イエス様の死

5.6. ポンテウス・ピラトの下に苦しみを受け、

(背景)人々はイエス様の教えを拒絶しました

 イエス様の働きが人々に強い影響を与えた様子やイエス様に従う者の数が減っていった様子について福音書は多くを語っています。メシアが御自分の民のもとに来られたにもかかわらず、民はこの方を拒絶しました。この方は「御自分のもの」のもとに来られました。しかし、彼らはこの方を受け入れませんでした(「ヨハネによる福音書」1章11節)。

イエス様はたんなる教師ではなく、その教えの実行者でもあり、神様と人との仲介者でもありました

 もしもイエス様の使命がたんに人々に悔い改めるよう説教し、彼らが愛の中で生活するように招くことに過ぎなかったとしたら、今ではその働きには何の意味もなくなってしまったことでしょう。しかし、イエス様がこの世に来られたのは、敵を愛し、打ち砕かれた者を憐れみ、窮乏に苦しむ者に自分の持ち物を分け与えるよう人々に教えるためだけではありませんでした。「律法の下にある人々を贖い、私たちが(神様の)子どもとなるために、(・・・)時が満ちて神様は御子を遣わされました」(「ガラテアの信徒への手紙」4章4~5節)とパウロは言っています。イエス様御自身も同じことを言われています。「人の子が来たのは失われたものを探して救うためです」(「ルカによる福音書」19章10節)、また、「人の子が来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自らの命を与えるためです」(「マルコによる福音書」10章45節)。

「神様と罪人とがどのように結びつくのか」という未解決問題

 私たちは今までも私たち自身の存在に関わる大問題について言及する機会がありました。汚れた者全員に対しては本質的に「焼き尽くす火」として立ち現れる聖なる神様が、どのようにして私たちのような罪深い人間を御自分に結び付けることができるのでしょうか?たしかに神様は私たちを愛して慕ってくださっています。しかし、最初の人間たちの罪への堕落(「創世記」3章)にはじまる悪との接触が今日まですべての人間のうちに受け継がれてきてしまった結果として、私たちには神様と出会う際に神様の激しい怒りによって滅ぼし尽くされるもの(原罪)が染み付いているのです。

 「この問題を解決するためには、悔い改めを行って自分を神様の御国に相応しいように変えればよい」と考える人々がいます。ここで彼らの言う「悔い改め」とは、道徳的によりよく生きていこうとする決意というほどの意味です。

 イエス様がこの地上を歩まれていた時代に、この「神様と罪人とがどのように結びつくのか」という問題は非常に明確な形であらわれました。人々は「神様と共にいるように」との招きを受けました。天の御国は近くまで来ており、彼らにはそこに入る可能性が差し出されました。ところが、人々はそれを跳ね除けました。それは弟子たちも同じでした。最終的には、イエス様が捕まった時点で弟子たちは全員イエス様を捨てて逃げ去りました。

 その時点で、神様は御子を御自分のもとへと帰還させることができたはずです。神様は人類が勝手に自ら選んだ滅びへの道を悲痛な最期に至るまで転がり落ちていくまま放置することもできたはずです。

しかし、神様が選択なさったのは別の道でした。

受難の道

 イエス様は苦しみを受けて死ぬためにエルサレムに赴かれました。イエス様が何をなさるおつもりか、弟子たちには見当もつきませんでした。先頭に立つイエス様の後を弟子たちは怯えながらついていきました(「マルコによる福音書」10章32節)。彼らはエルサレムで悪党どもと一戦交えるようになると予想していました。そして、その通りになりました。ただし、それは彼らが想像していたのとはまったく異なる形で実現しました。

 イエス様がエルサレムに来てしばらくの間は、人々は「神様の使者」を歓迎するかのように見えました。彼らはイエス様に熱心に挨拶して喜んでいました。しかし、イエス様が以前と同じように悔い改めの説教を続けると、民衆のイエス様に対する態度は瞬く間に変わりました。そして、イエス様の反対者たちが民衆のより大きな支持を得るようになっていきました。

5.7. 私たちのために罪となられ、

 この意外な展開は弟子たちの理解を超えるものでした。敵が来るべき戦いに向けて手はずを整えているのは誰の目にも明らかなのに、イエス様は迫り来る危険から御自身や弟子たちを護るための具体的な方策を何も講じませんでした。イエス様は過ぎ越しのお祝いを弟子たちと共に過ごし、御自分がもうすぐこの世を去っていくことや未来に関わることについて彼らに語られました。しかし、弟子たちはイエス様の言われる内容のほんの一部分しか理解できませんでした。それから、イエス様は彼らがいつも集まっていた場所、ゲッセマネへと赴かれました。

ゲッセマネの杯

 そこでの出来事は弟子たちにはさらに理解しがたいことでした。彼らの師は人間の力を超える困難な何かと闘っておられました。それはイエス様を文字通り地面まで押し付けるほど激しい戦いでした。「もしもできることならば、これから私を待ち受けていることをどうか私がやり過ごせるように」とイエス様は御父に願い祈りました。イエス様は苦しみにとらえられ、血の汗を流しました。

 そこで何が起きたのか、少なくとも想像することはできます。イエス様が闘った困難の内容はただの苦しみや死だけではありませんでした。イエス様が飲まなければならなかった杯の中身はたんなる十字架の苦痛だけではありませんでした。そこには、さらに恐るべき何かが含まれていました。それについてパウロは「神様は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪となさった」と表現しました(「コリントの信徒への第二の手紙」5章21節)。この地上でただ一人罪のないお方、すべてにおいて神様の御意志を完全に実行なさった唯一のお方が世の全部の罪が入っている杯を飲み干して、それらの罪を御自分に引き受けてくださったのです。

5.8. 十字架に架けられ、

 これは弟子たち同じく私たちにとっても、はじめは理解できないように感じられる事柄です。イエス様が捕まる時に一切抵抗なさらなかったことも不可解です。イエス様を護ろうとして剣を取ったペテロは、逆にそのことでイエス様からお叱りを受けました(「ヨハネによる福音書」17章10~11節)。そのようなペテロも結局はイエス様を捨てて逃げ出すことになったのです。

死刑の宣告

 大祭司たちの面前で尋問を受けたイエス様は黙しておられました。イエス様は御自分に向けて急遽捏造された数々の告発が偽りであることを簡単に示すことができたはずです。しかし、イエス様は黙っておられました。

無実の者に死罪を下す誤審でもあり、正しい裁きでもあり

 そうこうするうちに裁決が下されました。この裁判を人間的な基準で評価すると、イエス様の受けた裁決は無実な者に死罪を下す誤審でした。実は、この裁決の際に大祭司やサンヘドリン(最高法院)の委員たちは自分たち自身の罪、私たちの罪、全世界の罪を同時に裁いたのです。もっとも、彼らはこのことにまったく無自覚だったのですが。彼らの前で告発を受けているイエス様は本当に「罪の咎」を受けるべき存在だったのです。ただし、その罪とは彼らが述べ立てたイエス様の罪状に関するものではなく、彼らには想像もできなかった事柄についてでした。あの瞬間にイエス様は、歴史上の大規模かつ凄惨な犯罪から日常のあらゆるささやかな罪にいたるまで、人間世界のすべての罪の重荷、すべての私たちの違反や義務の怠りをひとつに集めた罪の咎を身代わりとして担ってくださったのです。そして、その咎は死罪に価するものでした。それゆえ、御自分には罪がまったくなかったにもかかわらず、イエス様は黙ってこの裁きを受け入れたのです。

 それから、イエス様は十字架につけられるために連行されました。「この方は(十字架の)木にかかって私たちの罪を御自分の身に負われました」とペテロは言っています(「ペテロの第一の手紙」2章24節)。イエス様が裁きを受けて殺された時に実際に起きたことは何だったのか、キリスト教は今まで述べてきたような説明を与えています。

5.9. イエス様の死

すべての罪人のために

 神様はすべての人間のすべての罪のすべての咎を取り去って自ら身代わりにそれを担うことになさいました。その際、神様は罪のもたらすすべての結果をも肩代わりすることになりました。罪の恐ろしいところは、罪人は神様と結びつこうとするとき自らの罪のゆえに滅びるほかないことです。ところが、ここでは罪と神様が結びついています。神様の御子であり真の神であるお方が人間界の罪を取り去ってわが身に引き受け「御自分の所有物」としてくださいました。私たちの罪を一身に引き受けられたがゆえに、イエス様は十字架で死ななければならなかったのです。神様と罪とをそのまま直接に結びつけることはありえなかったからです。

 こうして旧約の預言者イザヤによる「主の苦難の僕」の預言が成就しました(「イザヤ書」53章5節以降)。主はイエス様の上に私たちのすべての罪の負債を投げ捨てました。この時に「私たちの平和のために懲罰がこの方の上にありました。そしてこの方の傷を通して私たちは癒されたのです」というイザヤが伝えるもうひとつの預言が実現しました。

 この預言の内容については次章でさらにお話ししましょう。

キリストは私たちのために呪いとなりました(「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)

 イエス様が本当に私たちの罪を取り去って「御自分のもの」としてくださったことを自分自身に対してはっきりさせないかぎり、私たちはイエス様の苦難の深い意味を決して理解するようにはなりません。イエス様は神様と途切れなく結びついて生活なさいました。そして、御父を愛しておられました。このお方が「神様から私たちを引き離してしまうすべてのもの」を私たちから取り去って身代わりに担ってくださったのです。「私の神様、私の神様、なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」と「詩篇」22篇の御言葉を引用して十字架上で嘆き叫ばれた時、ちょうど罪人が裁きに服するように、イエス様は実際にも神様から引き離されたのです。

 全能なる神様は、もしも私たち罪人をその罪の咎の裁きの下から助け出すために御子を十字架で死なせずにすむ何か別の手段を選ぶことができたのなら、みすみす御子を死なせるためにこの世にお遣わしにはならなかったことでしょう。私たちがたとえば「イエス様に似た者」となったり「イエス様の模範」に従ったりすることによってすべてを罪の堕落以前の状態へと修復できたのなら、神様が人間の理解を超える大きな苦しみを御子に味わわせる必要はなかったでしょう。「もしも義が律法によって得られるのなら、キリストはむだに死なれたことになります」とパウロが言っているとおりです(「ガラテアの信徒への手紙」2章21節)。

無力な助け主

 キリストが十字架の上にいたときに反対者たちはイエス様を侮蔑して「他人を救ったが、自分自身を救うことはできない」と言いました(「マタイによる福音書」27章42節)。彼らのこの発言は、彼らの目から見てもキリストには本当に奇跡を行う力があったことを後世の人々に証しています。彼らは皆が知っていたことを言いました。「彼は他人を助けた。人間が自分にもできると思っているあらゆることを超えるやり方で彼は他人を助けたのだ」。しかし「彼は自分を助けることができない」と言った点で彼らは間違っていました。イエス様は十字架から降りることもできたはずです。しかし、そうはなさいませんでした。もしもイエス様がそうしていたなら、私たち全員が自らの罪の中に永久に閉じ込められることになったでしょう。そして、イエス様は御自分を十字架に縛り付けていた、全人類のすべての罪のすべての咎を肩代わりすることにはならなかったでしょう。そして、私たちがそれらを自分自身で担わなければならなくなったことでしょう。しかし、イエス様はそうなることを望まれませんでした。人の子は仕えるために、また御自分の命を多くの人の贖いの代価として与えるために来られたからです(「マルコによる福音書」10章45節)。