなかった。」(「エステル記」1章8節より)というのは、「王が酒を飲むときには客人も揃って共に飲まなければならない」といった強制がなかったことを意味しています。おそらく王のこの「寛大さ」は重要な戦争を控える時期に王権強化を目指した王の意向によるものと思われます。王は客人が誰であれその機嫌をいささかなりとも損ないたくはなかったのでしょう。

王の酒宴が催されていた時には、王妃ワシテもまた自分の酒宴を王宮内で催していました(「エステル記」1章9節)。これは、当時のペルシアで女性と男性が同じ酒宴に参加できなかったからではありません。エステルが王妃になった後に自ら主催した酒宴に王やハマンを招待したことからもそれがわかります(「エステル記」5章4節)。おそらくここの記述から読み取れるのは、王妃ワシテのペルシア王に対する反抗心でしょう。なお「エステル記」1章12節も参照してください。

古代ギリシア人歴史家ヘロドトスはクセルクセス王の妃として「アメストリス」という名のみを挙げています。また「ワシテ」という名は単なる敬称であった可能性もあります。この名は「最高」とか「愛されている」という意味を持つ言葉であると推測されています。ということは「ワシテ」は「王の寵愛を受けている妻」を意味する一般的な敬称だったのかも知れません。なお「エステル記」2章17節も参照してください。ここで覚えておくべきなのは、当時の歴史に関して私たちが持っている情報は多くの点で不備なものであり、エステルの名前がヘロドトスの「歴史」に登場しないからといって、エステルが実在の歴史的人物であったことを安易に疑うべきではないということです。

酒宴の最後の日、すなわち七日目に(「エステル記」1章10節)王はすでに心地よく酒に酔っていました。これと同じように酩酊した状態にある人物を描いている聖書の箇所としては「サムエル記下」13章28節や「士師記」16章25節が挙げられます。なおペルシア人は酒を大量に飲む宴を催すことで当時つとに知られていました。

「王の前に仕える七人の侍従」(「エステル記」1章10節)とは宦官たちのことです。彼らは王の後宮(ハレム)の世話をする責任を受け持っていました。

「エステル記」1章11節と4節には「見せるため」という意味のほぼ同一の表現が繰り返されています。このことからわかるのは、王は王妃の美しさを自国の絢爛たる富と同列に置いて来客たちに見せびらかそうとしたということです。酩酊状態が王の判断力を鈍らせていたのかも知れません。このように王妃を扱うことにより、王は彼女を単なる自分の所有物の一つとして見下したことになるからです。

王妃の反抗、そして王妃の位からの追放 「エステル記」1章12〜22節

ワシテが王の命令に従わなかった理由については「エステル記」の研究者の間で様々な憶測を呼びました。あるユダヤ人聖書研究者たちは「エステル記」1章11節を「王妃が王冠以外に何も身にまとってはいけない」という命令であったと解釈しました。王の命令に真っ向から反抗する王妃ワシテの傲岸不遜さが当時の良識ある慣行とは全くかけ離れたものであったからこそ、このような悪意ある曲解が生じたとも言えるでしょう。

聖書はワシテが王の命令に従わなかった正当な理由を何も述べていません。それゆえ私たちは、王妃ワシテには夫である王に刃向かう権利が何もなかったという事実を出発点に据えて考えていかなければなりません。さらに当時のペルシア王が世界で最も権勢を誇った支配者であったという点も考慮に加えなければなりません。古代ギリシア人歴史家ヘロドトスによれば、王妃アメストリスは夫であるクセルクセス王に対して大きな影響力を持っていました。ワシテの反抗的な振る舞いもあるいは自らの権威を誇示しようとする試みだったのかも知れません。

ともあれ、ワシテのとった傍若無人な行動は罰を受けずには済まないほどの大スキャンダルでした。この前代未聞の事態にどう対処するべきか、王は「法律と審判に通じている者」に相談しました(「エステル記」1章13節)。エズラもペルシア王に「七人の議官」がいたことを伝えています(「エズラ記」7章13〜15節)。

ペルシア王の助言者であった彼らは「皆王の顔を見る者で、国の首位に座する人々」でした(「エステル記」1章14節より、口語訳)。彼らにはいつでも王の許に参上する権利がありました。ヘロドトスによれば、王が妻たちと一緒にいる時に限って、彼らは王の近くに行くことが許されていませんでした。また彼らには王の食卓で王に近い座が与えられていました。

古代の中近東では占星術の使い手たちが重用されていました。聖書にも彼らについての記述があります。「イザヤ書」47章13節(「かの天を分かつ者、星を見る者、新月によって、あなたに臨む事を告げる者」)、44章25節、「エレミヤ書」50章35節、「ダニエル書」2章2節、27節などがその例です。しかし、前述の王の七人の助言者たちによる発言には星占いに該当する部分が見当たりません。ですから「エステル記」1章13節に登場する彼らのことを口語訳で「占星術師」とは訳さずに「時を知っている知者」と直訳しているのは適切であると言えます。しかも、彼らは皆、ペルシアの「法律と審判に通じている者」でもありました。

王妃ワシテが王の招きを拒否したのはまったくの予想外の出来事であったため、ペルシアの法律にはこのようなケースに対する規定がありませんでした。それゆえ、王の知者たちによる助言は当時の地域的な慣習に基づく理性的判断によるものであり、成文化された法律によるものではありませんでした。

王妃の傲岸な態度はペルシア国民の間で悪い模範として瞬時に広まって行く可能性がありました(「エステル記」1章17節)。とりわけ貴族の妻たちはワシテによって悪い影響を受ける可能性が大いにありました。「エステル記」1章18節に「ペルシャとメデアの大臣の夫人たち」とあるように、彼らはワシテの酒宴に参加していたからです。王の七人の知者たちにとってこの問題は他人事ではなく、彼ら自身の伴侶に関わる緊急事態だったのです。

しかし、帝国の社会秩序を揺るがすような事態は断じて避けなければなりませんでした。

国の指導者には国民に対してしかるべき模範を示す責任があります。しかし残念なことに、今日の世界ではこの責務はしばしば忘れられています。例えば、一般の勤労者に対しては給与の賃上げを最小限に押さえ込もうとする一方で、社会や企業の上層部に対しては大幅な給与の上乗せを認容する、といった具合にです。

ペルシア王はギリシアの諸都市に戦争を仕掛ける計画を立てていました。そのためもあって、王は自分の決断力が疑問に付されるような優柔不断な態度をいささかなりとも公に示すわけにはいきませんでした。ましてや彼自身の妻たる王妃が夫の命令に反して好き勝手なことをしても構わないといった印象を周囲に与えることは断じて避けなければなりませんでした。当時のペルシア帝国に必要とされたのは民主的な指導者ではなく強権的な独裁者だったのです。

念のために記しておきますと、古代の中近東における女性の社会的立場はとても後世から賞賛されるようなものではありませんでした。それに対して、旧約聖書に記されている律法の諸規定は「旧約聖書は女性蔑視の書物である」という一般に流布しているイメージが全く間違ったものであることを明らかにします。イスラエルの周辺民族の諸宗教が女性に与えた社会的地位よりもはるかによい社会的地位を、イスラエルの宗教は女性に対して保証していたからです。

ワシテの受けた罰(「エステル記」1章19節)は皮肉な形で彼女自身の望みを叶えるものでした。ワシテは王の面前に姿を現すことを拒否したのですが、これからもずっと王の前には出られなくなると決まったからです。この後にワシテは「王妃」の称号を剥奪されました。

「一旦制定された法律は誰であれ取り消すことができない」とするペルシアの法律の不可変性について説明している聖書の箇所はこの「エステル記」1章19節だけではありません。例えば「エステル記」8章8節や「ダニエル書」6章8節などもそうです。また、ペルシアの行政組織の高度な機動性や、帝国全域に行き渡っていた情報伝達システム(郵便制度)についても聖書は言及しています。「エステル記」1章20節や「エズラ記」4章8〜23節などがその例です。

ペルシア王の下した命令(「エステル記」1章20節)はキリスト教の教えとは相容れないものでした。聖書の教えによれば、夫がキリストの権威にひれ伏すことが出発点となります。それから次に夫は妻が彼の権威にひれ伏すことを静かに期待するという順序になります。このように夫は決して最上位の存在なのではなく、キリストの下位に置かれているのです(「エフェソの信徒への手紙」5章21〜33節)。さらに言えば、最初にキリストが私たちを愛してくださったことを私たちは心に刻むべきでしょう。このキリストの愛が土台にあるからこそ、キリスト信仰者はキリストの権威の下に自ら進んでひれ伏すのです。(「ヨハネの第一の手紙」4章7〜21節)。

1章の終わりの部分だけを読むと「エステル記」は男性優位の書物に映るかもしれませんが、この書物の真の英雄はエステルという女性であることを思い起こしましょう。

「エステル記」1章22節の終わりの部分は「それぞれの家族では夫の母国語を話さなければならない」という意味なのか、それとも「それぞれの民族ではその民の言葉を話さなければならない」という意味なのか、やや曖昧です。例えば「ネヘミヤ記」には次のような記述があります。

「そのころまた、わたしはアシドド、アンモン、モアブの女をめとったユダヤ人を見た。彼らの子供の半分はアシドドの言葉を語って、ユダヤの言葉を語ることができず、おのおのその母親の出た民の言葉を語った。わたしは彼らを責め、またののしり、そのうちの数人を撃って、その毛を抜き、神の名をさして誓わせて言った、「あなたがたは彼らのむすこに自分の娘を与えてはならない。またあなたがたのむすこ、またはあなたがた自身のために彼らの娘をめとってはならない。イスラエルの王ソロモンはこれらのことによって罪を犯したではないか。彼のような王は多くの国民のうちにもなく、神に愛せられた者である。神は彼をイスラエル全国の王とせられた。ところが異邦の女たちは彼に罪を犯させた。それゆえあなたがたが異邦の女をめとり、このすべての大いなる悪を行って、われわれの神に罪を犯すのを、われわれは聞き流しにしておけようか」。」
(「ネヘミヤ記」13章23〜27節、口語訳)


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