祈りの手引きとしての「詩篇」

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン (フィンランド・ルーテル福音協会牧師、宣教師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

聖書の引用は原則として口語訳によっています。 「詩篇」は節番号に関してヘブライ語旧約聖書と口語訳の間にずれがあるため、その都度それについて明示することにします。
ヘブライ語旧約聖書はBiblia Hebraica Stuttgartensia(1990年の第5版)を使用しています。
なお、日本語版では聖書の箇所を具体的に明示したり、原語のヘブライ語やギリシア語の単語について補足したり、聖書の用語の解説を加えるなど、内容的編集が施されている場合があります。

インターネットで詩篇を読むか聴く(口語訳)


新約聖書と「詩篇」

かつて「詩篇」は今日よりも活用される機会がはるかに多かった書物です。このことは当時も(また現在においても)「新約聖書」と「詩篇」がセットになって聖書の翻訳本が出版されてきたことからもわかります。

「詩篇」を暗誦することはその詩的な形式のおかげもあって難しくはありません。とはいえ、フィンランド語版や日本語版などの翻訳版における「詩篇」は、原典であるヘブライ語版の「詩篇」と比べると詩的な形式美において同じように洗練されてはいません。

「詩」というジャンルには忙しい現代人にとって問題になる点があります。詩と真摯に向かい合うためには心を鎮めて詩の世界の深淵に分け入っていく心構えが必要になるという点です。今日、「詩篇」が例えば百年前と比べてすっかり用いられなくなってしまった原因の一つはここにあると私(パシ・フヤネン)は考えています。あえて生活水準をある程度落とすことで生活のリズムを緩やかにする「ダウンシフト」の重要性が近年では注目されるようになってきました。しかし、これは多くの人にとって実現するのが難しいようです。現代では「常に動き回っていなければならない」という強迫感めいたストレスが人々の上にのしかかっているからです。デジタル・メディアもこうした状況をさらに加速させています。めまぐるしく変わり続ける時代に乗り遅れないように最新情報を入手し続けるためには、常にインターネットやSMSをチェックし続けなければならないからです。

旧約の時代に「詩篇」はエルサレム神殿などで朗誦されていました。残念ながら現在では正しい使用法や演奏法が不明になってしまった「楽譜」が記録されている「詩篇」もあります。それでも、時代が下るとともに「詩篇」には楽曲が添えられて教会などで歌われるようにもなってきました。私(パシ)がロンドンに滞在している時に通っている教会では礼拝の中で必ず「詩篇」が歌われています。また、フィンランドでは「詩篇」は聖歌隊によって歌われることが一般的であるようです。

「詩篇」の重要性は(私(パシ)の記憶が正しければ)それが新約聖書に最も多く引用されている旧約聖書の書であることからも明らかです。

イエス様や使徒パウロの時代に中近東で広く使用されていたギリシア語版旧約聖書である七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)はヘブライ語旧約聖書と「詩篇」の番号付けが若干異なっています。原則として「詩篇」の番号がヘブライ語旧約聖書よりも1つずつ少なくなっているのです。私たちの「詩篇」23篇は、例えばロシア語訳聖書では「詩篇」22篇になっています。これはギリシア正教会やロシア正教会では七十人訳聖書の旧約聖書が用いられているためです。この七十人訳聖書に基づいて翻訳すると、節番号も1つ少なくなることがよくあります。そして、このことは多くの英語訳聖書にも当てはまります。

祈りの教会

私の所属しているフィンランド・ルーテル福音協会(フィンランド語の略称でSLEY、英語の略称でLEAF)は1978年に「祈りの教会」という祈りについての本を出版しました。当時のヘルシンキ大学の実践神学教授だったマルッティ・パルヴィオによって執筆・編集されたこの本を彼は講義でも用いていました。

一日の「祈りの時」はローマ・カトリック教会、特に修道院において日々定期的にもたれています。それらは全部で7つあり、それぞれにラテン語名が付けられています。

  1. Matutinaマトゥティナ(早朝の祈り)
    これには感謝の祈りの時(ラテン語で「laudes」)が含まれています。
  2. Ad primamアド・プリマム(第一時(私たちの6時)の祈り)
  3. Ad tertiamアド・テルティアム(第三時(私たちの9時)の祈り)
  4. Ad sextamアド・セクスタム(第六時(私たちの12時)の祈り)
  5. Ad nonamアド・ノナム(第九時(私たちの15時)の祈り)
  6. Vesperヴェスペル(夕べ(私たちの18時)の祈り)
  7. Completoriumコンプレトリウム(夜の賛美、あるいは一日の終わりの祈り)

これらの「祈りの時」には導入部の後の箇所と賛美歌の後の箇所に「詩篇」が含まれています。

残念ながら、ルター派の中でも特に敬虔主義的な影響を受けているグループにおいては、あらゆる「形式主義」を避けようとする傾向がありました。例えば、人は自由な形式で祈るべきであり、その人ならではの個人的な祈りを捧げるべきである、などと主張されてきたのです。しかし、教会の千年以上におよぶ伝統を自分たちの祈りの生活にあえて積極的に取り入れていくことで、私たちは信仰に基づく祈りのありかたについて新たな知見が得られるかもしれません。

前述したような日々の祈りの時のための典礼書が現代のルター派にもあるのかどうか私(パシ)は知りませんが、ローマ・カトリック教会では教会暦の各時期にそれぞれ独自の典礼書が出版されています。

アルファベット詩篇

「詩篇」のもつ特徴の一つとして、「アルファベット詩篇」と呼ばれる「詩篇」が存在することを挙げることができます。多くの場合、このタイプの「詩篇」は22節から構成されていることから識別できるようになっています。ヘブライ語のアルファベットにはちょうど22個の子音があるからです。

最も長い「詩篇」である「詩篇」119篇はアルファベット詩篇のひとつです。この「詩篇」では常に同じ文字で始まる節が8節分続いていきます。例えば、1~8節は「アレフ」(一番目のアルファベット)で、9~16節は「ベト」(二番目のアルファベット)で、17~24節は「ギメル」(三番目のアルファベット)でそれぞれの節が始まっており、その後もこのような調子で続いていきます。そして、最後の169~176節はヘブライ語の最後のアルファベットである「タウ」で始まっています。聖書によってはそのようなヘブライ文字が「小見出し」として明示されているものもあります。ヘブライ語旧約聖書であるBiblia Hebraica Stuttgartensiaがその一例です。聖書の翻訳によっては、ある節の冒頭の文字が太字で示されることによってこの節から次のアルファベットの文字で始まる箇所に移ったことが分かるようになっているものもあります。しかし、例えばフィンランド語版の聖書においては、常に8節ごとにフィンランド語のアルファベットの同じ1文字でそれぞれの節を始めるようにすることは不可能です。フィンランド語のアルファベットは28文字もあるからです。ただし、外来語で用いられる文字(q、x、zなど)を除くならば、28よりは少ない文字数になります。

ヘブライ語版の「詩篇」におけるこのような「文体上の工夫」が本文の暗記に役立ったのはたしかでしょう。旧約聖書の時代には口承伝承が依然として重要視されていましたし、実物としての「書物」は高価な希少品だったからです。

しかし、このような「アルファベット詩篇」ですべての文字が満遍なく用いられた最も重要な理由は、神様の律法が私たちの生活のあらゆる面に適用されるものであることを聖書の聞き手や読み手に思い起こさせるためでした。「詩篇」の各節がすべての文字から始まっていることは律法の普遍性を示唆しているのです。

旧約聖書の他の書物では「哀歌」でも第1節は「アレフ」で始まり、第2節は「ベト」で始まり、第3節は「ギメル」で始まるというようにアルファベットの順番に従ってそれぞれの節の冒頭が始められていきます。特に第3章では各文字が3回ごと繰り返されているため、この章は全部で66節あります。なお、この規則が続くのは最後の第5章を除く第4章までです。

悔い改めの詩篇

旧約聖書の「詩篇」の中には「悔い改めの詩篇」と呼ばれるものが全部で7つあります。それらは「詩篇」6篇、32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、143篇です。例として、51篇を取り上げることにします。

「詩篇」51篇

この「詩篇」の1〜2節(ヘブライ語原文での節番号)には「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの」という歴史的背景についての説明が付されています。ダビデはウリヤの妻バテセバと姦淫を行い、彼女が妊娠したとわかると、それを隠蔽するためにさまざまな策を講じた挙句、彼女の夫を戦地で敵の手によって殺害させました。この事件の後、全知全能の主なる神様は預言者ナタンをダビデのもとに遣わしたのです。ナタンによって自分の罪を暴かれたダビデはこの「詩篇」で次のような罪の告白を行います。

「わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、
あなたの前に悪い事を行いました。
それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、
あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
見よ、わたしは不義のなかに生れました。
わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。」
(「詩篇」51篇5〜7節(口語訳では3〜5節))

上掲の箇所は私たちフィンランドのルター派の礼拝の式文における「罪の告白」の箇所で用いられています。

自分自身の罪は軽視するくせに他の人々の罪は過度に酷い罪とみなすという罪深い傾向が私たち人間にはあります。預言者ナタンがダビデのもとにやってきたときも、ナタンがダビデの罪を明らかにする譬を語った後でようやくダビデは自分が酷い罪を犯したことに目を向けるようになったという印象を私たちは持ちます。ナタンが語った譬の中の登場人物の罪深い行いを目の前に示されたとき、ダビデ自身の罪も明るみにされたのです(7節(口語訳では5節))。

それと同様に、他の人々の罪を見てから自分も悔い改めるのは私たちにとっても比較的容易ではあるでしょう。しかし、ここで最も重要なのは「まさに自分自身の罪を悔い改めること」なのです。人は自分自身の罪深さを知らないかぎり、神様の恵みを正しく知って受け入れることもできないからです。

「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。」
(「ローマの信徒への手紙」5章20〜21節、口語訳)。

ダビデは「わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください」(「詩篇」51篇4節(口語訳では1節)より)と主に祈り求めます。このダビデの願いは、人々の罪について神様は御自分の書物にもれなく記録しておられるという考えかたにかかわりがあります。人が罪から解放される唯一の方法はその罪について神様からの赦しを受けることです(6節(口語訳では4節))。私たちが自分で自分を清めることはできません。

「見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。 それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。」
(「詩篇」51篇8節(口語訳では6節))

上節のように、そもそも「罪」とは人々に対する悪い行いだけではなく、神様の御意志に違反するあらゆる行為、すなわち神様に対する背信行為でもあることを、この「詩篇」のように祈る人は素直に認めて自らの罪深さを告白します。「ルカによる福音書」の放蕩息子の譬での言葉を借りれば、この告白には「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」(「ルカによる福音書」15章18節より)という意味が込められているのです。残念ながら、このような「罪の告白」の視座は現代の西欧社会では失われつつあります。例えば、国会での多数決による決議などに基づいて「何が正しく何が間違っているか」を(神様をないがしろにして)人間たちだけで互いに取り決めることができる、という考えかたがますます広まってきています。

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、
わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、
わたしは雪よりも白くなるでしょう。」
(「詩篇」51篇9節(口語訳では7節))

上節は「原罪」(すべての人間に生まれながら染み付いている罪)について述べています。この教えは人間にとって最も嫌な聖書の考えかたの一つです。心の中では善人でありたいと願っている人が大多数であるからです。「原罪」という考えかたに反抗する人間の傲慢な態度はその宗教観にも表れています。例えば、ルター派の教会やローマ・カトリック教会やロシア・ギリシア正教会では、自分の力では信仰告白を言葉として表せないような赤ちゃんにも洗礼を授ける「幼児洗礼」が正式な洗礼として施行されています。幼児洗礼を否定して信仰者の成人洗礼だけを真の洗礼として認める宗教的なグループでは「子どもはその無垢さゆえに(洗礼なしでも)救われる」という教えが広められている場合がしばしばあります。しかし、これは「子どもも生まれながらに罪深い」ということを真っ向から否定する考えかたです。もう一つの例を挙げると、2008年にフィンランドで起きた学校での銃乱射殺人事件への一般的な反応にもこの傾向が見られました。「どうして人間はこうもひどい悪人になり得るのか」と人々は震撼したのです。とはいえ、人間に悪が染み付いているのはその犯罪者が例外的に悪い育ちかたをしたためだけではありません。人間に内在する悪、すなわち「原罪」は生まれた時から人間全員の中に存在しているものなのです。例えば、ノアの方舟にまつわる出来事を扱った「創世記」の箇所には「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」(「創世記」6章5節)とあり、大洪水がおさまってから主の命じられた通りに方舟から出たノアが主に祭壇を築いて燔祭をささげたときに「主はその香ばしいかおりをかいで、心に言われた、「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。わたしは、このたびしたように、もう二度と、すべての生きたものを滅ぼさない。」」(「創世記」8章21節)と主が人類に対して約束されたことも書かれています。人間の生活においては悪も善も増幅されていくことが起こりうるのです。

自分が罪深い存在、すなわち「罪人(つみびと)」であることを受け入れない人は神様を偽り者とすることになります。

「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」
(「ヨハネの第一の手紙」1章8〜10節、口語訳)。

その一方で、キリストによる罪の贖いを受け入れない人もやはり神様を偽り者とすることになるのです。

「神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜わり、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない。」
(「ヨハネの第一の手紙」5章10〜12節、口語訳)。

あたかもヨハネは「あなたが罪人であるのと同じ確実さで、キリストはあなたを罪から清めて救うことができる」と言っているかのようです。「創世記」の冒頭にあるアダムとエバの罪への堕落の痛ましい出来事では「原初の福音」(「創世記」3章15節)にも言及があることを大切に覚えておいてください。この「原初の福音」とは、はじめの人間たちの堕罪の出来事においてさえ罪が勝利を収めることはなかったし、その時すでに神様は人間を救う御計画を用意なさっていたというメッセージです。

「わたしは恨みをおく、
おまえと女とのあいだに、
おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、
おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
(「創世記」3章15節、口語訳)

上節において、「へびのすえ」(悪魔)と「女のすえ」(エバの子孫であるマリアからお生まれになるイエス様)の間の「恨み」(ヘブライ語では「エーヴァー」といい「敵意」という意味があります)において、イエス様が十字架の贖いの御業によって悪魔に最終的に完全な勝利を収められることを主はすでに「創世記」の冒頭であらかじめ宣言しておられます。

「み顔をわたしの罪から隠し、
わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。」
(「詩篇」51篇11節(口語訳では9節))

「ヒソプ」は犠牲の動物の血を振りかける儀式のために用いられました(「出エジプト記」12章22節、「レビ記」14章4〜7節)。「民数記」には次のような記述があります。

「身の清い者がひとりヒソプを取って、その水に浸し、これをその天幕と、すべての器と、そこにいた人々と、骨、あるいは殺された者、あるいは死んだ者、あるいは墓などに触れた者とにふりかけなければならない。」
(「民数記」19章18節、口語訳)。

しかし、上に引用した「詩篇」51篇11節の言うように、私を「わたしの罪」また「わたしの不義」から清めることができるのは、十字架刑で私たちの身代わりとして流されたキリストの血だけなのです(なお、ヘブライ語原文で「不義」という意味の言葉は「アヴォン」といいます)。

「神よ、わたしのために清い心をつくり、
わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。」
(「詩篇」51篇12節(口語訳では10節))

上節は「罪の赦しの宣言」に関わっており、ルター派の礼拝の式文で使用されている聖句でもあります。

「あなたの救の喜びをわたしに返し、
自由の霊をもって、わたしをささえてください。」
(「詩篇」51篇14節(口語訳では12節))

上節の言うように、「新たなる始まり」は神様の新たな創造の御業を通してのみ可能となります。

「主よ、わたしのくちびるを開いてください。
わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。」
(「詩篇」51篇17節(口語訳では15節))

私たちの「善い行い」は、神様への賛美も含め、神様の恵みのもたらす「結果」なのであって、神様の恵みにあずかれるようになる「原因」ではないことを、上節は私たちに思い起こさせます。

「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。」
(「詩篇」51篇19節(口語訳では17節))

上節の言うように、打ち砕かれた心(「砕けた悔いた心」)は神様にすべての栄光を帰します。このような心の持ち主は「神様の助けなしでも自分はなんとか生きていける」といった妄想を持たなくなるからです。イエス様の次の譬はこのことに関連しています。

「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」」
(「ルカによる福音書」18章9〜14節、口語訳)。

賛美の「詩篇」

賛美をテーマとした「詩篇」はたくさんあります。例えば「詩篇」144篇〜150篇は感謝の祈りで締めくくられています。しかし「詩篇」142篇のように、神様の助けや敵への復讐を求める「詩篇」も数多くあります。

「もろもろの国よ、主をほめたたえよ。
もろもろの民よ、主をたたえまつれ。
われらに賜わるそのいつくしみは大きいからである。
主のまことはとこしえに絶えることがない。
主をほめたたえよ。」
(「詩篇」117篇、口語訳)

上掲の「詩篇」117篇は2節分しかない最も短い「詩篇」であり、もろもろの国々の民に主なる神様への感謝を捧げるように促しています。

旅の歌の「詩篇」

「詩篇」120篇〜134篇は、大きな祭の時期にエルサレムの神殿へと向かう「都もうで」の時期に歌われることが特に多かった「旅の歌」です。次の「詩篇」130篇もその一つです。

「都もうでの歌
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。
主よ、どうか、わが声を聞き、
あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に
目をとめられるならば、
主よ、だれが立つことができましょうか。
しかしあなたには、ゆるしがあるので、
人に恐れかしこまれるでしょう。
わたしは主を待ち望みます、わが魂は待ち望みます。
そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます。
わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、
夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。
イスラエルよ、主によって望みをいだけ。
主には、いつくしみがあり、
また豊かなあがないがあるからです。
主はイスラエルを
そのもろもろの不義からあがなわれます。」
(「詩篇」130篇、口語訳)

十字架上のイエス様の言葉

「マタイによる福音書」27章46節と「マルコによる福音書」15章34節にある「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様の痛切な御言葉は「詩篇」22篇2節(口語訳では1節)からの引用になっています。

「ルカによる福音書」23章46節の「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」は「詩篇」31篇6節(口語訳では5節)からの引用です。

これらの例からもわかるように、神様の御子であり「神様の言」そのものでもあるイエス様は当然ながら「詩篇」のことも知悉しておられたのです。イエス様が「言」そのものであることについて、ヨハネは福音書で次のように証しています。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
(「ヨハネによる福音書」1章1〜5節、口語訳)

「反復は学習の母である」

上の小見出しは「読書百遍、義自ずから通ず」という日本の諺と意味的に近いフィンランドの諺です。

「詩篇」136篇ではすべての節が「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(口語訳)という言葉で終わっています。

この例のように、最も重要な内容は「詩篇」の中で何度も反復されることによって人々の記憶に残りやすくなっています。

御言葉を暗記して諳んじるのは聖書のよい読みかたです。ヘブライ語原文で「詩篇」は詩の形で書かれています。このことはユダヤ人たちが「詩篇」を覚えていくのに役立ちました。

羊飼いの「詩篇」

数ある「詩篇」の中でも一般に最もよく知られているのは、「ダビデの羊飼いの詩篇」である「詩篇」23篇です。全部で150篇ある「詩篇」のうちの半分に相当する75もの「詩篇」にはその作者としてダビデの名が記されています。

この「詩篇」23篇は内容的に二つの部分に分かれています。

「主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。」
(「詩篇」23篇1〜3節、口語訳)

前半部(1〜3節)では万事順調でした。この箇所でダビデは神様を「主」と呼んでいます。順境の中にいたダビデには神様を「主」として客観視する心の余裕があったかのようです。神様は自分から距離を置いておられる、とダビデは感じていたのかもしれません。

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」
(「詩篇」23篇4〜6節、口語訳)

一転して、後半部(4〜6節)では万事において状況が悪化しました。逆境の中でダビデは神様を「あなた」と呼び始めます。神様は苦境の只中にいる自分のすぐ近くにいて励ましておられる、とダビデは実感し始めたということなのかもしれません。

なお、4節の「死の陰の谷」はヘブライ語で「ゲー・ツァルマーヴェト」と言います。「ゲー」は「谷」、「ツァル」は「陰(かげ)」、「マーヴェト」は「死」をそれぞれ意味します。ダビデがかつて歩み、いま私たちが歩んでいる「この世」という「谷」は「暗い谷」でもあり「死の谷」でもあることがこの表現からは伝わってきます。

おわり