信仰と知識

1.1. 信仰と知識

「知識が不完全だから信仰が生じる」のではありません

 神様は存在するのでしょうか?信じる人もいますし、信じない人もいます。「大昔の人々は超自然的な力の存在を本気で信じていたが、自然界に関する科学的知識が飛躍的に増大し大きな影響力をもつようになった現代では、人はかつての原始的な信仰をもたなくなった」と考える人たちがいます。

 ところが、最高級の教養を身につけた人物や高い社会的地位の人々の中にさえイエス・キリストを自分の救い主として信じる「キリスト信仰者」がどの時代にも存在したというのも歴史的な事実なのです。彼らはたとえば原子物理学者だったり、遺伝子の研究者だったり、医者だったりしました。そして、他の一般のキリスト信仰者と同じように、彼らもまた素直に神様を信じていたのです。

 「信じることは知識が増えるにつれて次第に難しくなっていくはずだ」と多数の人が思い込んでいる理由についてはまた後ほど考察することにします。ここではまず「信仰とは何か」という問題から始めることにしましょう。  

1.2. 決定的なポイント

信仰は神様との交わりです

 御言葉を通した神様との出会いが人を真のキリスト信仰者にします。それは「神様」という真理に触れる出来事です。人は「神様の存在」を客観的に証明できません。しかし、そのことを感覚的に体験することはあります。「神様との交わり」とか「神様の守り」などについて人々が話すときに、このような体験を意味していることがあります。人は日常生活の中で祈り、神様の御言葉を信じ、神様に対して従順であろうとすることで、「神様が存在すること」をより強く確信していく場合があります。人はまた、神様が自分の祈りを聴いてくださることを経験した時や、神様が罪を裁きもし赦しもなさる存在であることを体験した時や、自分では担い切れない人生の重荷に耐える力が与えられた時などに、活ける神様への信仰が強められる場合があります。

 キリスト教以外を信仰する宗教的な人々には見られない、キリスト信仰者ならではとも言える特徴のひとつは、人が活ける神様と出会う時にイエス・キリストが決定的な役割を果たすことです。このことについては後ほど扱います。

 信仰とは神様との交わりの中で活きていく姿勢のことです。キリスト信仰者たちは祈りの中で神様と語り合い、御言葉を通して神様の御声を聴いて対話を続けます。それによって、彼らは神様とその御計画についてより多くのことを知るようになります。信仰生活には戦いや疑いや驚きなどがつきまといます。しかし、キリスト信仰者はそれらを乗り越えて、より強い確かな信仰を得ていきます。それはちょうど科学者が研究対象と悪戦苦闘しつつ、知識を深め視点を定めていくのに似ています。

1.3. 信仰と感情

感情は信仰に伴う場合がありますが、信仰はたんなる感情ではありません

 激しい感情が信仰に結びつくことが時にはあります。しかし、芸術作品がそれを生み出した芸術家の感情とは区別されるように、信仰もまた感情と同じものではありません。信仰には理性や感情や意志など人間のあらゆる面が関係しています。人が信じるとき、その人には何かが起きています。人が御言葉を通して真の神様の存在に触れ、神様の存在が人間の勝手な想像の産物などではなく人間的な感情や感覚に依存しない厳然たる客観的な事実であることを受け入れる時に、真の信仰が生まれます。

 聖書は理性と意志と感情が形作るこの統一体を「心」と名づけています。正しい信仰は心の中にあります(「ローマの信徒への手紙」10章9節)。キリスト信仰者は心から服従します(「ローマの信徒への手紙」6章17節)。その一方では、心は理解しようとせず、鈍く、かたくなになっている場合もあります(「ローマの信徒への手紙」1章21節、「マタイによる福音書」19章8節、13章15節)。心は一般的には感情に関わる意味で用いられますが、聖書では人間の自我全体、とりわけ神様との関係における自我をあらわす言葉です。

1.4. 信仰と世界観

信仰は世界の仕組みを説明するものではありません

 信仰はこの世界の仕組みを科学的根拠に基づいて説明するものではありません。科学は何らかの方法で計量的に測定できる対象のみを研究します。それは通常「客観的事実」と呼ばれます。ここでいう客観性とは、それが科学的に正しいことを確認したい場合には誰にでもそれが原則的に可能であることを意味しています。このような客観的事実が集積されて「世界観」と呼ばれるものが構築されます。世界観は研究の進展に伴って変化しつづけます。現代では、例えば星々や物質の構成についてイエス様の時代よりもはるかに多くのことが知られています。

 キリスト信仰者と無神論者とは、彼らがほぼ同じ学校教育を受けて自然や歴史に関して同程度の知識を有している場合には、ほぼ共通した世界観をもっているといえるでしょう。    

1.5. 世界観と人生観

人生観は世界観よりも幅広い内容を含んでいます

 多くの人は世界観に加えて独自の人生観ももっています。そして、人生について詳細に考察する人もいれば、大雑把な理解で済ませてしまう人もいます。

 人生観には自然科学では扱えない事柄も含まれています。正誤を客観的に判断できないような事柄もあります。詩の中にも、はたしてそれが真の芸術なのか、それとも偽物なのかが見極めにくい作品があるでしょう。親の子どもに対する愛の中にも、それが我が子を本当に大切に思う無私の愛なのか、それとも親の自己愛なのかが曖昧な場合もあることでしょう。これらの例は、大きな石の破片や吹雪などとまったく同じように、人が感覚的に体験できる現実です。科学では扱えない真実にどのような態度を取るのか、真実をたんなる感情や主観的な思い込みだとして拒絶するのか、それとも科学的に計測できる真実と同様に確実な事実としてそれを受け入れるのかに応じて、人生観も定まってきます。

 ほぼ同じ世界観を共有している人々同士が、共産主義者、キリスト信仰者、懐疑論者、無神論者、退廃的なニヒリストなど互いに非常に異なる人生観を抱いているケースはとくに珍しいものではありません。

1.6. 神の存在についての知的な証明

知的な証明は絶対的なものではありません

 人は一般に知られている事柄について特定の判断を下すことによってキリスト信仰者になるのではありません。それらの判断がその人にキリスト信仰者になるきっかけを与えた可能性はありますが、本当にそうだったかどうかは事後的に証明できません。たとえば、生命が多様な形態を纏って見事に環境に適応しているさまに気付くとき、そうした命の背後には生命をデザインする「世界理性」とでも呼べる意志が働いていることを予感する人がいます。しかしその一方では、生命の現象についてそれとは別の説明を与える人もいます。現存する生命が環境に適応しているように見えるのは、環境に適応できる種のみが生き残りその他はすべて絶滅したからである、という進化論的な考えかたがその一例です。

 前に述べたように、キリスト信仰者とそれ以外の人(たとえば無神論者)がこの世界の成り立ちを扱う学問分野(たとえば、天文学、地質学、生物学など)については全く同じ知識をもっている場合があります。彼らが互いに異なるのは、それらの知識に基づいてどのような結論を導き出していくかという点においてです。要するに、科学的知識に基づく自然現象の説明の仕方には研究者によってばらつきがでてくる場合があるのです。    

生命と自意識の問題

 たとえば、自然界の物理学的な力の作用によって万象を説明できる、と考える人がいます。これは、生命も結局は物理的な基本粒子の結合と分離に還元される、という仮定に基づいています。しかし、それ自体生命を有しない物質は放置すれば物理的な平衡状態へと向かっていくので、この傾向に抗って物質が一層複雑な有機体を意図的に構成することはありえません。物質のある部分が自己という存在を意識しはじめ、不思議がり、詩を書き、この世界の成り立ちを研究し始める、というのは理性で考えただけでも全く不可能なことに感じられます。同様にたとえば、自意識に目覚めたコンピューターが国の総理大臣の職務を代行するようになることもおよそ不可能だと思えます。

哲学的な神信仰はキリスト教の信仰とは異なります

  しかし、このような考えをいくら思い巡らしたところで、誰もキリスト信仰者にはなりません。そこから生じるのは神様との個人的な出会いに基づく確信ではなく「哲学的な神信仰」とでも言うべきものにすぎません。人々が「キリスト教」と呼んでいる内容が実はこのような世界の成り立ちの説明に過ぎない場合があります。彼らのイメージするキリスト教は昔の時代の考えかたや世界観に基づいています。その例として、一般に広く承認されている世界の誕生に関する人々の理解を取り上げてみましょう。世界誕生のプロセスは今まで広く受け入れられてきた従来の理論通りのものではなかったことを推定する新説が提示されると、それまで彼らが信奉してきた考えかたは実は世界の成り立ちの不完全な説明であった、としてたちまち放棄されてしまいます。こうしたことを通じて、知識が増すにつれて信仰は消えていき、自然科学がキリスト教を片隅に追いやる、というよく知られた誤解が生じてきます。

 ところが、個人的に神様との出会いを経験したキリスト信仰者は神様がこの世界全体の造り主であると信じます。そして、神様が世界の誕生、生命のはじまり、自意識を有する存在に決定的な影響を及ぼしておられることに気がつきます。また、この真理に基づいて世界の諸現象に対して説得力のある説明を提示するようになります。