キリスト教徒として生きる

8.8. 聖化

 「聖化」という言葉は、聖霊様が人の心の中で行われるすべての事柄を指すものと考えてよいでしょう。この言葉はたとえばマルティン・ルターの「教理問答書」の中で用いられており、聖霊様の働きに関する「使徒信条」の第3部のタイトルにもなっています。

聖化とは、不信仰から信仰へと人生の方向転換をした人間の内部で聖霊様が行われる御業のことです

 聖化を恵みの秩序のひとつとして見る場合、それは不信仰から信仰へと人生を方向転換した人を聖霊様が守り導いてくださる働き全般をさしています。

聖化はキリスト信仰者をまったく罪のない状態に導くものではありません

 「聖化とは、たゆむことなく着実に善い人間になっていくことである」と律法的あるいは道徳的に理解されることがしばしばあります。「この過程の中でキリスト信仰者は、正しいキリスト教の確かな目印である「罪なき状態」へと次第に近づいていくのだ」というのです。しかし、福音はそれとは違うことを教えています。古い人はいまだにキリスト信仰者の内部に残っているので、その人は生涯を通じて罪深い存在であり続けます。そして、私たちは絶えず心の中での戦いを継続していかなければなりません。「なぜなら、肉の欲することは御霊に反し、また御霊の欲されていることは肉に反しているからです。すなわち、これらは互いに反しあっています。それは、あなたたちが自分のやりたいことをせずにいるためなのです」(「ガラテアの信徒への手紙」5章17節)。

 聖化とは、人間が霊的な戦いにおいて常に繰り返し御霊の側へとつき、古い人に対して「否」と言うことです。それは苦しいことであるかもしれません。しかし、「肉」は十字架につけてしまわなければなりません(「ガラテアの信徒への手紙」5章24節)。この霊的な戦いでは敗北を喫する場合もあるでしょう。理解が足りなかったり、きちんと考えなかったり、自分を十分に吟味しなかったり、鈍かったり、やるべきことをすぐにやらなかったりして、私たちは様々な罪過に陥ったり、本来やるべきことを無視したりします。それらについては、あとからきちんと罪の赦しを乞わなければなりません。

聖化とは、日々悔い改めて生活することです

 聖化とは、日々の方向転換、日々の悔い改め、洗礼の恵みへと戻ることであるともいえます。聖化においては、聖霊様が人間を神様の御許に導く際に行われるすべてのことが繰り返されます。私たちは主からの新たな召しを受けることができます。また、律法は絶えず私たちに私たち自身の罪や腐敗を思い起こさせます。しかし、何にもまして聖霊様は、私たちが繰り返しイエス様を見つめてイエス様の御許に避難するように助けてくださいます。

 たしかに聖化は「完全な状態に向かう弛みのない前進」などではないにしても、何年にもわたって信仰の中に生きている人たちには信仰者としての成長と深まりが見られるようになります。

聖化とは、古い人が勝手な振る舞いをしないように監督することです

 そうした成長のあらわれとして、古い人が支配下に置かれることを第一にあげることができます。「私の中に住む罪」(「ローマの信徒への手紙」7章17節)は行いによる罪としては表面化しにくくなります。キリスト信仰者は自己中心的な心がひそかにうごめき始めた初期の段階で、その真の動機や願望に気がついて明るみに出すという鍛錬に習熟していくからです。

聖化に関わる体験が豊富になっていきます

 次に、キリスト信仰者としての性質が生み出され成長していきます。仕事、余暇、意見、知識、技術など、自分が行うすべてのことを救い主イエス様の御許に委ね続けていくときに、私たちはあらゆる事象をよりいっそう「キリストの目」を通して見るようになります。キリスト信仰者の性質を形成する素になる大部分は、信仰生活を通じて少しずつ収集されてきた体験です。人は主キリストの御前で常に自らを吟味してすべてをイエス様に打ち明けるときに、そうした経験が得られていくのです。

聖化を通じて信仰が強められていきます

 第三に、「恵みの中での成長」と呼ばれる事柄があります。キリストについての経験と私たちの内でのキリストの働きかけについての経験が増していくにつれて、イエス様は私たちにとってよりいっそうかけがえのない存在になっていきます。それとともに、私たちはキリストの無限の愛に驚嘆するようにもなります。イエス様の忠実さを見るにつれ、いっそう私たちは信仰が強められていきます。こうした経路をたどるうちに、私たち自身にも将来起こる復活へのゆるぎのない落ち着いた信仰が生まれます。そして、死を目前に控えていても限りのない安心に包まれるようになっていきます。

 人間は自分で自分の心の奥底を見つめてみても、そこにほとんど何も見出さないものです。自らの内に起きている聖化を鏡に映すようにして自分の目で確認することはできません。その代わりに、キリスト信仰者は、自分が罪人であり罪の赦しに完全に依存していることをより強く確信するようになります。そして、この罪の赦しを驚きつつも感謝し受け入れていくようになります。さらに、キリストへのゆるがない信頼を得ます。かつてあるキリスト信仰者が私たちの魂を慰めるために「キリスト信仰者は「あの方(イエス様のこと)は大きくなり、私は小さくなっていかなければならない」(「ヨハネによる福音書」3章30節)と言った洗礼者ヨハネのような存在でなければなりません」と言ったのはとても適切な表現でした。

8.9. 聖霊様からの贈り物

私たちへの多様な賜物の中に聖霊様は御自身を啓示されます

 聖霊様の働きは信仰を起こし、深め、強めることです。この御業を聖霊様はすべてのキリスト信仰者の中で行っておられます。この働きに加えて、ある一部の人たちだけがいただく特別な「霊的な賜物」というものが存在します。これらの賜物は初期の教会で大きな意味を持っていました。これら霊的な賜物のうちの幾つかは人々の注目を集める尋常ならざるものでした。それらは「しるし」すなわち、キリスト教の真理を証するものとして理解されました。その例を挙げるなら、病気を癒す恵みの賜物、奇跡を行う賜物、異言で話すことなどです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章7節以降)。これらの賜物と比べれば驚くほどではないものの、深みの点では前者に引けを取らない素晴らしい価値をもつ賜物もあります。例えば、知恵ある言葉を話すこと、援助すること、指導監督することなどです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節)。

 これらの御霊の賜物がキリスト信仰者ひとりひとりに彼らの益となるために与えられていることをパウロは強調しました。賜物を受けたキリスト信仰者たちの一致によって教会が建てられていくことが、その目的でした(「コリントの信徒への第一の手紙」14章19,26節)。パウロは、賜物の幾つかは時が来れば消え去っていくものであるとも言っています(「コリントの信徒への第一の手紙」13章8節)。そうした賜物は、ある特定な時期にかぎって大切な意味を持っています。また、すべての賜物は、それらが本当に役立つものとなるために御言葉と絶えず連携していなければなりません。賜物は「御言葉(福音)に伴うしるし」なのです(「マルコによる福音書」16章17節以降、「使徒言行録」14章3節、「ヘブライの信徒への手紙」2章3節以降)。さらに、それらは愛とも密接にかかわっています。もしもそうでないならば、それらはただの「耳障りな音」にすぎません(「コリントの信徒への第一の手紙」13章1節以降)。

 この聖書講座の第7章のはじめで、「どうして聖霊様は多くの人にとってあいまいな存在なのか」という疑問を私たちは投げかけました。そしてまた、聖霊様は教会の中でのみ、恵みの手段を通してのみ働かれることを強調しました。今や私たちはこの聖霊様の働きに加えて「聖霊様は御自分の賜物においても御自分を啓示される」と言うことができます。しかも、この啓示は明瞭に見て取れるような仕方で示されることも時折あります。しかし、これも個別の教会においてのみ起こることです。とはいえ、聖霊様の働きによる特に目立つ賜物が現出するところからばかり聖霊様を探そうとする姿勢にも危険が伴います。聖霊様がその本来の御業を行われるようにすっかりお委ねすることが私たちにとっては大切なことなのです。聖霊様はこの御業をすべての人間に対して遂行するために御父と御子から遣わされています。その御業とは、聖霊様がキリストへの信仰を創生することに他なりません。これほど重要な任務のゆえに、私たちは今まで言葉を重ねて聖霊様のこの働きかけについて語ってきたのです。

 聖霊様の賜物は「活ける教会」のある場所ならどこにでもあります。それは私たちの現代世界においても変わりません。しかし、聖霊様の賜物の中のどのようなものが今どこであらわれるべきか命令する権限は人間にはありません。このことに関連して、二重の危険が存在します。第一の危険は、御霊の賜物をその本来の価値よりも低く評価する危険です。北欧のように国民の大多数がルター派教会に属しているいわゆる「国民教会」ではこのような傾向があります。第二の危険は、ある特定の恵みの賜物のみを強調しすぎる危険です。これは御霊の超自然的な働きを重要視する教会において見受けられます。

8.10. 信仰教育を重視するキリスト教と、信仰復興運動を強調するキリスト教

 キリスト教には、信仰復興運動(リヴァィヴァル)および人生の方向転換を強調するキリスト教と、信仰教育を重視するキリスト教というふたつの流れがあります。

悔い改めが長期間にわたるプロセスであることを踏まえた上で、教会は悔い改めの必要を宣べ伝えます

 北欧のルター派国民教会がその端的な例ですが、多くの会員を抱える教会は「悔い改めは必ずしも必要ではない」と主張するキリスト教の代表格とみなされることが一般的にあります。しかし、これまで見てきたようにこのような見方は間違いです。教会にはちゃんと人生の方向転換についての教えがあります。しかし、この教えによると方向転換とは、人間がその人生を変えるような決断を下すというたんなる強烈な体験よりも深い何かを意味しています。たしかに悔い改めはそのような忘れがたい体験によって始まる場合もあるかもしれません。しかしその後にも、人間がイエス様への真の信仰をいただくようになるまで、聖霊様にはたくさんなさることがあるのです。

悔い改めのプロセスにおいては、私たちが救いにいたる信仰生活を歩む上での障害物はすべて取り除いていかなければなりません

 この聖霊様の多様な働きは「救いへの障害」と呼ばれる事柄と関係があります。それらの障害には3種類あります。

 1番目は、神様の御言葉と祈りを軽んじることです。ある人たちがキリスト信仰者になろうとさえしない理由はここにあります。有無をいわせぬ神様の強力な召命がこの障害を取り除く場合があります。こうした召しを人は人生の岐路で経験し、それを「霊的な覚醒」とか「方向転換」とか名づけたりします。しかし、障害を取り除くのはこのような神様の召しだけであるとは限りません。圧倒的な体験をしなくても、また特定の時に起きた特別な出来事と関わらなくとも、神様の御言葉を用いたり祈ったりするというよい習慣を身に付け守っていくことで障害は取り除かれていきます。イエス様の弟子でありたいと望むようになった人にとっても、最も大切なことがまだこれから先の人生に待っている場合もあるでしょう。

 2番目のやっかいな救いの障害は「罪や世への執着」と呼ばれています。それは、私たち人間に染み付いている、自分の利益を最優先させようとする生来の傾向のことです。私たち人間はほうっておけば、神様や隣り人から離れてしまう危険を犯してでも私益を追求して止むことがない存在です。実は私たちが神様や隣り人よりも自分自身を愛していることは、自らの日常生活を顧みさえすればわかることです。この現実を神様の律法の力によって自分でもはっきり見れるようになるために、私たちは長期にわたる信仰教育を受け続ける必要があります。

 たとえ律法が人間のこうした自己中心性を私たちに示すことができたとしても、まだ第3の救いの障害があります。それは、人間が自らの義にしがみつき不信仰に留まり続けることです。この傾向のせいで、私たちは神様の御前で自己正当化に役立つ「自分の内にある何か」を提示することで、自分の善行が受けるべき報酬として神様の恵みを得ようと努めます。人が「報酬」としてではなく「無代価の贈り物」として神様の恵みを最も必要としている時に、この障害はとりわけやっかいなものとして私たちの目の前に立ちはだかります。この障害を乗り越えるためには、神様の御霊が私たちの中で働きかけて、人が自らの信仰を自らの力による成果として神様に誇示しようとするときに、自分自身のいかなる努力、厳格さ、謙虚さ、さらには信仰でさえもがまったく役に立たないことを私たちに明示してくださる必要があります。聖霊様は、私たちがキリスト以外に頼りにしているあらゆるものをひとつひとつ私たちから取り除いていってくださいます。

 ですから、もしもキリスト信仰者になることが意識的に神様との交わりを保って神様に仕えるのを望むことという意味であるのなら、私たちはキリスト信仰者になった後にもまだたくさん学ぶことがあるとわかります。そして、この新しい学びも方向転換の一部なのです。

8.11. キリスト信仰者は何ができるのでしょうか?

キリスト信仰者は神様の御言葉を聴き、読まなければなりません

 キリスト信仰者になることも、キリスト信仰者として生きることも、はじめからおわりまで聖霊様の働きかけによるものです。私たち人間は信仰を自分のためにつかみ取ることができません。神様が信仰を私たちの内に創生してくださらなければなりません。要するに、私たちは自分が救われるためには何もできないのです。しかし、このことを他の角度から見てみると、たしかに私たち人間も何かができるわけだし、またしなければならないこともわかります。

 最初に私たちがやるべきことは、聖書を聴いたり読んだりしてそれを神様の御言葉として受け入れることです。このことは、人生のはじめからおわりまでしっかりと心に刻んでおかなければなりません。私たちは自分が神様の御許へと向かう道の今どの辺りにいるかをはっきり知ることができません。神様の御言葉は私たちが天国への道を前進していくために、いつも変わることなく大切なものです。それゆえに、聖書を読むことや礼拝に参加することは信仰生活を送る上で決定的ともいえる意味を持っています。

キリスト信仰者は目を覚ましていて、祈り戦わなければなりません

 さらに、私たちは目を覚ましていて、祈り戦わなければなりません。目を覚ましていることとは、「御言葉の鏡」を前にして自らをよく見つめ絶えず明るみにさらすべきもの、すなわちキリストが与えてくださる罪の赦しの恵みの中へと沈めてしまわなければならないものが私たちの内部に存在する事実を忘れないことです。

 このように御言葉が私たちに語りかけることができる環境を整えるときに、私たちはさらに祈りを通して神様に語りかけすべてを打ち明ける習慣を身に付けていかなければなりません。子どもっぽく話したり、たどたどしい言葉を用いたり、自分の言葉で祈ったり、祈りの本を使うにしても、私たちは日々一定の時間を祈りのために用いることに決めて、神様と規則的に話し合う必要があります。私たちは日常生活の中でも祈るべきだし、とりわけ選択を迫られる出来事や決断や困難に遭遇した時にこそ祈るべきなのです。

 ここで「戦い」という言葉は、私たち人間がこの世に生きている間は内なる古い人との戦いから決して解放されることがなく、誘惑に対して抵抗し続けなければならない信仰者の現実を思い起こさせます。

キリスト信仰者は聖餐式に頻繁に参加するべきです

 また、私たちは聖餐式に参加しなければなりません。しかも頻繁に。次章では、聖餐式とは何であり、何を与えてくれるものかについて説明します。ここでは聖餐式が日常生活にどのような意味を持っているのかを指摘するにとどめます。心が聖餐式に深く結び付けられて、そこから霊的な栄養を摂取するようになり、救い主イエス様とその場で出会えることを知っているキリスト信仰者は、聖餐式に参加することで日常生活の生活道徳も基礎がしっかりし、強められていきます。してもよいのはどのようなことか、何をしなければならないのか、また何をしてはいけないのか、といったことが不思議なほどはっきりわかってきます。どのような人生の分かれ道に直面しても、自分を聖餐式へと連れ戻してくれる道がどれであるかをキリスト信仰者の本性に従って探し求めるなら、正しい道を選ぶのがいっそう容易になることでしょう。

 「私たちは何ができるのか、また何をしなければならないのか」と言うと、律法的な話に聞こえるものです。しかし、「キリストは何をしてくださったのか、また何をしてくださっているのか」を大切にするとき、キリスト信仰者は喜ばしい充実した意義深い生活を送ることができるようになります。イエス様は人間を罪の圧制の下から買い戻し解放してくださいました。そして、神様の御言葉と聖霊様に心を開いている人には、いつでも何度でも信仰の賜物を分け与えてくださるのです。キリストがくださる信仰は、私たちが「キリストのもの」としてイエス様にお仕えできることを喜ぶ信仰です。それゆえ、この信仰は活きて働く信仰であり、日常生活の中においても具体的な愛の行いとしてあらわれます。