ハバクク書1章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

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表題 「ハバクク書」1章1節

「預言者ハバククが見た神の託宣。」
(「ハバクク書」1章1節、口語訳)

このように「ハバクク書」の預言全体の導入部はとても簡潔に書かれています。

「託宣」(1章1節)はヘブライ語では「マッサー」といいます。この言葉には「重荷」という別の意味もありますが、「エレミヤ書」によれば後者の意味でこの言葉を使用する預言者は主によって罰せられます。

「この民のひとり、または預言者、または祭司があなたに、『主の重荷はなんですか』と問うならば、彼らに答えなさい、『あなたがたがその重荷です。そして主は、あなたがたを捨てると言っておられます』と。そして、『主の重荷』と言うその預言者、祭司、または民のひとりを、その家族と共にわたしは罰する。」
(「エレミヤ書」23章33〜34節、口語訳)

「託宣」はイスラエルではない何か他の対象についての予言を表す言葉として用いられるのが一般的でした。そして「ハバクク書」の数々の予言の大部分もバビロニアに関わるものでした。

「ハバクク」に該当するアッカド語の「ハッバクーク」には「園の植物」という意味があります。旧約聖書の大部分はヘブライ語で書かれており、アッカド語はヘブライ語と同じセム語族に属する古代言語です。セム語には「語根」と呼ばれる三個のアルファベットの組み合わせがそれから派生する様々な単語の基本的な意味を規定するという特徴があります。また「ハバクク」と同じ語根から派生したヘブライ語の動詞「ハーバク」には「抱きしめる」や「手で掴む」という意味があります。人名としての「ハバクク」にもそのような意味が込められているとも考えられます。

社会に横行する悪行を嘆く預言者 「ハバクク書」1章2〜4節

「1:2主よ、わたしが呼んでいるのに、
いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。
わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、
あなたは助けて下さらないのか。
1:3あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、
何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。
略奪と暴虐がわたしの前にあり、
また論争があり、闘争も起っている。
1:4それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、
悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」
(「ハバクク書」1章2〜4節、口語訳)

この箇所でハバククは当時のユダ王国で横行した悪事の数々について述べています。それに対して、1章12〜17節ではバビロニア人たちの悪名高い残酷さや悪辣さを描写しています。また、1章5〜6節ではバビロニアがユダをその悪行のゆえに罰するために攻撃してくることが語られています。

上掲の箇所(1章2〜4節)は旧約聖書の「哀歌」と同じ形式で書かれています。例えば「詩篇」3、13、22篇もこれと似た状況を描写しています。

「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
主よ、いつまでなのですか。
とこしえにわたしをお忘れになるのですか。
いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。
いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に
悲しみをいだかなければならないのですか。
いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。
わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、
わたしの目を明らかにしてください。
さもないと、わたしは死の眠りに陥り、
わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、
わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。
しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、
わたしの心はあなたの救を喜びます。
主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、
わたしは主にむかって歌います。」
(「詩篇」13篇、口語訳)

「いつまで」は「哀歌」でもよく使われている言葉ですが、「ハバクク書」1章2節の他にも上掲の「詩篇」13篇2〜3節や「イザヤ書」6章11節などにも出てきます。もうひとつの典型的な言葉は「何ゆえ」です。これは「ハバクク書」1章3節の他にも例えば「詩篇」22篇2節、「エレミヤ書」20章18節、「哀歌」5章20節にも登場します。

ユダ王国では数々の悪事が行われているが、それを神様はあえて容認しておられる、とハバククは感じていました。何ゆえに神様はそれらの悪行を妨げなかったのでしょうか(「ハバクク書」1章2節)。神様は御自分の民を助けて支えることを約束なさっていたはずではありませんか。旧約聖書にはこのテーマに関連する箇所がたくさんあります。例えば「申命記」20章4節、「詩篇」18篇41節、33篇16〜19節、「イザヤ書」59章1〜2節、「エレミヤ書」42章7〜11節などです。同じような疑問に苦しめられた旧約聖書の代表的な人物としてはヨブ(「ヨブ記」6章28〜30節)や「詩篇」の詩人アサフ(「詩篇」73篇)を挙げることができます。

「今、どうぞわたしを見られよ、
わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。
どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。
さらに思いなおせ、
わたしの義は、なおわたしのうちにある。
わたしの舌に不義があるか。
わたしの口は災を
わきまえることができぬであろうか。」
(「ヨブ記」6章28〜30節、口語訳)

神様を平気で貶めている悪辣な連中は何ゆえに神様から妨げられることなく悪を行い続けているのでしょうか。悲惨な現実は少なくとも人間の目にはそのように映ったのです。ユダ王国はエホヤキムの治世(在位期間は紀元前609〜597年)にはすっかり汚職に塗れ、法廷さえも賄賂によって左右される始末でした(「ハバクク書」1章3〜4節)。

神様からの驚くべき答え 「ハバクク書」1章5〜11節

「1:5諸国民のうちを望み見て、
驚け、そして怪しめ。
わたしはあなたがたの日に一つの事をする。
人がこの事を知らせても、
あなたがたはとうてい信じまい。
1:6見よ、わたしはカルデヤびとを興す。
これはたけく、激しい国民であって、
地を縦横に行きめぐり、
自分たちのものでないすみかを奪う。
1:7これはきびしく、恐ろしく、
そのさばきと威厳とは彼ら自身から出る。
1:8その馬はひょうよりも速く、
夜のおおかみよりも荒い。
その騎兵は威勢よく進む。
すなわち、その騎兵は遠い所から来る。
彼らは物を食おうと急ぐわしのように飛ぶ。
1:9彼らはみな暴虐のために来る。
彼らを恐れる恐れが彼らの前を行く。
彼らはとりこを砂のように集める。
1:10彼らは王たちを侮り、つかさたちをあざける。
彼らはすべての城をあざ笑い、
土を積み上げてこれを奪う。
1:11こうして、彼らは風のようになぎ倒して行き過ぎる。
彼らは罪深い者で、おのれの力を神となす。」
(「ハバクク書」1章5〜11節、口語訳)

暴力的な悪がいたるところに横行していることを嘆くハバククに対する神様からの返答は実に意外なものでした。すなわち、暴力的な悪行はこれからも続いていくどころか、いっそうひどくなっていくというのです。

「カルデヤびと」(「ハバクク書」1章6節)の残虐さと悪辣さは当時の人々の間では「格言」になってしまうほどよく知られていました。「カルデヤ」は一般には「バビロニア」という名で知られている国です。カルデヤ王国すなわちバビロニア王国(正確には新バビロニア王国)はアッシリア帝国滅亡後の中近東世界に君臨した新たな覇者でした。

使徒パウロはピシデヤのアンテオケで安息日に会堂に入って宣教したときに「ハバクク書」1章5節を引用しています。

「『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。
わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。
それは、人がどんなに説明して聞かせても、
あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。
(「使徒言行録」13章41節、口語訳)

その際、パウロは「ハバクク書」のこの節をイエス様の復活に結びつけています(「使徒言行録」13章30、37節)。まさしくイエス・キリストの復活は神様による驚くべき偉大な御業でした。興味深いことに「ハバクク書」と「使徒言行録」の箇所のどちらにも「神様の御心を蔑ろにする者は神様による裁きの罰を自らの上に招くことになる」という意味が込められているという共通点があります。

ここで「ハバクク書」に戻ると、強大な権力を握った者にしばしば起こることがやはりカルデヤにも起こりました。カルデヤはおごり高ぶったのです(「ハバクク書」1章7節)。結局、カルデヤはその強大な権力を己の「偶像」(偽物の神)にしてしまいました(「ハバクク書」1章11節)。権力はその行使者をいともたやすく堕落させてしまいます。そもそも権力とはある種の高尚な目的を実現するための手段にすぎないもののはずです。にもかかわらず、いつまでも権力の座にしがみつくことが権力者の最大の目的や関心事になってしまう場合があまりにもしばしばみられます。

「ハバクク書」1章8節では当時の中近東世界における「電撃戦」が描写されています。カルデヤ軍は連戦連勝の快進撃を続け、それに対抗できる国はひとつもありませんでした。カルデヤは非常に多数の捕虜を遠方の捕囚地に強制移住させました(「ハバクク書」1章9節)。ユダ王国および首都エルサレムもまたこの「バビロン捕囚」の対象となりました。紀元前586年のネブカドネザル二世の軍によるエルサレム制圧後、イスラエルの民はメソポタミアへと強制移住させられたのです(「歴代誌下」36章11〜21節)。

なお、この攻撃では都市の外壁を破壊する際に土塁が築かれました(「ハバクク書」1章10節、「ナホム書」2章6節)。これと同様の攻略法は、後年のユダヤ戦争においてローマ軍が巨大な土塁を築いて防壁を超え、ユダヤ人たちのマサダ要塞を陥落させた時にも用いられています(西暦72年)。

カルデヤ人は活ける真の神様を侮蔑する悪辣な民でした(「ハバクク書」1章11節)。彼らは自分らの戦闘力を偶像として崇拝していました。その様子は「ハバクク書」1章15〜17節に記されています。また「ゼパニヤ書」2章15節にはカルデヤと同じように自らの権勢に酔いしれたアッシリア帝国の惨めな末路が述べられています。

なぜ神様を蔑ろにする悪辣な者たちがこの世で成功を収めるのか? 「ハバクク書」1章12〜17節

「1:12わが神、主、わが聖者よ。
あなたは永遠からいますかたではありませんか。
わたしたちは死んではならない。
主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。
岩よ、あなたは彼らを懲しめのために立てられた。
1:13あなたは目が清く、悪を見られない者、
また不義を見られない者であるのに、
何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。
悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、
何ゆえ黙っていられるのですか。
1:14あなたは人を海の魚のようにし、
治める者のない這う虫のようにされる。
1:15彼はつり針でこれをことごとくつり上げ、
網でこれを捕え、
引き網でこれを集め、
こうして彼は喜び楽しむ。
1:16それゆえ、彼はその網に犠牲をささげ、
その引き網に香をたく。
これによって彼はぜいたくに暮し、
その食物も豊かになるからである。
1:17それで、彼はいつまでもその網の獲物を取り入れて、
無情にも諸国民を殺すのであろうか。」
(「ハバクク書」1章12〜17節、口語訳)

なぜ真の神様を軽侮するカルデヤがユダを懲罰することを許されたのでしょうか、とハバククは神様に質問します。神様は見ておられないのか、それともこういうことは気にも留めないお方なのか、と。

1章12節からは、ハバククがカルケミシュの戦い(紀元前605年)が起きた後にこの文章を記していると推測することもできます。カルデヤがすでにユダに懲罰を下した状況をハバククは知っているからです。

神様がユダの罪を罰するためにカルデヤを遣わしたことを預言者ハバククは理解しました(1章12節)。同様の事例としては、アッシリア(「イザヤ書」7章18〜20節、10章5〜6節)やペルシアのキュロス王(「イザヤ書」44章28節〜45章1節の「クロス王」)がイスラエルの民を懲罰する「神様の鞭」として用いられました。

それでも神様の選ばれた民であるイスラエルが敵によって完全に滅ぼし尽くされることにはならないように、とハバククは神様に懇願しています(1章12節)。

神様はこの世の始まる前から存在しておられます(1章12節)。このことは「申命記」33章27節や「詩篇」55篇20節、また次に引用する箇所にも書かれています。

「山がまだ生れず、
あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、
とこしえからとこしえまで、
あなたは神でいらせられる。」
(「詩篇」90篇2節、口語訳)

神様は万物の造り主なのです。さらに神様はこの世を支配して導いてくださるお方でもあります。

1章13節でハバククは神様にその本質に基づいて働きかけてくださることを強く願っています。それは神様が公正を実現してくださるようにというハバククの嘆願でもあります。

1章15節はカルデヤびとたちが周辺諸民族からの略奪や捕獲を繰り返してきたことを比喩的に描いています。「つり針」は聖書の他の箇所では神様による裁きについての比喩として用いられています。

「主なる神はご自分の聖なることによって誓われた、
見よ、あなたがたの上にこのような時が来る。
その時、人々はあなたがたをつり針にかけ、
あなたがたの残りの者を
魚つり針にかけて引いて行く。」
(「アモス書」4章2節、口語訳)

同じ意味の比喩としては「網」(「詩篇」141篇10節、「イザヤ書」51章20節、「エゼキエル書」32章3節、「ミカ書」7章2節)や「わな」(「コヘレトの言葉」(口語訳では「伝道の書」)7章26節)を挙げることができます。

「主なる神はこう言われる、
わたしは多くの民の集団をもって、
わたしの網をあなたに投げかけ、
あなたを網で引きあげる。」
(「エゼキエル書」32章3節、口語訳)

漁師の作業は主の民が捕囚の身になることの比喩です。彼らが自国から遠く引き離されて見知らぬ地に投げ込まれるという意味です。バビロニアは周辺諸民族の強制移住を大規模に断行しました(「列王記下」24章12〜16節、25章11〜12、18〜20節)。そして、同様の捕囚政策はバビロニアの前の覇者アッシリアも行いました(「列王記下」17章5〜6、24節)。

1章16節では、バビロニア人たちが再び彼らの強大な軍隊を自画自賛し、あたかもそれが自分たちの神であるかのように崇める有様が描かれています。


ハバクク書 イントロ
ハバクク書 1章
ハバクク書 2章
ハバクク書 3章