キリスト教徒になる

8.1. 方向転換

不信仰から信仰への方向転換は「悔い改め」と同じことです

 「方向転換」というのは神様のほうへ戻るために生きかたの向きを変えることです。方向転換は旧約聖書では進行方向を180度変える完全な方向転換を意味し、新約聖書では心の変化を表す言葉です。これは日本語で「悔い改め」と訳されています。この言葉からふつう人々が連想するイメージは、自分をもっとよい人間にしたり、ある種の欠点をなくしたり、キリスト信仰者にふさわしく見えるふるまいをすることでしょう。具体的には、悪い言葉づかいをやめたり、飲酒をやめたり、教会に通うようになったりすることなどです。

「方向転換」とは生活全体が新しい方向に転換することです

 実は、聖書の教える「方向転換」は上述のどの例ともちがうものです。それらの例はいわば中古車の故障の修理のようなものです。聖書が語る「新生」とは、今まで思いもよらなかった結果をもたらすまったく新しい活動が人間の内側で始まることです。方向転換とは人生の方向を変えることです。以前は神様から引き離そうとする諸々の力に翻弄されていた人の人生の歩みの方角が今やそれまでとはまったく反対になります。また、「心の変化」という言葉で表そうとしているのは、人を支配する力を「古い人」から剥奪してキリストへとお渡しする内なる「新しい人」の変化のことです。

方向転換はある時ある場所で一回だけ起きるのではなく、生涯にわたって持続します

 キリスト信仰者になったときに起きることは生涯で一度だけの出来事ではありません。人間がキリストの御許から離れ去っていく場合には、その変化をさまざまな出来事の連鎖と捉えることができます。同じことが「日々の悔い改め」と呼ばれることについても当てはまります。

8.2. 恵みの秩序

恵みの秩序は、神様の御許へ向かうキリスト信仰者の歩む道がどのようなものかを描いたものです

 「恵みの秩序」とは、悔い改めにおいて何が起きているかをあらわす伝統的なキリスト教用語です。聖霊様が人を「実家に」つまり神様の御許に導かれるときに、その働きかけには多様な側面があります。ルターは「小教理問答書」の「使徒信条」第3部の説明で「自分自身の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないことを、私は信じます。それに対して、聖霊様が地上のすべてのキリスト信仰者を召し集め、照らし、聖とし、イエス・キリストの御許において唯一の正しい信仰のうちに保ってくださるのと同じようにして、聖霊様は福音を通して私を召し上げ、その賜物をもって私を照らし、正しい信仰のうちに私を聖とし、保ってくださることを、私は信じます」と言っています。このようにして、聖霊様の大いなる働きが描写されています。恵みの秩序については、召されること、霊的な理解をいただくこと、義とされること、新しく生まれること、聖とされること、そして、栄光を受けることといったいくつかのキーワードをもとにこれから述べていくことにします。

 今挙げた一連の事項はすべて学ぶ意義のあるものばかりですから、これからそれぞれのキーワードについて学ぶことにしましょう。ただし、栄光を受けることについては最終章で扱うことにします。

恵みの秩序とは、キリスト信仰者が必ず遵守しなければならない固定したパターンではなく、方向転換の際に何が起きているのかを私たちが理解できるよう、また私たちが困難に直面した時にも前向きに生きていけるよう、手立てを与えるものです

 しかし、まず銘記しておくべきなのは、恵みの秩序はキリスト信仰者になるために誰もが経なければならない正確に定められている諸々の段階を教えるものではない、ということです。また、それは正しく制御された「実験」とか「神様の御許まで登っていける梯子」について語るものでもありません。恵みの秩序は、聖霊様が私たちと出会われる時のその働きかけのありかたを経験や聖書に従ってわかりやすく提示したものです。聖霊様の働きかけには大きく分けて二つの面があります。一方では、私たちが信仰へと目覚めるようにする働きかけがあります。これは、聖霊様が私たちをあれこれ世話しながらキリストの御許へと導いてくださる働きです。 他方では、信仰生活の中での働きかけがあります。これは、聖霊様が私たちを霊的な死から免れさせてイエス・キリストへの真の信仰の中に留まれるよう、絶えず細かい配慮をしてくださる働きです。

8.3. 神様の御許への招待

神様は私たちを招いておられます

 「召し」とは新約聖書によれば、神様が私たちを暗闇の中から奇跡のような光の中に召し出して、私たちが神様の子どもとなり、御国の民になることを意味しています(「ペテロの第一の手紙」2章9節)。キリスト信仰者が各々いつはじめてこの招待を受けたのかを特定するのはほぼ不可能に近いことです。その召しは常にあったからです。すでにそれは私たちが洗礼を受けた時にありました。その後の人生の中で私たちはこの召しについて幾度も思い起こす機会を与えられてきました。私たちのうちで、いつイエス様の御名をはじめて聞いたか、おぼえている人がどれだけいるでしょうか?

神様は私たちを探し求めておられます

 ここでは「召し」という言葉によって、ある人たちがある状況で個人的に受けることがある特別な体験をさす場合を考えてみましょう。このようなケースとしては、たとえば何らかの仕方でキリスト教をないがしろにしてきたか、あるいは意識的に神様に背を向けてきた人たちが、ある日特別な状態に入り、そこで神様が彼らに語りかけることや、神様が彼らに期待していることを生々しく経験してしまうことなどがあげられます。その特別な瞬間にいたるまでにも神様はおそらく長い間にわたって彼らを御許へと招待なさっていたでしょう。人生での出来事の背後に、彼らは神様の存在を感じ取りました。彼らは他の人々の人生において神様こそがその人たちの力となっているのを見ました。彼らはおそらく空虚感や人生の無意味さや悲惨さに苦しめられたことでしょう。そして、ある日彼らはふとしたことから御言葉を耳にし、それが突然自分の中で活動し始めるのを体験します。「この御言葉はまさに自分に語りかけている」と彼らは気がつきます。多くの場合、このような体験は感情を揺さぶる非常に強烈なものです。これは「望郷の念」に喩えることもできるでしょう。人は神様の子どもであることがいったいどういう意味かをおぼろげながらも感じ取り、また「そのようになりたい」と望むようになります。

全員が上述のような特別な召命経験を必要としているわけではありません

 特別な召命の出来事はすべての人が経験するものではありません。神様は私たちをすでに洗礼において招待してくださいました。そして、神様はその召しを福音によって絶えず更新しておられます。その召しを素直に聞き入れる者、すなわち神様と関わりを保ちたいと望みその御言葉を聞き入れる者はとりたてて特別な召命体験を必要としていません。特別な召命を受けた人たちにはそのような召しが必要だった、ということなのです。そして、彼らにはその召命にともなって大きな責任も委ねられることになります。主からの召しによって今やすべてが可能となりました。召しを受けた人はキリスト信仰者になることができます。しかしまた、おかしなことになる場合もあります。人は主からの召しを拒絶することもありうるからです。しかも、その召しはその人にとっては最後の機会であったのかもしれないのです。

神様が私たちを探し求めておられる「時」を大切にしましょう

 神様が召される人は何をするべきなのでしょうか?「神様の御言葉と祈りとを熱心に用いるべきである」というのが古くから知られている答えです。召された人は心を定めて自分のことを探しておられる神様を自分のほうでも探し求めるべきです。この際、神様とはどこででも出会えるのではなく、まさに御言葉と教会との関わりの中で出会えることをはっきり覚えておくべきでしょう。定期的に御言葉を聴くことなしに神様の御許に導かれていくような「近道」は存在しません。神様が私たちに語りかけることができる環境に私たちは身をおく必要があるのです。そして、人間のほうでもまた神様に話しかけることができなければなりません。つまり、人は神様に祈り始めるべきなのです。それも、「今なら祈りやすい」と感じる時にだけ祈るのではなく、「私はもう決して神様から離れて生活したりはしない」と厳かに決心して規則的に祈るべきです。

主からの招待が無駄になってしまう場合もあります

 神様からの召しを「感情を揺さぶる強烈な体験」として捉え、それをあたかもキリスト教の本質であるかのように勘違いする人々が出てくる危険はあります。感動的な召命体験をした人はそれを繰り返し経験したいと望むものです。しかしその場合、彼らは必ずや失望を味わうことになるでしょう。感情は一時的なものであり時と共に消え去るものです。私たちが感情に左右されながら信仰生活を送るのは神様の御心ではありません。

 私たちは神様の召しを真剣に受け入れるなら、祈り始めることでしょう。そして、真面目に御言葉を聴くようになるでしょう。そして、その時には何が起きるのでしょうか?

8.4. 律法が照射すること

律法は私たちが自分の悪いところを見るように私たちを照射します

 「照射」とか「明瞭な理解を得ること」という表現を用いて、御言葉に聴き入る者に起こる特別な状態を指すことがあります。この状態において人生は新しい光を得ます。特に自分自身と救い主とに関して、以前と異なる視点で見つめ直すようになります。

 まず、人は自分のことを新しい光の中で見るようになります。その人は、神様が自分に要求している事柄が正当なものであって、自分には変えなければいけない点がたくさんあることを理解します。このことを「律法による照射」と呼ぶことにしましょう。ふつう律法は神様の御言葉の中でも聞いて理解しやすい部分です。律法は人間の日常生活に関するものだからです。しかし人は、良心の平和を掻き乱されるような問題に出会うとき、それまでの生き方を変え始めるようになります。

また、私たちの中にある自己中心的な心も明らかになります

 「律法による照射の道を歩んでいけば、少しずつより善い人間になれるし、これでキリスト信仰者になれる」と思い込んでいるキリスト教徒が多いようです。しかし、神様の御言葉を厳粛に受け止めるとき、「自分は大きな失敗をした」と感じるような出来事に人は直面するものです。なぜならその際、人は自身の腐敗した状態に気づかざるを得なくなるからです。

 外側からはっきり見てわかる間違いなら、人はある程度それを修正することができます。ところが、キリスト信仰者は心の中に自分の力では取り除くことも変えることもできないものを見出します。たしかにキリスト信仰者は自らの心の中に住む罪がさまざまな形態をとって表面化するのを抑制する術をある程度までは学ぶことができるでしょう。他の人たちに冷たく接するのをやめたり、彼らについて悪口を話すのをやめたりすることはできるでしょうし、他の人たちを犠牲にして私益を追求するのを止めることもできるかもしれません。しかし、神様を他の何よりも心から愛することや、すべての人を自分自身と同じくらい愛せるように自らの心のありかたを本質的に変えることはできません。キリスト信仰者が他の何よりもましてこのような人間になることを望んでいる場合であっても、それと同時に一方では、そのような人間になることを望まない何かが彼らの心の中に付着しているのです。

自分の力に頼って「よいキリスト信仰者」になろうとする試みは結局のところ失敗します

 この矛盾に気が付いたキリスト信仰者はしばしば心の動揺を覚えます。そして、「キリスト教は自分の期待を裏切った」と考える人たちさえいます。彼らにとってキリスト教は誰にも実行不可能な無理難題を要求する宗教に感じられるのです。自分自身に絶望してしまう人も出てきます。彼らは皆「よい人間つまり真のキリスト信仰者になるためには自分自身を(もちろん)神様の助けによって変えていかなければならない」という考えかたから出発しています。しかし、この試みが実現不可能であると知ったとき、それをやってみた人は「自分は失敗した」と感じるのです。こうした理由から、キリスト教を非難する人もいれば、自分自身を責める人もいます。

 もしも人々が上述のような状況の中で「真のキリスト信仰者になるのは不可能である」という結論に到るなら、それはある意味でまったく正しいのです。彼らは聖書が「行いによる義」とか「律法による義」と呼ぶことを実行してみました。それは成功しませんでしたし、決して成功することもありません。にもかかわらず、律法は必要不可欠なものなのです。「自分の力でがんばってみたが失敗した」という経験なしには、救い主イエス様が私たちのために成し遂げられた御業の意味を理解できないでしょうし、それを素直に受け入れることもできないでしょうから。

霊的な貧困について

 今までの自分とは違った人間になろうとする努力が完全な失敗に終わったと感じている人の状態は「霊的な貧困」と呼ばれることがあります。キリスト信仰者は皆、これと似たような経験をするものです。しかし、人が何を霊的な貧困と感じたかを過大評価するのも問題です。

本当の悔い改め

 「悔い改め」についての福音ルーテル・キリスト教会の教えは次のようなものです。 「天の父なる神様は、信仰に目覚めた人間が御自分の方へと向き直って自らの罪を告白することを待っておられます。信仰に目覚めた人はキリストのゆえに自らの罪を赦していただけるように祈り求め、罪を捨て去るための力を乞い求めます」。 罪を悔いる心や「罪を犯してしまった」という心の動揺は、個々の人の性格の違いもあいまって人により異なったかたちであらわれます。人が罪を悔いる心を本当にもっていることを最も明瞭に示す証拠は、その人が自らの罪のゆえに嘆き苦痛を感じていることではなく、「自分の罪から解放されたい」という願いです。

 罪を悔いる心だけでは、誰ひとりキリスト信仰者にはなりません。イスカリオテのユダにはイエス様を裏切った罪を本心から悔いていたことを示唆する証拠があります。彼は自らの罪を告白し、嘆き、その罪が惹起した心の呵責から解放されたいと願いました。にもかかわらず、彼の末路は惨めなものでした(「マタイによる福音書」27章3~5節)。人は自らの悪い点を見つめ始めたその瞬間にこそ、福音を聴き入れて信じることが絶対に必要になります。さもないと、ユダのような絶望的な罪の呵責に苛まれ続けることになります。まさにそれゆえに、罪を告発する律法と罪の赦しを約束する福音とは互いに寄り添うようにして聖書全体を貫通しているのです。私たちは御言葉を聴く時に、たんに律法に照射されているだけではありません。福音によっても照射されているのです。このことを忘れないようにしましょう。

8.5. 福音が照射すること

 福音は私たちがキリストの真のお姿を見る大切さを教えてくれます。それによって、キリストが何をしてくださったのか、私たちはわかるようになります。キリストはそれを「私のために」してくださったことを「私は」理解するようになるのです。聖霊様の一番大切な職務は、イエス様が弟子たちに言われているように、キリストに栄光を帰することです(「ヨハネによる福音書」16章14節)。聖書講座「信仰のABC」の一貫したテーマは、私たちが何を信じ何を理解するように福音は教えているか、ということです。そして、このことから私たちの最も深い個人的な経験と確信が生まれてきます。

真の信仰

 「真の信仰」にもそれを証拠立てるしるしがあります。それはキリストへの信仰です。そこには「信仰がないとむなしく思う」とか「キリストなしではやっていけない」という郷愁の思いがよくあらわれています。人間はキリストなしには霊的に活きていけません。人間はキリストを必要としているのです。信仰には「信仰に基づく信頼」と呼ばれる特徴も含まれています。信仰者には「キリストのゆえに私は神様の子どもと認められている」とはっきり信頼する勇気が与えられます。

信仰は「私たちの中にある力」というよりも、むしろキリストが満たしてくださる「私たちの中にある空洞」です

 信仰は「私たちが自分で何かを成し遂げること」ではありません。むしろそれは、キリストのみが満たすことができる「空っぽさ」、「必要なもの」、「欠けているもの」とでも呼べるものです。信仰は贈り物を受け取る「空っぽな手」にたとえることができるでしょう。「自分には何も欠けることがなく、助けも必要ではない」と思い込んでいるかぎり、人は信じるようにはなりません。だからこそ、律法には大切な意味があるのです。律法は私たちをキリストの御許に追い込みます。律法は私たちにとって「キリストへと導く養育者」になりました(「ガラテアの信徒への手紙」3章24節)。律法は、私たちには何が欠けているかを教えてくれます。ここに律法の照射の意味があります。「信仰は霊的な貧困から生まれる」とよく言われます。信仰はまた「人間が自らの罪もろともイエス様の御許に赴くことである」とも定義されています。イエス様の御許に赴くことこそが信仰である、とイエス様は教えてくださいました(「ヨハネによる福音書」6章35節)。

 信仰生活を始めた人において起きている出来事を、新約聖書は「義認」や「新生」と名づけています。これらの用語は同じ事柄の別の側面をあらわしています。

8.6. 義認

 「義認」は新約聖書における最も重要な用語のひとつです。宗教改革者たちは福音の核心として、人間は行いによってではなくイエス様への信仰によって義と認められることを強調しました。

 義認とはいったい何でしょうか?

義認は経験ではありません

 まず私たちがはっきりと心に刻まなければならないのは、この事柄は人間が経験できるようなものとは一切関係がない、ということです。なぜなら、義認は天において神様の御許で起きている出来事だからです。

 聖書で「義」と訳されている言葉は「正しさ」や「公正さ」という意味をもっています。「神様の義」とは、神様は善に報い悪を罰する絶対的に公正なお方であるということです。また「義なる人」とは、なすべき義務を果たし、神様の公正な検査と裁定を受けても罰を受けない公正な存在のことです。義なる人は神様が正当な権利に基づいて人間に要求なさる事柄を完全に実現したのです。義なる人は神様の裁きにおいて無罪とされ、神様の御国に入るのにふさわしい者とみなされています。

 しかし、人間は自分の行いによってはこのような存在には決してなれません。人はどれほど努力してみたところで、神様から要求されるのが当前の事柄を完全に達成することができません。人間は「神様を他の何よりも愛しなさい」と「隣り人を自分と同じように愛しなさい」という愛の戒めを完全に守ることが決してできません。それどころか、人間の罪の呵責は次第に増していくばかりです。なぜなら、人間は一番大切な第一戒を一瞬たりとも守ることができないからです。

キリストが義であるゆえに私たちは義と認められるのです

 そもそも人間が義と認められることが可能なのは、キリストが人間を御自分の義に与るように計らうことができるからです。キリストは律法をあらゆる面で完全に実行してくださいました。キリストは私たち人間にとっても真の模範となる正しい生き方をなさいました。そして、キリストの義は「私たちのもの」にもなりうるものなのです。イエス様は御自分の命、喜び、平和を私たちにプレゼントすることができます。それと同じように、キリストは私たちに御自分の義もプレゼントすることができるのです。新約聖書によれば、これはキリストの義が「私たちの所有するもの」とみなされることによって実現されます。私たちの罪過は「私たちに属するもの」とはみなされず、そのかわりにキリストの義が「私たちに属するもの」と認められるのです(「ローマの信徒への手紙」4章6節、「コリントの信徒への第二の手紙」5章19節)。義認が天において神様の御許で実現する、というのはこのことを意味しています。

 それでは、いったい誰が義と認められるのでしょうか?

私たちがキリストを信じるときに!

 聖書は答えます。信じる者は誰であれ、義と認められます。信仰とはキリストと交わりをもつことです。この交わりが私たちに「キリスト御自身のもの」を「私たちのもの」とする可能性を与えてくれます。信仰は私たちが自分で何かを達成することではありません。信仰とは、キリストが私たちに与えようと望まれることを私たちがすすんで受け入れたくさせる「開かれた心」のことです。

 人間は義と認められるときに、すべての罪を赦していただけます。その人は再び神様との正しい関係を回復したのです。神様との敵対関係は解消され、神様から私たちを引き離そうとするものはもはや何もありません。

 義認は天において実現します。それは人を無罪と宣告する裁定です。しかし、その裁定の結果はこの地上でも見て取ることができます。

8.7. 再生(キリスト信仰者として新しく生まれること)

再生とはキリストを受け入れることです

 キリストの義に信じてあずかるようになった人のうちに起きる出来事を「再生」と言います。これは「刷新」や「新たな創造」とも言われます。「(すべてが)新しくなったのです」とパウロは言います(「コリントの信徒の第二の手紙」5章17節)。ところで、これはどのような新しさなのでしょうか?

 それは、なによりもまずキリスト御自身のことを指しています。信仰が神様との交わりであることを、私たちは今まで幾度も強調してきました。キリストを信じることはキリストとの目には見えない交わりを保つことです。ルターは信仰を「キリストが住んでおられる雲」にたとえました。もしも人間の心の中にキリストへの信仰があるならば、そこにはキリストもいらっしゃいます。

再生しても、私たちの罪深さは消え去りません

 「再生」は人がまったく別の存在になるということではありません。罪による腐敗(原罪)は人間の内部に常に残存しています。人の心の奥底には、以前とまったく同じく、悪への嗜好や自己中心的な意志が絶えず活動を続けています。それにもかかわらず、何か決定的なことが起きたのはたしかなのです。再生において「古い人」の傍らに「新しい人」があらわれたのです。この「新しい人」を私たちはすでに洗礼において自分のうちに迎え入れました。そして、信仰に目覚めた今、この新しい人が生き返ったのです。新しい人の生き方は古い人の生き方とは違います。新しい人はキリストを愛しており、キリストに従い仕えたいと望みます。要するに、キリスト信仰者の内側には古い人と新しい人が共存しているのです。

義と認められた人間は、自ら抱えている罪悪感と、罪が受けるべき厳しい裁きから解放されています

 人間はキリストを信じるようになると、罪の罪悪感と、罪がもたらすはずの(永遠の死という)罰から解放されます。ただし、罪が通常の意味での犯罪の場合には、この世での裁判に基づく処罰が執行されます。もしもキリスト信仰者が「自分が今受けている苦しみや人生がいろいろとうまくいかないことは自分が過去に行った罪のもたらした罰である」と考えているならば、それは誤りです。洗礼で神様の子どもになり、イエス様への信仰に従ってこの事実(罪の罪悪感と罰からの解放)を受け入れて告白する人すなわち「キリストにある人」には本当に罰がなくなっているからです(「ローマの信徒への手紙」8章1節、32~34節)。その罰はキリストが私たちの代わりに引き受けてくださったのです。そして、それは私たちに神様の平和をあたえてくださるためでした(「イザヤ書」53章5節)。

キリスト信仰者の罪深さはその人自身の内部に依然として染み付いていますが、その人を完全に支配してしまうことはもはやありません

 キリスト信仰者の内部にも古い人が自己中心的な欲望と共に残存しています。しかし、古い人からはすでに支配力が消えています。信仰に入る以前であれば、内なる古い人が好き勝手に人間を支配して命令することができました。しかし、今やそれはキリストという存在に出会い、打ち負かされたのです。これは、私たちの内部にある「神様に反抗する力」にはもはや「操縦桿」がなくなっていることを意味します。もちろん、依然としてそれらは活動を続けており、絶えずその存在を私たちに思い出させます。しかし、人がイエス様を信じ続けるかぎり、その人を支配する最終的な決定権はキリストが掌握しておられます。