キリスト教徒と社会

9.10. 客人として、異国人として

「あなたがたはこの世のものではありません。(・・・)だから、この世はあなたがたを憎むのです。」
(「ヨハネによる福音書」15章19節より)

 キリスト信仰者として存在することは、この世のものではない交わりの中に入ることを意味します。私たちを取り巻く世界の中には、神様の御国にはまったくそぐわないものや、神様への敵意をむき出しにするものさえあります。それゆえ、とりわけキリスト信仰者として生きる姿勢は、周囲から好奇の目で見られたり笑われたり悪評を招いたりする場合もあるでしょう。こうなるのはキリストのゆえであり、キリスト教に基づく生活につきまとうものです。キリスト信仰者としての生活の中には「何か」が神様の御国から私たちの住む世界へと入り込んできています。その「何か」が、この世では当前とみなされている功利的な思考を打ち崩します。神様の御国からのこのような働きかけがない場合には、私たち人間は責任、罪悪感、公正、応報的な考えかたなどを基準にして行動するものです。そして、神様の律法も人間の定めた法律も、人間のこのような基本的な行動様式を考慮に入れて制定されているのです。

新しい王国での新しい生き方

 しかし、神様の御国は「罪の赦しの王国」です。自分のほうも絶えず新たに何度でも無制限に罪の赦しをいただいている身であるがゆえに、私たちは「他の人の罪をこの局面で赦してしまったら、いったいどのような結果を招くだろうか」などと悩んだりせずに、他の罪人たちに対しても罪の赦しを与えることができるのです。私たちは、もう片方の頬も打たれるように向けてやることができるし、私たちを強いて1マイル行かせようとする者と一緒に2マイル行くこともできるし、下着を取ろうとする者には上着も与えてやることができます(「マタイによる福音書」5章38~42節)。イエス様の名高い「山上の説教」の大部分はまさしくこのような生きかたを私たちに教えています。(この教えは一般の倫理の教科書にはまったく不適切なものです。なぜなら、このような生きかたは、キリストの十字架の死によって聖なる神様と罪深い人間存在との間にもたらされた「和解」を前提としているからです。このことを無視して「山上の説教」を読んだ多くの人々はキリスト教に関して誤ったイメージを抱くことになりました。)

 このような新しい生きかたは世に対してキリストを証するものとなるかもしれません。イエス様が言われているように「真理に属する」人々がこの世には存在するのです。それゆえ、彼らはイエス様の声を聴き、真理が現れるときには「光のもとへと来る」のです(「ヨハネによる福音書」18章37節、3章21節)。彼らはキリストの光を微かにでも見ることができた場合には、自ら喜んでその光に反応します。ところが、他の人々は軽蔑と苛立ちをもってその光に反応します。彼らは新しい生きかたを自分らに対する挑戦と受け取り、脅威を感じるのです。新しい生き方はそれまで彼らが慣れ親しんできた生活環境を破壊してしまうからです。それゆえ、彼らはそれを「理性的ではない」とか「偽善的だ」とか「人生の楽しみを全否定する霊的すぎる生きかただ」などと言って拒絶する必要にせまられるのです。

9.11. 国家と司法組織

法と正義はこの世において必要不可欠です

「山上の説教の描く罪の赦しの王国の中で生きようと努める人は否応なく滅んでしまうことになりはしまいか」というもっともな質問がここで出てきそうです。もはや「悪に対して逆らってはいけない」のだとしたら、社会全体が無秩序に陥ってしまうのではないでしょうか(「マタイによる福音書」5章39節)。

国家は神様の御心に従い、それを実現するために配慮していかなければなりません

 先の疑問への答えは、福音によれば悪に対して立ち向かう公的権威が制定され存在している、というものです。それは「国家」や「市町村」や「役所」などと訳せるものに対応しています。ここでは単純に「国家」について話を進めることにしましょう。

 新約聖書は国家が「神様に由来するもの」であると言っています。しかしそれは、「国家はすべてにおいて過失を犯すことがないし、その働きはあらゆる点で神様の御心を代行しているのだから、国家を批判せずに、そのまま承認するべきである」という意味ではありません。そうではなく、大切なのは、「神様によらない権威はなく、それらの権威はすべて神様によって定められたものである」という点です(「ローマの信徒への手紙」13章1節)。国家は神様から特別な使命を受けています。神様はこの世で社会と司法組織が正常に機能することを望んでおられます。それゆえ神様は、人間が創造された時に神様からいただいた「善を行う力」を通してたゆまずに働きかけておられるのです。神様はこの善を行う力によって人間が社会を構成するようにし、個々人の暴力や横暴を統制し管轄するために司法組織を設置なさいました。これは創造主が被造物世界を維持する働きに関係しています。この働きを通して神様は被造物世界が無秩序状態になって崩壊してしまわないようにしてくださいました。国家は新約聖書が「この世の時」と名づけている時空間に属する秩序です。「この世の時」とは、現時点ではとりあえず有効ではあるものの、いつかは「新しい時」に道をゆずり退かなければならない「時」のことをさしています(これについては次章で詳しく扱います)。国家は神様の御国の新しい生きかたに従うことができません。キリストの御国は、罪の赦しを受けたり与えたりする「罪の赦しの王国」です。それに対して、国家は公正が法律によって維持されるために存在しています。国家は「いたずらに剣を帯びているわけではありません」。危機に際しては、人間の命を守り悪の勝利を阻止するために、国家は暴力や武器をも用いることになります(「ローマの信徒への手紙」13章4節)。

律法(あるいは法律)を用いる第一番目の目的は、世の秩序を維持することです

 このように任務を遂行するとき、国家は「神様の僕」としてそれを行っています。この際、国家は神学用語でいう「律法の第一用法」に対応する内容を実行しています。神様の律法は、暴力が抑制され善き秩序が世に維持されるためにも存在しているのです。不信仰な人々もこの点では我知らずして神様の御業を補助しています。この律法の第一用法は、両親、教師、裁判官、法律の制定者、通常の法律業務に携わっている人々、それに公正と安全の維持のために働いている人々など一般に関係しています。

律法を用いる第二番目の目的は、人に自らの罪を悔いる心を起こし、その人がキリストの御許で救いを求めるようにすることです

 「律法の第二用法」は第一用法とはまったく別のものです。この用法の目的は、律法が私たちの良心に働きかけて、私たちがキリストの御許へ避難してイエス様に罪の赦しを願うようにさせることにあります。この働きかけを神様は御言葉を通じて行われます。そして、ここで用いられる手段は国家ではなく、教会です。

9.12. ふたつの世界の住人として

キリスト信仰者は「律法の王国」と「罪の赦しの王国」の双方に同時に住んでいます

 キリスト信仰者は「キリストの御国のもの」になっていますが、同時に一方では、依然として被造物世界にも居住しています。キリスト信仰者にはこの二つの世界における使命があり、国民としての義務があります。

 キリスト信仰者として人は自分の生き方によって「より善い新しい義」について証するために「世に派遣されて」います(「ヨハネによる福音書」17章18節)。この義はキリストおよびキリストによる罪の赦しと共に到来しました。その一方で、キリスト信仰者は「世の中に」生きており、その所属する国家の一員としての義務を負っています(「ヨハネによる福音書」17章11節)。

互いに相反するように見える物事の進めかたの両方とも正しい場合があります

 キリスト信仰者は同時に二つの国に属しているので、二重の義務を担っていることになります。あるキリスト信仰者にとってその使命とは、もう一方の頬を打たれるべく差し出すことであるかもしれません。しかし同時に他方では、その人には国家の役人として犯罪人を逮捕する職務があるかもしれません。人は一個人のキリスト信仰者としては自らの受けた不公正を根に持たず忘れることにする場合もあるでしょう。それどころか、不公正に対して(復讐ではなく)奉仕という善き行いによって応対することさえありえます。しかし、会計監査の業務や公職の任務を遂行する際にはそのように行うことができません。一般的な原則としては次のことが言えます。私たちは社会や司法の働きを担う者としては法と公正を遵守しなければならず、「山上の教え」にそのまま従うことはできません。しかしその一方で、私たちはキリスト信仰者として個人的に「山上の教え」に従うことはできます。もうひとつの原則は、何かに関して自らの権利を誰かが行使せずに譲歩しなければならなくなった場合に、他ならぬキリスト信仰者である自分こそが率先して譲歩しなければならない、ということです。権利の放棄から生じるやむをえない不利益は、他の人ではなくキリスト信仰者である私たち自身が担うべきなのです。たとえば、家族の父親が自分の家族を養うために神様から一家の財産の管理を委ねられていることを忘れてお金を浪費するならば、それは正しくありません。しかし、こうした原則はあらゆる状況に対応するためには大雑把すぎるものであることは覚えておかなければなりません。まずもって、キリスト信仰者は規則によって行動するのではなく、活ける主の僕として活動するものです。

9.13. 社会に欠けているもの

私たちの社会においても創造主はこの世の秩序の破壊を企てる者と戦っておられます

 国家は「神様の従僕」なのです。しかし、国家は「キリスト信仰者」ではありません。国家は福音ではなく法律に基づいて運営されています。国家が誤りを犯さないことはありえません。それは、神様の御心を行おうとするキリスト信仰者についてもいえることです。指導的な立場にある人たちの中に神様を信じておらずその御心に沿って働こうとはしない人々が大多数を占める国家では、それはなおさらのことです。

 また、社会生活の中でも、創造主と神様の御心に反抗する諸力との間に絶え間ない戦いがあります。そして、破壊し尽くす諸力が圧倒的に見えるときがあります。そうかと思うと一方では、不信仰な人々の助力によって社会的公正が実現していくように見えるときもあります。キリスト信仰者も国民として、創造主の善なる御意思と、一切を破壊しようとする諸力との間の戦いに加わっているのです。このため、キリスト信仰者には次に述べるような義務と責任が与えられています。

1)キリスト信仰者は社会を改善するためのどのような活動にも有益なやりかたで誠実に参加することができます

 第一に、キリスト信仰者は社会が神様の御心に沿って、すなわち人々の真の益となるべくきちんと機能するように尽力します。キリスト信仰者は責任を自覚しそれを全うするためにできるかぎりのことを行う忠実な国民です。キリスト信仰者は法と秩序を遵守します。それは違法行為が受けるべき好ましからぬ結果(処罰)を避けるためだけではなく、パウロが言っているように「良心のためでもあります」(「ローマの信徒への手紙」13章5節)。キリスト信仰者は社会が抱える組織的な欠点などを自己の義務を怠る言い訳にはしません。一般の人々の利益を犠牲にすることで何の処罰もなしに私益を得ることが可能な場合でも、キリスト信仰者は正直に自らの義務に忠実であり続けます。

2)キリスト信仰者は社会上の問題点を改善するために従来のやりかたに建設的な批判を加えることもあるし、よりよいやりかたを模索してそれを実現する柔軟な心をもつこともできます

 第二に、キリスト信仰者は社会の欠点を修繕するためにできうるかぎりのことをします。民主国家では国民ひとりひとりにこの事業に参加する可能性と責任があります。選挙権は自らの利益を守ることだけをその目的としているのではありません。それは他の人たちの状況に働きかけることを可能にするものです。このことからわかるのは、私たちには他の人たちの置かれている状態に対して真心から配慮する義務があるということです。福音は本来、なんらかの仕方で差別を受け社会から忘却されている人たちのことを私たちが特別に配慮するようにと常に働きかけるものです。教会はこの点について社会に対する特別な責任を担っています。教会が具体的に何を行うかについては、「教会員たちが教会に何をするように望んでいるか」とか「教会員たちがどのようなことをキリスト教的に不可欠な義務であると感じているか」ということに左右されます。かつて教会は教育や病院や社会的奉仕などの分野において先駆的な役割を果たしてきました。教会は人々に援助を提供する新しい仕事のかたちを生み出してきました。その後で国家はそれらの活動を発展させ、社会的にさらに広く継続してきました。いつの時代でも、これら新しい社会福祉のやりかたは、たとえすでに社会保障制度のある国家であっても、十分すぎる状態になることは決してありません。上述のような画期的ともいえる活動は教会の中でも必要とされています。キリスト信仰者が個人的に始めた新しい奉仕の働きが次第に教会としての新しい仕事のひとつとなっていくことなどがその一例です。また、一般人が直接行使できる政治的な手段が制限されている社会においても、何かしら可能性が残されているものです。社会を形作る原動力は政治家や選挙(もしも自由選挙があればですが)だけではなく、国民という大集団です。国民はひとりひとりが自らの置かれた社会的環境の中で活動しており、社会における公正の秩序を実生活に適用し、社会や支配者層からの援助を期待しつつそれぞれの日常を営んでいます。

3)キリスト信仰者は人間に従うよりも神様のほうに従わなければなりません

 第三に、「忠実さ」にも限界があることを覚えなければなりません。国家が悪の手先に成り下がることもありうるからです。新約聖書は、サタン的な国家が存在しうることを告げています(「ヨハネの黙示録」13章)。当時のローマ帝国が異教的であり欠点をもっていたにもかかわらず、パウロはその権威に対して好意的に接しました。その一方、新約聖書には、全体主義国家が未来に出現するという幻が含まれています。そのような国家は神様から権威を奪い、国家命令への絶対的な服従を人々から要求します。しかも、その命令に従うことが神様に従うことと矛盾する場合であってもそのように要求してくるのです。このような状況下に置かれた場合、キリスト信仰者には神様を拒絶することに繋がるような行為への参加を峻拒する他に選択肢はありません。こうして、キリスト信仰者は苦しい立場に追い込まれます。その結果として殉教する場合さえ出てくるでしょう。これとは逆の立場をとり、「教会の存続を守るためには暴力を行使してもよい」と考える人たちもいますが、これは新約聖書とはまったく相容れないものです。

 この聖書講座はキリスト教の教えの初歩を説明するものであり、倫理の教科書ではありません。それゆえこの講座では、一般に大きな関心をもたれている社会生活にかかわる諸問題を詳細に取り上げることはできません。それらの問題の多くは現代における新たな考察を加えて取り組む必要があります。例えば、ルター派教会の基本信条である「アウグスブルク信仰告白」は「正当な戦争」について語っています。しかし、私たちの時代にもこのような戦争について語ることが可能でしょうか。それとも、国家が軍備を持つことに関する古典的なルター派の考えかたをふたたび真剣に考察するべき時が来ているのでしょうか。どのような状況の下で、またどのような目的に基づく場合に、国家には暴力を行使する権利があるのでしょうか。国家が内紛状態になる時にキリスト信仰者はいったい誰に対して忠実を尽くす義務を負っていることになるのでしょうか。また、どの程度まで私たちは他の国で起きている事柄についても責任を担うべきなのでしょうか。

 ここで私たちはキリスト教の基本的な考えかたをおおまかにあらわすことにとどめざるをえません。その考えかたとは「司法組織を維持する社会体制が存在しているのは神様の御心にかなうものであり、それゆえ私たちはその社会体制に対して忠実を尽くさなければならない」というものです。しかし、この忠実さにも限度があります。なぜなら、私たちキリスト信仰者は人間よりも神様のほうに従わなければならないからです。

9.14. とりなしの祈り

とりなしの祈りは人目をひく社会貢献ができない人でも行える尊くて効力がある働きです

 新約聖書は多くの箇所で他の人々のために祈る「とりなしの祈り」の大切さを強調しています。パウロは教会が「社会で責任を担っている人たち」のためにも祈るように勧めています(「テモテへの第一の手紙」2章1節以降)。彼らもまた社会を作り上げようとする力と破壊しようとする力との間の大規模な戦いの只中にいるからです。彼らは神様から特別な使命を受けて派遣された人々です。彼らは己の任務を真面目に遂行することもできるし、でたらめに行うこともできます。キリスト信仰者の最初の仕事は、彼らが職務を忠実に遂行できるようにお祈りによって支えることです。神様を無視した生活をしている人にとって、このような考えはまったく愚かしいものと映るでしょう。しかし、神様の開いてくださる新しい道や可能性について自らの経験によって何かしら知るようになった人は、とりなしの祈りのことをいつも大切な社会的活動であるとみなします。とりなしの祈りを軽んじている人はたいへん多いので、キリスト信仰者はそれだけいっそうこの働きを大切にするのです。また、とりなしの祈りは「他の方法では社会的活動に参加する力や可能性や手段が自分にはない」と思っている人にも行える働きです。

9.15. 不信仰な人々と共に働くことについて

不信仰な人々と共に働くことは、善い目的のためには可能ですし実行もできます。しかし、信仰生活を妨げる事柄に関しては、彼らと共に活動するべきではありません

 この世での公正の実現をめざし社会を正しく機能させるためには、教会も個々のキリスト信仰者も不信仰な人々と協力して働くことができます。この世での生活、例えば生産、経済、治療、教育などの分野に関するかぎりにおいては、キリスト信仰者は公正を実現し人を助けるために働く人たちと協力体制を築くことができます。キリスト信仰者に協力する彼らは皆、この点で「神様の僕」であるといえます。しかし、時には衝突が避けられなくなるケースも生じます。例えば、国家権力が世の仕組みを根本的に変えようとして国民の宗教的信条にも干渉を企て、部分的にではあれキリスト教の信仰に反する考えかたを国民に強制しようとする場合などです。このような衝突はとりわけ学校や教育の現場で多く起こりますし、また貧しい人たちを援助する社会活動の中にも見受けられるものです。国家が国民生活の広範な領域において責任を引き受けようとする姿勢自体はよいことでしょう。しかし、このためにかえって現代の社会ではキリスト信仰者の信仰生活をめぐる衝突が増えてきている面もあります。

9.16. 社会参加と罪の赦し

 私たちはこれまでキリスト信仰者の社会参加について考えてきました。ここで「キリスト信仰者」とは、信仰を通してキリストと共に活きる人のことです。キリスト信仰者にとって最優先課題となるのは信仰です。その信仰に基づく帰結として「いかにしてキリスト信仰者は社会的責任を担っていくべきか」という次の課題が生じてきます。

他の諸法律一般と同じように、社会的義務もまた私たちを裁く法となる場合があります

 しかし、実生活では上に述べた優先順序(まず信仰、その後で信仰者の社会的責任)が逆になることもしばしば起こります。教会やキリスト教に何らかの興味を示す人々が、世界が危機的状態にあることを熱心に告知して回る場合があります。社会において改善していくべき不公正(例えば、テレビの映像を介して伝えられる、目を覆いたくなるような悲惨な現実など)に対して、彼らは持ち前の正義感によって「自分には何かできないだろうか」と考えます。これは正当な欲求です。その結果、もしかしたら彼らは地元の教会や困窮している人々を支援する組織で活動するようになるかもしれません。それから続いて起きることは、前章で扱った内容を少しだけ変えた繰り返しである、とみなすこともできるでしょう。すなわち、人は召命を受け、自らすすんでそれを受け入れて、神様が自分のことを用いてくださるように委ねます。この人が初期の段階で一番よくわかっているのは、法律、要求、必要、何かを行う義務などであるといえます。

 しかし、このように信仰者の社会的責任に信仰生活の中心を置く人々はいずれ精神的危機に陥るものです。社会的責任に関して彼らが自分に要求する内容は、彼ら自身が納得できるようなやりかたで実現するにはあまりにも大きすぎるからです。現実には、人間が遂行できる事柄は大海の中の一滴の雫に過ぎません。この過程で大半の人はすっかり疲れてしまいますが、中には頑張り続ける人たちもいます。しかし、いじましい努力を続ける彼らもまた「自分は今まで一度だって思う存分活動できなかったし、時間やお金や力を惜しまずにささげることもしなかった」という罪悪感に絶えず悩まされている場合が多いものです。自分の手には負えないように見える問題を前にして、すっかり意気消沈してしまう人も出てきます。実際には内容的に曖昧なことが多い「何々主義」とやらに基づく主張を互いに排斥し合う場合もあります。また、「根本から革新的な事柄を実現するためには既成のものすべてを破壊しなければならない」といった過激な要求を掲げる者もいます。

福音は、法の要求の厳しさに苦しむ私たちの良心を解放し、自由な心から喜んで社会に奉仕するようにします

 「律法の奴隷」の現代版ともいえるこうした精神的危機においても決定的に大切な点は「宣教されているのは福音だろうか?そのメッセージは人の心に届いているだろうか?」ということです。福音の核心はここでも「罪の赦し」にあります。それは、自らの犯した間違いすべてについて、またやるべき事をきちんと行わなかったことについて、罪の赦しを受けることです。これは、人はどれほどひどい失敗を経験した場合であっても、新たな思いをもって人生を送っていくことが許されている、という意味です。この罪の赦しこそが「また新しくやり続けよう」という積極的な忍耐強さを生み出すのです。私たちはあきらめません。さらに、共に働いている人に対しても、また敵対者に対しても、新たな姿勢で接していく力を福音は私たちに与えてくれます。その姿勢とは、以前よりも厳しさが減って、要求度も少なくなり、他の人や自分自身の欠点を大目に見て、お互いを肯定的に評価し合っていくというものです。世界を改善するために奮闘する際にも、敵対者との間に明確な境界線を引けるほど自分が特別な善人ではないこと、むしろ、主キリストからの罪の赦しのうちで自分が活かされており、そのおかげで自分でも活動を続けることができるし、容認しがたい点がある他の人々に対しても忍耐強い態度を取れることを、キリスト信仰者ははっきりと自覚しているものです。