神の子イエス・キリスト

5.1. 時が満ちて

メシアが来られるという約束

 約400年間、イスラエルには預言者が現れませんでした。ところがある日突然「洗礼者」と呼ばれるヨハネが登場しました。預言者特有の例外的な権威をもってヨハネは「待ち望まれていたことが今や起きようとしている」と宣教しました。「今神様は旧約聖書で与えた約束に従って救いの御業を実現しようとしている。神様の御国は近い。それゆえ、皆が悔い改め、すぐそこまで来ている御国を迎え入れる用意をしなければならない」ということを洗礼者ヨハネは強調しました。ユダヤ人たちは皆、ここで洗礼者ヨハネが何を問題にしているのか知っていました。「もしかしたら洗礼者ヨハネこそは本当に神様に遣わされた者かもしれない」と彼らは考えました。イスラエルに実際に起こったこと、旧約聖書が証しているすべての出来事について、神様には御自分の計画と目的がありました。神様はアブラハムをその生まれ故郷から召して未知の旅路へと連れ出しました。その目的はアブラハムが「神の民」全員の父となるためでした。神様は御民をエジプトから救い出し、シナイ山で彼らと契約を結ばれました。彼らが他の諸国民に対する模範や証となるように、神様は彼らに律法をお与えになりました。神様は離反した彼らを試みや捕囚によって懲らしめました。しかしその一方では、彼らを守る御手を彼らの上から取り去ることはなさいませんでした。神様は預言者たちを神の民のもとへ遣わしました。すべての預言者たちが伝えたメッセージは「来るべきある時」を指し示すものでした。その時が来ると、神様は新しい契約を立て、神の民を解放し、正義を護る王を彼らに与えて「ダヴィデの座とその王国では主権は大きく平和は限りない」(「イザヤ書」9章6節より)ことを実現するのです。

 旧約聖書に含まれる一連の預言書を知悉していた人々はこれよりもさらに大きい約束の存在を知っていました。それは「シオンから律法が発し、エルサレムから主の御言葉が発し、イスラエルはすべての民の光となる」という約束でした(「イザヤ書」2章2~3節)。神様が御民になさったすべてのことは、世のあらゆる民に訪れる救いをその最終目標としているのです。

5.2. 神様はその御子を遣わされました

インカルナーティオー = 御言葉が肉となること

 「時が満ちて、神様は御子を遣わした」とパウロは言います。神様は類例のない特命を帯びたたんなる「人間」を遣わしたのではありません。神様の御子、すなわち御父と等しく永遠の存在であり、時間の世界の始まる前に存在していた方が人になられたのです。神様は御子を「女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて」遣わされました(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節)。

 この奥義はラテン語で 「インカルナーティオー」(「受肉」とも訳されるラテン語でincarnatioという言葉 )と呼ばれます。これは聖書が神様の人間世界への働きかけについて語っている一連の箇所の核心とも言える事柄です。神様が人となられた。これは歴史上たった一度だけ起きたことであり、もはや決して繰り返されることがありません。これは私たちが日常の経験に基づいて知りうることではありません。実験や研究などによってはこのことについて知識を深めることもできません。それゆえ、私たちはここで再び「啓示」に助けを求めなければならないのです。受肉の啓示は人類の歴史上かつて一度だけ実際に起きた出来事です。神様は私たちに福音と聖書の御言葉を授けることによって、私たちがこの啓示について知識を得るようになさいました。

 イエス様の時代の人々にとっても彼らの目の前で起こったことを理解するのは容易ではありませんでした。同様に、イエス様のすぐ傍にいた者たちにとってさえそれを理解できるようになるためには多くの時間が必要でした。イエス様は彼らから完全な信仰告白をすぐ最初からは要求なさいませんでした。イエス様は彼らを「弟子たち」と名づけられ、彼らが出会った真実について自分の耳や目で見聞きして納得していくための機会を彼らにお与えになりました。

5.3. この方は誰か?

人々が勝手に期待していたようなメシアとしてではなく

 弟子たちが「我々の先生は実のところ誰であったか」という疑問をどれほど深く考えていたか、それぞれの福音書は私たちに明瞭に示しています。御自分がメシアであることをイエス様は直接には宣言なさいませんでした。ユダヤの民がイエス様のことを、ローマ帝国の軍事権力による隷属から彼らを解放して「幸福の王国」を創立するメシア(救世主)に仕立て上げようとしたとき、イエス様は民のもとから退かれました(「ヨハネによる福音書」6章15節)。

しかし、その御言葉と御業には力がありました

 それでも、弟子たちがエマオへの旅の途中で証言したように、イエス様が「神様や全民衆の前で行いにも言葉にも力ある預言者である」ことは明瞭でした(「ルカによる福音書」24章19節)。イエス様の権威は、預言者に許されていた限界さえも軽々と超えるものでした。イエス様は安息日の規律よりも上位に御自分を置かれました(「マルコによる福音書」2章28節)。イエス様は人々の罪を赦されました(「マルコによる福音書」2章5節以降)。「昔の人々に対して言われていたことはあなたたちの聞いている通りです。しかし私はあなたたちに言います」(「マタイによる福音書」5章21節以降、27節以降、31節以降)。

 言葉だけではなく行いにもイエス様には例外的な力がありました。イエス様は病人を癒され(「マタイによる福音書」4章23節以降)、嵐をしずめ(「マタイによる福音書」8章23節以降)、棺に横たわる死者に起き上がるよう、その棺に触れて命じました(「ルカによる福音書」7章11節以降)。洗礼者ヨハネが獄中から弟子たちを派遣して「イエス様こそが来るべきメシアなのか、それともまだ他の人を待つべきなのか」尋ねさせたとき、イエス様は「人々がどのような出来事を目撃しているか」について言及しました。すなわち「目の見えない人は見えるようになり、足の不自由な人は歩くようになり、耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死んでいる人は生き返っているのです」。それから、イエス様は 「貧しい人たちには福音が伝えられています」(「マタイによる福音書」11章2節以降)と付け加えました。この最後の項目は、人間には実行不可能なことをイエス様が遂行されたことを最も力強く証しています。イエス様は罪人たちを神様の子らにし、取税人や娼婦を神様の御許へと導きました。イエス様は不倫の罪を犯した女を、彼女が本来なら受けるべきモーセの律法の刑罰(死罪)から救われました(「ヨハネによる福音書」8章1節以降)。困惑した弟子たちが「この方はいったい誰なのだろう」という疑問を抱いたのも当然でした。

5.4. 奇跡

奇跡の目撃者のうち全員が信仰に入ったのではありません

 イエス様は奇跡を行われました。それらの奇跡は大いに注目を集めたことでしょう。イエス様御自身もそれらの奇跡について語っていますし、弟子たちもそれらを周知の事実として言及しています。普通なら起こりえない想像を超える事柄が実現してしまった現実をイエス様の反対者たちでさえも否定はできませんでした。起きてしまった奇跡について彼らは何らかの「説明」をこしらえる必要に迫られました。「イエスはベルゼブルと契約を結んでいて、その力によって悪霊どもを追い出している」と彼らは中傷しました(「ルカによる福音書」11章15節以下)。彼らはイエス様が黒魔術を行う者でありサタンの協力者であると非難したのです。イエス様の時代に遡ることがほぼ確実に推定されるユダヤ文献の中からもこのような非難は見出せます。それらの文献において、イエス様はイスラエルを間違った方向へと導く魔術を行った「偽預言者」とみなされています。それらの記述は、イエス様の力ある行いに関して、またその御業に反対する者たちの説明の仕方に関して、逆に福音書の記述の信頼性を高めることに貢献しています。

 私たちが見てきたように、奇跡はいつもいろいろなやりかたで説明できます。奇跡を通して働きかけているのは神様です。しかし、このことは批判的・中立的な姿勢に基づく研究によっては証明出来ることではありません。神様が奇跡という賜物を人にお与えになるとき、その人はそれを受け取ることも拒絶することもできます。しかし、賜物に対して態度を保留したまま、それまでいた場所に居座り続けることもできません。神様から人間のほうに近づいて罪の赦しを差し出され、「私に従いなさい」とその人を弟子として召されるときに、その人の運命は決まります。ファリサイ派の人々は神様の賜物を拒絶するだけでは事足りず、「イエスの奇跡は暗闇の支配者に由来するものだ」とさえ宣言したのです。ちょうどそのタイミングで、イエス様は彼らに「聖霊様に対する罪を犯してはならない」と警告なさいました。聖霊様に対する罪は決して赦されることがないからです。あたかも神様と目と目を合わせるようにして人が神様の愛の最も偉大な証拠に間近に接しながらも、そのすべてを悪魔の仕業であると説明するのは、その人が神様とその恵みとを受け入れる能力を永久に失った「しるし」だからです。

5.5. キリスト、活ける神様の御子

この啓示を受け入れることも否定してしまうこともありえます

 弟子たちがイエス様の行いと教えとを見聞きしていたある日、イエス様は彼らに「あなたがたは私が誰だと思いますか」と質問なさいました(「マタイによる福音書」16章15節以下)。

 もしも十分にイエス様の教えを聴いてイエス様の行いを見ることができたのなら、この質問に答えることができます。しかし、弟子ではない部外者による観察の結果によってはこの質問に答えることができません。ペテロが質問に正しく答えたときに、イエス様は「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいです。あなたにこのことをあらわしたのは、肉や血ではなく、天にいます私の御父様です」と言われました。「肉や血」という言葉でイエス様は人間的な才能や力を意味しておられます。これも啓示と関係することがらです。神様が御自分の真実について、またイエス様が神様の御子であることについて人間に確信を抱かせることも神様のなさる御業なのです。

同時に「真の神」でもあり「真の人」でもあり

 「イエス様はキリストであり、活ける神様の御子である」とはどういう意味なのでしょうか?教会の初期の時代から今日に至るまでキリスト教会はこのことを「イエス様は同時に真の神でも真の人でもある」と言い表してきました。

 イエス様が本当の人間であることを疑う必要は誰にもありませんでした。イエス様は疲れ、憤り、悲しむことがありました。イエス様は私たち誰もが持っている人間性の限界の下に生きておられました。人はイエス様の言葉を無視することも、イエス様を侮辱することも、イエス様を捕らえて殺すこともできました。

 しかしその一方では、イエス様は真の神でもありました。パウロはイエス様の中に「すべての満ち満ちた神性が肉体となって宿っている」(「コロサイの信徒への手紙」2章9節)と指摘しています。ここに「イエス様は誰か」という問いに対する使徒たちの証が凝縮されています。

 初代教会ではそれと同じ内容を「主キリスト」という呼称によってあらわしました。「主キリスト (Kyrios Christos)」とは「このキリスト(ギリシア語)すなわちメシア(ヘブライ語)が主すなわち神様であられる」という意味です。「イエス様は主です」とも表現されました。

メシアとしての自覚

 イエス様が言われたことや行われた事柄に関しては、上述のように「イエスはキリストである」と説明する以外、他に筋の通る説明はありません。たしかにイエス様はユダヤの民が望んでいたようなこの世的なメシア(救世主)ではなかったとしても、イエス様の教えの内容全体はイエス様が「メシア」すなわち「活ける神様の御子」という意味でキリストであることを明瞭に示していました。イエス様は神様の御国がもう近いことを教えただけではなく、御国での壮大な婚礼のお祝いに招待客を呼び集める花婿が他ならぬ御自身であることを示唆なさいました。イエス様はソロモンやヨナにまさるお方でした(「マタイによる福音書」12章41節以下)。イエス様を見た者はかつての多くの預言者たちが見ることを望みつつもそれを果たせなかったお方を見ることができました(「ルカによる福音書」10章24節)。イエス様の奇跡の行いは苦しんでいる人々を助けることだけではありませんでした。それはまずもって神様の力を公にあらわすことであり、イエス様が来るべきメシアである「しるし」でもありました。イエス様は預言者ダニエルが語った「人の子」、生きている者たちと死んでいる者たちを裁くために天空の雲に乗って到来する人の子だったのです(「ダニエル記」7章13節以下)。イエス様を裁く者たちがイエス様に「お前はそのほむべき方の子なのか」と詰問したときに、イエス様は「そうである」とお答えになりました(「マルコによる福音書」14章61節以下)。

最も大切でありながら最も自尊心を傷つけること

 イエス様が人の子である、ということはあらゆる時代に通じるイエス様の奥義です。それと同時に、まさしくこの奥義はいつの時代にも人々の自尊心を傷つけてきたのです。自らが人の子であることを公式に認めたゆえにイエス様は十字架に架けられました。今日でも、このことを福音から取り除けるものなら是非そうしたいと望んでいる人は案外多いのです。かりにイエス様がただの人間として最上の存在であったのなら、このことは一般の人でも容易に受け入れられるものになるでしょう。「神は私たち皆の共通の父なのだから私たち人間は互いに愛し合うべきである、というのがイエスの教えの単純なメッセージであり、神の御子イエスという話は盲目的で愚かな狂信者の妄想にすぎない」などと大真面目に主張する人々もいます。しかし、そうした無理な聖書の読み込みは文献資料を適切な方法で調べていくとその根拠不足が露呈します。これらの主張はイエス様がメシアの自覚をもっていたこととも矛盾するし、「人は私に対して個人的に取る態度如何によって、救われて神様の御国に入れるかどうかが決まる」というイエス様の教えとも矛盾しています。イエス様への信頼を通して、弟子は弟子となったのです。弟子たちはペテロと共に「あなたはキリスト、活ける神様の御子です」と信仰告白することができます。そして、その時に彼らは自らの人生全体に関わる重大な決断を下しているのです。以前彼らはイエス様を「先生」、「ラビ」と呼んでいました。イスラエルにはそう呼ばれる教師が大勢いたのです。しばらくの間ある教師の下で学び行動を共にした後で、今度は他の教師を自分に選ぶ、ということもめずらしくはありませんでした。しかし、もしもイエス様がメシアであるのなら、もはや他の新しい教師を選択する余地はなくなります。一切はイエス様にかかっているからです。「神の御国」を創設し人々をそこに招き入れるために神様はイエス様を遣わしました。もしもこの方が神様の御子であるなら、捕らえられ尋問を受けたペテロが民衆の指導者たちに言った通りに「この方による以外には救いはなく、私たちを必ず救い出してくれる名前は天空の下にはこの御名以外には人々に与えられていない」(「使徒言行録」4章12節)ことになります。

 このことがわかったなら、イエス様について福音書で語られている不可能で非現実的に感じられる記述の意味も理解できるようになります。

 その一例として、次にイエス様の誕生の次第を考えてみましょう。

5.5. 聖霊によりて宿り、おとめマリアより生まれ、

処女懐胎はどのような経験をもってしても理解不可能な出来事です

 福音書記者マタイやルカが語るイエス様の不思議な誕生の次第は私たちが起こりうるとふだん思っている出来事の限界をはるか越えています。「ありえないことだ。そのようなことが実際に起きただなんて、誰も聞いたことがないぞ」と人々が言うのはごく自然な反応です。

 「実際にそのようなことは他では決して起きなかった。いまだかつて起きたことがなく、これからも繰り返されることがない何か独特なことがここでは起きたのだ」と福音書も証しています。

 神様の全能性について何らかの理解を示す人たちは、全能なる神様には自ら望まれるやりかたで命を生みだすことが可能であることを素直に認めて受け入れる用意ができているものです。

処女懐胎に関する聖書の記述は信頼できますか?

 処女懐胎に関する「使徒信条」の箇所に対しては「聖書の伝承はこの点に関しては信頼できない」という批判がしばしばなされます。「キリストが神であることを繰り返し強調するパウロなのに、イエスが処女マリアから生まれたことについては明確に述べていない。だから、少なくとも処女懐胎に関わる「使徒信条」の箇所はキリストへの信仰にとって不可欠なほど重要なものではない」などと推論されることもあります。また、信条のこの箇所は他の箇所よりも年代的に新しい部分であると見なされることもあります。さらに、マタイやルカによる福音書の初めのほうの章は、ギリシア・ヘレニズムの影響下にあった諸教会にあらわれた当時の思潮が反映しており、「神が人となった」という偉大な奥義をヘレニズム的に解釈するために後から付け加えられたものだ、と主張されることもあります。しかし、初代教会のヘレニズム化に処女懐胎の記述の理由を求める考えかたを退ける事実があります。それは、マタイやルカの福音書の初めの方の章を形作るテキストはあきらかにセム語に属する言葉によって書かれた原典に基づいており、ユダヤ・旧約聖書的な言葉によるイメージや表現によってすみずみまで特徴付けられている、という事実です。ヘレニズム影響説などよりもはるかに真実に近いと思われるのは、これらの記述がイエス様の身内と関わりのあったエルサレムの教会で知られていた、という可能性です。マタイによる福音書はヨセフが経験しなければならなかった事柄を通して出来事を描き出し、ルカによる福音書はマリアの目を通して私たちが出来事を見ていくように描いていることは、しばしば指摘されてきたことです。これらの章で語られている事柄はすでに初代教会の中でも語られていたにちがいありません。このように教会の中で広く知られていた話について後から「作り話」をわざわざこしらえるのはまずありえないことです。しかも、処女懐胎がユダヤの考えかたによれば侮辱的なものであったという点でも不自然です。